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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年03月05日
第1回 教養とは何だろうT
≪序≫
 昨年末に、わが街の広報で市民からの提案型生涯学習の試みを募集するとの記事を発見して、自分を追い込むにはいい機会だと思い生涯学習のテーマである「教養」事体を問う・みんなで一緒に考えるという講座(1)開講の提案を行いました。締切最終日に、カリキュラムと全体の内容を記したものを提出しました。結果は「見送りたい」とのお話しでした。当然ですね。何の実績も無く、どこそこ大学の講師であるとかの肩書も何もないのですから、とんでもない新興宗教なんぞ始められたら大変だ、そう思われるのは当然でした。通るとは思っていませんでしたが、何事も始めなければ、動き始めないので宝くじのつもりで挑戦したのです。従って、更新が遅れました。これから少しづつですが、連載で月1回位のペースで、ブログにアップしていくことを、自身の課題設定として決めました。こうして自分を追い込んでいくというのも、自身を後押しし、将来の結果に責任を持とうという意識をもって学ぶことになり、より質の良いメッセージ発信になると思ってのことです。
その第1回に予定していた「教養とは何だろう」をまずは掲載します。
どうか、これは違うんじゃないかとか、ご指摘をお願いしたいと思います。お互いの切磋琢磨が狙いですから。どうも「である調」で書くと、意見を言いにくくなるのはわかりますので、謙虚にならねばいけないと思っていまして、注意していきます。

第1章 戦後の忘れものと常套句「いい悪いは別にして・・・」

 生涯学習という言葉は以前から耳にしていたのですが、私は図書館司書や博物館学芸員の資格取得の際に、この学科が必須単位に入っていたものですから、取得しました。で、生涯学習の歴史から説明するのは話が拡がってしまうので皆さんご存じのこととして進めさせていただきます。ただ一つだけ確認しておきたいことがあるのです。それが今回のテーマにもなるのですが、生涯学習の目的の一つに、「多岐にわたる社会教育の中で、成人の学習を支援する為の教養の向上・情操の陶治の分野」というのがあるのですが、そして生涯学習の授業を聴講しても、教科書を繙いても、その歴史や経緯や関わった人物は登場するのですが、肝心の「教養とは何か」という納得できる回答が頭に入ってこないのです。この言葉自体が最初から「勉学・学習によって得られる理解力や知識、教え育てること(広辞苑より)」というなにか実際の事に当たっての行為にどう関係するのかぴんとこない、お飾りのようなイメージを与えるのが原因なのかも知れません。この定義にあるように、どうも教養というと、豊かな博識の様なイメージを持ってしまいます。知識は判る、でも理解力といっても具体的にピンときません。それでどうしても知識の方にイメージが偏ってしまい、「教養でも付けなければ」=「知識を増やさなければ」になりやすい。学校の試験も、授業の内容も大体そうなっている。専門的に対して教養学部などという、広く浅く「常識拡大」というイメージが持たれたり、「大正教養主義」などと、浅薄なイメージも定着している。
しかも理解力を「考える力」と置き換えたとしても、学校では、答えが決まった問題を解くという「ゲーム」感覚となっている。つまり「練習」と判っていて答えも用意されている。社会での「動く・変わる」相手との態度や姿勢の取り方や交流の仕方、社会や国家や世間などの主体を持つ大きな力としか言えないようなものとの対峙の仕方、沈黙の中にあり、何も語らず存在するだけで何かを支えている物質や自然に対して何も感じなくていいのだろうか、私達とはどんな関係で結びつけられているのかなどを考えるような、答えがあって無い様な問題については、つまり「意志」と「実践の為の判断力」については、殆んど考え・味わう機会が無いに等しい。それはそうでしょう、このような実践的な問題を出したら、万能の答えなんて無いのだから、一人一人全てを正解にしなければならなくなってしまうから。なぜならあたかも、観察行為が対象を変えてしまいそれを見ることはできない「不確定性原理」のように、自分が答えを出すこと自体が遡って問題を変えてしまうからです。せっかく科学界でこのような世紀の大発見が紹介されているいるのに、よそ事のように自らの生・生き方に当てはめて考えてみようともしない。単なる知識のストックとしか見ない。
でも、このような一度きりの人生にこそ必要な、参加の思考を学ぶ・真似る(先人の例を)経験というものを省いてしまうということは致命的なことではないでしょうか。こんなことでは、「勉強なんかしたって社会に何の役にも立たない」と言われてしまう。何故こう判断したかを判らないまま、最初から「普遍的原理」ばかりに走り、突然専門的「実践」に分かれる。それぞれは総合されず、「耐えられない専門化の100年(2)」が続く。両者のつながりが実感されない。社会もそれでいいと思い込んでしまっている。社会も、学校時代を今まではお遊びだった(実際そうですが)と考えている。だから折角学んだ「普遍」は無駄に捨てられる。ここを真剣に対処することこそが重要なんじゃないでしょうか?

