かつて武蔵国有数の勢力を誇った河越氏の館跡を訪ねました。
<河越氏館>
■ 河越氏 ■かわごえし
河越氏は桓武平氏の流れを汲む秩父氏嫡流の一族。平安時代の終わり頃、この地に館を構えて地名である河越氏を名乗りました。冒頭の現地説明板には『河越館跡は、平安時代の終わりころから南北朝時代の中ごろまでの約二百年の間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡』と記されています。武蔵国の最大勢力だったわけですね。そして、伊豆で源頼朝が挙兵すると、当初は敵対したものの、のちに御家人となり、平氏討伐軍に参戦しました。説明文からまた抜粋させて頂くと『この頃の河越氏の勢力は、重頼の娘が源頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから推し量ることができます。おそらく輿入れの日、重頼の娘は、お供の者たちと河越館から都の義経のもとへ向かったことでしょう』とのこと。河越重頼の娘の名は不明ながら、郷御前(さとごぜん)と呼ばれています。その後何事なければ良い縁談だったことになりますが、頼朝・義経兄弟の対立により、義経縁者である河越重頼は嫡男重房ともども滅ぼされ、娘の郷御前は義経とともにこの世を去ることとなりました。武蔵国覇者であり、中小武士団や国人を取りまとめていた河越氏は、ここで一旦衰退し、鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』からも姿を消します。代々継承してきた地方官僚としての地位は、畠山重忠に奪われることになりました。
[『』内は現地説明板からの抜粋]
■引き続き御家人■
低迷期を経た1205年、鎌倉幕府の執権・北条時政が有力御家人である畠山重忠を排斥する際、河越重頼の次男重時と三男重員(しげかず)が重忠討伐軍に加わっています。これに限らず、二人の活躍は記録に残されており、最盛期には及ばないものの、河越氏は鎌倉幕府の御家人であり続けました。重時は河越氏の家督を継ぎ、重員はかつて河越氏が代々継承した留守所総検校職に任じられています。
■最後の当主■
室町時代、河越氏当主の河越直重は関東を統治する鎌倉府と対立。1368年には平一揆が河越館に立てこもり、鎌倉府に反逆しますが、結果としては敗北(武蔵平一揆の乱:むさしへいいっき)。これ以降、河越氏は歴史の表舞台から完全に消えてしまいました。
<河越館跡史跡公園入口>
現地に到着して初めて国指定史跡であることを知りました。
<土塁跡>
公園西側の道路沿いにある土塁跡
<河越館跡史跡公園>
この草原のような敷地が館跡です。広いです。現在は史跡公園として整備され、堀の区画などが記されていますが、リアルな遺構は先ほど目にしたものを含め、区画の周辺を取り囲む土塁だけと思われます。
<北へ続く土塁>
■陣所跡・砦跡■
今回は河越氏の館跡を意識して訪問しましたが、戦国時代初頭には関東管領の上杉顕定が7年に渡ってこの地に陣を構えて、河越城攻撃の拠点としたとされています。また、戦国時代末期には、小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の砦があったと考えられています。その北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされた時に、戦の拠点としてのこの地の役割は終わったようです。
<常楽寺>じょうらくじ
こちらは館跡の一角にある常楽寺です。河越氏の持仏堂が基になったとされています。境内には河越重頼・郷御前の供養塔があります。また、戦国時代にこの地を領し、この地で自害した大道寺政繁の供養塔もあります。
■つわものどもが夢の跡■
遺構は少ないながら、歴史ははっきりしています。城というより、武士の実態を解明する上での重要な遺跡として国指定となっています。
--------■ 河越氏館 ■--------
別 名:河越館 上戸陣所
築城年:平安時代末期
築城主:河越氏
城 主:河越氏 上杉顕定
大道寺政繁
廃 城:1590年
現 況:河越館跡史跡公園
[ 埼玉県川越市上戸 ]
■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/19
・現地説明板
(川越市教育委員会)
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