2013年10月09日
占いに想う
占いとは何だろうか。「占象=うらかた=占いの結果現れたかたち」によって、神意を問い、未来の吉凶を判断・予想すること、とある。
世間にはこの占いを職業として、生計を立てている人も多い。占い師などと呼ばれる。
私は、占いの様なものを迷信として一方的に排除する人も、占いを信じて何事も「お告げ」として信じる人も両方とも嫌いだ。なぜなら両者とも、「占い」を、自分の損得の対象・或いは有利・不利の対象にしているからだ。だから、その有利不利を占う事を業としている人も嫌いだ。
本来占いは、自分でするものだ。
人は自分の生まれ出る自然環境・顔立ち・家庭環境・氏名・身長・体重・経済的環境等々、何一つ選べない。一方で、私の気持ち、私の心、私の(?)たましいは、私に属する。
そうスタートは、全員が違うのだ。これが現実だ。問題はそれを、(宇宙の時の流れから見たら)大変短い・一瞬の、自分の人生から見たら永い永い時間を、どのように奏でるかだと思う。あー、「もっと色が白かったら」「あー、もっと頭が良かったら」「あーもっと鼻が高かったら」「あーもっと・・・・・」と嘆きながら人生を「不満のもの」としてしまうのも、この与えられた現実こそ、自分の個性(他の誰にもない)の源なんだと考え、誰にもできない私の人生を送ろうと、与えられたものを良く見・味わい、自然との・人とのつながりの中に「自分の立ち位置」を見つけら「どう使うか」を考えるのも同じ人生なんだと思う。
よく見れば、過去だって変えられる幸運に恵まれるかもしれない。テレビCMで(コーヒーメーカー・ジョージアの宣伝)「誰にでも笑って頭を下げられる父が嫌いだった。」とありますね。そう思っていたのが彼の過去。何年か生きてきて、自分がその立場(家族やかかわり合いのある人達との関係で生きられている)に置かれて、そういう父が嫌いでなくなった。ここに気付かなければあの時の過去のまま・・・、でも見えたから彼の過去は変わったんですね。自分を入れて一生懸命体験したから見えるようになった。そしてよく見たから気付いた。つまり彼の過去が変えられた。
「心にFireがともったんですね」。これはなかなか深い味わいですね。
それでもどう一生懸命頑張っても、思う様に納得できなくなることがある。うまくコミュニケートできない時がある。こういう時ですね、神様や阿弥陀様にご意見を伺うのは。
神様は何もおっしゃりません。(まして顔が悪いの、名前が悪いの、字数が悪いのなんて一人一人の条件の善し悪しなんて言いません。そんなことを問題にする占いは、当たる当たらないじゃなくて本来の占いの道を外れていますね。)
そして占うのです。自分がこの世に生まれ出でた時の環境をリセットするんです。あの時受け入れたじゃないか、鳴き声を挙げながら。でもあの時と全く同じ条件では無い、少なくとも自分の軌跡がある。今もこの先の不安を抱えて、泣けばいい。泣いて泣いて涙を枯らせてもなお残る自分。
そこが出発点だ。右に行くか左に行くかは、その時の心のあり処と、(神の代理である)自然・他人・犬などの起こす偶然(意味のある偶然)できまる。喫茶店に行って、何を注文するでもなく選択の自由の中にいる時、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか?」「じゃ、紅茶で」。彼女が逆に聞いてきたら、コーヒーと言ったかもしれない。それが後々有利だったか、不利だったかは、自分の捉え方次第なんです。そう、「過去は変えられる」んですから。
「夕暮れ」をもっぱら「たそがれ」といい、占いはその時間に行われる。なぜって夕刻は「誰ぞ彼」
つまりWho is he?と発する、私とあなたの区別があいまいになってくる時刻だからです。そこではこれまでの人生で沁みついてきた「意味の病」(ジャック・ラカン)をすっかり脱ぎ捨てて、アルタード・ステーツ(altered state=うつろいやすさ)=(「変成意識状態」などと訳されている。感覚や意識が変異する中間のトランジット(=何か別の世界や空港に乗り継ぐ事)な感覚)に向かいやすい。(いるか博士のジョン・リリーは「イルカはね、夕がたになると宇宙と交信し始める」といっている。)
