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第234回 古河 [2016/06/03 15:58]
文●ツルシカズヒコ
堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいうところによると二千町歩以上はあるとのことであった。
彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分たちの生活について話し続けた。
しかし彼の話には自分たちがこうした境遇に置かれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。
彼はすべての点で自分たちの置かれている境遇をよく知りつくしていた。
彼は本当にしっかりした諦めと、決心の上..
第233回 菜圃(さいほ) [2016/06/03 12:08]
文●ツルシカズヒコ
ようやくに、目指す島田宗三の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。
木立の中の藁屋根がはっきり見え出したときには、沼の中の景色もやや違ってきていた。
木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。
蘆間のそこここに真っ黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や菜の葉などが生々と培われてある。
道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。
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第232回 田中正造 [2016/06/02 17:33]
文●ツルシカズヒコ
大杉は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四、五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人の誰かれがこの村のために働いた話をしながら歩いて行った。
「今じゃみんな忘れたような顔をしているけれど、その時分には大変だったさ。それに何の問題でもそうだが、あの問題もやはりいろんな人間のためにずいぶん利用されたもんだ。あの田中正造という爺さんがまた、非常に人が好いんだよ。それにもう死ぬ少..
第231回 廃村谷中 [2016/06/01 17:18]
文●ツルシカズヒコ
しばらくすると、大杉と野枝の方向に歩いて来る人がいた。
待ちかまえていたように、野枝たちはその人に聞いた。
「さあ、谷中村といっても、残っている家はいくらもありませんし、それも、みな飛び飛びに離れていますからな、何という人をお訪ねです?」
「嶋田宗三という人ですが」
「島田さん、ははあ、どうも私にはわかりませんが」
その人は少し考えてから言った。
「家がわからないと、行けないと..
第230回 葦原 [2016/05/31 22:25]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十二月九日、夏目漱石が四十九歳十ケ月の生涯を閉じた。
翌十二月十日、野枝と大杉は栃木県下都賀郡藤岡町(現・栃木市)の旧谷中村を訪れた。
野枝はこの旧谷中村訪問を「転機」(『文明批評』一九一八年一月号・二月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という創作にした。
旧谷中村を訪れる四、五日前のことだった。
村の残留民がこの十二月十日限りで強制的に立ち退かされるという十行ばかり..
第140回 谷中村(五) [2016/05/05 14:14]
文●ツルシカズヒコ
野枝は黙った。
しかし頭の中では、一時に言いたいことがいっぱいになった。
辻の言ったことに対しての、いろいろな理屈が後から後からと湧き上がってきた。
辻はなお続けて言った。
『お前はまださつきのM(※渡辺政太郎)さんの興奮に引っぱり込まれたまゝでゐる。だから本当に冷静に考へる事が出来ないのだよ。明日になつてもう一ど考へて御覧。きつと、もつと別の考へ方が出来るに違ひない。お前が今考へて..
第139回 谷中村(四) [2016/05/05 14:07]
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻が辞し去ってから、机の前に坐った野枝は、しばらくしてようやく興奮からさめて、初めていくらか余裕のある心持ちで考えてみた。
けれど、その沈静は野枝の望むような批判的な考えの方には導かないで、なんとなく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民たちの惨めな生活を想像させた。
野枝の心は果てしもなく拡がる想像の中に、すべてを忘れて没頭していた。
『おい、..
第138回 谷中村(三) [2016/05/05 11:28]
文●ツルシカズヒコ
今まで十年もの間、苦しみながらしがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう。
村民の突きつめた気持ちに同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。
といって、手を束(つか)ねてどうして見ていられよう?
けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。
しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。
この自分の気持ちを少しでも慰めたい。
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第137回 谷中村(二) [2016/05/04 22:06]
文●ツルシカズヒコ
谷中村の土地買収が始まると、躍起となった反対運動も、なんの効も奏しなかった。
激しい反対の中に買収はずんずん遂行された。
しかし、少数の強硬な反対者だけはどうしても肯(がえ)んじなかった。
彼らは祖先からの由緒をたてに、官憲の高圧的な手段に対しての反抗、または買収の手段の陋劣に対する私憤、その他種々なからみまつわった情実につれて、死んでも買収には応じないと頑張った。
大部分の買収を..
第136回 谷中村(一) [2016/05/04 10:05]
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月の末、寒い日だった。
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻はいつになく沈んだ、しかしどこか緊張した顔をして、辻家の門を入ってきた。
辻は渡辺政太郎との親交について、こう書いている。
染井からあまり遠くない瀧の川の中里と云ふところに福田英子と云ふをばさんが住んでゐた。
昔、大井憲太郎と云々のあった人で自分も昔の新しい女だと云ふところから「青鞜」に好意..
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