2013年11月29日
気配
前回、「占い」の中で、「気配」が大事だとお話ししましたが、今回は少しこのことについて・・・・・。
気配とは御存知の通り、「なんとなく感じられる様子」とでもいったものですね。
以前から私の頭には、知的や精神や身体の障害者の方たちと拙いコミュニケーションをとった後などに、いわゆる健常者と呼ばれる自分は本当に何も障害が無いと自信を持って言いきっていいのだろうか・・・、というより障害者と呼ばれる方たちははっきりと「欠けているもの」が見えやすいが、健常者と呼ばれる「人間」は本当に何も欠けていないのだろうかという疑問が、度々脳裏を過っていた。
あるとすればそれは何だろう。あるとすれば我々は、それに気付かなければいけないんじゃないか?
それは「気配」というものだった。何の気配?それが問題だった。
それを「神」だと言ってしまうと、それによる統治や人と人の暴力やしがらみの問題が生じてしまう。
では「神」の定義を広げればいいのではないか?人間的なものを想像してはいけないと。
そうではない。
その何かの為に行動を起こすとか、勢力を結集するとかそういう何かでは無いのだ。
何かを定義すれば、そこで表せなかった何かを同時に捨てている事になる。その犠牲の上に定義は成り立つ。そうではなくて、そうして何度も何度も切ってきた(捨ててきた)心の忘れものに気付くことだ。
「原初の感触」と言ってもいい。
それはとても「謙虚」なこころを持つ。ノンちゃん雲に乗るのあの雲の上の老人の語る「ひとはひざまずく心が無ければ偉くはなれんのじゃよ」の心だ。
或いは、ノヴァーリスの
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
という「欠如」の感覚だ。
謙虚は人に対してだけでは無い。もしそれだけだったら偽物だ。裏に何か計算がある。自然界の生き物全てどころか、石や塵芥に至るまで同様でなければおかしい。
ラスキンは言った。「皆さん、塵には地球と生命と社会の全ての結末が飛沫となって潜んでいるのです。その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なんですか、何が経済なんですか、何が教育なんですか?」(塵の倫理)。
これはとても簡単に読み過ごせる言葉ではありませんね。本当に「前へ進める事」だけが政治なんですか?
私が初めてこのブログに投稿した時に、「頭の上にクエスチョンマークを載せていない、自信のかたまりのような人は信用できない」と書いたのも、それだった。
日本神話でもイザナギとイザナミの生んだ日本最初の子どもヒルコは、脚が萎え、川に流された。ヒルコは海を流れ西宮神社のえびす神になったという説がある。しかもこのエビスだけでなく、彼を含む七福神はみな腹が出たり、頭が長すぎたり奇形を特徴とする。また小学唱歌だった「山田の中の一本足の案山子(実はヤマダノホソという神)」も歩けない。
何か「欠けている」のだ。アキレスも、ジークフリート(ゲルマン神話)も決定的な弱点を持たされた。
遠因は、人類が直立二足歩行という、いわば「進化」の競争の枠の外に飛び出た行為をしたことによって、従来より、骨盤や子宮や産道が変化して妊娠期間が長期間になるだけでなく、そうして生まれた赤ちゃんも1人では何もできないほど未成熟になり育児期間も他の動物に比べ異例に長くなったということがおきたことに始まった。初期の成長をあえて遅らせ、つまり「遅滞」させて、その分、育成期間をゆっくりとった。これを人のネオテニーという。これは進化のある時期に、猿の幼児を調整する遺伝システムを借りてきてしまったのかもしれない。そのうえで、人は脳の成熟を際立たせるために、わざわざ成長を遅らせたのかもしれない。(「フラジャイル」松岡正剛)
性の成熟が独立心をもたらす前に、それ(成長)を遅らせて、自分たちの学習を強化させて弱々しい幼児期を引き延ばしたのではないだろうか?(スティーブングールド)これは遺伝子の戦略なのか、ウイルスのいたずらなのか?(ウイルスは種を越えて遺伝子を運んでいるのだから。)
直立二足歩行はそのほかにも、喉(声帯)の筋肉の分節化を促し、言葉の発明をもたらした。この時も何か大きな発明をしたのだと思いたいところだが、これによって失ったものは大きかった。
