2010年01月16日
宇宙と人間−1
我らいずこより来たるや
我ら何者なるか
我ら何処へいくや (Paul Gauguin)
こんな疑問をいつまでも持ち続けるのは、未だに「少年」の心を捨てきれない為かも知れない。大人」になると、突然こういった疑問を捨ててしまう、次のように。
汽車は発車しようとしていた。最後の乗客の一人が片手に旅行鞄を提げ、もう一方の手を振りまわしながら、息を切らして走ってきた。だが汽車はもう逃がした獲物のように遠ざかり始め、男はかばんを持つ手を震わせながらホームに立ちつくした。幼い私はその男に手を貸してやればよかったのだろうか?発車時刻に、消えかけた尾燈に、遠ざかる希望に追いつくべく、私も一緒に走り鞄を持ってやればよかったのだろうか。
わたしの目に涙が溢れてきた。男は私の前を通り過ぎた。私は男を見つめた。と突然、世にも単純なこと、世にも恐ろしいことを(この場合「理解」ということを使えるなら)私は理解した。あの汽車と一緒に、わたしの内部の何かが運び去られてしまったことを、理解したのである。
父のように私の気持ちを分析してみるなら、あの男などどうにでもなれというのが真実のところかもしれない。
しかし私はそうは思いたくなかった。それほど単純なことではない。大人と大人、子供と子供が話すように、私は自分自身と話し合った。
「おまえあの男と何の関係がある?名前も知らない男なのに。なるほどあの男は汽車に乗り遅れたが一生懸命走ってもいなかった。だから結局は何とかなるのだろう。お前が泣くことはない」するといつか公営質屋の行列で聞いた面白い文句が、私をあざ笑うように聞こえてきた。「泣きの一手じゃもう貸してくれないよ、お涙頂戴の窓口はもう閉まってら」
やがて私は家に帰った。この日、私はそれと知らずに「無関心」を学んだわけだが、以後しばしばこの無関心に頼らざるを得ないことになる。
だが帰る途中の町並みは、ヴィユ・コロンビエ通りもテュルノン通りも普段と全く変わらず、私たちの住む建物も通りと同様で管理人がいて、階段があって、父と母も、兄と妹も、猫と小鳥もいつもと変わりなく、食卓には葡萄酒があり、ささやかな食事が用意されていた。どうしたの、何処へ行っていたのとは誰も訊ねなかった。
それは私の「身内」だった。みんな私の悲しい気持ちを察して、何とか気分を変えさせようと努力するだけだった。
私はみんなを見つめ、この人たちを愛していると思った。みんなも愛情をこめて私を見つめた。
要するに私たちは見つめあった。その日私は恐らく他のどんな時よりも家族を愛していたのだと思う。だがあたりの風景は一変していた。
(「金色の時計と喪服の老人」ジャック・プリヴェール)
しかし大人としても、一度は徹底的に考えて、自分なりの納得をすることは、忘れかけた人生の価値についての思いを曖昧にしておかない為にも、少しは価値があるのではと思う。そこで調べてみた。
(「少年」の持つ謎は章を改めることにして本題に進もう。)
それは1929年に始まる。アメリカ天文学者ハッブルが、「より遠くの銀河ほど、より速く我々から遠ざかっている。」ことを発見した。宇宙は膨張していることを発見した。更に「この中心が1点ではなく全ての位置から遠くを見ると同じように
遠ざかっている。」詰り全ての場所が宇宙の中心であり、端でもあるということを発見した。
このことは何を意味しているだろうか。詰り宇宙には向きがあり、方向があり、始まりがあり、動きがあり、しかもそれは有限であるということを意味している。そして終焉もあるということを意味している。
片や宇宙が、最初の光として爆発によって誕生し(ビッグバン)、およそ100分の1mmという小さな中に温度10の32乗度・密度は水の10の96乗倍というとんでもない重力場が発生し、僅か4分でフォトン・レプトン・クオークと呼ばれる粒子たちを生み、電子・陽電子・ニュートリノ・たちが飛び交い陽子・中性子が浮き沈む状態が生まれ、やがて70万年を経て水素とヘリウムがつくられます。水素は宇宙の中の原子の90%を占める基本物質です。その水素原子たちが互いの重力でくっつきあい大きな雲のような塊(原始銀河)となるには1億年を要します。次に偶然に近づいた原子たちの密度の「ゆらぎ」から最初の星が生まれます(原始星)。星といってもガスの固まりに過ぎないのですが、自力でどんどん収縮していき、その原子の速さゆえ中心温度は5万度にも達するそうです。これによって水素原子から電子がはぎ取られ更に15万度・表面温度3500度位になると、赤く大きな星として、目に見えるようになります。収縮から1000万年くらいでようやく核同志の間に働く核力の段階(核融合)です。
