2013年06月29日
仕事(1)
「仕事をしてください。そうすれば、人生に苦い悔恨をもたらしても慰めがつきます。なぜなら、真の人生は、人生そのもののなかでも、人生の後でもなく、もっとほかのところにあることになり、もしその起源を空間に負っている言葉が、空間から解放された世界に於いて意味をもつとすれば、まことの人生は、人生の外にあるのですから」(マルセル・プルースト)
もう何年になるだろう、この言葉にであってから。
以来ずっとこの言葉の意味を巡っては忘れ、機を得ては思い起こし、徒に時は過ぎた。
学生時代に、1967年にフランス政府招聘(ショウヘイ)教授としてパリ大学に招かれた饗庭孝男がその思索の果実として、帰国後世に問うた「石と光の思想」-ヨーロッパで考えたこと-に接した時の感動は今でも鮮烈に胸の内にとどまっている。当時ヨーロッパの思想に憧れを持ちながらも、今一つ肌で実感するような、しみじみそう思うという書物に出会えなかった私としては、この出逢いは他の何にもまして新鮮な刺激だった。
ページをめくるごとに眼を開かれる、解説ではなく今立ちあがる思想の萌芽に触れて胸躍り、何度も何度も肯いたものだった。巷に躍動している単なる教養主義のヨーロッパ紹介では無かった。今思えばそれは、ヨーロッパ現代の思想ではなく「中世」のそれに基づくヨーロッパの原点だった。
ユダヤ教・キリスト教という巨大な権力を背景の「唯一神」の宗教に育てられた、嘗て人類至上世界一と言っていい「強固で孤独な自我」とそれが織りなす「最高の美しい物語=聖書」(ゲーテ)を築いたヨーロッパ社会の礎となった中世だった。
誤解を恐れずに言えば、中世はヨーロッパも日本も又私の知らない他の地域も本質は皆変らない。だからこそ思想的にバラバラに別れてしまった現代人の原初の共通の宇宙観が中世には垣間見られて興味を引くのだと思う。
日本は奇妙なことに中世の前に一度、狭い都でだけ「近代」を経験してから再び舞い戻っている。それは当時の世界でも唯一といってよい世界史の隙間に花咲いた奇跡だった。それは「源氏物語」に代表される平安の御代だった。それは残念というべきか哀れというべきか、小さな島国という環境にあって攻めてくる侵略者もなく、内にあっても「神道」という「穢れ」を中心に据えた文化が、争いを・血を流すことを嫌う政治的には平和で、社会(貴族社会)にあってはまことに厄介で権謀術数渦巻く、嫉妬深いそして何より日本の特徴である「色欲」には寛大な性質が為した時代の「徒花」だった。これ以上高見に達することは不可能であろうという人間心理の織り成す文化の粋を誇ったのだ。しかしそれも永くは続かない。武士という対抗勢力が、「仏教」を背景に「所有」という欲を前面に出した「暴力」で、血を恐れない原初的力で、この国の勢力地図を塗り替えた。精神境地の極地でもあった「あわれ」は、戦いの死に方の潔さである「あっぱれ」にすり替わり、より即物的な中世に逆戻りした。歴史は何も、過去から現在に向かって順番に進歩していくなどという幻想は当てはまらない。ましてや現代が進歩した姿だなどとはだれも言えない。機械を使えて行動時間が短縮されるなどということは労働からの解放に繋がるが、それをするのは何の為?と聞きたくなる。それは医学技術を使ってアンチエイジングを試みるのは何の為?と同じ質問となる。「生きる意味」が残り時間が多ければ多いだけ見つかりやすいというのだろうか。或いは人間にとって唯一最後の「変身」の場である「死」に際して、何か違った答えが得られるとでもいうのだろうか。
幸か不幸か日本はいつも、のけものだった。他国(中国や朝鮮国)との文化の交流は(日本側の一方的な採り入れのみで、中国側は影響を受けることは)無く、互いに影響を与えあう「文明」に迄高め合うことなく一過性のものとしてほろんできた。これには中国という国の「中華思想」も影響していると劇作家だった山崎正和さんは言った。確かサンフランシスコ平和条約の調印式で日本の首相が署名をする。当然漢字で。それが彼らにはおかしくてしょうがない。一斉に笑いだす。
