2016年05月10日
第2回 歴史第2部 3
第2章 独特な進化史
【ネオテニー】
ネオテニーとは「幼形成熟」と訳し、人が幼い形のまま成長する過程を称します。どういうことかというと、オランダの生物学者ルイス・ボルクは、「他の動物においては生まれた時の、平面的な顔・少ない体毛・大きな脳容量・手足の構造・骨盤の構造など多くの身体的特徴が成長とともに変化するのに、ヒトの場合は、成人にまでそのまま持ち越される(13)」としました。これだけならヒトという種の中だけの話ですが、それが種を超えて継承されることがあるということなんです。つまりヒトはサルのネオテニーだ(ヒトという種は、サルの子どものまま成長を極端に遅らせた種だ)というわけです。参考にチンパンジーの子どもと大人の図を見ていただければ、いかにヒトが大人になっても、チンパンジーの子どものほうに似ているかお分かりだと思います。
しかもこれは身体的特性だけでなく、精神的な形質にも表れるという。身も心も幼い形質を持ったまま成熟するんです。ボルグは、あえて成長を「遅滞」するといった。これは生まれる前の胎児の段階から始まっているので、長い妊娠期間や難産をもたらしたことは既に述べましたが、更に生まれた後もこれを続け、他の動物のようにそれぞれの種の特殊化を完成させて成長は終わり、という形をとらないのです。常に可能性の上にある。なぜか成長を急がない。これを誤解して「アダルトチルドレン」だの「ピーターパン現象」だのに当てはめる向きがあるが、それは違うと思うんです。これじゃ在る種の特殊化の完成に閉じこもる停滞です。そうでなく成長を遅くして成熟し続けるんです。なんでも一直線になんていかないんです。「1歩進んで2歩下がる」じゃありませんが、充分に深さをもって進むということです。退行ではありません。生涯学習です。ネオテニー的特性は、「偏見を持たず、新しい考えを受け入れ、順応性を持ち、探求し、努力し、疑問を発し、追及し、批判的に試し、新しい考えも検討する、つまり偏見のない好奇心と新しい経験を享受することに興奮する(14)」絶えず学びながら発育する「謙虚な状態」をキープするのです。
いったい何時からこんな傾向を持つに至ったのか、何故なのか、それは直立二足歩行のところでも少し話しましたが、環境への対応の中で、生命進化の裏側に仕組まれた「後退」という裏の面を、我々の祖先が思わず利用したからでしょう。「飛ぶときは一旦、充分にためを作ってから・・」というあれです。
干ばつという激烈な環境変化と、捕食者からの餌食になる恐怖で絶滅寸前にあった猿人は、ついに窮余の一策をとった。それは先ほどの直立歩行のところで述べたように「群れ」という集団行動をとることであり、勝手な仲間割れは致命的だった。
ここが大事なんです。『強くなるのではなく、弱くなることを選択した』んです。集団行動、団結に必要な個々の弱体化=幼児化です。人類最初にして、最大の選択でした。この非常時にですよ!窮すれば通ずと言いますが、この逆転満塁ホームランはいくら強調してもし過ぎることのない驚嘆すべき知恵でした。全体主義の一糸乱れぬ統率とは違います。あれは外からの力による強制で、自然のリズムに逆らう「意志」による統率です。個々の強化です。これはそうではなく、自発的選択であり、身体的選択なんです。雀の群れもそうですが、意志でなんてやってたら、とっても間に合わない。個々は無に徹しなければならない。
この幼児化という現象は、福岡ハカセによれば、「遺伝子的自体に突然変異が起きなくても、(成長)遺伝子の活性化のタイミングが遅れさえすれば実現できる変化」だという。「遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組み、この研究が注目されている(15 )」。それがエピジェネティクスという分野で、エピとは、遺伝子「外」を意味するようだ。外から遺伝子を制御するしくみのことです。この分野の研究も今後ますます細分化されていくでしょう。でも私は仕組みの魔にのめりこみたくない。猿人に遺伝子はわからない。どうしてこうなったのか。どうやって最初の猿人は、(成長遺伝子活性化の)タイミングを遅らせたのか。やはり肝心なところは伏せられているのでしょう。