実際に社会や世間に出て、場合によっては家庭内においても、答えの無い問題が山積みされており、それに対する答えを探る行為は「後回し」にされ、経済界お得意の「いい悪いは別にして」のすり替えで、「とりあえず競争に負けないことが先決だ」の論理(?)がまかり通っている訳ですから。躓いても、「やっぱ、会社は人間関係だよね。難しいね。」それで終わり。それじゃあ、いつ学ぶのか?定年後の生涯学習で自分でおやりなさいということになっている。仕事しながらも、児童・生徒・学生においても出来る建て前にはなっている。しかし実態はその様な行動は許されない。「そんな暇(?)があったら、仕事しろ、勉強しろ(今悩んでいるこれこそ勉強でないの?)」という構造になっている。

世界はいざ知らず、少なくとも日本においては、明治から封建制度を捨て、立憲君主制に変えた。そしてその精神を「教育勅語」を中心に据えながら、西欧の模倣をするという離れ業をやってきた。その矛盾は多くの教育者や知識人などに苦悩をもたらした。しかし敗戦の後の日本は「教育勅語」を排し、「国民主権」に変え、「教育基本法」を制定したのはいいとしても、その精神となるべきものが見えてこないまま「自由や平等や平和や命」といった「条件」ばかりを気にし、なぜそれが大切なのか、そこに踏み出すことが状況をどう変えてしまうのか、そこを目指せば目指す程、離れてしまうのはなぜなのか、といった日本人としての歴史やプロクシミクス(3)からにじみ出るその国独自の精神や知恵や、肝心の教育の目的のことは正面から問うことをせず、上記の「条件」を神聖視不可侵のものとするだけであとは「置いといて」まずは衣食住に向かうしか無かった。それでいて若者の素行が悪いから教育し直さなければなどと、機械でも修理するが如き「上から目線」の教育主義が横行する。まだ封建主義が通用すると思っている。生涯学習という言葉に改められたのも最近で、以前は生涯教育と言っていた。
それを一概に責めることはできないにしろ、一体いつになったらその肝心の、「なぜそんなに長生きが神聖欠くべからざることなのか」「自由って何?」「教養って何?何のために学ぶの?」といったことのコンセンサスをきちっとさせるんでしょうか。
目に入ってくるのはアメリカ型の「プロテストする市民」つまり自己主張し、競争し、敵と味方に分け、自分に従うか合わせてこないものは、排除する、従って喧嘩(戦争)はつきもので、その結果がどんな悲惨な状況になろうとも仕方が無い。自分達の「自由感」や「有利感」のほうが、「共存」より大事な索莫とした風景ばかり。世間がそう動いているのに、教育として言われているのは、競争はいけません、平等を尊びなさい、知識を増やしなさい、理解力をつけなさい、科学技術と英語力は付けなさいなんて言われて、実際に競争競技を科目から外したりして、ますます現実とかけ離れたことを言っている。(そのくせ英語と理科系の技術指導は益々本格化しているし、最終評価手段としてのテストは外さないのは不思議ですね。もうみんな分裂症の様相を呈しつつあります)。
言っているのはいいと思うんですが、なぜそうするべきなのか・そこを守る為にどう考え・行動すべきかを何にも投げかけないんですね。そこのところを「置いといて(お得意のセリフです)」、科学的、科学的のオンパレード。自然科学が苦手な子はスポーツ、スポーツのオンパレード。みんな別世界でばらばらですね。そしてそれぞれやれノーベル賞だ、金メダルだと、これまた優劣のことばっか!。こういうことを続けるということは何を意味しているんでしょうか。人より優れていると認めてもらうことが本当に嬉しいことなんでしょうか。私は経験が無いんでその感覚は判りませんが、突き詰めれば「勝ち誇る」ということでしょう。
これって、親や支援者や国民から褒められたり、称賛されることですよね。気持ちいいでしょう。英雄になったみたいで。でもよく考えてください。これはみんなから「愛されること」に繋がりますが、「愛すること」には繫がりません。愛するとは無償の自己犠牲です。自分の名誉とかの為にすることじゃありません。そこに人間としての「歓び」があるからするんです。「愛されること」は子ども時代の片側通行に過ぎません(4)。