夕刻は真昼間や真夜中に比べ、光が強すぎず、闇が強すぎる事もなく、「微妙な」「弱々しい」「触れようとすると隠れてしまうような」優雅の本質が顔を出す。「寄りてこそそれかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」(源氏物語)なのだ。
つまり早い話が、真昼間も真夜中も何かが強すぎて「野暮」なのだ。
先ごろ亡くなった、世界的アーティスト石岡瑛子さんは、世界で一番好きな光景は、バンコックのコロニアル風のホテルのテラスから見る夕がたの風景だったそうだ。その夕刻、世界中のありとあらゆる色彩が彼女の前に現れ広域にわたる色のページェントが遷移し移ろっていく。
「パーフェクトね!あんなにパーフェクトな世界って無いわね。夕方って全てを持っている!」
「あした=旦」とは、「夕べ」の意味だった!「ユダヤの一日は日没に始まり次の日没におわる」(ボルヘス「死とコンパス」)
こうして、「意味の虜」になっていた私が消え、他人とも、友人とも、雲の彼方に帰る雁とも区別が無い世界つまり(誤解を恐れずに言えば)「たましい」の世界に「おじゃま」するのだ。(=変身願望)
「たましいとは、私の前にいるあなたたち」なのだ。
これは、ユングが講演の際、聴取者からの質問に答えた言葉だが、決して苦し紛れの言葉なんかじゃない。嘗て日本でも法然さんが、弟子たちを前に、「お前たちは今、仏道の修行をしているが、
お前たちが救われるのは、「自身の修行による「行不退」ものか、弥陀のお力による「信不退」ものか」と問い、どちらか思う方にに座りなさいと命じた時、ほとんどの弟子が「行不退」を選んだのに対し、親鸞を含め数人は「信不退」を選んだ。これは有名な「他力本願」の意味を問うた設問として有名ですが、修行つまり努力はしなければならないが、最善を尽くした後は、(どのような結果になろうと)弥陀に任せるという他力本願の真意をすぐに察知した親鸞は「信不退」を選択したんですね。つまり最後の最後は「他」にお任せする。つまり「他」は「阿弥陀さん」なんですね。我々が拝んでいる「阿弥陀さん」とは、「他者」のことだったんですね。最後は他者に任せられるか?その覚悟を問うたんですね。ユングの言葉を置きかえれば、「阿弥陀とは、他者のことです」ということになり、弟子たちに「あなたたちは最後の最後に、他者である弥陀を信用できますか?」と問うたんですね。
他力本願とは、人に依存して生きることなんじゃないですね。最善を尽くした暁に、「偶然」・「悪意があるかもしれない占い」・「たましい」に自身をゆだねる覚悟がありますか?
「此の秋は何で年よる雲に鳥」(芭蕉)
この秋は何でこうも年をとった感じがするのだろうか?夕暮れの遠くの雲に鳥が入っていくのが見える。老人の肉体の衰えだけでもなく、愚痴でもない。与えられた命の細っていくのを感じている。
もうすぐ、雲の向こうにいくのかなー。死に行く姿を象徴した、高く美しい嘆き。
片心をたましいに突っ込んだ胸中ですね。私達は寿命でもなく、こんなところに迷い込んでしまうこともあるのです。いやむしろ、すすんで逢いに行きたがるものなんです。
このような生でもなく死でもない世界(=たましいの領域)でリセットし直して、占いをきっかけにして再生するのです。
寄り道をしました、戻りましょう。
いったいそこで何をするのか?競争やら、人間関係やら、貧乏でいじけた過去の葛藤やら様々を洗い、忘れかけていたたましいの根をしっかりリセットし、その立ち位置で全てを受け入れ、全てを取り戻し、再スタートする為でしょう。
或いは、日常の連続をごく平凡な退屈な事に思え、劇的な変化を求めて「出かけたくなる」。
占い師にも会いたくなる。
その時です。一瞬何かがおこる気配を感じるのは。みんなこの気配を求めて行動していると言ってもいいくらいです。
「このごろ、子どもがぼーとしています。心配ないですか?」という言葉を耳にすることがある。必ずしも黄昏時でなくとも、ボーとしたいときは、親でもありますね。その時、一体何をしているんでしょうか。
愛犬とぽつりぽつり話し込んだり、映画をみたりコンサートへ行ったりも、ぼーっとしに行ってるのとおなじですね。心の中でとんでもないことを考えたり想像したりもしている。人に言えないようなね。でもそうやって、心を「発酵」させているんですね。育てているんですね。この時相手は占い師さんではないかも知れないけど、その相手の存在が、(魂に栄養をもらいに)降りていった心が戻ってくるきっかけになっているんですね。