一つヒントになりそうな実験が行われました。それは、ロシアのベリャーエフによる1958年の「家畜化という現象」に関する実験でした。
「ウシ、犬、ヤギ、猫のどの種をとっても現れてくる家畜化の効果だった。繁殖の季節的パターンを喪失させること、毛皮の色や柄や毛質に多大のバリエーションが生じること(多様性が生じる)、耳を垂れさせたり、尾を巻かせたりもする。この原因を彼は固く信じていた。唯一つの要素「飼い馴らされた」従順な行動が選択された結果だと(16」。
そしてこの信念を確かめるため、(人間の調教師に馴れている程度に応じて)3パターンのロシア産ギンギツネの家畜化のプロセスを追求した。各世代において繁殖させるのは人間に馴れているキツネだけに絞った。するとわずか6世代ですべてのキツネが従順になった。8世代頃からは、多くがまだら毛となったり、尾を巻くものもあらわれ、子キツネしか見られない垂れた耳を保持するものもあらわれた。鳴き声も子キツネのものだった。15世代もすれば、尾も足も長くなった(17)。「それらは、ただ自然に、「馴れ」とともに現れてきた(18)」
家畜化され、えさの心配もなく、敵に襲われる心配もなくなればみんな、闘争本能も萎えて、飼い主になついた方が楽ですからね。
でも猿人は馴らされたわけではない。馴らしてくれる存在などいなかった。
あくまで集団化を進めるしか他に方法はなかった。失敗したものも多かったでしょう。仲間割れしたものもあったでしょう。うまく集団化できたチームが生き残った。「自ら」集団に馴れていったんですね。おそらく。彼らの行動が、幼児化され、共同の目標に従順で、素直で、柔軟でかつ自主的な行動だった。そして、どう考えても不利な幼児的身体の方は、「位置の変わらない頭部関節や、長い下肢などに依って成り立つ人間の直立姿勢は、私達の祖先が(行動的に)幼児化してきたゆえに(ついてきた身体の)必然的な結果に過ぎない(19)」わけです。つまり精神的幼児化を選択したゆえに、セットとしてならざるを得なかった身体的幼児化だったわけです。(ブロムホールによれば、その身体的特徴をたどれば、「位置の変わらない頭部関節」は、生まれる前のチンパンジーの頭は頭骨の基部の関節で脊柱に繋がっていて、直立したときに頭が前を向くようになっていることや、ヒトの口や体毛の特徴は、チンパンジーの胎児が「めくれた唇」をしているし、身体の大部分に毛が生えておらず、頭の最上部だけはたっぷりと毛に覆われていることに似ているなどたくさん挙げられます。)
従って、その不利な身体的特徴をカバーすべく、よけいに考え・学習するわけです。
最初で少し、人間のネオテニーを褒めすぎましたが、この現象は全ての動物に起きうる現象だということもわかりました。イルカやクジラでさえ、彼らがウシに似た祖先の極めて幼児化された姿であることを示唆する多くの特徴を持っているし、シロアリは論理的に、極めて幼児化したゴキブリなのだとまで言っています。もしかしたら、「多様性」とは、ネオテニーのことなのかもしれませんね。後に「狩猟」から「農耕」への生活革命の時代が登場しますが、そのころ、ヒトの蓄える食料に引き寄せられて、多くの動物が集まってきます。ヒトは彼らを家畜化して、戦力とします。犬はオオカミの子がするような行動をとる(成熟したオオカミは吠えるとしても、番犬がよくやる轟音の連発(子どものやること)ではなく、ソフトでくぐもった声をだす)。豚もイノシシの幼形へと「飼い馴らされる」わけです。動物園の動物も、同様に「馴らされれば」、家畜動物と同様に幼形に向かうのです。このまま野生に戻したら大変。成年に達したオスのチンパンジーすら、よそ者として、二三日後には無残な肉片と化していまいます。
