2010年11月15日
芸術
大作「魔の山」で有名なドイツの大作家トーマス・マンに「トーニオ・クレーゲル」という短編小説がある。
要約してあらすじを述べると、
トーニオ・クレーゲルは町で富豪に称せられる領事クレーゲル家の息子で、何不自由ない上流階級のおぼっちゃまだ。だがその風貌はお世辞にも高男子とは言えない。小さいころから、神経細やかで、想像力豊かで美しいものにはとりわけすぐれた審美眼を持ち合わせていた。その彼がブロンドで紅顔の美少年ハンス・ハンゼンやこれまた金髪のお下げと、笑みを含んだ切れ長の青い目と優しい声を持つインゲボルク・ホルムの二人に甘く切ない恋をする。同じ上流階級の仲間なので形式的にはお付き合いはあるが、彼も彼女も全くトーニオの切ない胸の内には無関心であり、そのやり取りがトーニオを傷つける。トーニオと彼らとはあらゆる点で正反対の美しく、憂鬱を知らない明るく、影のない人間だった。誰もがちやほやし、苦悩という物に縁のない人種だった。その彼らに事もあろうにトーニオは恋をした。トーニオは夢見る。社交会での失敗に傷ついてみんなの嘲笑に屈辱に耐えている時、
「自分の肩に手をかけて、私達のところにもどってらっしゃい。元気を出して。私はあなたが好きなのです」と。ひょっとしてそういってインゲがやって来はしまいかと待つ。「そういうことは、この世では起こらぬのである。」(彼・トーマス・マンはこの小説の中で何度もこの言葉を使う)
そして「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ。・・・・・・トーニオの14歳の魂は、既に人生からこの単純で過酷な教訓を受け取っていた」という有名な件が登場する。
そしてこのような子が出てくる家の徴侯として、やがて由緒あるクレーゲル家は没落し、一家は離散し、彼は都会や南の国で生活した。彼は持って生まれたその言葉の正体を見抜き、世間の人々の魂を解き明かし、世界の内側や言葉や行為の背後にある一切の究極のものを見る眼で、作家という職業で成功する。そうしながらも認識の苦悩と驍慢(キョウマン)とともに訪れる孤独にさいなまれていた。そして「自分の命を代償にすることなく、芸術の月桂樹からはただの一葉も摘み取ってはならない」ような芸術家とは一体何なのかと悩むトーニオに、友人で画家のリザヴェータは、「あなたは、道を踏み迷った俗人」と告げる。この一言で彼は「片付けられて」スッキリしたのだった。(「一旦口に出されてしまったことは、かたずけられてしまったと同然なのだ」)。
秋を迎えるころ彼は旅に出た。美しい国デンマークへ。そして近くのふるさとへも。静かなしかし変わったふるさとの風景は、昔暮らした懐かしい家(今は図書館になっていたが、家具などはそのまま残っていた)に残っていた彼の引き出しの中にしまってあった幼いころ記した詩句を目にすると、懐かしさが「突き刺すような憂鬱で、彼を襲った」。そして故郷の甘く、苦い思い出とともに彼はそこを去ってデンマークに向かった。
コペンハーゲンでのしばらくの滞在で、書きかけの作品を仕上げる為に。ホテルの向かいにある海岸と森を行き来し、またその中で「深い忘却を、時空を超えた世界へと解き放たれた味わい楽しんだ。それでも時折心の中を、ある悲しみ、憧れないしは後悔の突き刺すような感情がかすめ過ぎた。」そうして幾日かが過ぎた後、
なんと突然ハンス・ハンゼンとインゲボルク・ホルムとが、ホテルの広間を通過した。
トーニオはヴェランダと海の方に向いて座って朝食をとっていた。あの昔の金髪のインゲ、苦悩を知らないハンスはちっとも変っていなかった。その後の何度かの広間でのすれ違いの時も昔と寸分違わず引き締まって恰好良く、また美しい立ち振る舞いだった。不意に郷愁がトーニオの胸を締め付けた。出会いはそれだけだった。
もし声をかけて、トーニオの胸の内を語っても、妙な顔をしながら聞くだけの事だろう。トーニオには判っていた。
「彼らの言葉は、ついには彼の言葉ではないからである」。
トーニオは、イタリアに住む友人で画家のリザヴェータに手紙を書く。
「世の中には、平凡なもののもたらす快楽への憧れに勝って、甘美で感じ甲斐のある、根源的な宿命的な芸術家堅気があるということ、そして単純、誠実、快適な正常さ、への盲目的な愛情を持つ俗人的な良心もあるということ。私はその2つの間に立っている。けれども私の一番深い、最もひそやかな愛情は、金髪で碧眼の、明朗に生き生きした、幸福な、愛すべき平凡な人たちに捧げられているのです」。
