2012年09月19日
老人の使命
ユング精神分析学の日本での継承者であり、もと文化庁長官でもあられた河合隼雄さんの書かれた「老いること」の中に、ユングがアメリカインディアンのところに訪ねて行った時のことが紹介されている。
そこで彼はインディアンの老人たちがヨーロッパの老人たちとは比べ物にならないほど「悠然とした落ち着き」と「気品」を備えている事に気付き、その秘密を探る。すると彼らが教えてくれたのは、自分たちが世界の屋根に住み、父なる太陽の息子たちとして「我らの父が天空を横切る手伝いをしていて、それは我々の為ばかりでなく、全世界の為なのだ」と確信しているからということが判ってきた、というのだ。つまり彼らが生命全体の保護者である太陽の、日ごとの出没を守っているという「宇宙論的意味」を持つと確信していたからだった。
我々は彼らのこの言葉を聞いたら、なんと返すのだろうか?
太陽が廻っているんではなくて、廻っているのは地球であり、太陽は神ではなく、水素という成分で出来ていて、核融合して熱や光を放っていると教えてやるのだろうか?
そしてだからそんなことを信じていることの愚かさを諭そうとするのだろうか?
愚かなのはどちらなのか。現代の我々が解明したのは自然の何なのだろうか。
我々はただ現象の周りをぐるぐる廻って、名前を付けてみたり様子を記録したりしているだけで核心になど一切触れていないのだ。我々は高々ニュートン力学の狭さから脱却して特殊相対理論に届き、ほんの少し知識が広まっただけの、「ほんの小さい世界の孫悟空」に過ぎないのだ。その外には「そんな狭い・小さい世界だけしか通用しない世界」を取り巻く巨大な「カオス」の世界が取り巻いているのだ。我々はまだその入口に立っただけなのだ。
何も分かっていないのはどちらか?
或る意味我々現代人は、知識の巨大な森に分け入って身動きが取れない、といってあと戻りもできない気の毒な悲劇的な生物とも言える。
知識だけ増やして、「真実」というものを神の様にいちずに信じて、未来に希望を持った楽天家でもある。「真実」さえ追求していれば(真実の奴隷になっていれば)いつか必ず全員が幸福になると。
こうして現代人は、何のために生きるのかという一番大事なことから目をそむけ、真実と欲望にまい進している。真実はゲームの世界の中でしか成り立たない。
家を捨て、核家族を選択したのは良いが、「ええとこどり」ばかり考え、後始末が出来ずに右往左往している。子育ては主婦一人に押し付け、困ると虐待虐待と騒ぎ立てるだけで、本当の原因も掴めない。
恋愛の最後に結婚が来るなどと、それこそ迷信を信じて疑わない。(両者は似ても似つかない相反するものなのに。もしそれが成り立っていると思うなら、その陰に、銀幕の裏に、犠牲になって泣いている人が必ずいることに気づいていないからでしょう。)
そうかと思えば、相矛盾するヨーロッパではとうに乗り越えた「世間」という組織に未だに甘え、「出ようとする杭」を叩き続けている。
もうそろそろ、本当に気付かなければ本当に何も見えなくなってしまう。
一番大事なのは、「真理」なんかではなく、それぞれの人の「物語」なのだと言うことに。
決まり切った「高収入」「高級住宅」「車」「リゾート」「高学歴」「出世」から出てくるものは「いかにして私は金持ちになったか」しか出てこない。その対極としての負け組と。そして、次はそれを生涯守り続けることが「最後の仕事」になる。
こんなんでみんな本当にいいんですか?こんな型にはまったお遊びで「物語」って言えるんですか?
