2011年05月14日
アイデンティティー
アイデンティティー=自己同一性、人格における存在証明とある。IDはその略語だ。つまり自分自身ということだろう。
よく「自分探しの旅に出たい」という言葉を耳にする。
みんな何か行き詰まったり、プレッシャーに押しつぶされそうになった時、一旦この世界から離れてみて、客観的に自分の存在とは何かを、見つめ直してみようとする。その為には、今までの自分を知っている世界から一旦離れる必要がある。
実際に旅に出てみるのもよし、読書の旅に出るもよし。
さーその先には、何が待っているんだろう。
本当の自分は見つかるんだろうか?
答えはYESでもあり、NOでもある。
なぜなら、「自分」などというものはもともとないものだから、それに気付いて社会の「鏡」のように、変幻自在にしなやかに生きてゆけばいいと、つまり社会の都合(社会や世間はあなたを一つの判りやすい人格に留めておきたい=その方が理解しやすい・心理予測も立てやすい)を知った上でそれに合わせてやろうという心の余裕(やさしさ=強さ)が持てるようになればYES。
自分が「ありたいと思っている自分」を再認識して、どうしても世間に認めてもらいたいと働きかけるしかないと決意する。でもそれって無理ですね。
相手は何人いるか判らない。まして人の口だけでなく心に戸を立てることはできない。或る程度はできますね。でも世間にはいろんな人がいて、思惑どおりに感じてはくれない人もいる。悪意なんか無くてもですよ。一生誤解を解くためにモグラたたきのように奔走するなんて、私の人生って何のため?こうなったらNOですね。
以前会社務めをしていたころ、部下のA君から相談をされたことがありました。
会社を辞めたいです。」
その訳をきいたところ、B君の仕事の仕方がいやでたまらなく、一緒に仕事をしたくないということでした。A君は独身で、B君は同年齢でしたが結婚して子供もいました。
「何と我儘で世間知らずな」と言ってしまえばそれでおしまいでしたが、A君は素直で優しく、行動力もある人材でしたので、話をよく聞いてみることにしました。核心はライバル意識と、B君の成績にかなわない気持ちに、B君の行動の自在さが気に食わないという形をもって現れた為でした。
私は、A君もB君も評価していましたし、どちらにも、えこ贔屓もしていませんでした。
A君曰く、B君は多重人格のようにころころ豹変する。自分というものが無いかのようだ、信用できない。
私が言ったことは一つ、「自分自身なんてもともと無いよ。人があとから作るものなんだ。」「社長から見た君、私から見た君、お客様から見た君、お母さんから見た君、君自身から見た君、みんな君だ。君はそれだけ少ない人を相手にしても沢山の自分を演じてる。
人格って、他人から見たものでペルソナと言うけど、それって「仮面」という意味だ。みんなその場その場に合わせて一番収まりのいい人格を一生懸命選択している。B君はもっともっと君より努力して多くのペルソナを演じているのかもしれない。勿論悪いことだってできる。でもそれはしないで演じているのは、何のためだろう?
「家族や、彼を信じてくれる人や生きものの為だろう」
もし、自分自身とか人格とかがあるとすれば、そういう家族を守ろうだとか、だいじなものを守ろうだとか、弱いものを守ろうだとかいう「気持」のことじゃないか?「心」のことじゃないか? 心は変幻自在。
どこでも通用するような固定した自分なんて、君自身のエゴでもあり世間のエゴでもあるんだよ。
話はおしまい。A君は幸いにも「辞めるのやめた」をしてくれました。
良かったのか悪かったのかは判りません。でも当時は良かった。
皆さんはどう思われますか?
