2015年07月17日
何故中世の名工は、おのれの作品に名を刻まなかったか (じんさんへの10年越しの答)
近代=近世(1) 以降の作品には、芸術作品に作者の名を刻むのが通例となっている。
何より著作権や生活といった事情がかかっているから仕方が無いのだろう。
だがそうした安心の世界からは、ますます命の係った作品は生まれにくくなっているのではないのか。ま、わたしはそこまで才能の豊かな人間でないので関わり合いは無いのですが。
唯、知りたいのは何故サインを入れ無かったのか。唯これだけの事なんですが、芸術とは何かという大きな問題が密接に関わっているので、少し整理してから本題に入らなければなりません。
芸術の始まりは明らかに信仰がきっかけでしょう(2)。ここで太古の芸術家ら歴史を遡る枚数は在りませんので、はしょってでも流れを掴みながら進みたいと思います。
この信仰の対象は皆さんがご存じの通り「神」(3)と呼ばれているものです。ここで延々と神の存在について述べる時間は在りませんので、「ある」と言っておきます。「在る」んだからしょうがないのです。それが全知全能の姿を連想するのも、山川草木という形を連想するのも、想像する側が人間なのだからその様な「能力の高い生きもの」や「自然に存在するもの」を想像するしか無く仕方ないのです。考えるのが人間である限り、他に考えようがありません。それは人間が、動物から人間になった頃から始まっています。既に旧人であるネアンデルタール人が、埋葬死体の回りに花の種をまいた痕跡が見られる様ですから、この辺りから「意識」の萌芽が見られる様です。私はこの話を聞いた時、こみ上げるものを感じました。その意識は恐らく脳の奥の方で感じていた「死」の観念でしょう。それは恐らく「始まりと終わり」つまり「時間」というものの萌芽だったでしょう。いずれにしてもそこに何か「在るもの」を感じていたのです。或いはその時何かに触れたのです。それは今の科学や技術のような「実用性・有用性」とは全く関係ないものです。つまりそれは芸術の芽ばえのまた芽ばえとでもいうものかもしれません。有用性から離れた、人の生の外にある「なにものか」の実在(4)を示したものなのです。それは神でなくとも、「あちら」とよんでも、「そと」とよんでもいいのです。あちらとは決して西方にあるユートピアでは無く、まして死人が闊歩する魔界などでは無く、「死の無い(の観念に眼ざめない)・時間の無い世界」のことなのです。都市にいては見わたすところすべてが人工のものに溢れ、土すらめったに見れませんが、少し郊外に出るか、手入れされた公園でも、海でも山でも出会う事ができる。小鳥のささやきや照葉樹林の光を求めて動く葉のそよぎや松濤や、青く澄み切った空、ぎらぎら輝く太陽、これらは皆「あちら」の世界なんです。そうそう動物も。この仲間たちは、死の観念を持ちません。つまり時間が無いのです。
私は小さいころから長く不思議でたまらないことがありました。それは、自然界の脅威などというタイトルの番組で、例えばアフリカでシマウマが水飲み場で水を飲んでいる、集団で。そこには水面からワニの大きな目玉がぴたりとも動かず、シマウマの子どもを狙っている。気づいていません。「早く逃げろ!」と心で叫びます。残念ながら自然は過酷です。一瞬のうちに後ろ脚から呑み込まれていきます。親がいれば抵抗する時は在るのですが、無理とわかると逃げていきます。ところが、襲われている子どもの眼は、何と哀しそうでは無いのです!
これはどうしたことでしょう。ここには何があるのでしょうか、或いは無いのでしょうか?