何を失ったと言いにくいのだが、その後の(言語を獲得後)人類の環境変化を見れば失われたものが見えてくるというものだ。ヴィトゲンシュタインに「世界は言語ゲームでできている」と言わしめる様に、全くもって言語や数字や道具などの後天的に獲得したもので埋め尽くされ、我々は、世界とは何かという本質について、大きな大きな勘違いをしている。その言語や数学は獲得と同時に何かを捨てているため、「もともとが矛盾や葛藤に満ちた言葉を使っていれば、そのうち何処かで亀裂が生じ、何処かで衝突が丸見えにならない方が不思議だ。その亀裂や辻褄合わせの為に、ピノキオの嘘が発達し、法華経の「方便」、荘子の「狂言」も生じた。(「フラジャイル」松岡正剛)
また僅か千分の一未満の誤差が方程式の計算が進んでいくうちべらぼうに増幅し、当初予想された結果と大きく違う結果を表示して人類を困惑させている。(バタフライ効果)
これらは皆、現代の人類があたかも無かったことの様に、忘れ去り、それでも何か忘れ物をしたかのように、何処かに向かって振り返る要因ともなっている。
今ではその「気配」を僅かに感じ取るのが精一杯となっている。そうして遅れて放りだされた幼い赤ちゃんの「幼ごころ」が、周囲を「学び工夫しなければ、生き延びられない」という行為を促し、一方で、周囲の人々は、そういう幼く弱いものだからこそそれを「守ろう」と一生懸命になる。
我々が未熟な赤ちゃんだけでなく幼き動物や人形までもを、「かわいい」とか「守りたい」とか何かを感じて心動かされるのはそのせいだ。そのころの「幼ごころ」の記憶が我々を衝き動かしているのだ。我々に欠けていたものとは、その「置き忘れたもの」だった。
折角ネオテニーの戦略で、進化の流れを飛び越える事に成功して、「幼さ」を獲得し、「学ぶ」事を知った我々が、言語ゲームの様なグローバルゲームに熱中しそれに勝ち抜くことが使命だなどと踊らされ、競争の方が目的化されている現状は、学習とよべるものでは無く、ただのゲームに過ぎない。いかにそれが辛辣かつ驚くべきなものであったとしてもだ。
すぐ後ろに迫っているものの気配を感じる人間に戻ってもらいたい。長新太さんの「ぶたやまさんたらぶたやまさん」の蝶を追いかけるブタヤマさんの後ろに迫る大きなクジラでも、メイを探して疲れ果てて、サツキが必死の思いで昔を「想いだし」て呼び出した「大ととろ」や「猫バス」でもいい。
気配を想いだして、ほしい。何処で間違ったにせよ、気づいて欲しい。
その時のこころを持ち続けることこそが、人間の「本来」の在り様(ありよう)なのではないか。
これは「謙虚さ」というものの根拠になりうる。
postscript
この話を書き終えた其の夜、私は柳田邦男さんの或る本をめくっていた。その時「意味ある偶然」が飛び込んできた。
・・・・王子様は飛行機を修理している主人公の「ぼく」のところへ戻ってくると、「星があんなに美しいのも、目に見えない花が1つあるからなんだよ・・・」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ・・・」と教えてくれる。
王子様が眠りかけたので、僕は両腕で抱えて歩きだしました。・・・・・王子様の寝顔を見ると、僕は涙が出るほど嬉しいんだが、それも、この王子様が、一輪の花をいつまでも忘れずにいるからなんだ。薔薇の花の姿が、・・・・この王子様の心の中に光っているからなんだ。
星の王子様がキツネから教わったことを主人公の「ぼく」に話してくれている部分だった。
「かんじんなことは、目に見えない」「こころで見なくちゃ、ものごとはよく見えない」とキツネが教えてくれた。「欠けている」ということは、目に見えないが触っている「何か」が存在することの「アリバイ」なのだ。
何々であると定義して片付けてしまうのでなく、反対にはっきりしないから「そんなものは無い」と忘れてしまうでもなく、いつもその生と死の境界を見続ける人には、そこが支点となって「人間としての生業(nariwai)」が見えてくる。
心安らかな時にはそれは「一輪の花」であり、諦念に覚悟が決まった胸には神秘的な「心の秘密」として存在するでしょう。霊験灼(arataka)の時には、ホスピス医の山崎章郎さんが著書の中で書かれた、次の様なエピソードに見えてくるものも明らかになるでしょう。
