日本三大奇襲のひとつに数えられる河越夜戦の激戦地を訪ねました。
<東明寺>とうみょうじ
境内の石碑です。この付近が河越夜戦の激戦地と伝わる場所です。
■ 河越夜戦 ■かわごえよいくさ
河越夜戦とは、小田原北条氏の三代目当主・北条氏康が、川越を舞台に約10倍という数的不利を覆して勝利した戦いを指します(1546年)。
【経 緯】
川越城(河越城)はもともと扇谷上杉氏の居城でした。しかし念願の関東進出を果たした北条氏綱により城は落とされ、小田原北条氏配下の城となります。氏綱が没すると、川越城奪還を目指す扇谷上杉氏は、それまで対立関係にあった古河公方及び山内上杉氏と手を組み、総勢8万の連合軍で川越へ押しかけます。
8万もの兵が本当に集まるのか?これはもう、号令をかけてるのが古河公方の足利晴氏、関東管領の山内上杉氏(上杉憲政)、そして扇谷上杉氏(上杉朝定)ですからね。三役揃い踏みのような状況です。関東の大名のほとんどがこれに従い、約8万となったようです。
氏綱のあとを継いだのは嫡男の氏康。この時、駿河の北条領へは今川氏が侵攻を開始しており、当主になっていきなり窮地に立たされます。氏康が駿河に出陣している間、川越城を守ったのは義弟の北条綱成。綱成は氏綱に気に入られ北条一族に迎え入れられた(妻が氏綱の娘・氏康の妹)で、地黄八幡(じきはちまん)と称される闘将でした(黄地に八幡大菩薩を記した旗指物を掲げていたことから)。8万人に包囲された城を、約3千の兵で半年余りも籠城戦で凌ぎました。これについては、上杉側が綱成の武勇を知っていて、無理をせず兵糧攻めを選んだという説もあります。まぁいずれにせよ大ピンチ。氏康は不本意ながら今川氏と和睦を成立させると、急ぎ綱成が守る川越城救出へ向かいます。
【奇 襲】
北条氏康が率いる兵は8千。一方、川越城を包囲している大軍は8万です。城内の3千人を加えたとしても、圧倒的に不利な状況。当然ながら、北条側はまともに戦っては勝てませんね。
北条氏康は交渉術にも優れた戦国武将です。和議を持ちかけるなどして相手方の出方を探り、油断を見極めた上で、ここぞというタイミングで一気に勝負に出ました。連合軍側の油断には、大軍ゆえの驕りもあったかと思われますが、川越城が半年も落ちなかったことで、既に軍律が乱れていたと考えられています。
1546年5月19日の夜。氏康は自ら兵を率いて敵陣へ攻撃を仕掛けました。不意を突かれた連合軍は大混乱となります。更に城内で待機していた綱成の兵が加わり、北条側の大勝利となります。僅か1万1千の兵が、8万の軍を蹴散らした瞬間です。連合軍の死傷者は1万人以上(13,000人〜16,000人)だったと伝わります。
【戦 後】
この戦いにより、第4代古河公方・足利晴氏は、川越から本拠地の古河へと敗走。権威も失墜し、その後勢力を回復することはありませんでした。
一方、関東管領にして山内上杉氏の15代当主であった上杉憲政は、この敗北の後に家督と関東管領職を長尾景虎に譲っています。そして、かつて川越城を居城としていた扇谷上杉氏ですが、当主・朝定が命を落として断絶となりました。
<東明寺山門>
時宗の寺院で山号は稲荷山
<説明板>
河越夜戦は東明寺寺領と境内で行われたものという説明になっています。このことから東明寺口合戦ともいうそうです。
■ 三大奇襲とは ■
日本三大奇襲とは以下の3つの戦いを指します。
●河越城の戦い (1546年)
⇒北条氏康
vs上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏
●厳島の戦い (1555年)
⇒毛利元就vs陶晴賢
●桶狭間の戦い (1560年)
⇒織田信長vs今川義元
どれも圧倒的な数的不利を、起死回生の奇襲で逆転勝利した戦いですね。北条氏康は上杉謙信や武田信玄と関東の覇権争いをした名将。そして自軍を奇跡的な勝利に導いた実績では、毛利元就や織田信長と肩をならべています。もっと有名でも良い戦国武将ですよね。
■つわものどもが夢の跡■
北条氏の祖である早雲は、ネズミが2本の大杉を食い倒し、のち虎になった夢を見て、関東への進出を決意したそうです。ネズミは子年生まれの自分、大きな2本の杉は即ち山内と扇谷の両上杉氏のことです。二代目の氏綱が関東進出を果たし、三代目の氏康は両上杉氏を実質滅亡させています。奇襲として有名な河越夜戦ですが、それは北条三代で繋いできた夢が叶った瞬間でもあるわけですね。
<つわものどもが夢の跡>
逆転大勝利の現場です
■訪問:東明寺
[埼玉県川越市志多町]
お城巡りランキング
タグ:埼玉