<知楽院>
さいたま市岩槻区城町の知楽院さんです。岩槻太田氏ゆかりの由緒あるお寺です。
<六地蔵>
今年はコロナで大変ですからね。私もマスクをしての訪問です。
<本堂>
臨済宗円覚寺派の寺院
<合城山>
山号は合城山
<合城山知楽院>
知楽院の名は、太田資頼(すけより)の法号に由来します。資頼は知楽斎道可と号しました。あの太田道灌の孫にあたり(諸説あり)、もともとは扇谷上杉氏に仕えていましたが、小田原北条氏に寝返って岩槻城を攻め落とした実績があります。岩槻太田氏の祖ともいうべき人物ということですね。岩槻の戦国武将として名高い太田 資正(三楽斎)は資頼の次男です。
訪れて良かった
岩槻太田氏ゆかりの地を訪ねたことに満足し、岩槻城方面へ向かうことにしました。境内を出て待っていたのは坂道。振り返って撮影するとこんな感じでした。
知楽院は高台にあるのだなぁ
谷の方は何かあんのかな
麓にありがちな水路か
城へ向かうのに低地へ降りた。起伏があるのは当たり前ですので、特筆するようなことではないでしょう。
ただ知楽院さんの位置や方角、そして太田資頼ゆかりの寺といった背景まで加味すると、あの丘の一帯は戦と関連ある何らかの拠点だったのではないか?という思いがこみ上げ、何度も振り返ることになりました。
台地の隅か
岩槻城の出城?を想像したのではなく、その逆です。岩槻城を攻める陣城として最適な場所だと感じました。あくまで個人的に
<岩槻城の縄張り>
[出典:岩槻城址公園説明板]
蛇行する元荒川を天然堀とする岩槻城は、南側が手薄になります。知楽院さんの高台は、まさに城の南側。昔は湿地だったであろう低地を挟んで、岩槻城と対峙するのに丁度いい場所になります。
太田資頼が岩槻城を攻めた時
あの高台を拠点としたのでは?
などと考えさせられました。そして、岩槻城はこの方角から攻められることを想定して、のちの時代に新曲輪と呼ばれる新たな出丸が拡張されたのではないかと。
まぁただ証拠はありません。専門家でもない城好きの会社員が、現地でそんな気がしたというだけの内容です。その程度に解釈願います。ただ、私と同じく、徐々に拡張していった岩槻城の縄張りや周辺の地形から、それはあり得るのではないかと思ってくてる人がいたら幸いです。
<知楽院入口>
坂道を下った先は岩槻城。新曲輪が待っています。
■訪問:知楽院
[埼玉県さいたま市岩槻区城町]
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