<二本松少年隊顕彰碑>
二本松藩のために戦った少年隊の雄姿です。背後の女性像は、出陣服を仕立てる母の姿です。
■二本松城■
二本松城というと、皆さんはどんなことを連想しますでしょうか?
伊達輝宗・政宗と争うことになった二本松氏の居城。江戸時代の近世城郭。そして日本100名城の一つ。それが私にとっての二本松城でした。そんな漠然としたイメージだけです。それだけに、実際に訪問し、目の当たりにした少年隊の碑はショックでした。何も知らない。情けなく、申し訳ない気持ちになりました。
戦国武将好きが転じてこんなブログをはじめましたが、江戸から明治にかけてはあまり関心がなく、無知です。戊辰戦争についても曖昧な認識のまま。鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍が、関東から東北の抵抗勢力を次々と服従させ、函館の五稜郭でようやく内戦が終結した。そんな程度です。
■二本松少年隊■
東北戦争における少年兵というと、まず会津藩の白虎隊が思い浮かびます。飯盛山で自刃。世間によく知られた存在ですね。ただ、似た悲劇は二本松藩でもおきていました。
10万石の二本松藩の兵力は2千人弱。農民兵を含んだ数のようです。既に援軍として白河へ兵を送り出していため、城を守るには人手不足。この状態で迫りくる新政府軍と戦うことになり、老人、そして少年までも戦に参加することになりました。
更に、二本松藩では、いざという場合は少年の年齢を2歳加算するという独特の制度があったようです。つまり、実年齢より高い年齢として出兵させるということですね。この結果、最年少の兵は12歳となりました。
<長い坂道>
駅を出て二本松城へ向かう途中の坂道です。まだまだ城跡まで距離がありますが、この辺りが大手門付近。そして戦場でした。二本松城の戦いは、終始籠城戦だったわけではなく、兵は城を飛び出して新政府軍と戦いました。
<少年隊 小沢幾弥 戦死の地碑>
坂の途中の石碑。歴史資料館前にあります。詳細はあとからネット検索しました。
『師の朝河八太夫(砲術師範で朝河貫一の祖父)とともに出陣し、共に重傷を負う。
師を背負いながら退去の途中、大手門前で朝河八太夫の絶命を知り、屍を手で掘り埋めたといいます。その後土佐兵と遭遇したが、精根尽き果てたためか介錯を頼み、その場で絶命しました。』(出典:二本松市観光連盟ホームページ2018/7/29)
17歳だったそうです。息も途絶えそうな少年は、近寄る兵に「敵か味方か?」を尋ねました。その姿に同情し、新政府軍の兵は「味方だ」とこたえたそうです。少年は手振りだけで介錯を求めました。
こうした石碑はここだけではありません。訪問時の私に知識がなく、この石碑としか出会えませんでした。
■落城の日■
<箕輪門>
江戸時代に整備された立派な城郭です。そして、実戦を経験することになりました。
<城内>
水が豊富な城という印象です
戦況は圧倒的に不利。藩の重臣たちは抵抗を断念すると、城に自ら火を放って自害しました。二本松城と運命をともにしたわけですね。
慶応4年7月29日
二本松城は落城しました。
ただ、これにより指揮系統が遮断され、少年兵たちは戦場をさまようことになりました。これが更なる悲劇となったようです。ネット検索の結果をそのまま転記すると
『二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。』
(出典:Wikipedia 2018/7/29)とのことです。
■士気の高さ■
二本松藩は、会津藩同様に忠君愛国の教育が浸透した藩。少年兵は、戦況を知った者たちの志願によるものだったそうです。また、藩としても苦渋の決断であったと伝わります。ただ何がどうかより、時代の流れが、まだ子供というレベルの命を奪ったことに変わりはありません。
<二本松城正面>
急遽徴兵されたことから、二本松少年隊と名付けられたのは戦後の話だそうです。
こんな弱小ブログで、だからどうとか言うつもりもありません。ただこの光景を無関心で通過することはできなかった。ということは、同じ思いがした人はたくさんいるのではないか。そんな思いで、取り上げさせて頂きました。
<別名・霞ヶ城>
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
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