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第318回 夜逃げ [2016/08/09 13:44]
文●ツルシカズヒコ
葉山に住んでいたコズロフが、鎌倉の大杉宅にふとやって来たのは、十月初旬のころだった。
コズロフはしきりに何かを大杉に訴えていたが要領を得ず、大杉は何を言っているのかわからないまま、大杉がよくやる手でウンウンと頷いてわかったような顔をしていた。
『分りましたか?』
云ふだけの事を云つて了つたあとで、コズロフは日本語で云つた。
僕は顔をあげて彼れの顔を見た。
すると、不思..
第309回 大谷嘉兵衛 [2016/07/29 18:58]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年四月三十日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地(瀬戸小路)に引っ越した。
谷ナオ所有の貸家を月六十円で借り、大杉一家四人と村木が住むことになった。
「鎌倉から」(『労働運動』1920年6月1日・1次6号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)によれば、四月中旬、村木が知人の鎌倉の刺繍屋さんを仲介し、決めてきた家だった。
野枝は「引越し騒ぎ」(『定本..
第287回 柿色 [2016/07/10 12:02]
文●ツルシカズヒコ
野枝が大杉に面会したのは一九一九(大正八)年七月二十二日だったが、彼女は七月十九日か七月二十日にも警視庁に来て吉田一(はじめ)に面会している(「或る男の堕落」)。
吉田は電気料不払いのために切られた電線を接続して電気を窃盗、七月十九日に警視庁(刑事課)に召喚され、七月二十一日から東京監獄の未決監に収監された(『日録・大杉栄伝』)。
そのころのことを野枝はこう書いている。
Yは吉田、Oは大杉。
..
第286回 警視庁(三) [2016/07/10 11:35]
文●ツルシカズヒコ
「だからさーー」
大杉は少しでも呑気に刑事部屋にいられるのを楽しむように、意地の悪い微笑を含みながら、ゆっくりと話し出した。
「つまり、君の言う主義というのは、四、五年前に僕のところで話したのと違ったわけじゃないんだろう。ね、君の主義は人民がみんな君を安んじて国を想いめいめいに国家や政府に世話を焼かせたり迷惑をかけたりしないようにならなくちゃならん、ということなんだろう?」
「そうです、そうです。その通..
第284回 警視庁(一) [2016/07/09 15:24]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年七月二十一日、大杉は警視庁に傷害罪の容疑で拘留された。
二ヶ月前の船橋署の尾行刑事殴打の一件を蒸し返されたのである。
警視庁の警務部刑事課長・正力松太郎の執念である。
大杉は警視庁に二晩泊められ、七月二十三日に東京監獄の未決監に収監された。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝が村木と警視庁に行き刑事部屋で大杉と面会したのは七月二十二日だった。
野枝がこのときのエ..
第264回 茶ア公 [2016/06/28 16:40]
文●ツルシカズヒコ
亀戸で『労働新聞』を出していたこのころのある朝の出来事を、野枝は「化の皮」という作品にした。
朝の七時ごろ、玄関の戸を開けている和田に、取り次ぎを頼んでいる男の声がした。
野枝と大杉はまだ床の中にいたが、和田が名刺を持って来た。
「法学士弁護士」という肩書きのYという男の名刺だった。
野枝は起きるとすぐに台所に立ったので、その男の顔を見なかったが、座敷に入る後ろ姿を見ると、頑丈そうな体を持っ..
第260回 東京監獄・面会人控所(六) [2016/06/24 22:01]
文●ツルシカズヒコ
やがて村木が帰って来た。
「どうでした和田さんは?」
「ええ、元気でニコニコしてましたよ。これからゆっくり勉強するんだなんて言ってました」
少し話すと、村木は今夜また会うことを約束して、先に帰った。
野枝のポケットの時計は、もう四時近くを指していた。
三十分ばかり前から、入口を出たり入ったりしているふたりの男がいた。
ふたりとも揃いも揃つて、薄い髯がボヤボヤ生え、眼の細..
第259回 東京監獄・面会人控所(五) [2016/06/24 21:53]
文●ツルシカズヒコ
遠くの方で子供の泣き声がする。
と思ふうちに、火のつくやうな激しい泣き声がだん/\に近づいて来る。
皆んなが一斉にはつとしたやうな顔をして廊下の方を向いてゐた。
と其の扉口に眼に一杯涙をためて、半泣きになつた惨めなかみさんの姿が出て来た。
その背中では汚ないねんねこは下の方にふみぬいて上半身を反らせた子供が、真赤になつて、手足をもがいて泣き狂ふてゐた。
「やだあ! やだあ! 父ちゃん..
第258回 東京監獄・面会人控所(四) [2016/06/23 21:10]
文●ツルシカズヒコ
東京監獄の面会人控所にいる人は、とにかくこの未決なり既決に囚人としている人と、何かの関係のある人に違いない。
そう思った野枝は、いろいろ思考をめぐらせた。
親子であり、夫婦であり、あるいは親族であり、友人であり、知人であろう。
そしてそれらの囚人のある者は詐偽、ある者は窃盗、ある者は強盗であり、殺人犯であり、またある者は放火でもあろう。
そして、それらの囚人が世間からどんな眼で見られてい、..
第257回 東京監獄・面会人控所(三) [2016/06/23 20:48]
文●ツルシカズヒコ
「七十二番」という番号札を受け取った野枝は、東京監獄の面会人控所で順番を待ち続けていた。
控所の中の人間の半数は女だった。
かなり年増の如才ないいかににも目はしの敏(さと)く利きそうなキリッとした内儀(かみ)さんや、勝気らしい顔をした三十二、三の細君や、柔かいムジリのはんてんに前垂がけの小料理屋の女中らしいのや、子供を背負った裏店のかみさんらしいのや、田舎の料理屋の酌婦というようなひからびた頬骨の出た顔に真..
第256回 東京監獄・面会人控所(二) [2016/06/21 21:41]
文●ツルシカズヒコ
「ガターン」
控所のすぐ近くの部屋の入口の重い扉が、力いっぱいに手荒くブツケるように閉める音がした。
「まあなんて嫌な音だろう。まるで体がすくむような音ね」
「……あの音を聞くと実に……しばらくあの音を聞かなかったなあ」
村木は微笑しながら、野枝の言葉を受けてそう言った。
「しかし、あれじゃまだ駄目だな。檻房の扉はとてもこんな扉とは比べものにならないくらい、厚く頑丈にできていますからね..
第255回 東京監獄・面会人控所(一) [2016/06/21 21:11]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月六日。
橋浦時雄のところに魔子を預けた野枝は、大杉に面会するために牛込区市谷富久町にある東京監獄に行った。
朝は煙るような雨であった。
伊藤野枝女史がマ子ちゃんを連れて来て、まだ床を離れぬ僕の側に寝かせて帰る。
今日は東京監獄に面会に行くという。
(『橋浦時雄日記 第一巻』)
「監獄挿話 面会人控所」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)によれ..