だから占いもそのトリガー(きっかけ)に過ぎないけれど、とても必要で大事な儀式なんです。だからこそ、占いを手伝ってくれるのは、私心のある人では駄目なんですね。偶然の通行人や犬や雷や月がいいんです。
子どもにはこんな時、ぼーっとする場所を与えてあげたいですね。自分の部屋も悪くは無いんですが、外界との交流が持てない。発した叫びが元に帰ってきてしまう。苦しみを増幅する可能性もある。ひきこもりにも行ってしまいやすい。
やはりそういう時は、「縁側」でしょう。外でもない内でもない、その両方を持った空間。どちらに向うにしてもしばし、心のためをつくる場所ですね。「間」といってもいいですね。(廊下じゃないですからね。)
今はどこに行ってもそういう「中途半端」なものは切り捨ててしまいましたからね。
だったらせめて、自己防衛の手段として「心の縁側」を持てばいいんです。
そこでは独り言を言ったり、自分を眺めたり、外を眺めたり、「ととろ」に相談したり・・・、休まりますよ!(ただくれぐれも、他人に見られないように!すぐに病院に入れられちゃいますから。)
日記なんかを利用しても、作家の様に物語を書いてもいいんじゃないですか。
ええ、別に賞を取ろうなんて虚栄心は無いんですから。
私が、いまこの文章を書いているのも、同じ動機かもしれませんね。
これはとくに、熱のある時や、ある夕暮れの日没のときにおこる。一見、整然としている自分の周りの世界、新しい自分の家、刈りたての芝生、路上のバスなどが、突然にその堅さを失って、不安定になっていくのだ。その時は自分の子供さえ見知らぬ人のように見えてくる。(ジョルジュ・シムノン「黒いボール」)
我らが中島敦の「文字禍」の起こる瞬間ですね。
それは、「何が起きる気配なの」って?
それは何と言いましょうか、とても数行で語れるものでは無いのですが・・・・・
自分の「忘れもの」と言いましょうか、一言で言ってしまえば、
(そこではまだ変身可能な)「幼心=オサナゴコロ」に出会う事でしょうか。
(⇒2011年6月9日 人間とは何か(2)ーネオテニー参照)
世間にはこの占いを職業として、生計を立てている人も多い。占い師などと呼ばれる。
私は、占いの様なものを迷信として一方的に排除する人も、占いを信じて何事も「お告げ」として信じる人も両方とも嫌いだ。なぜなら両者とも、「占い」を、自分の損得の対象・或いは有利・不利の対象にしているからだ。だから、その有利不利を占う事を業としている人も嫌いだ。
本来占いは、自分でするものだ。
人は自分の生まれ出る自然環境・顔立ち・家庭環境・氏名・身長・体重・経済的環境等々、何一つ選べない。一方で、私の気持ち、私の心、私の(?)たましいは、私に属する。
そうスタートは、全員が違うのだ。これが現実だ。問題はそれを、(宇宙の時の流れから見たら)大変短い・一瞬の、自分の人生から見たら永い永い時間を、どのように奏でるかだと思う。あー、「もっと色が白かったら」「あー、もっと頭が良かったら」「あーもっと鼻が高かったら」「あーもっと・・・・・」と嘆きながら人生を「不満のもの」としてしまうのも、この与えられた現実こそ、自分の個性(他の誰にもない)の源なんだと考え、誰にもできない私の人生を送ろうと、与えられたものを良く見・味わい、自然との・人とのつながりの中に「自分の立ち位置」を見つけら「どう使うか」を考えるのも同じ人生なんだと思う。
よく見れば、過去だって変えられる幸運に恵まれるかもしれない。テレビCMで(コーヒーメーカー・ジョージアの宣伝)「誰にでも笑って頭を下げられる父が嫌いだった。」とありますね。そう思っていたのが彼の過去。何年か生きてきて、自分がその立場(家族やかかわり合いのある人達との関係で生きられている)に置かれて、そういう父が嫌いでなくなった。ここに気付かなければあの時の過去のまま・・・、でも見えたから彼の過去は変わったんですね。自分を入れて一生懸命体験したから見えるようになった。そしてよく見たから気付いた。つまり彼の過去が変えられた。
「心にFireがともったんですね」。これはなかなか深い味わいですね。
それでもどう一生懸命頑張っても、思う様に納得できなくなることがある。うまくコミュニケートできない時がある。こういう時ですね、神様や阿弥陀様にご意見を伺うのは。