もうお分かりの事と思いますが、実は彼等は「あちらの生きもの」だったんです。
そう考えると、腑に落ちることがいくつもみつかります。デモクラシイーという政治形態を世界に知らせたギリシャの市民達の生活は奴隷たちの労働で支えられていた。ローマも同じ。奴隷たちも、反乱をおこすどころかそれを当然のように感じていた。「次は自分の番だ、猛獣と戦わされて死ぬかも知れないのは」とは思わなかった。一人でもそのように思えば(隣が殺された。次は?という時間の観念が芽生えれば、反乱が起きるでしょう。殷の時代の羌族(きょうぞく)の人達は、何百年も殷の人達のまつりごとの生贄にされていたようです。反乱も逃亡もせずに。(「史記」)。
姨捨に追いやられるおバーさんはなぜあんなに明るいのか。芹沢光次良は、生まれ故郷の明治時代の漁村の人々が「死」を余り重大事と捉えていない姿を「人間の運命」で描いています。
心が少なかったのですね。薄情という意味ではありませんよ。むしろ正常な生きものだったんじゃないでしょうか。心が有り余るほど満ちてくると、どうにも始末ができない。不安が不安を生み、疑心暗鬼になる。右を向いても左を向いても地雷が隠されている。誘惑に満ちている。おっと、ここは脱線しないで、現代文明批判ではなく中世の名工の問題でしたね。
もう見当はついておられると思いますが、音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ「こちら」から「あちら」をみているものなんですね。「あちら」に近づかなければよく見えません。従って芸術(5)家はいつも「辺境」にいます。行ったきりで戻らなかったシューマンの様な人もいれば、人工の極致を極め現世の権化のようなベートーベンのような人、足もとを固めながら自由自在に「あっち」と「こっち」を行き来できた大バッハのような人もいます。そうそうモーツアルトを忘れてはいけませんね。彼は最初から「あっち」の住人だったんです。だから「こっち」に住まわされて生き方が判らず奇行を演じてしまいました。絵画で印象派後でいえば前者はゴッホやジャコメティーやモジリニアニ、後者は王道を貫いた大セザンヌやマチスでしょうか。
日本だっていると思いますが浅学の私にはとても言えません。ただ日本の芸術は余り人工にこだわりすぎず、程良く自然や神々を取り入れてうまくやってきたと思います。言語の性質から見ても判りますよね。世界中のどこに一つの単語に3つも4つも読み方があり、しかも「てにおは」や、活用形次第で読み方も個別に変わる言葉なんぞ在りますか。いつも外来のもの(異界)に正面から抵抗せずに、半分取り入れながら、中ではしっかり自国の心を守って、並列でやってきた歴史があるからでしょう。音楽も時間だけをもろに主張する(即ち始まったら終わりが決まっている)西洋音楽から、指揮者もいない、いつ始めるのかも判らない、スコアも極端に大雑把で、最初から決まりごと通りにやる(未来は見えちゃってる)のがいいのではない、その時その時の気分、乗り、観客のうねりの様なものでいつの間にか音が合ってきて、いつの間にか始まるような日本の音楽の宴もあります。これって「あちら」の音楽の論理?に近いのではないですか?窮屈でないですね。主役は作曲者でも指揮者でもなく、演奏者であり舞踏家であり観客なんですね。西洋音楽にも似たものは在ります、ジャズです。また往年のフルトベングラーという大指揮者の指揮する演奏に一人舞台ではあっても、その様な演奏が聴けます。他にもいろいろ違いは在りますがきりが無いのでやめます。そろそろ結論を言わないと怒られそうなので締めます。
結論は、その訳は「こころが薄かった」「あちらに近かった」です。
言ってみれば、当時の作者名とは作品名のことだったんです。つまり作品は個人のものではなく「みんなのもの=神のもの」だったんです。作品はアノニマスで作者性は在りません。
作者とは「あちら=神にかかわるもの」を見せる媒介者に過ぎない者でした。
私が、注5で世阿弥達、左甚五郎達と複数で書いたのはそのせいです。
参考までにこのことを近代的に解釈したと思われる文章を引用しておきます。