唯、ことはそううまくばかりは、いかない。中世のころからか、幼児化をたどる過程で、この世で「こころ」という実りを花開かせた魅力的な男性の一部は、女性に性的魅力を感じなくなってしまった。同性愛がそれです(20)。またマゾな人も増えた(マルキ・ド・サドという現象は、この流れへの精神的反発がもたらした男性的なるものの復権の意志でしょうか。いずれにしても人間のオスにはこのような、「縄張り争い」を否定され、メスにも足を引っ張られたという二重の「飼い馴らされた」恨みのようなものが、潜在的に潜んでいるのかもしれませんね。ただ、サディズムも結局はマゾヒズムと同じで、虐待している自分と、虐待されている相手を同一視して、相手の立場に身を置いてマゾヒズムを味わっているともいえるわけで、両者同類と言われます)。
いずれにしても、この現象は、非好戦的・平和的なヒトが増えた結果で、安泰ではあるが、子孫繁栄という観点からはやや問題かもしれない。それがいいのか悪いのかなんて誰も決められない。それを、「無責任だ」なんて簡単に言える問題ではないのですから。
だいぶ飛びましたが、新人が原人の間から出現したとき、人間の歴史は始まります。なぜなら、「それ以前の人間に似た集団との間の大きな違いは、幼児期と少年期の長さにある。」
「一人前になるまでの時間が長くなることは、人間形成に時間がかかることになり、物を学ぶ能力が飛躍的に増大することを意味する。」「人間の行動はDNA の素晴らしい機構によって遺伝された個人の生物学的資質よりも、社会の中で学んだものの力によってはるかに律せられるようになった。文化的進化が生物学的進化の先に立ったとき、本来の厳密な意味での歴史が始まった(21 )」と全体としては言えるからです。
だいぶネオテニーで時間を取りましたが、大事なところなのでお許しください。
ここで質問です。先ほどキツネの実験で、家畜化されると種が多様化することを説明しましたが、さて、自身で家畜化を図った(ネオテニー)人類は、どう多様化されたのでしょうか?
答えは、いろいろあるでしょうが、最大の多様化は「人種」と呼ばれるものが発生したことですね。人種と言ってもみんなこの言葉に馴らされて当たり前のことのように使っていますが、人類という「種」があるだけで、白人・黒人・黄色人などという「種」があるわけじゃない。ここから既に「差別」意識が働いているんです。(これは、後から出てきますが「アーリア人」などという眉唾物の人種をでっちあげて、ヨーロパ優位の歴史を作り上げ、まんまと世界中をだました19世紀から20世紀のヨーロパ学者たちの、ほとんど「集団信仰」と言っていい差別学説に繋がります。なぜこんなことを集団で今も頑なに意地張っているのか、優越感からくる正当化以外の何物でもないですね。その頑なな優越感のもとはと言えば、そのまた以前の黒人からの差別が原因という精神分析家もいます。やれ大航海時代(「60数隻の大船団・総員3万近い人員で、ペルシャ湾や東アフリカに達し、渡航先の住民と平和的に文化交流や商取引(朝貢貿易)を行い、トラブルもなかった明の鄭和の航海が大航海でなく、渡航先の無抵抗の住民を拉致し、虐殺し、強姦し、物品強奪し、放火し、それがために殺されたマゼランやキャプテン・クック達や、百名足らずの船員しかいなかったコロンブスの1回目の航海(22)」が何で「大航海」なのか、さっぱりわからない)だとか、新大陸発見(何が発見か。とっくに人は住んでいた)だとか、フロンティアスピリット(西側に侵略しただけなのに、なんで西域開拓なのか)だとか、アフリカ暗黒大陸(現地の人たちは何も暗黒だなんて思っていなかった。暗黒にしたのは文明人とやらだ)だとかの、ヨーロッパの大罪を正当化する為の大芝居にもつながるわけです。「ルネッサンス」という言葉にも騙された。これは古代ギリシャという古典の「再生」だなどと言っていますが、古代ギリシャ人は彼らの先祖でもなんでもなく、単純にヨーロッパ文化の「多様化」に過ぎないんです。
さて、だいぶ横道に逸れましたが、その人種の多様化の最初は、白人ですか黒人ですか?