ガンが進行した中年のビジネスマンが、自分にはあの世があるように思えると言っていた。そして「風がないのに、ローソクの炎が揺れたら、私からのメッセージだと思ってください」といって、三日後に旅立った。
そのご山崎さんはローソクの火を見るたび、今揺れるかと注視する日々を過ごしたが、或る時、はっと気付いた。
今揺れるかと思ってローソクを見つめる自分の心の中に、彼は確実に生きているのだと。
この経験を唯の錯覚と見過ごしてはならないと思います。
彼(ビジネスマン)は去ったが、思い出は残ると言っているのではないことを。
そうではなく、「存在」とは実はその「想い」のことであり、消えていったビジネスマンのことでは無かった、ということに気付いたということなんですね。
あくまで、錯覚としか取れない人には錯覚でしょう。でもそうなら、今あなたが「全っき現実」と信じている眼の前の人生が錯覚ということになってしまいますよ。
空気をうつ散漫な羽根音をさせて、鳥が夜の廂に落としていった物 は何だったろう?
拾ってみれば、ひどく疲労に黒ずんだその鳥であった。 では落として速く翻って行った、
あれは何だったろう? (丸山薫 「廂」)
最後に重要な王子様との別れの言葉を引きます。
「夜になったら、星を眺めておくれよ。ぼくんちは、とてもちっぽけだから、どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。だけどその方がいいよ。きみは、ぼくの星を、ほしのうちの、どれか一つだとおもって眺めるからね。」
人間様の考案した「所有」などという、ここからここまでが私のもので誰からも奪われないなどという、存在をおとしめるような決まりから解放され、何処でもあるからどこでもない。場所なんてないからちっぽけでけっこう。心でしか見ないから、どれか一つでなく、全体のどれもが王子様なんですね。
気配とは御存知の通り、「なんとなく感じられる様子」とでもいったものですね。
以前から私の頭には、知的や精神や身体の障害者の方たちと拙いコミュニケーションをとった後などに、いわゆる健常者と呼ばれる自分は本当に何も障害が無いと自信を持って言いきっていいのだろうか・・・、というより障害者と呼ばれる方たちははっきりと「欠けているもの」が見えやすいが、健常者と呼ばれる「人間」は本当に何も欠けていないのだろうかという疑問が、度々脳裏を過っていた。
あるとすればそれは何だろう。あるとすれば我々は、それに気付かなければいけないんじゃないか?
それは「気配」というものだった。何の気配?それが問題だった。
それを「神」だと言ってしまうと、それによる統治や人と人の暴力やしがらみの問題が生じてしまう。
では「神」の定義を広げればいいのではないか?人間的なものを想像してはいけないと。
そうではない。
その何かの為に行動を起こすとか、勢力を結集するとかそういう何かでは無いのだ。
何かを定義すれば、そこで表せなかった何かを同時に捨てている事になる。その犠牲の上に定義は成り立つ。そうではなくて、そうして何度も何度も切ってきた(捨ててきた)心の忘れものに気付くことだ。
「原初の感触」と言ってもいい。
それはとても「謙虚」なこころを持つ。ノンちゃん雲に乗るのあの雲の上の老人の語る「ひとはひざまずく心が無ければ偉くはなれんのじゃよ」の心だ。
或いは、ノヴァーリスの
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
という「欠如」の感覚だ。
謙虚は人に対してだけでは無い。もしそれだけだったら偽物だ。裏に何か計算がある。自然界の生き物全てどころか、石や塵芥に至るまで同様でなければおかしい。
ラスキンは言った。「皆さん、塵には地球と生命と社会の全ての結末が飛沫となって潜んでいるのです。その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なんですか、何が経済なんですか、何が教育なんですか?」(塵の倫理)。
これはとても簡単に読み過ごせる言葉ではありませんね。本当に「前へ進める事」だけが政治なんですか?