「あの緩やかなブルゴーニュの春の丘に花が咲き乱れる時、ヴェズレーの丘の上にある美しい聖マドレーヌ教会の 塔を遠くから仰ぎながら一歩一歩、坂道を登っていくその感動は言葉に尽くしがたい喜びである。・・・・そんな時私はよく、詩人ポール・クローデルの「神に向かっておのれを低める」という言葉を想いだすのである。彼はアンドレ・ジイドに向って、「山は遠くにある時、おのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれがいかに低い、小さな存在であるかを知ることができる。」と述べた。・・・・・・・
大伽藍を建てた人々や美しい祭壇画を描いたひとが、「これらの栄光を我に帰することなかれ、ただ神の御名にのみ帰し給え」と刻んだことは、自己を低める行為の端的な例であろう。・・・・中世の多くの芸術作品は、それを作った人の名前を持っていない。自己を低めることは敬虔であり畏れである。・・・それが中世の心というものであろう。」
饗庭孝男著 「中世を歩く」小沢書店 P8〜P11
作者性の無い作品とは、わが国では「見たて(6)」という手法でつくられました。それは文字通り「何かに見立てる」方法です。歌枕がいい例でしょう。それは古来和歌に詠われてきた或る場所・地名ですが、単なる地名では無く、旅(人生の象徴)で出会った或る場所を、自らの喜怒哀楽の心境に見立てるのです。それがやがてそれをなぞった人達共通の記号と化して共有される。明石は明るい、宇治は憂しなど。卑近な例では、富士は日本中にあります。○○富士。銀座も熱海銀座とか。繁華街=銀座ですね。第一、学ぶは真似るから来ています。言葉がそうですね。真似をしていない人なんて一人もいません。みんな真似して大きくなったんですね。そこを少しずらして、オリジナルとする。江戸っ子だったらこっ恥かしくてそんなオリジナルなんて・・・。言えませんよね。ただここで言いたいのは、基をただせば、みんなもの真似だからサインをするなという事じゃあないんです。
信仰でも「世間」でも社会全体が共通の価値観を持てた、個人や個性というものを敢えて主張する必要の無かった幸せな時代の産物だったという事を思いたいのです。「誰がつくった」のが問題ではない、「いいものが出来た」に比重があったという事でしょう。神の死んだ近代や現代ではこうはいかないでしょう。人と人とが離れ共生の難しい、よそ者同士が集う都市の時代、個性や個人の時代になったんですから。「こころ」がどんどん再生産されて、さまよってしまう時代なんですから。
江戸時代だが、詠み人知らずの端唄を一つ
吉野川には桜を流す
龍田川には紅葉を流す
橋の上より文とり落し
水に二人の名を流す
これは丸谷才一さんが、「日本文学史早わかり」(講談社学芸文庫)で教えてくれたもので、解説も丸谷さんのものを少しお借りしていますが、
うっかり橋の上から落としたせいで、二人の仲を知られてしまう。
ここには、時間というつれない現実(制限)に思いっきり反抗した恋という哀しいものが、
留まるところを知らない水の流れや、花や紅葉の美しさや移ろいやすさに強調された、
素晴らしい恋の「見たて」(6)があると思います。私は立派な秀歌だと思います。
最後は詠み人知らずの多い「古今集」から。
(往々にして勅撰集の類は、文明批判が入ったりすることから、ちょっと名前を知られると困る事情があって詠み人知らずとする場合も多いので、このお話しの趣旨からは外れるかもしれませんが、この一首はその様な政治的な配慮からでないことを祈って)
木の間(このま)より もりくる月の影みれば 心づくしの秋は来にけり
詠み人知らず(巻4・184)
「こころづくしの秋」がなんとも素晴らしい「見たて」ですね。いよいよ深まる秋の気配を身に感じ、さまざまな情感に思いを巡らす。そしてそれがたちまちのうちに過ぎ去ってしまう故に、美しさもひとしおで、満喫するのにこうしちゃあいられない!それを一言で「心づくし」ですからね。もうこの言葉を耳にしたが最後、秋と言えば真っ先に浮かんできてしまう。秋のシンボルの発明ですね。
あの紫式部だって、「夕顔」や「須磨」の項で真似してますよ。
今は、「こころがあってよかった!」と思ってしまいます。
「中世が良かった」、「心なんて持たなきゃよかった」なんて結論ではありません。もう元には戻れないんです。いずれ「あちら」には嫌でも戻るんですから。
勝海舟の末期のことば「はい、これでおしまい」と言えるように、余り不安に駆られ、欲ばかりかかないで、「自然」を敬い暴走しないことですね。