人類アフリカ起源説やチンパンジーのネオテニー(家畜化)から考えても、黒人ですよね。このあたりの話は、精神分析学者の岸田秀さんの説を剽窃してもいますが、「白虎や白蛇や、白鯨のように、どのような動物にもときおり白子(アルビノ)は発生するが、自然の中にいる動物の場合は、白子以外の連中が白子を排除するとか、白子同士で固まるとかはないので、白子は一代限りで終わり、別種のグループを形成することはない。白鼠も白兎も人間が飼育して人為的につくった家畜である。人類の場合も、黒人であった最初の人類に白子が発生したとしても、もし自由に黒人と混交すれば、白子の遺伝子は劣性なので、すぐさま黒人種に吸収され、白人の人間は、白子の動物と同じように一代限りで姿を消したはずである。白子が白人種として成立するためには、長期間にわたって白子同士でしか性関係を持たないことが必要であった(22)」、要は自ら徒党を組んで出ていったか、或いは黒人に差別されて(何かの祟りだと、恐れられて)追い出された・差別されたかのどちらかだろう。おそらくこの時代に自主的な意思をもって行動するなど考えられないし、極めて少数派だろうことから、後者の考えが自然だろうと思われます。これがグレートジャーニーなんですね。
前に言いましたが、「我々は部分しか考えられない」。ということ誰でも考えには「偏りがある」のが当然なんです。それを居直ってはいけませんが、その「偏り」を武器に思考していくしか方法はないんです。誰かがそれを「客観」だとか、「普遍(カトリック)」だとか、「絶対正しい」とか信じ始めるところに、「正義のため」という目的のためならどんな手段をも正当化しうる悪魔が忍び寄るスキができるんです。
いいですか、常に人間は、見たいものしか見ていないんです。完全に客観的な認識なんて存在しないんです。科学だってそれぞれの時代の信仰に過ぎない。そこを自覚したうえで思考していくことが「間違っているところがあるかもしれないがという気持ちを持ち続ける」=「謙虚」と呼ばれるもので、これしかないんです。だから今は白人の罪を話しましたが、進化論もそうですし、ネオテニーや家畜化の人間原理を考えた多くの人たちは白人でもあるわけですから、どちらかが一方的に悪いとか思い込まないようにしましょう。
科学者には「謙虚」があるじゃないか、という言葉が聞こえてきます。さてどうでしょう。
やっていることの責任の大きさだとか、人類への影響だとかに対して、とても謙虚だとは思えないんですが。自分だけいい子になって、「悪用する方が悪い」で、ただ非難声明を出すだけで善人面されても困るんですね。神のことをやっているのに、責任問題となると途端に一人の人間になってしまうんですから。勿論、一方的に悪いとは言いませんよ。
次回からは本格的な人類の歩みとなりますが、このことは常に忘れないように考えていきたいと思います。
(続く)
注13) モンターギュ「ネオテニー」どうぶつ社 P16
注14) モンターギュ「ネオテニー」どうぶつ社 P91
注15)≪福岡伸一の生命浮遊≫ソトコト「ヒトはサルのネオテニー」より
注16) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P86
注17) ブロムホールによれば、1920年、オランダの科学者ボクは、どんな動物でも、発達後期に現れる構造(生まれた瞬間から母親にしがみつく必要のある手ではなく足)の方が幼児的な状態を残していると論文で発表した。つまり幼児化された種では、遅くに形成される身体部分ほど生長期間が引き延ばされることになる。さっさと完成させず、ぐずぐず長く伸びるんですね。ヒトの足が長いのもこのせいだと説明されます。
注18) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P88
注19) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P28
注20) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社 P230
