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第260回 東京監獄・面会人控所(六) [2016/06/24 22:01]
文●ツルシカズヒコ
やがて村木が帰って来た。
「どうでした和田さんは?」
「ええ、元気でニコニコしてましたよ。これからゆっくり勉強するんだなんて言ってました」
少し話すと、村木は今夜また会うことを約束して、先に帰った。
野枝のポケットの時計は、もう四時近くを指していた。
三十分ばかり前から、入口を出たり入ったりしているふたりの男がいた。
ふたりとも揃いも揃つて、薄い髯がボヤボヤ生え、眼の細..
第259回 東京監獄・面会人控所(五) [2016/06/24 21:53]
文●ツルシカズヒコ
遠くの方で子供の泣き声がする。
と思ふうちに、火のつくやうな激しい泣き声がだん/\に近づいて来る。
皆んなが一斉にはつとしたやうな顔をして廊下の方を向いてゐた。
と其の扉口に眼に一杯涙をためて、半泣きになつた惨めなかみさんの姿が出て来た。
その背中では汚ないねんねこは下の方にふみぬいて上半身を反らせた子供が、真赤になつて、手足をもがいて泣き狂ふてゐた。
「やだあ! やだあ! 父ちゃん..
第258回 東京監獄・面会人控所(四) [2016/06/23 21:10]
文●ツルシカズヒコ
東京監獄の面会人控所にいる人は、とにかくこの未決なり既決に囚人としている人と、何かの関係のある人に違いない。
そう思った野枝は、いろいろ思考をめぐらせた。
親子であり、夫婦であり、あるいは親族であり、友人であり、知人であろう。
そしてそれらの囚人のある者は詐偽、ある者は窃盗、ある者は強盗であり、殺人犯であり、またある者は放火でもあろう。
そして、それらの囚人が世間からどんな眼で見られてい、..
第257回 東京監獄・面会人控所(三) [2016/06/23 20:48]
文●ツルシカズヒコ
「七十二番」という番号札を受け取った野枝は、東京監獄の面会人控所で順番を待ち続けていた。
控所の中の人間の半数は女だった。
かなり年増の如才ないいかににも目はしの敏(さと)く利きそうなキリッとした内儀(かみ)さんや、勝気らしい顔をした三十二、三の細君や、柔かいムジリのはんてんに前垂がけの小料理屋の女中らしいのや、子供を背負った裏店のかみさんらしいのや、田舎の料理屋の酌婦というようなひからびた頬骨の出た顔に真..
第256回 東京監獄・面会人控所(二) [2016/06/21 21:41]
文●ツルシカズヒコ
「ガターン」
控所のすぐ近くの部屋の入口の重い扉が、力いっぱいに手荒くブツケるように閉める音がした。
「まあなんて嫌な音だろう。まるで体がすくむような音ね」
「……あの音を聞くと実に……しばらくあの音を聞かなかったなあ」
村木は微笑しながら、野枝の言葉を受けてそう言った。
「しかし、あれじゃまだ駄目だな。檻房の扉はとてもこんな扉とは比べものにならないくらい、厚く頑丈にできていますからね..
第255回 東京監獄・面会人控所(一) [2016/06/21 21:11]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月六日。
橋浦時雄のところに魔子を預けた野枝は、大杉に面会するために牛込区市谷富久町にある東京監獄に行った。
朝は煙るような雨であった。
伊藤野枝女史がマ子ちゃんを連れて来て、まだ床を離れぬ僕の側に寝かせて帰る。
今日は東京監獄に面会に行くという。
(『橋浦時雄日記 第一巻』)
「監獄挿話 面会人控所」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)によれ..
第250回 東洋モスリン [2016/06/16 12:53]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、和田久太郎と久板卯之助が、南葛飾郡亀戸町の大杉家に同居することになったのは一九一八(大正七)年一月の末だった。
一九二二(大正十一)年一月、久板は天城山猫越(ねっこ)峠で凍死するのだが、大杉が書いた久板への追悼文「久板の生活」に、この同居の際の逸話が記されている。
同居することになったふたりの荷物を見て、野枝が大杉にそっと言った。
「布団のようなものがちっともないようで..
第247回 築地の親爺 [2016/06/11 09:28]
文●ツルシカズヒコ
一九一七(大正六)年の秋も深まったころ。
米が買えず大杉と村木は五銭の芋をフカシして腹を満たし、野枝と魔子が横たわる布団の裾に潜り込んで暖を取り、しかも眼の前には収入のなんの希望もないそのころ。
大杉は平気で雑誌発行の計画を立てていた。
その日も、村木は大杉とふたりで野枝が寝ている布団の裾に潜り込み、大杉の自信たっぷりの雑誌発行計画を笑いながら聞いていた。
すると、来訪者があった。
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第246回 第二革命 [2016/06/09 16:27]
文●ツルシカズヒコ
一九一七(大正六)年十月三日、保釈中だった神近は東京監獄八王子分監に下獄した。
二畳ほどの独房に入れられた神近は、午前八時から午後五時まで、屑糸をつなぐ作業に従事させられた。
昼食後の三十分の休憩、夕食後から夜八時の就寝までは仕事がないので、本を読むことができた。
神近が保釈後に執筆を開始した『引かれものの唄』の原稿は、下獄間近に仕上がり、十月三十日に法木書店から出版された。
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第237回 三月革命 [2016/06/04 14:04]
文●ツルシカズヒコ
一九一七(大正六)年三月五日、横浜監獄の未決監に収監されている神近に、横浜地方裁判所は懲役四年の判決を下した。
神近は即、控訴した。
三月六日、『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男が、大杉に取材するために菊富士ホテルを訪れた。
宮崎は東京日日新聞社に移る以前は実業之世界社にいたが、日蔭茶屋事件が起きる二ヶ月前に、東京日日新聞社に入社していた。
実業之世界社時代から大杉と親交があった宮崎は、..
第229回 センチメンタリズム [2016/05/31 13:19]
文●ツルシカズヒコ
大杉が逗子の千葉病院を退院したのは、一九一六(大正五)年十一月二十一日だった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、看病をした野枝と、近くに宿泊して見舞いに通った村木が付き添い、夕刻の電車で本郷区菊坂町の菊富士ホテルに帰った。
『東京朝日新聞』(十一月二十二日)によれば、大杉たちは「午後六時四十三分逗子駅発列車」で帰京した。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、菊富士ホテルの玄関に通じる細い露地..
第226回 オースギカミチカニキラレタ [2016/05/30 16:41]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月九日未明、神近に左頸部を短刀で刺された大杉は、神奈川県三浦郡田越村(たごえむら)逗子の千葉病院に入院した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉の傷は「右下顎骨下一寸の個所に長さ一・八センチ、深さ二・五センチの創傷」だった。
大杉の容態は一時思わしくなかったが、夕刻にはだいぶ回復して、話ができるようになったので、医師は一命に別状はないだろう、と診断する。
病院に..