※タイトルに「じんさんへの答え」とあるのは、ブログを始めた時「苦とはなんですか」と聞かれて応えられずずうっと気になっていたもので、その答えになっているか判りませんが書かせていただきました。能演者の安田登さんのご本に、もっとすっきり書かれていました。
「≪自己≫のみに従って生きてきた人間(動物や奴隷状態)が、こころの誕生で≪自己のイメージ≫の為に生きるようになった。・・・それによって出来るようになったことは自分の≪運命≫を変える自由だった。その為に役に立った≪自己のイメージ≫とは、「誇り」だったり「プライド」だったり「自分らしさ」だったり様々に形を変える。
恥をかかないように、失恋をしないように、幸せの形(イメージ)を守ろうとする。自分の意地をかたくなに通そうとする。自己のイメージを壊せない。それを本人はこころの苦しみと感じる。」(私の勝手な要約・・「身体感覚で論語を読みなおす」から)
でも私は、苦があっても、”こころ”のほうを支持します。じんさん。
(下の脚注をどうぞ)
何より著作権や生活といった事情がかかっているから仕方が無いのだろう。
だがそうした安心の世界からは、ますます命の係った作品は生まれにくくなっているのではないのか。ま、わたしはそこまで才能の豊かな人間でないので関わり合いは無いのですが。
唯、知りたいのは何故サインを入れ無かったのか。唯これだけの事なんですが、芸術とは何かという大きな問題が密接に関わっているので、少し整理してから本題に入らなければなりません。
芸術の始まりは明らかに信仰がきっかけでしょう(2)。ここで太古の芸術家ら歴史を遡る枚数は在りませんので、はしょってでも流れを掴みながら進みたいと思います。
この信仰の対象は皆さんがご存じの通り「神」(3)と呼ばれているものです。ここで延々と神の存在について述べる時間は在りませんので、「ある」と言っておきます。「在る」んだからしょうがないのです。それが全知全能の姿を連想するのも、山川草木という形を連想するのも、想像する側が人間なのだからその様な「能力の高い生きもの」や「自然に存在するもの」を想像するしか無く仕方ないのです。考えるのが人間である限り、他に考えようがありません。それは人間が、動物から人間になった頃から始まっています。既に旧人であるネアンデルタール人が、埋葬死体の回りに花の種をまいた痕跡が見られる様ですから、この辺りから「意識」の萌芽が見られる様です。私はこの話を聞いた時、こみ上げるものを感じました。その意識は恐らく脳の奥の方で感じていた「死」の観念でしょう。それは恐らく「始まりと終わり」つまり「時間」というものの萌芽だったでしょう。いずれにしてもそこに何か「在るもの」を感じていたのです。或いはその時何かに触れたのです。それは今の科学や技術のような「実用性・有用性」とは全く関係ないものです。つまりそれは芸術の芽ばえのまた芽ばえとでもいうものかもしれません。有用性から離れた、人の生の外にある「なにものか」の実在(4)を示したものなのです。それは神でなくとも、「あちら」とよんでも、「そと」とよんでもいいのです。あちらとは決して西方にあるユートピアでは無く、まして死人が闊歩する魔界などでは無く、「死の無い(の観念に眼ざめない)・時間の無い世界」のことなのです。都市にいては見わたすところすべてが人工のものに溢れ、土すらめったに見れませんが、少し郊外に出るか、手入れされた公園でも、海でも山でも出会う事ができる。小鳥のささやきや照葉樹林の光を求めて動く葉のそよぎや松濤や、青く澄み切った空、ぎらぎら輝く太陽、これらは皆「あちら」の世界なんです。そうそう動物も。この仲間たちは、死の観念を持ちません。つまり時間が無いのです。
私は小さいころから長く不思議でたまらないことがありました。それは、自然界の脅威などというタイトルの番組で、例えばアフリカでシマウマが水飲み場で水を飲んでいる、集団で。そこには水面からワニの大きな目玉がぴたりとも動かず、シマウマの子どもを狙っている。気づいていません。「早く逃げろ!」と心で叫びます。残念ながら自然は過酷です。一瞬のうちに後ろ脚から呑み込まれていきます。親がいれば抵抗する時は在るのですが、無理とわかると逃げていきます。ところが、襲われている子どもの眼は、何と哀しそうでは無いのです!
これはどうしたことでしょう。ここには何があるのでしょうか、或いは無いのでしょうか?