核融合で外向きに膨らむ圧力と、重力によって内向きに膨らもうとする圧力のつり合った安定した光る星の誕生です。
星は誕生から、進化の過程で、軽くなりながら、元素を作り、余った質量をエネルギーとして放射しながら輝いている。私たちの太陽や地球も同じです。
星はその質量の大きさによっていろいろな道を辿るが、内部で燃やすものがなくなり、内部の圧力が小さくなると、自分の体重を支えきれなくなり勢いよく収縮し、急激に温度が下がり、核融合反応がおこり、木っ端みじんに飛び散ります(超新星)。
ここも質量の違いで霧散する場合と芯が中性子星になったり、ブラックホールになったりするようです。
今の私たちの地球はこのようにして星たちが一生を終えて消滅することによってまき散らされた元素たちの霧が再び集まって出来上がり、つまり消滅からの再生の道を通って、今ここにあります。
夜空の星を見上げるということは、遠い過去に(宇宙誕生の150億年前から)遥か彼方の天体を旅立った光を今見ているということです。勿論それだけでなく、(近いところでは)直近に燃えた光も見ています。詰り遠い過去や近い未来(こうなるだろうという予測)を同時に見ている、ということなのです。
「私たちの体を作っている全ての原子たちは、例外なしに星の中でつくられ、その星が一生を終えて消滅することによって 、私たちに受け継がれているのです。」
つまり私たちの、「生まれる以前の景色と、これから辿るであろう情景がある」ということになるのです。ゴーギャンの問いの答えが
ここにあります。
⇒2に続く
我ら何者なるか
我ら何処へいくや (Paul Gauguin)
こんな疑問をいつまでも持ち続けるのは、未だに「少年」の心を捨てきれない為かも知れない。大人」になると、突然こういった疑問を捨ててしまう、次のように。
汽車は発車しようとしていた。最後の乗客の一人が片手に旅行鞄を提げ、もう一方の手を振りまわしながら、息を切らして走ってきた。だが汽車はもう逃がした獲物のように遠ざかり始め、男はかばんを持つ手を震わせながらホームに立ちつくした。幼い私はその男に手を貸してやればよかったのだろうか?発車時刻に、消えかけた尾燈に、遠ざかる希望に追いつくべく、私も一緒に走り鞄を持ってやればよかったのだろうか。
わたしの目に涙が溢れてきた。男は私の前を通り過ぎた。私は男を見つめた。と突然、世にも単純なこと、世にも恐ろしいことを(この場合「理解」ということを使えるなら)私は理解した。あの汽車と一緒に、わたしの内部の何かが運び去られてしまったことを、理解したのである。
父のように私の気持ちを分析してみるなら、あの男などどうにでもなれというのが真実のところかもしれない。
しかし私はそうは思いたくなかった。それほど単純なことではない。大人と大人、子供と子供が話すように、私は自分自身と話し合った。
「おまえあの男と何の関係がある?名前も知らない男なのに。なるほどあの男は汽車に乗り遅れたが一生懸命走ってもいなかった。だから結局は何とかなるのだろう。お前が泣くことはない」するといつか公営質屋の行列で聞いた面白い文句が、私をあざ笑うように聞こえてきた。「泣きの一手じゃもう貸してくれないよ、お涙頂戴の窓口はもう閉まってら」
やがて私は家に帰った。この日、私はそれと知らずに「無関心」を学んだわけだが、以後しばしばこの無関心に頼らざるを得ないことになる。
だが帰る途中の町並みは、ヴィユ・コロンビエ通りもテュルノン通りも普段と全く変わらず、私たちの住む建物も通りと同様で管理人がいて、階段があって、父と母も、兄と妹も、猫と小鳥もいつもと変わりなく、食卓には葡萄酒があり、ささやかな食事が用意されていた。どうしたの、何処へ行っていたのとは誰も訊ねなかった。