「そこには憧れと、憂鬱な羨望と、少しばかりの軽蔑とあふれるばかりの清らかな幸福感があるのです。」
と締められている。
芸術って何なんでしょうね。少なくともハンスやインゲのように、あらゆることに満たされた人たちには必要のない、単なる虚栄心・お飾りなのかもしれませんね。「彼らの言葉は、ついには彼の言葉ではないからである」。
芸術は人と人との間では、「愛」がトリガーになるのかもしれません。
「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ。」つまり「愛するとは負けること」「あなたの美しさ(心か、姿形かは別として)にはかなわない。この美しさを生かす為には私は犠牲になっても構わない。」とおもう心が愛なのかもしれませんね。その為にそれを記録して昇華したり、同様に悩む皆に知らせるのが芸術なのかも。男と女でなくとも、もっと広い意味で、人間と自然でも同じことがいえるのかももしれませんね。
そして芸術家は美にあこがれる俗人という位置付けでいいのかもしれませんね。
憧れて、絶望して近ずくことはできても、ついには射止めることはできない。
「そういうことは、この世では起こらぬのである。」
あの、フローヴェルが「ボヴァリー夫人」で、トルストイが「アンナ・カレーニナ」で描きたかったこと。「社会においては理想と欲望は一致しえない」という真実。
それを無理やり起こそうとすれば、暴力や嘘に訴えるしかないという、「アブラハムの子イサクの跡は、エサウが本来族長を継ぐべきであるのに、イサクが盲目であることをいいことに妻のレベッカは、イサクを騙して、お気に入りの弟のヤコブに相続させる。」ようなことがおきるわけです。
卑近な例でいえば、車を買いたいとおもい購入すると、直後に以前から欲しかった車種が、手の届く料金で発売されるとか、自分は悪い事をしている事に気づき、ぐずぐずしながらも、ようやく直そうと動き始めている時、悪い事に気付いた周囲(社会)が対抗措置で動き出してしまう。(いま直そうと思ったのに・・・・。)
究極の例が、命の例。人の気持ち(欲望)はいつまでも長生きしたいのに、肉体(現実)はいつかは滅してしまう。
この場合は、暴力でも嘘でも、かないませんが・・・・・。
要約してあらすじを述べると、
トーニオ・クレーゲルは町で富豪に称せられる領事クレーゲル家の息子で、何不自由ない上流階級のおぼっちゃまだ。だがその風貌はお世辞にも高男子とは言えない。小さいころから、神経細やかで、想像力豊かで美しいものにはとりわけすぐれた審美眼を持ち合わせていた。その彼がブロンドで紅顔の美少年ハンス・ハンゼンやこれまた金髪のお下げと、笑みを含んだ切れ長の青い目と優しい声を持つインゲボルク・ホルムの二人に甘く切ない恋をする。同じ上流階級の仲間なので形式的にはお付き合いはあるが、彼も彼女も全くトーニオの切ない胸の内には無関心であり、そのやり取りがトーニオを傷つける。トーニオと彼らとはあらゆる点で正反対の美しく、憂鬱を知らない明るく、影のない人間だった。誰もがちやほやし、苦悩という物に縁のない人種だった。その彼らに事もあろうにトーニオは恋をした。トーニオは夢見る。社交会での失敗に傷ついてみんなの嘲笑に屈辱に耐えている時、
「自分の肩に手をかけて、私達のところにもどってらっしゃい。元気を出して。私はあなたが好きなのです」と。ひょっとしてそういってインゲがやって来はしまいかと待つ。「そういうことは、この世では起こらぬのである。」(彼・トーマス・マンはこの小説の中で何度もこの言葉を使う)
そして「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ。・・・・・・トーニオの14歳の魂は、既に人生からこの単純で過酷な教訓を受け取っていた」という有名な件が登場する。
そしてこのような子が出てくる家の徴侯として、やがて由緒あるクレーゲル家は没落し、一家は離散し、彼は都会や南の国で生活した。彼は持って生まれたその言葉の正体を見抜き、世間の人々の魂を解き明かし、世界の内側や言葉や行為の背後にある一切の究極のものを見る眼で、作家という職業で成功する。そうしながらも認識の苦悩と驍慢(キョウマン)とともに訪れる孤独にさいなまれていた。そして「自分の命を代償にすることなく、芸術の月桂樹からはただの一葉も摘み取ってはならない」ような芸術家とは一体何なのかと悩むトーニオに、友人で画家のリザヴェータは、「あなたは、道を踏み迷った俗人」と告げる。この一言で彼は「片付けられて」スッキリしたのだった。(「一旦口に出されてしまったことは、かたずけられてしまったと同然なのだ」)。