先ほど、「家」を捨てて「核家族」を選んだと言いましたが、ここには物語なんてありません。なぜって、「家」の中のおいしい(というより、甘ったらしい)部分だけを「ええとこどり」しただけですからね。「家」を出るんなら判る。出家ですね。そこにあった「支えられて」成りったった全てを捨てて生まれ変わろうとするんですから。当然ドラマはあります。
つまり「物語」には、全てが必要なんですね。親も老人も、赤の他人も、邪魔する奴も、支えてくれる人も。そうそう包んでくれた自然も。
そういう人たちを足蹴りにして、もっといえば「犠牲」の上に立って、何が幸せですか。ちゃんちゃらおかしい。
何が愛ですか。愛なんてちゃらちゃらしたものじゃない。身勝手で、死ぬか生きるかの瀬戸際を通らなくては、成り立たない辛く厳しいものなんです。
医療だって「ナラティブ・ベイスト・メディシン」が求められています。地域再生だって東京のまねして「箱もの」ばかりつくったって、何も生まれない。悪いけど、「東京なんて田舎者の集まり」に過ぎません。都市と言うものは古今東西皆そうでした。日本画の長谷川時雨のおじいさんは、生粋の江戸っ子で、「の手の連中となんざ、口はきけねー」といったそうです。「の手」は「山の手」のことですね。妙にかっこつけた田舎者何ぞ、江戸っ子じゃねー。というところでしょうか。案の定、いまだに物語ひとつ出来ていませんね。
必要なのは「その地域に必ずある物語」を発見してそれをベースに各人が自分の物語を生きていくことでしょう。
老人の繰り言はこのくらいにして、筆を置きましょう。
まだ結論を言ってないですって?
もう充分でしょう。私はこのインディアンの老人たちの「物語」をこそ真実だと思います。
復讐の徒と化した現代中国ではなく、いにしえの中国に「易経」がある。山も川も人も常に全体の中で捉え、老人の知恵とでも言うべきものだが、その最後の「卦」(天地間の変化を捉え、吉凶の判断をするもの)が「未済」で終わっていることを思い、成るほどと感服します。(黒森の哲人ハイデッガーが辿り着いたのもこの「未済」でしたね。)そのひとつ前が「既済」ですから順序が逆ではないかと思ってしまいますが、ハッピーエンドが終わりなのではなく、いつもやり残しを感じることなんですね。
「徒念草」にもありましたね「・・・全て何も皆、事の整おりたるは悪しきことなり。し残したるを、さて
打ち置きたるは、面白く、生き延ぶる業なり。・・・・」(82段)
また世阿弥に「入舞」という言葉があります。
経験を積んで老年に入った能役者が、舞い終わって舞台から降りて引き上げる時、もう一度舞台に戻って名残を惜しむかのように一舞い舞ってから引き上げることをいうそうです。
なごりおしく、さりとて、過去の「功」にしがみつくのではなく、誰が見ているのでもなく、「まだまだ、体力の限りの中で、いまの不自由な状態でなければ出来ない、終わることのない物語の世界を求めて新たな芸に挑戦してみたい(老後の初心)」そんな姿勢を、無言で見せてくれるのです。
老いて尚、過去の「功」に安住することなく、はたから見たら、みっともなくてよぼよぼで見ていられない姿の中に、体力や技術なんぞいらないとばかり、自らの人生(物語)のエキスを絞り出そうとする姿勢は、物や金じゃない「最後に残るもの」を暗示させますね。使命を全うすることが、「未済」だなんて、素敵じゃないですか。(「めでたしめでたし」なんて、人間の・自分たちのご都合主義でいやらしいですね)。
偉そうなことばかり並べたてましたが、さて自分がいざその時になったら、どうでしょうね。「入りの舞い」を舞う境地に入れるでしょうか。今はとてもその様な自信はありません。
しかし確信は育つものだ。時との共演によって熟して強固になっていくものだ。と思っています。
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そしてだからそんなことを信じていることの愚かさを諭そうとするのだろうか?
