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2021年05月23日

土呂陣屋跡 旗本となった武田家臣・初鹿野信昌の足跡

つわものどもが夢の跡
かつて旗本の陣屋があったとされるさいたま市北区の微高地を訪ねました。

<土呂の地蔵堂>とろのじぞうどう
Toro-Jinya.JPG
現地をさ迷ったあげくにたどり着いた地蔵堂です。こちらに設置されている説明板で、やっと目的地へ来れた気がしました。それくらい何も残されていない陣屋跡です。

<説明板>
Torojinya-history.JPG
さいたま市の説明板です。以下に抜粋させて頂きます。
『この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くからこの地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本 初代初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものともいわれているが、『新編武蔵風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。』
とのこと。真ん中の一部を省略して(スミマセン)旗本に関する部分の抜粋を続けさせて頂きます。
『初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(1590年)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野氏の墓碑が残っている。』
[抜粋ː現地説明板(さいたま市)]
とても参考にありました。さいたま市さん、ありがとうございます。

文面によれば、陣屋の主は、もともとは甲斐武田の家臣だったのですね。武田信玄の後継者である勝頼が、織田信長・徳川家康連合軍に追い詰められ滅亡したのが天正十年(1582)。代わって甲斐を領した家康は、武田家の遺臣の多くを保護しています。まぁそうでもしないと、五カ国の領主となった家康としては、全てを治めることは困難ですよね。その家康が関東へ移る時に、既に徳川家臣となっていた初鹿野氏も関東へ移った(1590年以降)。そういう理解しました。


■初鹿野信昌■はじかの のぶまさ
家康の関東入国に伴って土呂村の領主となったのが初鹿野信昌(昌久)。Wikiさんから引用させて頂くと、表が香車で裏が成金と記した陣羽織を羽織ったことから香車伝右衛門と呼ばれたそうです。敵陣へ飛び込んで金と成る。勇ましいですね。

この方、元の名は加藤弥五郎といいます。加藤?信昌はもともとは都留郡国衆の加藤氏の出です。実父の加藤虎景はあの武田信玄に兵法を指南したとされる武将。凄いですね。信昌はその六男でした。養子となって武田氏庶流である初鹿野氏を継いだようです(川中島の戦いで初鹿野忠次が戦死したため)。信昌は家康に仕えてからも幾多の戦いに従軍し、その働きがあって幕府の旗本にまでなったわけですね。


ところで
私は「現地をさ迷ったあげくにたどり着いた」と冒頭に触れさせて頂きましたが、実は事前に陣屋跡の目印としていたのは立派な医療施設のビルでした。

<メディカルセンター>
Medical-Center.JPG
立派です。これなら遠くからも目立ちます。ここを目的地に定め歩いてきました。そして、このビルの正面が土呂陣屋跡!のはずでした。

<駐車場>
Torojinya-Parking-Lot.JPG
あら・・・

遺構がないのは覚悟していましたが、説明板もなく、そして何より、あてにしていた地蔵堂の姿が見えません。

地蔵堂そのものも移転してしまったのでしょうか…

<高低差>
Torojinya-Medical-Center.JPG
陣屋があったとされる付近は周囲より高い位置にある。半ば諦めながらそれだけを収穫として帰ろうとした時、遠くにそれらしき建物をみつけ、小走りになって地蔵堂へ辿り着きました。

おいおい、こっちだよ
ご苦労さん

まことに勝手なながら、武田一族でもある初鹿野氏が私を呼び寄せてくれたのだと思いました(現地では)。武田も好きですが上杉ファンを自負しているので、なんとなく寛容な扱いを受けた気がしました(おバカな会社員が勝手に感謝したと受けてめて下さい)。

地蔵堂発見後、近くの初鹿野氏ゆかりの神社を訪ねました

<線路越しに見る地蔵堂>
Torojinya-Hill.JPG
すぐ近くの東武野田線を越えて見上げる地蔵堂。あそこが陣屋跡そのものではないようですが、やはりやや高い位置にあります。そんなことを感じながら北東へ進んでいくと

<御嶽社>
Shrine.JPG
ここですね。線路脇に鎮座する御嶽社。まだ新しい感じがします。どうやら別の場所から移転してここに鎮座しているようです。

<説明板>
Hajikano-history.JPG
なるほど。冒頭だけ以下に抜粋させて頂きます。
『この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。』
とのこと。初鹿野氏が治めた村の鎮守だったわけですね。