もうお分かりの事と思いますが、実は彼等は「あちらの生きもの」だったんです。
そう考えると、腑に落ちることがいくつもみつかります。デモクラシイーという政治形態を世界に知らせたギリシャの市民達の生活は奴隷たちの労働で支えられていた。ローマも同じ。奴隷たちも、反乱をおこすどころかそれを当然のように感じていた。「次は自分の番だ、猛獣と戦わされて死ぬかも知れないのは」とは思わなかった。一人でもそのように思えば(隣が殺された。次は?という時間の観念が芽生えれば、反乱が起きるでしょう。殷の時代の羌族(きょうぞく)の人達は、何百年も殷の人達のまつりごとの生贄にされていたようです。反乱も逃亡もせずに。(「史記」)。
姨捨に追いやられるおバーさんはなぜあんなに明るいのか。芹沢光次良は、生まれ故郷の明治時代の漁村の人々が「死」を余り重大事と捉えていない姿を「人間の運命」で描いています。
心が少なかったのですね。薄情という意味ではありませんよ。むしろ正常な生きものだったんじゃないでしょうか。心が有り余るほど満ちてくると、どうにも始末ができない。不安が不安を生み、疑心暗鬼になる。右を向いても左を向いても地雷が隠されている。誘惑に満ちている。おっと、ここは脱線しないで、現代文明批判ではなく中世の名工の問題でしたね。
もう見当はついておられると思いますが、音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ「こちら」から「あちら」をみているものなんですね。「あちら」に近づかなければよく見えません。従って芸術(5)家はいつも「辺境」にいます。行ったきりで戻らなかったシューマンの様な人もいれば、人工の極致を極め現世の権化のようなベートーベンのような人、足もとを固めながら自由自在に「あっち」と「こっち」を行き来できた大バッハのような人もいます。そうそうモーツアルトを忘れてはいけませんね。彼は最初から「あっち」の住人だったんです。だから「こっち」に住まわされて生き方が判らず奇行を演じてしまいました。絵画で印象派後でいえば前者はゴッホやジャコメティーやモジリニアニ、後者は王道を貫いた大セザンヌやマチスでしょうか。
日本だっていると思いますが浅学の私にはとても言えません。ただ日本の芸術は余り人工にこだわりすぎず、程良く自然や神々を取り入れてうまくやってきたと思います。言語の性質から見ても判りますよね。世界中のどこに一つの単語に3つも4つも読み方があり、しかも「てにおは」や、活用形次第で読み方も個別に変わる言葉なんぞ在りますか。いつも外来のもの(異界)に正面から抵抗せずに、半分取り入れながら、中ではしっかり自国の心を守って、並列でやってきた歴史があるからでしょう。音楽も時間だけをもろに主張する(即ち始まったら終わりが決まっている)西洋音楽から、指揮者もいない、いつ始めるのかも判らない、スコアも極端に大雑把で、最初から決まりごと通りにやる(未来は見えちゃってる)のがいいのではない、その時その時の気分、乗り、観客のうねりの様なものでいつの間にか音が合ってきて、いつの間にか始まるような日本の音楽の宴もあります。これって「あちら」の音楽の論理?に近いのではないですか?窮屈でないですね。主役は作曲者でも指揮者でもなく、演奏者であり舞踏家であり観客なんですね。西洋音楽にも似たものは在ります、ジャズです。また往年のフルトベングラーという大指揮者の指揮する演奏に一人舞台ではあっても、その様な演奏が聴けます。他にもいろいろ違いは在りますがきりが無いのでやめます。そろそろ結論を言わないと怒られそうなので締めます。
結論は、その訳は「こころが薄かった」「あちらに近かった」です。
言ってみれば、当時の作者名とは作品名のことだったんです。つまり作品は個人のものではなく「みんなのもの=神のもの」だったんです。作品はアノニマスで作者性は在りません。
作者とは「あちら=神にかかわるもの」を見せる媒介者に過ぎない者でした。
私が、注5で世阿弥達、左甚五郎達と複数で書いたのはそのせいです。
参考までにこのことを近代的に解釈したと思われる文章を引用しておきます。
「あの緩やかなブルゴーニュの春の丘に花が咲き乱れる時、ヴェズレーの丘の上にある美しい聖マドレーヌ教会の 塔を遠くから仰ぎながら一歩一歩、坂道を登っていくその感動は言葉に尽くしがたい喜びである。・・・・そんな時私はよく、詩人ポール・クローデルの「神に向かっておのれを低める」という言葉を想いだすのである。彼はアンドレ・ジイドに向って、「山は遠くにある時、おのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれがいかに低い、小さな存在であるかを知ることができる。」と述べた。・・・・・・・
大伽藍を建てた人々や美しい祭壇画を描いたひとが、「これらの栄光を我に帰することなかれ、ただ神の御名にのみ帰し給え」と刻んだことは、自己を低める行為の端的な例であろう。・・・・中世の多くの芸術作品は、それを作った人の名前を持っていない。自己を低めることは敬虔であり畏れである。・・・それが中世の心というものであろう。」
饗庭孝男著 「中世を歩く」小沢書店 P8〜P11