それは私の「身内」だった。みんな私の悲しい気持ちを察して、何とか気分を変えさせようと努力するだけだった。
私はみんなを見つめ、この人たちを愛していると思った。みんなも愛情をこめて私を見つめた。
要するに私たちは見つめあった。その日私は恐らく他のどんな時よりも家族を愛していたのだと思う。だがあたりの風景は一変していた。
(「金色の時計と喪服の老人」ジャック・プリヴェール)
しかし大人としても、一度は徹底的に考えて、自分なりの納得をすることは、忘れかけた人生の価値についての思いを曖昧にしておかない為にも、少しは価値があるのではと思う。そこで調べてみた。
(「少年」の持つ謎は章を改めることにして本題に進もう。)
それは1929年に始まる。アメリカ天文学者ハッブルが、「より遠くの銀河ほど、より速く我々から遠ざかっている。」ことを発見した。宇宙は膨張していることを発見した。更に「この中心が1点ではなく全ての位置から遠くを見ると同じように
遠ざかっている。」詰り全ての場所が宇宙の中心であり、端でもあるということを発見した。
このことは何を意味しているだろうか。詰り宇宙には向きがあり、方向があり、始まりがあり、動きがあり、しかもそれは有限であるということを意味している。そして終焉もあるということを意味している。
片や宇宙が、最初の光として爆発によって誕生し(ビッグバン)、およそ100分の1mmという小さな中に温度10の32乗度・密度は水の10の96乗倍というとんでもない重力場が発生し、僅か4分でフォトン・レプトン・クオークと呼ばれる粒子たちを生み、電子・陽電子・ニュートリノ・たちが飛び交い陽子・中性子が浮き沈む状態が生まれ、やがて70万年を経て水素とヘリウムがつくられます。水素は宇宙の中の原子の90%を占める基本物質です。その水素原子たちが互いの重力でくっつきあい大きな雲のような塊(原始銀河)となるには1億年を要します。次に偶然に近づいた原子たちの密度の「ゆらぎ」から最初の星が生まれます(原始星)。星といってもガスの固まりに過ぎないのですが、自力でどんどん収縮していき、その原子の速さゆえ中心温度は5万度にも達するそうです。これによって水素原子から電子がはぎ取られ更に15万度・表面温度3500度位になると、赤く大きな星として、目に見えるようになります。収縮から1000万年くらいでようやく核同志の間に働く核力の段階(核融合)です。
核融合で外向きに膨らむ圧力と、重力によって内向きに膨らもうとする圧力のつり合った安定した光る星の誕生です。
星は誕生から、進化の過程で、軽くなりながら、元素を作り、余った質量をエネルギーとして放射しながら輝いている。私たちの太陽や地球も同じです。
星はその質量の大きさによっていろいろな道を辿るが、内部で燃やすものがなくなり、内部の圧力が小さくなると、自分の体重を支えきれなくなり勢いよく収縮し、急激に温度が下がり、核融合反応がおこり、木っ端みじんに飛び散ります(超新星)。
ここも質量の違いで霧散する場合と芯が中性子星になったり、ブラックホールになったりするようです。
今の私たちの地球はこのようにして星たちが一生を終えて消滅することによってまき散らされた元素たちの霧が再び集まって出来上がり、つまり消滅からの再生の道を通って、今ここにあります。
夜空の星を見上げるということは、遠い過去に(宇宙誕生の150億年前から)遥か彼方の天体を旅立った光を今見ているということです。勿論それだけでなく、(近いところでは)直近に燃えた光も見ています。詰り遠い過去や近い未来(こうなるだろうという予測)を同時に見ている、ということなのです。
「私たちの体を作っている全ての原子たちは、例外なしに星の中でつくられ、その星が一生を終えて消滅することによって 、私たちに受け継がれているのです。」
つまり私たちの、「生まれる以前の景色と、これから辿るであろう情景がある」ということになるのです。ゴーギャンの問いの答えが
ここにあります。
⇒2に続く
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