私が初めてこのブログに投稿した時に、「頭の上にクエスチョンマークを載せていない、自信のかたまりのような人は信用できない」と書いたのも、それだった。
日本神話でもイザナギとイザナミの生んだ日本最初の子どもヒルコは、脚が萎え、川に流された。ヒルコは海を流れ西宮神社のえびす神になったという説がある。しかもこのエビスだけでなく、彼を含む七福神はみな腹が出たり、頭が長すぎたり奇形を特徴とする。また小学唱歌だった「山田の中の一本足の案山子(実はヤマダノホソという神)」も歩けない。
何か「欠けている」のだ。アキレスも、ジークフリート(ゲルマン神話)も決定的な弱点を持たされた。
遠因は、人類が直立二足歩行という、いわば「進化」の競争の枠の外に飛び出た行為をしたことによって、従来より、骨盤や子宮や産道が変化して妊娠期間が長期間になるだけでなく、そうして生まれた赤ちゃんも1人では何もできないほど未成熟になり育児期間も他の動物に比べ異例に長くなったということがおきたことに始まった。初期の成長をあえて遅らせ、つまり「遅滞」させて、その分、育成期間をゆっくりとった。これを人のネオテニーという。これは進化のある時期に、猿の幼児を調整する遺伝システムを借りてきてしまったのかもしれない。そのうえで、人は脳の成熟を際立たせるために、わざわざ成長を遅らせたのかもしれない。(「フラジャイル」松岡正剛)
性の成熟が独立心をもたらす前に、それ(成長)を遅らせて、自分たちの学習を強化させて弱々しい幼児期を引き延ばしたのではないだろうか?(スティーブングールド)これは遺伝子の戦略なのか、ウイルスのいたずらなのか?(ウイルスは種を越えて遺伝子を運んでいるのだから。)
直立二足歩行はそのほかにも、喉(声帯)の筋肉の分節化を促し、言葉の発明をもたらした。この時も何か大きな発明をしたのだと思いたいところだが、これによって失ったものは大きかった。
何を失ったと言いにくいのだが、その後の(言語を獲得後)人類の環境変化を見れば失われたものが見えてくるというものだ。ヴィトゲンシュタインに「世界は言語ゲームでできている」と言わしめる様に、全くもって言語や数字や道具などの後天的に獲得したもので埋め尽くされ、我々は、世界とは何かという本質について、大きな大きな勘違いをしている。その言語や数学は獲得と同時に何かを捨てているため、「もともとが矛盾や葛藤に満ちた言葉を使っていれば、そのうち何処かで亀裂が生じ、何処かで衝突が丸見えにならない方が不思議だ。その亀裂や辻褄合わせの為に、ピノキオの嘘が発達し、法華経の「方便」、荘子の「狂言」も生じた。(「フラジャイル」松岡正剛)
また僅か千分の一未満の誤差が方程式の計算が進んでいくうちべらぼうに増幅し、当初予想された結果と大きく違う結果を表示して人類を困惑させている。(バタフライ効果)
これらは皆、現代の人類があたかも無かったことの様に、忘れ去り、それでも何か忘れ物をしたかのように、何処かに向かって振り返る要因ともなっている。
今ではその「気配」を僅かに感じ取るのが精一杯となっている。そうして遅れて放りだされた幼い赤ちゃんの「幼ごころ」が、周囲を「学び工夫しなければ、生き延びられない」という行為を促し、一方で、周囲の人々は、そういう幼く弱いものだからこそそれを「守ろう」と一生懸命になる。
我々が未熟な赤ちゃんだけでなく幼き動物や人形までもを、「かわいい」とか「守りたい」とか何かを感じて心動かされるのはそのせいだ。そのころの「幼ごころ」の記憶が我々を衝き動かしているのだ。我々に欠けていたものとは、その「置き忘れたもの」だった。
折角ネオテニーの戦略で、進化の流れを飛び越える事に成功して、「幼さ」を獲得し、「学ぶ」事を知った我々が、言語ゲームの様なグローバルゲームに熱中しそれに勝ち抜くことが使命だなどと踊らされ、競争の方が目的化されている現状は、学習とよべるものでは無く、ただのゲームに過ぎない。いかにそれが辛辣かつ驚くべきなものであったとしてもだ。