作者性の無い作品とは、わが国では「見たて(6)」という手法でつくられました。それは文字通り「何かに見立てる」方法です。歌枕がいい例でしょう。それは古来和歌に詠われてきた或る場所・地名ですが、単なる地名では無く、旅(人生の象徴)で出会った或る場所を、自らの喜怒哀楽の心境に見立てるのです。それがやがてそれをなぞった人達共通の記号と化して共有される。明石は明るい、宇治は憂しなど。卑近な例では、富士は日本中にあります。○○富士。銀座も熱海銀座とか。繁華街=銀座ですね。第一、学ぶは真似るから来ています。言葉がそうですね。真似をしていない人なんて一人もいません。みんな真似して大きくなったんですね。そこを少しずらして、オリジナルとする。江戸っ子だったらこっ恥かしくてそんなオリジナルなんて・・・。言えませんよね。ただここで言いたいのは、基をただせば、みんなもの真似だからサインをするなという事じゃあないんです。
信仰でも「世間」でも社会全体が共通の価値観を持てた、個人や個性というものを敢えて主張する必要の無かった幸せな時代の産物だったという事を思いたいのです。「誰がつくった」のが問題ではない、「いいものが出来た」に比重があったという事でしょう。神の死んだ近代や現代ではこうはいかないでしょう。人と人とが離れ共生の難しい、よそ者同士が集う都市の時代、個性や個人の時代になったんですから。「こころ」がどんどん再生産されて、さまよってしまう時代なんですから。
江戸時代だが、詠み人知らずの端唄を一つ
吉野川には桜を流す
龍田川には紅葉を流す
橋の上より文とり落し
水に二人の名を流す
これは丸谷才一さんが、「日本文学史早わかり」(講談社学芸文庫)で教えてくれたもので、解説も丸谷さんのものを少しお借りしていますが、
うっかり橋の上から落としたせいで、二人の仲を知られてしまう。
ここには、時間というつれない現実(制限)に思いっきり反抗した恋という哀しいものが、
留まるところを知らない水の流れや、花や紅葉の美しさや移ろいやすさに強調された、
素晴らしい恋の「見たて」(6)があると思います。私は立派な秀歌だと思います。
最後は詠み人知らずの多い「古今集」から。
(往々にして勅撰集の類は、文明批判が入ったりすることから、ちょっと名前を知られると困る事情があって詠み人知らずとする場合も多いので、このお話しの趣旨からは外れるかもしれませんが、この一首はその様な政治的な配慮からでないことを祈って)
木の間(このま)より もりくる月の影みれば 心づくしの秋は来にけり
詠み人知らず(巻4・184)
「こころづくしの秋」がなんとも素晴らしい「見たて」ですね。いよいよ深まる秋の気配を身に感じ、さまざまな情感に思いを巡らす。そしてそれがたちまちのうちに過ぎ去ってしまう故に、美しさもひとしおで、満喫するのにこうしちゃあいられない!それを一言で「心づくし」ですからね。もうこの言葉を耳にしたが最後、秋と言えば真っ先に浮かんできてしまう。秋のシンボルの発明ですね。
あの紫式部だって、「夕顔」や「須磨」の項で真似してますよ。
今は、「こころがあってよかった!」と思ってしまいます。
「中世が良かった」、「心なんて持たなきゃよかった」なんて結論ではありません。もう元には戻れないんです。いずれ「あちら」には嫌でも戻るんですから。
勝海舟の末期のことば「はい、これでおしまい」と言えるように、余り不安に駆られ、欲ばかりかかないで、「自然」を敬い暴走しないことですね。
※タイトルに「じんさんへの答え」とあるのは、ブログを始めた時「苦とはなんですか」と聞かれて応えられずずうっと気になっていたもので、その答えになっているか判りませんが書かせていただきました。能演者の安田登さんのご本に、もっとすっきり書かれていました。
「≪自己≫のみに従って生きてきた人間(動物や奴隷状態)が、こころの誕生で≪自己のイメージ≫の為に生きるようになった。・・・それによって出来るようになったことは自分の≪運命≫を変える自由だった。その為に役に立った≪自己のイメージ≫とは、「誇り」だったり「プライド」だったり「自分らしさ」だったり様々に形を変える。
恥をかかないように、失恋をしないように、幸せの形(イメージ)を守ろうとする。自分の意地をかたくなに通そうとする。自己のイメージを壊せない。それを本人はこころの苦しみと感じる。」(私の勝手な要約・・「身体感覚で論語を読みなおす」から)
でも私は、苦があっても、”こころ”のほうを支持します。じんさん。
(下の脚注をどうぞ)
[url=http://www.gbu02eep04qmzvi8497se074b9x56u06s.org/]umkkxxhhnk[/url]
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<a href="http://www.gbu02eep04qmzvi8497se074b9x56u06s.org/">amkkxxhhnk</a>
最近は、どうしたら楽になれるかににシフトチェンジしました。苦を少し認めて楽することを自分に許したのです。そうしたら生活態度が、どんどんシンプルになりました。
またお邪魔いたします。