神様は何もおっしゃりません。(まして顔が悪いの、名前が悪いの、字数が悪いのなんて一人一人の条件の善し悪しなんて言いません。そんなことを問題にする占いは、当たる当たらないじゃなくて本来の占いの道を外れていますね。)
そして占うのです。自分がこの世に生まれ出でた時の環境をリセットするんです。あの時受け入れたじゃないか、鳴き声を挙げながら。でもあの時と全く同じ条件では無い、少なくとも自分の軌跡がある。今もこの先の不安を抱えて、泣けばいい。泣いて泣いて涙を枯らせてもなお残る自分。
そこが出発点だ。右に行くか左に行くかは、その時の心のあり処と、(神の代理である)自然・他人・犬などの起こす偶然(意味のある偶然)できまる。喫茶店に行って、何を注文するでもなく選択の自由の中にいる時、「コーヒーにしますか、紅茶にしますか?」「じゃ、紅茶で」。彼女が逆に聞いてきたら、コーヒーと言ったかもしれない。それが後々有利だったか、不利だったかは、自分の捉え方次第なんです。そう、「過去は変えられる」んですから。
「夕暮れ」をもっぱら「たそがれ」といい、占いはその時間に行われる。なぜって夕刻は「誰ぞ彼」
つまりWho is he?と発する、私とあなたの区別があいまいになってくる時刻だからです。そこではこれまでの人生で沁みついてきた「意味の病」(ジャック・ラカン)をすっかり脱ぎ捨てて、アルタード・ステーツ(altered state=うつろいやすさ)=(「変成意識状態」などと訳されている。感覚や意識が変異する中間のトランジット(=何か別の世界や空港に乗り継ぐ事)な感覚)に向かいやすい。(いるか博士のジョン・リリーは「イルカはね、夕がたになると宇宙と交信し始める」といっている。)
夕刻は真昼間や真夜中に比べ、光が強すぎず、闇が強すぎる事もなく、「微妙な」「弱々しい」「触れようとすると隠れてしまうような」優雅の本質が顔を出す。「寄りてこそそれかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」(源氏物語)なのだ。
つまり早い話が、真昼間も真夜中も何かが強すぎて「野暮」なのだ。
先ごろ亡くなった、世界的アーティスト石岡瑛子さんは、世界で一番好きな光景は、バンコックのコロニアル風のホテルのテラスから見る夕がたの風景だったそうだ。その夕刻、世界中のありとあらゆる色彩が彼女の前に現れ広域にわたる色のページェントが遷移し移ろっていく。
「パーフェクトね!あんなにパーフェクトな世界って無いわね。夕方って全てを持っている!」
「あした=旦」とは、「夕べ」の意味だった!「ユダヤの一日は日没に始まり次の日没におわる」(ボルヘス「死とコンパス」)
こうして、「意味の虜」になっていた私が消え、他人とも、友人とも、雲の彼方に帰る雁とも区別が無い世界つまり(誤解を恐れずに言えば)「たましい」の世界に「おじゃま」するのだ。(=変身願望)
「たましいとは、私の前にいるあなたたち」なのだ。
これは、ユングが講演の際、聴取者からの質問に答えた言葉だが、決して苦し紛れの言葉なんかじゃない。嘗て日本でも法然さんが、弟子たちを前に、「お前たちは今、仏道の修行をしているが、
お前たちが救われるのは、「自身の修行による「行不退」ものか、弥陀のお力による「信不退」ものか」と問い、どちらか思う方にに座りなさいと命じた時、ほとんどの弟子が「行不退」を選んだのに対し、親鸞を含め数人は「信不退」を選んだ。これは有名な「他力本願」の意味を問うた設問として有名ですが、修行つまり努力はしなければならないが、最善を尽くした後は、(どのような結果になろうと)弥陀に任せるという他力本願の真意をすぐに察知した親鸞は「信不退」を選択したんですね。つまり最後の最後は「他」にお任せする。つまり「他」は「阿弥陀さん」なんですね。我々が拝んでいる「阿弥陀さん」とは、「他者」のことだったんですね。最後は他者に任せられるか?その覚悟を問うたんですね。ユングの言葉を置きかえれば、「阿弥陀とは、他者のことです」ということになり、弟子たちに「あなたたちは最後の最後に、他者である弥陀を信用できますか?」と問うたんですね。
他力本願とは、人に依存して生きることなんじゃないですね。最善を尽くした暁に、「偶然」・「悪意があるかもしれない占い」・「たましい」に自身をゆだねる覚悟がありますか?