現地探索は以上です


■つわものどもが夢の跡■
甲斐武田家臣の武将が徳川幕府の旗本となって、この地に根をはった。それだけでも感慨深いですが、初鹿野氏の知行が幕末までの長きに渡ったことに重みを感じます。遺構なくともここはその拠点だった場所。訪問して良かったと思えました。

Torojinya-Last.JPG
香車が金に成った場所なのかもしれませんね

--------■ 土呂陣屋 ■--------
別 名:初鹿野氏館
築城年:(江時時代初期)
築城者:初鹿野信昌(昌久)
屋敷主:初鹿野氏
[埼玉県さいたま市北区土呂町]

地蔵堂
 [北区土呂町]1496
御嶽社
 [大宮区寿能町]2丁目


■参考及び出典
・地蔵堂説明板(さいたま市)
・御嶽社説明板(さいたま市)
・Wikipedia:2021/5/23



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タグ:埼玉
posted by Isuke at 21:30| Comment(6) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
この記事へのコメント
中畝様
縁に驚かされること、時々ありますね。心のどこかで意識していた結果なのでしょうか…
お話ですと、ご先祖は武田二十四将に名を連ねるとのこと。戦国最強といわれる武田軍団を支えた武将だったわけですね。意識するのは勿論のこと、自分の内なる誇りにすべき素晴らしいことだと思います。現地はやや殺風景なところですが、武田とご縁のある方には、違う景色に映るかもしれません。

拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
Posted by Isuke at 2024年08月23日 19:04
はじめまして。 埼玉県在住の者です。
このお堂と反対側にある神社は、 電車から毎日見てまして、 長年( 25年前くらいから)、 ずーっと 気になっていました。 知り合いが たまたま近所を散歩した時に、 武田家の家臣のものだと 確認して、 私に 教えてくれました。
私の 先祖も、武田24将の1人なので 、 不思議な縁があるのかなと、思いビックリした次第です。 今度 足を運びます。 ありがとうございましたm(_ _)m
Posted by 中畝 健太郎 at 2024年08月22日 13:43
初鹿野様
名門家のご子孫から直々にコメントを頂き恐縮です。私は学芸員とかではなく、ただの城好き会社員です。それでも、さいたま市による現地の説明文を柱に、不足はネットで検索し、何とか土呂陣屋の情報としてまとめさせて頂きました。
文中にもありますが、あの甲斐武田の家臣が旗本となって関東に根をはったことに感動致しました。これは初鹿野家のみの歴史ではなく、そのままこの地の歴史であると受け止めております。
拙ブログに訪問頂きありがとうございました。
Posted by Isuke at 2021年10月03日 21:39
こんにちは、初鹿野修一と申します。東京都北区在住で御座います。
本籍は甲府で、初鹿野(伝右衛門)信昌を租にする家を継いでいると幼少期
より言われて育って来ました。高齢になって終活の中で再度、我が家の系
譜を調べていました。武田家滅亡の後徳川家の家臣になり北町奉行を務め
た事は亡き父に聞いていましたが、信興が徳川氏の関東入国に伴って土呂
村の領主となったと言う事はご貴殿の本ページから分かりました。

本当に感慨深いものが有りました、私も一度土呂町を訪ねてみたいと思い
ました。

有難う御座いました。
Posted by 初鹿野修一 at 2021年10月03日 20:38
GORIさん
古くから地蔵堂があったようですが、お堂そのものは建て直しと思われます。ただ、ブログでは省略してしまいましたが、現地説明板に『地蔵堂には、現在、本尊の地蔵菩薩のほか、薬師如来、大黒天の三像が安置されている。』と記されていました。これは昔のままと思われます。また、傍らの供養塔や石仏も相当古いものでした。長い歴史、というより人の営みを感じます。
訪問頂きありがとうございました。
Posted by Isuke at 2021年06月02日 22:20
土呂と言うと盆栽村のイメージが強いですが、江戸時代に入る前の地蔵堂もあったりするのですね。

興味深く拝読させていただきました。
Posted by GORI at 2021年06月02日 04:44
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