注21) ウイリアム・マクニール「世界史・上」中公文庫P46
注22) 岸田秀「史的唯幻論で読む世界史」講談社学術文庫P222
注23) 岸田秀「史的唯幻論で読む世界史」講談社学術文庫P18
【ネオテニー】
ネオテニーとは「幼形成熟」と訳し、人が幼い形のまま成長する過程を称します。どういうことかというと、オランダの生物学者ルイス・ボルクは、「他の動物においては生まれた時の、平面的な顔・少ない体毛・大きな脳容量・手足の構造・骨盤の構造など多くの身体的特徴が成長とともに変化するのに、ヒトの場合は、成人にまでそのまま持ち越される(13)」としました。これだけならヒトという種の中だけの話ですが、それが種を超えて継承されることがあるということなんです。つまりヒトはサルのネオテニーだ(ヒトという種は、サルの子どものまま成長を極端に遅らせた種だ)というわけです。参考にチンパンジーの子どもと大人の図を見ていただければ、いかにヒトが大人になっても、チンパンジーの子どものほうに似ているかお分かりだと思います。
しかもこれは身体的特性だけでなく、精神的な形質にも表れるという。身も心も幼い形質を持ったまま成熟するんです。ボルグは、あえて成長を「遅滞」するといった。これは生まれる前の胎児の段階から始まっているので、長い妊娠期間や難産をもたらしたことは既に述べましたが、更に生まれた後もこれを続け、他の動物のようにそれぞれの種の特殊化を完成させて成長は終わり、という形をとらないのです。常に可能性の上にある。なぜか成長を急がない。これを誤解して「アダルトチルドレン」だの「ピーターパン現象」だのに当てはめる向きがあるが、それは違うと思うんです。これじゃ在る種の特殊化の完成に閉じこもる停滞です。そうでなく成長を遅くして成熟し続けるんです。なんでも一直線になんていかないんです。「1歩進んで2歩下がる」じゃありませんが、充分に深さをもって進むということです。退行ではありません。生涯学習です。ネオテニー的特性は、「偏見を持たず、新しい考えを受け入れ、順応性を持ち、探求し、努力し、疑問を発し、追及し、批判的に試し、新しい考えも検討する、つまり偏見のない好奇心と新しい経験を享受することに興奮する(14)」絶えず学びながら発育する「謙虚な状態」をキープするのです。
いったい何時からこんな傾向を持つに至ったのか、何故なのか、それは直立二足歩行のところでも少し話しましたが、環境への対応の中で、生命進化の裏側に仕組まれた「後退」という裏の面を、我々の祖先が思わず利用したからでしょう。「飛ぶときは一旦、充分にためを作ってから・・」というあれです。
干ばつという激烈な環境変化と、捕食者からの餌食になる恐怖で絶滅寸前にあった猿人は、ついに窮余の一策をとった。それは先ほどの直立歩行のところで述べたように「群れ」という集団行動をとることであり、勝手な仲間割れは致命的だった。
ここが大事なんです。『強くなるのではなく、弱くなることを選択した』んです。集団行動、団結に必要な個々の弱体化=幼児化です。人類最初にして、最大の選択でした。この非常時にですよ!窮すれば通ずと言いますが、この逆転満塁ホームランはいくら強調してもし過ぎることのない驚嘆すべき知恵でした。全体主義の一糸乱れぬ統率とは違います。あれは外からの力による強制で、自然のリズムに逆らう「意志」による統率です。個々の強化です。これはそうではなく、自発的選択であり、身体的選択なんです。雀の群れもそうですが、意志でなんてやってたら、とっても間に合わない。個々は無に徹しなければならない。
この幼児化という現象は、福岡ハカセによれば、「遺伝子的自体に突然変異が起きなくても、(成長)遺伝子の活性化のタイミングが遅れさえすれば実現できる変化」だという。「遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組み、この研究が注目されている(15 )」。それがエピジェネティクスという分野で、エピとは、遺伝子「外」を意味するようだ。外から遺伝子を制御するしくみのことです。この分野の研究も今後ますます細分化されていくでしょう。でも私は仕組みの魔にのめりこみたくない。猿人に遺伝子はわからない。どうしてこうなったのか。どうやって最初の猿人は、(成長遺伝子活性化の)タイミングを遅らせたのか。やはり肝心なところは伏せられているのでしょう。
