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第25回 抱擁 [2016/03/19 18:23]
文●ツルシカズヒコ
上野高女の卒業が間近になったころのことについて、野枝と同級の花沢かつゑはこう書いている。
……三月の卒業も間近になった頃友達は皆卒業後の夢物語に胸をふくらませておりました。
或る人は外交官の夫人になりたいとか、七ツの海を航海する船乗りさんの奥さんになりたいとか、目前の卒業試験も気にならず、将来の明るい希望の事ばかり語り合っておりましたが、野枝さんは、やっぱり私達より大人でした。
私は卒業すれば..
第23回 天地有情 [2016/03/19 12:22]
文●ツルシカズヒコ
野枝が福岡から帰京したころ、一九一一(明治四十四)年八月下旬の蒸し暑い夜だった。
平塚らいてうは自分の部屋の雨戸を開け放ち、しばらく静坐したのち、机の前に座り原稿用紙に向かった。
らいてうはその原稿を夜明けまでかかり、ひと息に書き上げた。
書き出しはこうだった。
元始、女性は実に太陽であつた。
真正の人であつた。
今、女性は月である。
他に依つて生き、他の光によ..
第21回 縁談 [2016/03/18 16:21]
文●ツルシカズヒコ
級長になり、新聞部の部長を務め、谷先生の自死を知り、新任英語教師の辻の教養に瞠目した野枝の上野高女五年の一学期はあわただしく過ぎていったことだろう。
井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』によれば、野枝と同級の花沢かつゑは、野枝についてこんな回想もしている。
花沢によれば、野枝は「ずいぶん高ビシャな人」だった。
花沢が日番で教員室に日直簿を置きに行ったときだった。
教員室にいた野枝は..
第19回 西洋乞食 [2016/03/17 23:04]
文●ツルシカズヒコ
一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。
辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。
辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。
「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。
しかも、話題は教科書の枠..
第16回 上野高女 [2016/03/17 14:10]
文●ツルシカズヒコ
野枝が私立・上野高等女学校に在籍していたのは、一九一〇(明治四十三)年四月から一九一二(明治四十五)年三月である。
当時の上野高女はどんな学校だったのか、そして野枝はどんな生徒だったのだろうか。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」に、野枝と同級生だったOGふたりの文章が載っている。
一九六七(昭和四十二)年一月に発行された、「温旧会」という上野高女同窓会の冊子『残照』に掲載された寄稿を..
第13回 伸びる木 [2016/03/14 20:37]
文●ツルシカズヒコ
野枝はこの閉塞状況を突破するために、叔父・代準介に手紙を書いた。
自分も千代子のように東京の女学校に通わせてほしいという懇願の手紙である。
それは自分の向上心、向学心、孝行心を全力でアピールする渾身の毛筆の手紙だった。
三日に一通ぐらいのわりで、しかも毎回五枚十枚と書きつらねてある。
キチさんの話では、とにかく「よくもまあ倦きもせんものだと思うぐらい『東京で勉強すれば私はきっと叔父..
第8回 長崎(二) [2016/03/11 16:18]
文●ツルシカズヒコ
野枝の長崎時代について、叔母・代キチは岩崎呉夫にこう語っている。
さようでございますね、近ごろのボーイッシュ・ガールってとこでしたでしょう。
あんたはアメリカへでもいけば上等なんだけど、日本じゃお嫁の貰い手がないよ。
よくそんな冗談を申しました。
はじめのうちは千代子と張合ってムキに自分を主張しようとしていました。
躾けのことで喧(かまびす)しくいうと、すぐふくれて泣くのです。..
第5回 能古島(のこのしま) [2016/03/09 15:32]
文●ツルシカズヒコ
伊藤家は窮乏を極めていたが、野枝はいじけず伸び伸びと育った。
……毎日働きにでている母親から逆に独立心を学んだのと、彼女の周辺に美しい自然があったことがあげられよう。
家の裏木戸をでれば、ただちに白い砂浜と荒い玄界灘の波立つ海がせまっている。
両手をひろげたように東西から妙見崎と毘沙門山が今津湾をつつんでいる(ママ)。
蒼い水平線のむこうは大空にとけ、白い入道雲がわきのぼっている。
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第4回 ノンちゃん [2016/03/08 16:04]
文●ツルシカズヒコ
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)によれば、一九〇一(明治三十四)年四月、野枝は今宿尋常小学校に入学した。
岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p62)は、野枝の今宿尋常小学校入学を一九〇三(明治三十六)年としているが、「伊藤野枝年譜」を信頼したい。
今宿尋常小学校に入学した四月、野枝は満六歳だが、早生まれなので問題はないだろう。
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第3回 万屋がお [2016/03/07 17:57]
文●ツルシカズヒコ
野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。
野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。
就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。
野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであら..
第1回 今宿 [2016/03/02 21:33]
文●ツルシカズヒコ
伊藤野枝は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、福岡県糸島郡今宿村大字谷一一四七番地で生まれた。
現住所は福岡市西区今宿一丁目である。
戸籍名は「ノヱ」。
野枝が生まれる直前の伊藤家の家族構成はーー。
祖母(父・亀吉の母)・サト(五十三歳)
父・亀吉(二十九歳)
母・ムメ(二十八歳)
長男・吉次郎(五歳)
次男・由兵衛(三歳)
五人家族だが、野枝が生ま..
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