彼らに言わせれば「俺たちの発明した文字を未だ使っている。」といって馬鹿にすることで過去の憤懣の一部を吐き出しているわけだ。こんな調子では文化の交流も起こりようがない。日本は独自の道を行く。「あっぱれ」に代表される「ますらおぶり」が、室町の「能」や「わび・さび」、そして日本のバロック古田織部を経て、永い鎖国(江戸時代)でようやく衰えを見せ、代わって本居宣長によって辿りついた「もののあわれ」による「たおやめぶり」が見直されようかという、正にその時、黒船の登場でその想いは吹き飛ばされ、いっぺんに「強さ」の支持される時代に逆戻りした。
「たおやめぶり」の底流としてあったのは、宣長が重視した「もののあはれ」であったようです。自分自身が限りあるものと感じる「哀れ」と他者のかけがえなさに対する「憐み」。呼びかけられて呼応し、「もののあはれ」を感じるところに「やさしさ」が発露すると」これこそ日本が育てた世界に誇る文化なんですがねー。すぐ、「めめしー!」と一喝されて、はいさよなら。
話を中世に戻そう。「現在私達は何処の国に行っても空間と時間は均質的だと考えている。このことを私達は1つの宇宙に生きていると言っても良いだろう。ところが古代から中世に至るまでのヨーロッパの人々は、1つの宇宙に生きているとは考えていなかった。」(日本に於いてはヨーロッパの様な大きな変化は起きなかったため、比較的最近までこの古代・中世的な空間・時間観念が残存していた)「中世ヨーロッパでは人々は2つの宇宙の中で生きてきたのだ。家を中心とし、後には村や都市を単位とする生活空間が小宇宙(ミクロコスモス)として設定され、その外には人間の力の及ばない様々な霊や神々、悪魔などが棲む大宇宙(マクロコスモス)が拡がっていると考えられていた。」大宇宙の仕業は病気・自然災害・飢え(不作)・貧乏・死などだった。こういう恐れに囲まれた人々が何とかして救われたいと考えた時、その恐れを解消する道は大宇宙と何らかの形で手を結ぶしかなかった。当時の人々は死は彼岸への移行に過ぎなかったから、死者に対する贈物がしばしば行われ、墓に財産を副葬する習慣も見られた。当時の人たちには現代人の様に、死が抽象的なものでは無かったから、こうした考えは自然な見方だった。またこうした現世と彼岸とを取り持つ職業(呪術師や祭祀に携わる人々や皮剥、羊飼など)も特殊能力者として存在を認められていた。(彼らはその後宇宙観が変わっていくに従って、被差別民となっていく。)
こうした宇宙観は、11・2世紀からのキリスト教の浸透で大きく変貌していくことになる。(なぜ他の宗教でなくキリストなのかについては古代ユダヤ社会に遡り、当時神の怒りを招いた「ハンセン病などの病人」は砂漠の彼方に追放されるのが一般的だったが、イエスのみ「病人」こそ「社会から見捨てられたあなたたち」こそむしろ救われるのだ と生きる希望を与えた「治癒神」としての側面が寄与したのだと言われています。まるで「善人尚持て往生をとぐ、いわんや悪人をや」を親鸞に教えた法然さんのようですね。)
さてキリスト教は中世の人たちに何をもたらし、何を奪ったのでしょうか。キリスト教は大宇宙と手を結んだ中世の人たちに、大宇宙は人智の及ばぬ悪魔や神々の支配する領域ではなく、唯一絶対神の支配する場となり、人間に未知で恐ろしい空間はもはや存在せず、全ては神の摂理として定められた。嘗て多くの考えを占めていた「迷信」や死後の世界への「贈与」は否定され、莫大な 財産を副葬することを止め、代わりに唯一神への信仰の証として、又来世での救いを約束し教会に喜捨させた。(死者への贈与から神への贈与に代わる事で、莫大な資産が埋もれることなく世間に流通した。貧しき者への富の再分配や教会を中心とした建築やそれらを飾る芸術=絵画・音楽の実現を見た)教会はその財宝を、私腹を肥やすのでなく信者の為に神に捧げている事を証明する為巨大なゴシック建築群を建て、今に残している。(ゴシックとは「ゴート人っぽい」という意味で、野蛮な北方からやってきて東ゴート王国を作ったゴート人ですね。キリスト教だけでなく生き残れる強いものは皆、異なるものを内に採り入れて強くなっていくんですね(雑草の思想)。ちなみに後のルネッサンスはこの異教趣味が爆発したものですね。