一つヒントになりそうな実験が行われました。それは、ロシアのベリャーエフによる1958年の「家畜化という現象」に関する実験でした。
「ウシ、犬、ヤギ、猫のどの種をとっても現れてくる家畜化の効果だった。繁殖の季節的パターンを喪失させること、毛皮の色や柄や毛質に多大のバリエーションが生じること(多様性が生じる)、耳を垂れさせたり、尾を巻かせたりもする。この原因を彼は固く信じていた。唯一つの要素「飼い馴らされた」従順な行動が選択された結果だと(16」。
そしてこの信念を確かめるため、(人間の調教師に馴れている程度に応じて)3パターンのロシア産ギンギツネの家畜化のプロセスを追求した。各世代において繁殖させるのは人間に馴れているキツネだけに絞った。するとわずか6世代ですべてのキツネが従順になった。8世代頃からは、多くがまだら毛となったり、尾を巻くものもあらわれ、子キツネしか見られない垂れた耳を保持するものもあらわれた。鳴き声も子キツネのものだった。15世代もすれば、尾も足も長くなった(17)。「それらは、ただ自然に、「馴れ」とともに現れてきた(18)」
家畜化され、えさの心配もなく、敵に襲われる心配もなくなればみんな、闘争本能も萎えて、飼い主になついた方が楽ですからね。
でも猿人は馴らされたわけではない。馴らしてくれる存在などいなかった。
あくまで集団化を進めるしか他に方法はなかった。失敗したものも多かったでしょう。仲間割れしたものもあったでしょう。うまく集団化できたチームが生き残った。「自ら」集団に馴れていったんですね。おそらく。彼らの行動が、幼児化され、共同の目標に従順で、素直で、柔軟でかつ自主的な行動だった。そして、どう考えても不利な幼児的身体の方は、「位置の変わらない頭部関節や、長い下肢などに依って成り立つ人間の直立姿勢は、私達の祖先が(行動的に)幼児化してきたゆえに(ついてきた身体の)必然的な結果に過ぎない(19)」わけです。つまり精神的幼児化を選択したゆえに、セットとしてならざるを得なかった身体的幼児化だったわけです。(ブロムホールによれば、その身体的特徴をたどれば、「位置の変わらない頭部関節」は、生まれる前のチンパンジーの頭は頭骨の基部の関節で脊柱に繋がっていて、直立したときに頭が前を向くようになっていることや、ヒトの口や体毛の特徴は、チンパンジーの胎児が「めくれた唇」をしているし、身体の大部分に毛が生えておらず、頭の最上部だけはたっぷりと毛に覆われていることに似ているなどたくさん挙げられます。)
従って、その不利な身体的特徴をカバーすべく、よけいに考え・学習するわけです。
最初で少し、人間のネオテニーを褒めすぎましたが、この現象は全ての動物に起きうる現象だということもわかりました。イルカやクジラでさえ、彼らがウシに似た祖先の極めて幼児化された姿であることを示唆する多くの特徴を持っているし、シロアリは論理的に、極めて幼児化したゴキブリなのだとまで言っています。もしかしたら、「多様性」とは、ネオテニーのことなのかもしれませんね。後に「狩猟」から「農耕」への生活革命の時代が登場しますが、そのころ、ヒトの蓄える食料に引き寄せられて、多くの動物が集まってきます。ヒトは彼らを家畜化して、戦力とします。犬はオオカミの子がするような行動をとる(成熟したオオカミは吠えるとしても、番犬がよくやる轟音の連発(子どものやること)ではなく、ソフトでくぐもった声をだす)。豚もイノシシの幼形へと「飼い馴らされる」わけです。動物園の動物も、同様に「馴らされれば」、家畜動物と同様に幼形に向かうのです。このまま野生に戻したら大変。成年に達したオスのチンパンジーすら、よそ者として、二三日後には無残な肉片と化していまいます。