やっぱりどう思われてもいい、なんてなかなか思えるもんじゃないですよね。
でもせめて、その事実を知って、「多重人格が忌むべき病気」だなんて思わないでやってください。
私は病気と病気でないを分ける考え方があまりよくないと思います。
何か、自分と違う物を遠ざけておきたいと言う、差別感情が見え隠れします。
生まれ出でた環境と、持って生まれた身体で1人1人みんな違う。違うことが病気なら、みんな病人です。特に心の違いの扱いは人を傷つやすい。
よく「自分探しの旅に出たい」という言葉を耳にする。
みんな何か行き詰まったり、プレッシャーに押しつぶされそうになった時、一旦この世界から離れてみて、客観的に自分の存在とは何かを、見つめ直してみようとする。その為には、今までの自分を知っている世界から一旦離れる必要がある。
実際に旅に出てみるのもよし、読書の旅に出るもよし。
さーその先には、何が待っているんだろう。
本当の自分は見つかるんだろうか?
答えはYESでもあり、NOでもある。
なぜなら、「自分」などというものはもともとないものだから、それに気付いて社会の「鏡」のように、変幻自在にしなやかに生きてゆけばいいと、つまり社会の都合(社会や世間はあなたを一つの判りやすい人格に留めておきたい=その方が理解しやすい・心理予測も立てやすい)を知った上でそれに合わせてやろうという心の余裕(やさしさ=強さ)が持てるようになればYES。
自分が「ありたいと思っている自分」を再認識して、どうしても世間に認めてもらいたいと働きかけるしかないと決意する。でもそれって無理ですね。
相手は何人いるか判らない。まして人の口だけでなく心に戸を立てることはできない。或る程度はできますね。でも世間にはいろんな人がいて、思惑どおりに感じてはくれない人もいる。悪意なんか無くてもですよ。一生誤解を解くためにモグラたたきのように奔走するなんて、私の人生って何のため?こうなったらNOですね。
以前会社務めをしていたころ、部下のA君から相談をされたことがありました。
会社を辞めたいです。」
その訳をきいたところ、B君の仕事の仕方がいやでたまらなく、一緒に仕事をしたくないということでした。A君は独身で、B君は同年齢でしたが結婚して子供もいました。
「何と我儘で世間知らずな」と言ってしまえばそれでおしまいでしたが、A君は素直で優しく、行動力もある人材でしたので、話をよく聞いてみることにしました。核心はライバル意識と、B君の成績にかなわない気持ちに、B君の行動の自在さが気に食わないという形をもって現れた為でした。
私は、A君もB君も評価していましたし、どちらにも、えこ贔屓もしていませんでした。
A君曰く、B君は多重人格のようにころころ豹変する。自分というものが無いかのようだ、信用できない。
私が言ったことは一つ、「自分自身なんてもともと無いよ。人があとから作るものなんだ。」「社長から見た君、私から見た君、お客様から見た君、お母さんから見た君、君自身から見た君、みんな君だ。君はそれだけ少ない人を相手にしても沢山の自分を演じてる。
人格って、他人から見たものでペルソナと言うけど、それって「仮面」という意味だ。みんなその場その場に合わせて一番収まりのいい人格を一生懸命選択している。B君はもっともっと君より努力して多くのペルソナを演じているのかもしれない。勿論悪いことだってできる。でもそれはしないで演じているのは、何のためだろう?
「家族や、彼を信じてくれる人や生きものの為だろう」
もし、自分自身とか人格とかがあるとすれば、そういう家族を守ろうだとか、だいじなものを守ろうだとか、弱いものを守ろうだとかいう「気持」のことじゃないか?「心」のことじゃないか? 心は変幻自在。
どこでも通用するような固定した自分なんて、君自身のエゴでもあり世間のエゴでもあるんだよ。
話はおしまい。A君は幸いにも「辞めるのやめた」をしてくれました。
良かったのか悪かったのかは判りません。でも当時は良かった。
皆さんはどう思われますか?
やっぱりどう思われてもいい、なんてなかなか思えるもんじゃないですよね。
でもせめて、その事実を知って、「多重人格が忌むべき病気」だなんて思わないでやってください。
私は病気と病気でないを分ける考え方があまりよくないと思います。
何か、自分と違う物を遠ざけておきたいと言う、差別感情が見え隠れします。
生まれ出でた環境と、持って生まれた身体で1人1人みんな違う。違うことが病気なら、みんな病人です。特に心の違いの扱いは人を傷つやすい。
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