既にキリスト教自体が、神の目線で自然界を見るという方法でしたから、そこから自然科学が生まれるの迄は神一重の違いだったんですね。だからこそ逆に初期キリスト教は、人間が(神の眼で)自然界を探求したり思索するのは神の領分に踏み込むこととして、厳しく禁止していました。追放されたアダムとイブですね。)
歴史意識も変わりました。今までは恐れに取り囲まれ、大宇宙にとり囲まれた円環的な繰り返しの時間だったものが、神による人間の救済の歴史 として、「目的を持った最後の審判に向かった直線的なもの」となった。(進化論や進歩思想もここから生まれる。)
全体しかなかった人たちに「個人」が芽生えたのです。
迫害と裏切りと「約束」から生まれたユダヤ・キリスト教は、個人の宗教です。
「地上に平和をもたらす為に私が来たと思うな。平和でなくつるぎを投げ込む為に来たのだ。私が来たのは人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせる為だ。・・・私より父または母を愛するものは私にふさわしくない。・・・また自分の十字架をとって私に従ってこない者は私にふさわしくない](マタイ伝第10章)
おそらく、美しい助け合いや醜いもたれかかり合いや迷信でがんじがらめに全体が1つにくっついていた家族や部落の絆に楔を打ち込まない限り、(当時の)イスラムに対抗する生存競争に勝ち残ることができない事を、知らしめたのでしょう。こうして「世間」を解体した(親子・兄弟・村の団結を)キリスト教は、人々に「罪」の意識を植え付けた。
「楽園の中で自由人であった人間は、アダムとイブが罪を犯して楽園を追放されて後、そのあとに生きるものは「国家」という桎梏を受けなければならなくなった。我欲に目覚めて争いを起こしたり、不完全な存在となった為、あの世で天国に行ける為に国家というものは手助けをするものだ」という形で、解体された共同体を再構築したのです。こうして都市を、国家を必要悪として、受け入れさせた教会は、その罪の意識を持続させる為に1215年ラテラノ公会議で、全ての成人男女に、年に1回は「告白」をすることを義務付けたのです。ここがヨーロッパの原点だとフーコーは言っています。
彼によれば、「個人としての人間は、長いこと他の人間達に基準を求め、また他者との絆を顕示することによって、自己の存在を確認してきた。」言いかえれば、「あなたは何処のご出身ですか」とか「会社はどこですか」「どこの大学をでましたか?」「お父さんは何をされていますか?」などと
聞いたり、自分が説明したりすることで、自分はこういう人ですよということを示す。これはキリスト教以前の人間だという。(何か自分の事を言われているようですね。)
(続く)
もう何年になるだろう、この言葉にであってから。
以来ずっとこの言葉の意味を巡っては忘れ、機を得ては思い起こし、徒に時は過ぎた。
学生時代に、1967年にフランス政府招聘(ショウヘイ)教授としてパリ大学に招かれた饗庭孝男がその思索の果実として、帰国後世に問うた「石と光の思想」-ヨーロッパで考えたこと-に接した時の感動は今でも鮮烈に胸の内にとどまっている。当時ヨーロッパの思想に憧れを持ちながらも、今一つ肌で実感するような、しみじみそう思うという書物に出会えなかった私としては、この出逢いは他の何にもまして新鮮な刺激だった。
ページをめくるごとに眼を開かれる、解説ではなく今立ちあがる思想の萌芽に触れて胸躍り、何度も何度も肯いたものだった。巷に躍動している単なる教養主義のヨーロッパ紹介では無かった。今思えばそれは、ヨーロッパ現代の思想ではなく「中世」のそれに基づくヨーロッパの原点だった。