唯、ことはそううまくばかりは、いかない。中世のころからか、幼児化をたどる過程で、この世で「こころ」という実りを花開かせた魅力的な男性の一部は、女性に性的魅力を感じなくなってしまった。同性愛がそれです(20)。またマゾな人も増えた(マルキ・ド・サドという現象は、この流れへの精神的反発がもたらした男性的なるものの復権の意志でしょうか。いずれにしても人間のオスにはこのような、「縄張り争い」を否定され、メスにも足を引っ張られたという二重の「飼い馴らされた」恨みのようなものが、潜在的に潜んでいるのかもしれませんね。ただ、サディズムも結局はマゾヒズムと同じで、虐待している自分と、虐待されている相手を同一視して、相手の立場に身を置いてマゾヒズムを味わっているともいえるわけで、両者同類と言われます)。
いずれにしても、この現象は、非好戦的・平和的なヒトが増えた結果で、安泰ではあるが、子孫繁栄という観点からはやや問題かもしれない。それがいいのか悪いのかなんて誰も決められない。それを、「無責任だ」なんて簡単に言える問題ではないのですから。
だいぶ飛びましたが、新人が原人の間から出現したとき、人間の歴史は始まります。なぜなら、「それ以前の人間に似た集団との間の大きな違いは、幼児期と少年期の長さにある。」
「一人前になるまでの時間が長くなることは、人間形成に時間がかかることになり、物を学ぶ能力が飛躍的に増大することを意味する。」「人間の行動はDNA の素晴らしい機構によって遺伝された個人の生物学的資質よりも、社会の中で学んだものの力によってはるかに律せられるようになった。文化的進化が生物学的進化の先に立ったとき、本来の厳密な意味での歴史が始まった(21 )」と全体としては言えるからです。
だいぶネオテニーで時間を取りましたが、大事なところなのでお許しください。
ここで質問です。先ほどキツネの実験で、家畜化されると種が多様化することを説明しましたが、さて、自身で家畜化を図った(ネオテニー)人類は、どう多様化されたのでしょうか?
答えは、いろいろあるでしょうが、最大の多様化は「人種」と呼ばれるものが発生したことですね。人種と言ってもみんなこの言葉に馴らされて当たり前のことのように使っていますが、人類という「種」があるだけで、白人・黒人・黄色人などという「種」があるわけじゃない。ここから既に「差別」意識が働いているんです。(これは、後から出てきますが「アーリア人」などという眉唾物の人種をでっちあげて、ヨーロパ優位の歴史を作り上げ、まんまと世界中をだました19世紀から20世紀のヨーロパ学者たちの、ほとんど「集団信仰」と言っていい差別学説に繋がります。なぜこんなことを集団で今も頑なに意地張っているのか、優越感からくる正当化以外の何物でもないですね。その頑なな優越感のもとはと言えば、そのまた以前の黒人からの差別が原因という精神分析家もいます。やれ大航海時代(「60数隻の大船団・総員3万近い人員で、ペルシャ湾や東アフリカに達し、渡航先の住民と平和的に文化交流や商取引(朝貢貿易)を行い、トラブルもなかった明の鄭和の航海が大航海でなく、渡航先の無抵抗の住民を拉致し、虐殺し、強姦し、物品強奪し、放火し、それがために殺されたマゼランやキャプテン・クック達や、百名足らずの船員しかいなかったコロンブスの1回目の航海(22)」が何で「大航海」なのか、さっぱりわからない)だとか、新大陸発見(何が発見か。とっくに人は住んでいた)だとか、フロンティアスピリット(西側に侵略しただけなのに、なんで西域開拓なのか)だとか、アフリカ暗黒大陸(現地の人たちは何も暗黒だなんて思っていなかった。暗黒にしたのは文明人とやらだ)だとかの、ヨーロッパの大罪を正当化する為の大芝居にもつながるわけです。「ルネッサンス」という言葉にも騙された。これは古代ギリシャという古典の「再生」だなどと言っていますが、古代ギリシャ人は彼らの先祖でもなんでもなく、単純にヨーロッパ文化の「多様化」に過ぎないんです。
さて、だいぶ横道に逸れましたが、その人種の多様化の最初は、白人ですか黒人ですか?