「此の秋は何で年よる雲に鳥」(芭蕉)
この秋は何でこうも年をとった感じがするのだろうか?夕暮れの遠くの雲に鳥が入っていくのが見える。老人の肉体の衰えだけでもなく、愚痴でもない。与えられた命の細っていくのを感じている。
もうすぐ、雲の向こうにいくのかなー。死に行く姿を象徴した、高く美しい嘆き。
片心をたましいに突っ込んだ胸中ですね。私達は寿命でもなく、こんなところに迷い込んでしまうこともあるのです。いやむしろ、すすんで逢いに行きたがるものなんです。
このような生でもなく死でもない世界(=たましいの領域)でリセットし直して、占いをきっかけにして再生するのです。
寄り道をしました、戻りましょう。
いったいそこで何をするのか?競争やら、人間関係やら、貧乏でいじけた過去の葛藤やら様々を洗い、忘れかけていたたましいの根をしっかりリセットし、その立ち位置で全てを受け入れ、全てを取り戻し、再スタートする為でしょう。
或いは、日常の連続をごく平凡な退屈な事に思え、劇的な変化を求めて「出かけたくなる」。
占い師にも会いたくなる。
その時です。一瞬何かがおこる気配を感じるのは。みんなこの気配を求めて行動していると言ってもいいくらいです。
「このごろ、子どもがぼーとしています。心配ないですか?」という言葉を耳にすることがある。必ずしも黄昏時でなくとも、ボーとしたいときは、親でもありますね。その時、一体何をしているんでしょうか。
愛犬とぽつりぽつり話し込んだり、映画をみたりコンサートへ行ったりも、ぼーっとしに行ってるのとおなじですね。心の中でとんでもないことを考えたり想像したりもしている。人に言えないようなね。でもそうやって、心を「発酵」させているんですね。育てているんですね。この時相手は占い師さんではないかも知れないけど、その相手の存在が、(魂に栄養をもらいに)降りていった心が戻ってくるきっかけになっているんですね。
だから占いもそのトリガー(きっかけ)に過ぎないけれど、とても必要で大事な儀式なんです。だからこそ、占いを手伝ってくれるのは、私心のある人では駄目なんですね。偶然の通行人や犬や雷や月がいいんです。
子どもにはこんな時、ぼーっとする場所を与えてあげたいですね。自分の部屋も悪くは無いんですが、外界との交流が持てない。発した叫びが元に帰ってきてしまう。苦しみを増幅する可能性もある。ひきこもりにも行ってしまいやすい。
やはりそういう時は、「縁側」でしょう。外でもない内でもない、その両方を持った空間。どちらに向うにしてもしばし、心のためをつくる場所ですね。「間」といってもいいですね。(廊下じゃないですからね。)
今はどこに行ってもそういう「中途半端」なものは切り捨ててしまいましたからね。
だったらせめて、自己防衛の手段として「心の縁側」を持てばいいんです。
そこでは独り言を言ったり、自分を眺めたり、外を眺めたり、「ととろ」に相談したり・・・、休まりますよ!(ただくれぐれも、他人に見られないように!すぐに病院に入れられちゃいますから。)
日記なんかを利用しても、作家の様に物語を書いてもいいんじゃないですか。
ええ、別に賞を取ろうなんて虚栄心は無いんですから。
私が、いまこの文章を書いているのも、同じ動機かもしれませんね。
これはとくに、熱のある時や、ある夕暮れの日没のときにおこる。一見、整然としている自分の周りの世界、新しい自分の家、刈りたての芝生、路上のバスなどが、突然にその堅さを失って、不安定になっていくのだ。その時は自分の子供さえ見知らぬ人のように見えてくる。(ジョルジュ・シムノン「黒いボール」)
我らが中島敦の「文字禍」の起こる瞬間ですね。
それは、「何が起きる気配なの」って?
それは何と言いましょうか、とても数行で語れるものでは無いのですが・・・・・
自分の「忘れもの」と言いましょうか、一言で言ってしまえば、
(そこではまだ変身可能な)「幼心=オサナゴコロ」に出会う事でしょうか。
(⇒2011年6月9日 人間とは何か(2)ーネオテニー参照)
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