ユダヤ教・キリスト教という巨大な権力を背景の「唯一神」の宗教に育てられた、嘗て人類至上世界一と言っていい「強固で孤独な自我」とそれが織りなす「最高の美しい物語=聖書」(ゲーテ)を築いたヨーロッパ社会の礎となった中世だった。
誤解を恐れずに言えば、中世はヨーロッパも日本も又私の知らない他の地域も本質は皆変らない。だからこそ思想的にバラバラに別れてしまった現代人の原初の共通の宇宙観が中世には垣間見られて興味を引くのだと思う。
日本は奇妙なことに中世の前に一度、狭い都でだけ「近代」を経験してから再び舞い戻っている。それは当時の世界でも唯一といってよい世界史の隙間に花咲いた奇跡だった。それは「源氏物語」に代表される平安の御代だった。それは残念というべきか哀れというべきか、小さな島国という環境にあって攻めてくる侵略者もなく、内にあっても「神道」という「穢れ」を中心に据えた文化が、争いを・血を流すことを嫌う政治的には平和で、社会(貴族社会)にあってはまことに厄介で権謀術数渦巻く、嫉妬深いそして何より日本の特徴である「色欲」には寛大な性質が為した時代の「徒花」だった。これ以上高見に達することは不可能であろうという人間心理の織り成す文化の粋を誇ったのだ。しかしそれも永くは続かない。武士という対抗勢力が、「仏教」を背景に「所有」という欲を前面に出した「暴力」で、血を恐れない原初的力で、この国の勢力地図を塗り替えた。精神境地の極地でもあった「あわれ」は、戦いの死に方の潔さである「あっぱれ」にすり替わり、より即物的な中世に逆戻りした。歴史は何も、過去から現在に向かって順番に進歩していくなどという幻想は当てはまらない。ましてや現代が進歩した姿だなどとはだれも言えない。機械を使えて行動時間が短縮されるなどということは労働からの解放に繋がるが、それをするのは何の為?と聞きたくなる。それは医学技術を使ってアンチエイジングを試みるのは何の為?と同じ質問となる。「生きる意味」が残り時間が多ければ多いだけ見つかりやすいというのだろうか。或いは人間にとって唯一最後の「変身」の場である「死」に際して、何か違った答えが得られるとでもいうのだろうか。
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彼らに言わせれば「俺たちの発明した文字を未だ使っている。」といって馬鹿にすることで過去の憤懣の一部を吐き出しているわけだ。こんな調子では文化の交流も起こりようがない。日本は独自の道を行く。「あっぱれ」に代表される「ますらおぶり」が、室町の「能」や「わび・さび」、そして日本のバロック古田織部を経て、永い鎖国(江戸時代)でようやく衰えを見せ、代わって本居宣長によって辿りついた「もののあわれ」による「たおやめぶり」が見直されようかという、正にその時、黒船の登場でその想いは吹き飛ばされ、いっぺんに「強さ」の支持される時代に逆戻りした。
「たおやめぶり」の底流としてあったのは、宣長が重視した「もののあはれ」であったようです。自分自身が限りあるものと感じる「哀れ」と他者のかけがえなさに対する「憐み」。呼びかけられて呼応し、「もののあはれ」を感じるところに「やさしさ」が発露すると」これこそ日本が育てた世界に誇る文化なんですがねー。すぐ、「めめしー!」と一喝されて、はいさよなら。
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こうした宇宙観は、11・2世紀からのキリスト教の浸透で大きく変貌していくことになる。(なぜ他の宗教でなくキリストなのかについては古代ユダヤ社会に遡り、当時神の怒りを招いた「ハンセン病などの病人」は砂漠の彼方に追放されるのが一般的だったが、イエスのみ「病人」こそ「社会から見捨てられたあなたたち」こそむしろ救われるのだ と生きる希望を与えた「治癒神」としての側面が寄与したのだと言われています。まるで「善人尚持て往生をとぐ、いわんや悪人をや」を親鸞に教えた法然さんのようですね。)
