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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2012年08月14日
コンプレックス2
(続き) そうこうしているうちに事件は起きた。子どもが「下宿したい」と言いだした。「大きいお母さん」も大反対だった。
それに対し少年は言ってはならないことを、口に出した。「大きいお母さんというのは一体何だ。結婚もしていないお母さんなんてあるか?」と。

少年は下宿し、伯母は寝込んでしまった。それでも少年は学校に行けなかった。
相変わらず気持ちは沈むし行こうと思っても目が覚め無かったりを繰り返した。

或る日「犬がやかましく鳴きうるさくて仕方なかったので」ふと家に帰ってみようと思った。道すがら自分は「大きいお母さん」に逢いに行くのだと意識し始めていた。帰るや否や、言いたかったことも山ほどあったが二人は何も言えず、手を取り合って泣いた。そして間もなく下宿を引き払って登校もした。
この家の家族関係に「あるべき」変化が生じた。即ち伯母さんは商売の実権を、妹夫婦に譲り、自分は隠居として協力する、少年は相変わらず「大きいお母さん」と呼んではいるが、心の中では「大好きな伯母さん」としての関係に近くなりつつあるのを感じていた。

このようにコンプレックスの(ここでは二人の母を持つという異常な母親コンプレックス)解消とは辛くすさまじい時がある。時には死の危険を通り過ぎることもある。
このような感情の嵐抜きに収まるものは単なるあと戻りに過ぎない。

学校恐怖症になるまでは、それなりに安定した家族関係だった。しかしその安定はいつかは崩さなければならないものだった。伯母は少年との(同一コンプレックス(母親コンプレックス))内での共生関係を断ち切る、妹夫妻は一人前の人間として独立してやりぬかねばならず、自らは老人としての生き方を模索してゆかねばならない「時」に至っていたのだった・・・・・・。

又ここでこの少年の「自立」に必要だったのは、下宿したまま戻らないことではなく、新しい関係を獲得しての、家族生活だったということです。必要なおたがいの助け合いである「依存」を持たずして本当の自立はない。このまま戻らなかったら、それは「孤立」だと言うことです。孤立には人間関係がありません。

先ほど、自我のところで「と思い込んでいる」と書きましたが、実はこの本当の意味は、「人は究極、見たいものしか見ていない」(パシュラール)で自分としての統合を図っているということなんです。逆に言えば我々は生きていくために、外的刺戟の全てを体験せず、適切に選んでいる。そしてどれだけ多くのことに見て見ぬふりをしているか?(⇒2011.2.16「物語に始まる」参照)そして自分に心地よいバッファーをかけて、概念で世界を見ているのだ。理解の枠を超えた現象を排除し、つまり(居心地の良い・狭い)自我を守っているのです。みんなそうしている。

ここに一本の糸杉を見て、我々がそれを「一本の糸杉」と言う時、それは既に体験の限定を含んでいる。糸杉そのものよりも、糸杉という概念によって把握し、だからこそ安心してそれを見ることができる。この時、もっと糸杉そのものを概念に限定されずに見るひとがいたとしたら、そしてそれを画布の上に描く能力を持っていたとしたら・・・。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはこうしてそのものを描き、誰にも象徴的にすら理解されずに、この世界へ戻らぬ人となった。一緒に暮らしたゴーガンが、あの壮大な絵画に「我々は何処から来て何処へゆくのか?」と気取って書いた・概念から抜け出られなかった・それ故この世界に戻ってこられたゴーガンにして最後まで理解できなかった、「反解釈」(スーザン・ソンタグ:筑摩学芸文庫)の世界なのだ。
ゴッホに見えていたのは「生の精神」だったのだろう。言葉を失うほど激しい、強烈な美しい世界というより宇宙。心理学的には「アフェクト」としか言えないらしいが、言葉にしようとすると無茶苦茶な言葉にしかならないのだそうだ。それで狂人と呼ばれる。
それでは、このように強烈な生の精神に相対する方法は発狂しか他に無いものなのか?それは大量の水の洪水を前にして、ただやられるがままではなく、それを利用して水路を作り灌漑や発電に利用すると言うのはどうだろう。家を立てるということは、それによってこれから起こる様々な反動(資金難・見覚えのないものからのたかり・ゆすり、出来上がった瞬間の火事や洪水などなど)にしっかり耐えていける精神力が必要であって、それが無くて唯楽しいだけの世界は待っていない。
そしてその予想される・又予想しもしなかった様々な辛苦に立ち向かう覚悟を示す我々の先祖が編み出した方法こそ地鎮祭などの「儀式」(イニシエーション)だ。

それは直接体験の危険性を防ぐために、考え出された方法だった、私達人間は自然を前にしたら
ひとたまりもない存在ですとへりくだる儀式だった。しかし現代はそれを非合理的と陳腐化させて何処かへ追いやった。そして例えば時に深く暗く巨大なコンプレックスとして、水路を持たない暴走エネルギーとして、それは少年の凶悪犯罪という形で暴発する。
自ら招いた結果とも知らずに「どぎつい、ひどい犯罪が多いよね。最近は。」といって人ごとのような顔をしている。
如何に自我とは壊れやすいものなのか。言いかえれば如何に広大な自由にならない無意識の世界に影響され・繋がっているか。
そして人間とは如何にその様な壊れやすい楼閣のうえにきわどいバランスを取っている生き者か。

コンプレックスと影との統合が進んで、次に来るのは魂の「元型」でもある「アニマ(男性の場合)」と「アニムス(女性の場合)」との対決です。しかしながら、これは又大変大きな問題であり、簡単に話せるものでもなく、、これに関しては稿を改めることとさせてください。
ただ一つだけ結論じみたことを言っておけば「元来、両性具有であった人間」が心の中にしまった部分(男性は女性を、女性は男性を、それぞれをアニマ・アニムスと呼ぶそうです)が、普遍的(個人的ではない)コンプレックスとして、深いところから頭をもたげ、社会的につくられた自我と対決するお話なんです。「性同一性障害」などの問題も関係してきます。

長々と、偉そうなことを書き綴ってきましたが、実はこの内容は、当然ながら或る方の受け売り。
しかし、私の想像するにその「或る方」もまた別の「或る方」の受け売りの筈なのです。
こうして本当の著者は誰かと問えば、「詠み人しらず」で、全ての書物が皆そういう一面を持っている筈なのです。

それでも何かスッキリしないのなら著者「コンプレックス」とでも言っておきましょう。

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