愚かなのはどちらなのか。現代の我々が解明したのは自然の何なのだろうか。
我々はただ現象の周りをぐるぐる廻って、名前を付けてみたり様子を記録したりしているだけで核心になど一切触れていないのだ。我々は高々ニュートン力学の狭さから脱却して特殊相対理論に届き、ほんの少し知識が広まっただけの、「ほんの小さい世界の孫悟空」に過ぎないのだ。その外には「そんな狭い・小さい世界だけしか通用しない世界」を取り巻く巨大な「カオス」の世界が取り巻いているのだ。我々はまだその入口に立っただけなのだ。
何も分かっていないのはどちらか?
或る意味我々現代人は、知識の巨大な森に分け入って身動きが取れない、といってあと戻りもできない気の毒な悲劇的な生物とも言える。
知識だけ増やして、「真実」というものを神の様にいちずに信じて、未来に希望を持った楽天家でもある。「真実」さえ追求していれば(真実の奴隷になっていれば)いつか必ず全員が幸福になると。
こうして現代人は、何のために生きるのかという一番大事なことから目をそむけ、真実と欲望にまい進している。真実はゲームの世界の中でしか成り立たない。
家を捨て、核家族を選択したのは良いが、「ええとこどり」ばかり考え、後始末が出来ずに右往左往している。子育ては主婦一人に押し付け、困ると虐待虐待と騒ぎ立てるだけで、本当の原因も掴めない。
恋愛の最後に結婚が来るなどと、それこそ迷信を信じて疑わない。(両者は似ても似つかない相反するものなのに。もしそれが成り立っていると思うなら、その陰に、銀幕の裏に、犠牲になって泣いている人が必ずいることに気づいていないからでしょう。)
そうかと思えば、相矛盾するヨーロッパではとうに乗り越えた「世間」という組織に未だに甘え、「出ようとする杭」を叩き続けている。
もうそろそろ、本当に気付かなければ本当に何も見えなくなってしまう。
一番大事なのは、「真理」なんかではなく、それぞれの人の「物語」なのだと言うことに。
決まり切った「高収入」「高級住宅」「車」「リゾート」「高学歴」「出世」から出てくるものは「いかにして私は金持ちになったか」しか出てこない。その対極としての負け組と。そして、次はそれを生涯守り続けることが「最後の仕事」になる。
こんなんでみんな本当にいいんですか?こんな型にはまったお遊びで「物語」って言えるんですか?
先ほど、「家」を捨てて「核家族」を選んだと言いましたが、ここには物語なんてありません。なぜって、「家」の中のおいしい(というより、甘ったらしい)部分だけを「ええとこどり」しただけですからね。「家」を出るんなら判る。出家ですね。そこにあった「支えられて」成りったった全てを捨てて生まれ変わろうとするんですから。当然ドラマはあります。
つまり「物語」には、全てが必要なんですね。親も老人も、赤の他人も、邪魔する奴も、支えてくれる人も。そうそう包んでくれた自然も。
そういう人たちを足蹴りにして、もっといえば「犠牲」の上に立って、何が幸せですか。ちゃんちゃらおかしい。
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老人の繰り言はこのくらいにして、筆を置きましょう。
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もう充分でしょう。私はこのインディアンの老人たちの「物語」をこそ真実だと思います。
復讐の徒と化した現代中国ではなく、いにしえの中国に「易経」がある。山も川も人も常に全体の中で捉え、老人の知恵とでも言うべきものだが、その最後の「卦」(天地間の変化を捉え、吉凶の判断をするもの)が「未済」で終わっていることを思い、成るほどと感服します。(黒森の哲人ハイデッガーが辿り着いたのもこの「未済」でしたね。)そのひとつ前が「既済」ですから順序が逆ではないかと思ってしまいますが、ハッピーエンドが終わりなのではなく、いつもやり残しを感じることなんですね。
「徒念草」にもありましたね「・・・全て何も皆、事の整おりたるは悪しきことなり。し残したるを、さて
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