さてキリスト教は中世の人たちに何をもたらし、何を奪ったのでしょうか。キリスト教は大宇宙と手を結んだ中世の人たちに、大宇宙は人智の及ばぬ悪魔や神々の支配する領域ではなく、唯一絶対神の支配する場となり、人間に未知で恐ろしい空間はもはや存在せず、全ては神の摂理として定められた。嘗て多くの考えを占めていた「迷信」や死後の世界への「贈与」は否定され、莫大な 財産を副葬することを止め、代わりに唯一神への信仰の証として、又来世での救いを約束し教会に喜捨させた。(死者への贈与から神への贈与に代わる事で、莫大な資産が埋もれることなく世間に流通した。貧しき者への富の再分配や教会を中心とした建築やそれらを飾る芸術=絵画・音楽の実現を見た)教会はその財宝を、私腹を肥やすのでなく信者の為に神に捧げている事を証明する為巨大なゴシック建築群を建て、今に残している。(ゴシックとは「ゴート人っぽい」という意味で、野蛮な北方からやってきて東ゴート王国を作ったゴート人ですね。キリスト教だけでなく生き残れる強いものは皆、異なるものを内に採り入れて強くなっていくんですね(雑草の思想)。ちなみに後のルネッサンスはこの異教趣味が爆発したものですね。
既にキリスト教自体が、神の目線で自然界を見るという方法でしたから、そこから自然科学が生まれるの迄は神一重の違いだったんですね。だからこそ逆に初期キリスト教は、人間が(神の眼で)自然界を探求したり思索するのは神の領分に踏み込むこととして、厳しく禁止していました。追放されたアダムとイブですね。)
歴史意識も変わりました。今までは恐れに取り囲まれ、大宇宙にとり囲まれた円環的な繰り返しの時間だったものが、神による人間の救済の歴史 として、「目的を持った最後の審判に向かった直線的なもの」となった。(進化論や進歩思想もここから生まれる。)
全体しかなかった人たちに「個人」が芽生えたのです。
迫害と裏切りと「約束」から生まれたユダヤ・キリスト教は、個人の宗教です。
「地上に平和をもたらす為に私が来たと思うな。平和でなくつるぎを投げ込む為に来たのだ。私が来たのは人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせる為だ。・・・私より父または母を愛するものは私にふさわしくない。・・・また自分の十字架をとって私に従ってこない者は私にふさわしくない](マタイ伝第10章)
おそらく、美しい助け合いや醜いもたれかかり合いや迷信でがんじがらめに全体が1つにくっついていた家族や部落の絆に楔を打ち込まない限り、(当時の)イスラムに対抗する生存競争に勝ち残ることができない事を、知らしめたのでしょう。こうして「世間」を解体した(親子・兄弟・村の団結を)キリスト教は、人々に「罪」の意識を植え付けた。
「楽園の中で自由人であった人間は、アダムとイブが罪を犯して楽園を追放されて後、そのあとに生きるものは「国家」という桎梏を受けなければならなくなった。我欲に目覚めて争いを起こしたり、不完全な存在となった為、あの世で天国に行ける為に国家というものは手助けをするものだ」という形で、解体された共同体を再構築したのです。こうして都市を、国家を必要悪として、受け入れさせた教会は、その罪の意識を持続させる為に1215年ラテラノ公会議で、全ての成人男女に、年に1回は「告白」をすることを義務付けたのです。ここがヨーロッパの原点だとフーコーは言っています。
彼によれば、「個人としての人間は、長いこと他の人間達に基準を求め、また他者との絆を顕示することによって、自己の存在を確認してきた。」言いかえれば、「あなたは何処のご出身ですか」とか「会社はどこですか」「どこの大学をでましたか?」「お父さんは何をされていますか?」などと
聞いたり、自分が説明したりすることで、自分はこういう人ですよということを示す。これはキリスト教以前の人間だという。(何か自分の事を言われているようですね。)
(続く)
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