上田城のなごり
<本丸の水堀>
■とても有名です■
上田城は真田昌幸により築かれた千曲川沿いの平城。徳川軍を二度も退けたことで、難攻不落の城として知られています。2016年の大河ドラマ「真田丸」で更に有名になりました。日本百名城にも選ばれています。
■真田家■
真田一族は現在の長野県上田市を本拠地とする土豪でした。武田氏との関係ですが、昌幸の父である幸隆が、武田信玄の家臣となった時から始まります。幸隆は信玄が欲した砥石城を攻略するなど、武田家臣団の中で頭角を現していきます。
よく「真田三代」という言葉を耳にしますが、「幸隆・昌幸・幸村」のことを指している場合が多いですね。私もそういう認識です。まぁ真田の家を軸に考えると、昌幸の次は幸村ではなく、兄の信幸なんですが・・・。当主として着実に真田家を守った兄より、華々しく散った弟の方が人気は高いですね。
また、昌幸も長男ではなく三男。一時は跡継ぎのいない武藤家(甲斐の有力な国人領主)の養子となり、武藤喜兵衛と名のっていました。しかし二人の兄が長篠の戦いで(1575年)で戦死してしまいます。昌幸本人もこの負け戦いに加わっていましたが、総大将である武田勝頼の身辺を守っていたことから、命までは落としませんでした。兄の信綱や昌輝は、ともに武田二十四将に数えられる武将。武田滅亡へ繋がる大敗は、昌幸から兄にして強力な味方だった二人を奪いました(三男昌幸は真田の家に戻り、家督を相続します)。
■真田の城■
昌幸は兄から引き継いだ「真田本城」を拠点としていましたが、上田の地に新たなに城を築きます(もともとあった館に目を付け大規模に拡張)。1583年、これが上田城の始まり。
■表裏比興の者■
表裏比興(ひょうりひきょう)の者とは、いわゆる「卑怯」とはちょっと意味が異なり、「老獪なやつ」とか「くわせ者」といった意味になります。今でこそ真田の名は有名ですが、信州から上州にまたがる小勢力に過ぎません。大きな勢力の風向きに翻弄され続けます。それでも真田を守り続けた昌幸。昌幸を「表裏比興の者」と評する場合、嘲るようでありながら、才覚を褒めるような微妙なニュアンスが含まれています。
<上田城跡公園>
表裏比興の者と言われた真田昌幸が本領発揮した城の跡です。昌幸はこの城で徳川軍を二度も退けました。
しかし・・・
関ヶ原の戦いで西軍に与したことから昌幸は幽閉され、その翌年上田城も一旦破壊されてしまいました。じゃ現在の城跡は?これは仙石氏時代に再整備されたものになります。
<上田城大手門>
右手の石垣のなかには「真田石」と呼ばれるひときわ大きな石があります。信之が松代藩移封となった時、持ち出そうとしたが運べなかったとか・・・。昌幸が息子に向かって「わしゃ〜動かんからな!」と言ってるようで、ちょっと笑ってしまう話です。
<つわものどもが夢の跡>
再整備され形は変わっても、私にとっては真田昌幸の城です。
-------■上田城■-------
築 城 主 :真田昌幸
築 城 年 :1583年(天正11年)
主な城主:真田氏 松平氏
(廃城は明治になってから)
[長野県上田市二の丸]
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2017年05月29日
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