すぐ後ろに迫っているものの気配を感じる人間に戻ってもらいたい。長新太さんの「ぶたやまさんたらぶたやまさん」の蝶を追いかけるブタヤマさんの後ろに迫る大きなクジラでも、メイを探して疲れ果てて、サツキが必死の思いで昔を「想いだし」て呼び出した「大ととろ」や「猫バス」でもいい。
気配を想いだして、ほしい。何処で間違ったにせよ、気づいて欲しい。
その時のこころを持ち続けることこそが、人間の「本来」の在り様(ありよう)なのではないか。
これは「謙虚さ」というものの根拠になりうる。
postscript
この話を書き終えた其の夜、私は柳田邦男さんの或る本をめくっていた。その時「意味ある偶然」が飛び込んできた。
・・・・王子様は飛行機を修理している主人公の「ぼく」のところへ戻ってくると、「星があんなに美しいのも、目に見えない花が1つあるからなんだよ・・・」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ・・・」と教えてくれる。
王子様が眠りかけたので、僕は両腕で抱えて歩きだしました。・・・・・王子様の寝顔を見ると、僕は涙が出るほど嬉しいんだが、それも、この王子様が、一輪の花をいつまでも忘れずにいるからなんだ。薔薇の花の姿が、・・・・この王子様の心の中に光っているからなんだ。
星の王子様がキツネから教わったことを主人公の「ぼく」に話してくれている部分だった。
「かんじんなことは、目に見えない」「こころで見なくちゃ、ものごとはよく見えない」とキツネが教えてくれた。「欠けている」ということは、目に見えないが触っている「何か」が存在することの「アリバイ」なのだ。
何々であると定義して片付けてしまうのでなく、反対にはっきりしないから「そんなものは無い」と忘れてしまうでもなく、いつもその生と死の境界を見続ける人には、そこが支点となって「人間としての生業(nariwai)」が見えてくる。
心安らかな時にはそれは「一輪の花」であり、諦念に覚悟が決まった胸には神秘的な「心の秘密」として存在するでしょう。霊験灼(arataka)の時には、ホスピス医の山崎章郎さんが著書の中で書かれた、次の様なエピソードに見えてくるものも明らかになるでしょう。
ガンが進行した中年のビジネスマンが、自分にはあの世があるように思えると言っていた。そして「風がないのに、ローソクの炎が揺れたら、私からのメッセージだと思ってください」といって、三日後に旅立った。
そのご山崎さんはローソクの火を見るたび、今揺れるかと注視する日々を過ごしたが、或る時、はっと気付いた。
今揺れるかと思ってローソクを見つめる自分の心の中に、彼は確実に生きているのだと。
この経験を唯の錯覚と見過ごしてはならないと思います。
彼(ビジネスマン)は去ったが、思い出は残ると言っているのではないことを。
そうではなく、「存在」とは実はその「想い」のことであり、消えていったビジネスマンのことでは無かった、ということに気付いたということなんですね。
あくまで、錯覚としか取れない人には錯覚でしょう。でもそうなら、今あなたが「全っき現実」と信じている眼の前の人生が錯覚ということになってしまいますよ。
空気をうつ散漫な羽根音をさせて、鳥が夜の廂に落としていった物 は何だったろう?
拾ってみれば、ひどく疲労に黒ずんだその鳥であった。 では落として速く翻って行った、
あれは何だったろう? (丸山薫 「廂」)
最後に重要な王子様との別れの言葉を引きます。
「夜になったら、星を眺めておくれよ。ぼくんちは、とてもちっぽけだから、どこにぼくの星があるのか、きみに見せるわけにはいかないんだ。だけどその方がいいよ。きみは、ぼくの星を、ほしのうちの、どれか一つだとおもって眺めるからね。」
人間様の考案した「所有」などという、ここからここまでが私のもので誰からも奪われないなどという、存在をおとしめるような決まりから解放され、何処でもあるからどこでもない。場所なんてないからちっぽけでけっこう。心でしか見ないから、どれか一つでなく、全体のどれもが王子様なんですね。
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