秋を迎えるころ彼は旅に出た。美しい国デンマークへ。そして近くのふるさとへも。静かなしかし変わったふるさとの風景は、昔暮らした懐かしい家(今は図書館になっていたが、家具などはそのまま残っていた)に残っていた彼の引き出しの中にしまってあった幼いころ記した詩句を目にすると、懐かしさが「突き刺すような憂鬱で、彼を襲った」。そして故郷の甘く、苦い思い出とともに彼はそこを去ってデンマークに向かった。
コペンハーゲンでのしばらくの滞在で、書きかけの作品を仕上げる為に。ホテルの向かいにある海岸と森を行き来し、またその中で「深い忘却を、時空を超えた世界へと解き放たれた味わい楽しんだ。それでも時折心の中を、ある悲しみ、憧れないしは後悔の突き刺すような感情がかすめ過ぎた。」そうして幾日かが過ぎた後、
なんと突然ハンス・ハンゼンとインゲボルク・ホルムとが、ホテルの広間を通過した。
トーニオはヴェランダと海の方に向いて座って朝食をとっていた。あの昔の金髪のインゲ、苦悩を知らないハンスはちっとも変っていなかった。その後の何度かの広間でのすれ違いの時も昔と寸分違わず引き締まって恰好良く、また美しい立ち振る舞いだった。不意に郷愁がトーニオの胸を締め付けた。出会いはそれだけだった。
もし声をかけて、トーニオの胸の内を語っても、妙な顔をしながら聞くだけの事だろう。トーニオには判っていた。
「彼らの言葉は、ついには彼の言葉ではないからである」。
トーニオは、イタリアに住む友人で画家のリザヴェータに手紙を書く。
「世の中には、平凡なもののもたらす快楽への憧れに勝って、甘美で感じ甲斐のある、根源的な宿命的な芸術家堅気があるということ、そして単純、誠実、快適な正常さ、への盲目的な愛情を持つ俗人的な良心もあるということ。私はその2つの間に立っている。けれども私の一番深い、最もひそやかな愛情は、金髪で碧眼の、明朗に生き生きした、幸福な、愛すべき平凡な人たちに捧げられているのです」。
「そこには憧れと、憂鬱な羨望と、少しばかりの軽蔑とあふれるばかりの清らかな幸福感があるのです。」
と締められている。
芸術って何なんでしょうね。少なくともハンスやインゲのように、あらゆることに満たされた人たちには必要のない、単なる虚栄心・お飾りなのかもしれませんね。「彼らの言葉は、ついには彼の言葉ではないからである」。
芸術は人と人との間では、「愛」がトリガーになるのかもしれません。
「最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ。」つまり「愛するとは負けること」「あなたの美しさ(心か、姿形かは別として)にはかなわない。この美しさを生かす為には私は犠牲になっても構わない。」とおもう心が愛なのかもしれませんね。その為にそれを記録して昇華したり、同様に悩む皆に知らせるのが芸術なのかも。男と女でなくとも、もっと広い意味で、人間と自然でも同じことがいえるのかももしれませんね。
そして芸術家は美にあこがれる俗人という位置付けでいいのかもしれませんね。
憧れて、絶望して近ずくことはできても、ついには射止めることはできない。
「そういうことは、この世では起こらぬのである。」
あの、フローヴェルが「ボヴァリー夫人」で、トルストイが「アンナ・カレーニナ」で描きたかったこと。「社会においては理想と欲望は一致しえない」という真実。
それを無理やり起こそうとすれば、暴力や嘘に訴えるしかないという、「アブラハムの子イサクの跡は、エサウが本来族長を継ぐべきであるのに、イサクが盲目であることをいいことに妻のレベッカは、イサクを騙して、お気に入りの弟のヤコブに相続させる。」ようなことがおきるわけです。
卑近な例でいえば、車を買いたいとおもい購入すると、直後に以前から欲しかった車種が、手の届く料金で発売されるとか、自分は悪い事をしている事に気づき、ぐずぐずしながらも、ようやく直そうと動き始めている時、悪い事に気付いた周囲(社会)が対抗措置で動き出してしまう。(いま直そうと思ったのに・・・・。)
究極の例が、命の例。人の気持ち(欲望)はいつまでも長生きしたいのに、肉体(現実)はいつかは滅してしまう。
この場合は、暴力でも嘘でも、かないませんが・・・・・。
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