人類アフリカ起源説やチンパンジーのネオテニー(家畜化)から考えても、黒人ですよね。このあたりの話は、精神分析学者の岸田秀さんの説を剽窃してもいますが、「白虎や白蛇や、白鯨のように、どのような動物にもときおり白子(アルビノ)は発生するが、自然の中にいる動物の場合は、白子以外の連中が白子を排除するとか、白子同士で固まるとかはないので、白子は一代限りで終わり、別種のグループを形成することはない。白鼠も白兎も人間が飼育して人為的につくった家畜である。人類の場合も、黒人であった最初の人類に白子が発生したとしても、もし自由に黒人と混交すれば、白子の遺伝子は劣性なので、すぐさま黒人種に吸収され、白人の人間は、白子の動物と同じように一代限りで姿を消したはずである。白子が白人種として成立するためには、長期間にわたって白子同士でしか性関係を持たないことが必要であった(22)」、要は自ら徒党を組んで出ていったか、或いは黒人に差別されて(何かの祟りだと、恐れられて)追い出された・差別されたかのどちらかだろう。おそらくこの時代に自主的な意思をもって行動するなど考えられないし、極めて少数派だろうことから、後者の考えが自然だろうと思われます。これがグレートジャーニーなんですね。
前に言いましたが、「我々は部分しか考えられない」。ということ誰でも考えには「偏りがある」のが当然なんです。それを居直ってはいけませんが、その「偏り」を武器に思考していくしか方法はないんです。誰かがそれを「客観」だとか、「普遍(カトリック)」だとか、「絶対正しい」とか信じ始めるところに、「正義のため」という目的のためならどんな手段をも正当化しうる悪魔が忍び寄るスキができるんです。
いいですか、常に人間は、見たいものしか見ていないんです。完全に客観的な認識なんて存在しないんです。科学だってそれぞれの時代の信仰に過ぎない。そこを自覚したうえで思考していくことが「間違っているところがあるかもしれないがという気持ちを持ち続ける」=「謙虚」と呼ばれるもので、これしかないんです。だから今は白人の罪を話しましたが、進化論もそうですし、ネオテニーや家畜化の人間原理を考えた多くの人たちは白人でもあるわけですから、どちらかが一方的に悪いとか思い込まないようにしましょう。
科学者には「謙虚」があるじゃないか、という言葉が聞こえてきます。さてどうでしょう。
やっていることの責任の大きさだとか、人類への影響だとかに対して、とても謙虚だとは思えないんですが。自分だけいい子になって、「悪用する方が悪い」で、ただ非難声明を出すだけで善人面されても困るんですね。神のことをやっているのに、責任問題となると途端に一人の人間になってしまうんですから。勿論、一方的に悪いとは言いませんよ。
次回からは本格的な人類の歩みとなりますが、このことは常に忘れないように考えていきたいと思います。
(続く)
注13) モンターギュ「ネオテニー」どうぶつ社 P16
注14) モンターギュ「ネオテニー」どうぶつ社 P91
注15)≪福岡伸一の生命浮遊≫ソトコト「ヒトはサルのネオテニー」より
注16) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P86
注17) ブロムホールによれば、1920年、オランダの科学者ボクは、どんな動物でも、発達後期に現れる構造(生まれた瞬間から母親にしがみつく必要のある手ではなく足)の方が幼児的な状態を残していると論文で発表した。つまり幼児化された種では、遅くに形成される身体部分ほど生長期間が引き延ばされることになる。さっさと完成させず、ぐずぐず長く伸びるんですね。ヒトの足が長いのもこのせいだと説明されます。
注18) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P88
注19) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社P28
注20) ブロムホール「幼児化するヒト」河出書房新社 P230
注21) ウイリアム・マクニール「世界史・上」中公文庫P46
注22) 岸田秀「史的唯幻論で読む世界史」講談社学術文庫P222
注23) 岸田秀「史的唯幻論で読む世界史」講談社学術文庫P18