注(1) カリキュラムはざっと、次の様なものでした。本講座もこれに沿って進めたいと思っています。
≪各回の基調テーマ≫
@はじめに
・教養とは何だろう。教養が生活上の問題解決にどのように生きるのだろうか。役に立つだろうか。教養の育成に関
わり、生涯に出会う諸分野を訪ね、人として何と格闘し、何を掴んでいるかを共に考え、自己の考え方と照らし合わ
せ生きるヒントを掴みたい。
・演技(見られること・意識すること)の裏にあるニヒリズムとそれを乗り越える成長。ハムレットの生き方。「なぜなしに、生きること」が出来るまでに成長した。答えが無いことには答えない。人間の内部から起こる人間苦や悪には堪える しかないから堪えていく。優柔不断では無い。それは見る側の勝手な欲に過ぎない。死んだ父に約束した通り、仇をとる事にさえ堪えた。彼は、自分自身を貫く為に最大の演技をした。演技がその人を全部覆ってしまったら悲劇がおこる。(一貫したONEを守ろうとすれば多重人格にならざるをえない)生きていくに、自分自身を出す時とは死ぬ時しか無い。

Aこころの歴史を訪ねる-・その1(古代〜中世の世界観)
・生命の誕生から人類の誕生、文字の発明、文明の発生、共同体という生き方、これら全てを貫く「生命の意志と生きる形式」から、進化やメタモルフォーゼ(変身)の姿を振り返る。
・生命とは何か

Bこころの歴史を訪ねる-・その2(近世〜現代=国家と資本主義と日本)の世界観
・西欧的個人の確立と自然(判らないものの代名詞⇒迷信の源)の後退がやがてもたらす宗教改革・世界侵略の先がけ(大航海時代)、国内における市民革命・産業革命、自由の揺り戻しである列強の成立と究極の世界大戦。不条理やカオスの拡がりと冷戦を経ての世界多極化。グローバルがもたらした統治不能。各国がコントロールを持て余す、様々な様式の多様性と対象(環境)規模の肥大化。「決められない」国連主義の限界。求められるライトサイズの思考の是非について考える。
・複雑性、共生、遊牧系がテーマ。地方の時代。強者による普遍主義は終わった。経済と文化を別に考える時代は終わった。田中角栄の秘書・早坂の得意だった「いい悪いは別にして・・・置いておいて・・」は、もう通用しないところに来た。いま何が「創発」しているのか耳を澄ましてほしい。

C言葉の世界を訪ねる(言霊と物語)
・言葉の発生、言葉の力、世界観をつくる言葉、無意識を増産する言葉、物語という記憶の整理のしくみから、人間にとって言葉というシンボルは何に役立ち、どんな影響をもたらしているのかを考え、このシンボルに対しどう向き合っていくべきかを考える。

D音の世界を訪ねる(聞いて感じる世界・音楽の論理と感情)
・論理を越える「共感覚(音の中に含まれる視覚や嗅覚や生命記憶)」の世界があらわすもの、倫理を越える姿を示す音楽の力を考える

E色と形の世界を訪ねる(見て感じる世界)
・合理(知性)を生むデッサン(線)と自然全体の存在を、視覚に必要な距離間隔をもって見せる色の論理について考える。

F日本に見る舞踏ともてなしの世界(遊び) を訪ねる(世阿弥、利休)
・神を遊ばせる接待としての「舞い」から、神の真似をすること(身振り)で人の感情(魂)を昇華する中世から近世の「舞踏」。引いて行く・鋤いていくことで、大陸(中国)的・足し算的方法に対抗した日本の「詫び茶」「禅」「隠遁者」の方法。無常の詠嘆から、その克服を学ぶ。

G科学の世界を訪ねる・その1(科学の誕生と宗教からの離脱、天文・物質と時空)
・宇宙、自然界の物質や運動、エネルギー、精神、生命を見る目がどのように変遷してきたか。又科学がその対象から捨てたものとはどんなものか、それはなぜなのか、どのような影響が考えられるのかを考える。(GH共通)

H科学の世界を訪ねる・その2 (「こころ」と身体と宇宙の限りなき細分化、原子・生命の追求)
・善悪を問わない「利便性」の追求は、自然界から善悪を突きつけられるはめになっていないか。この道のもたらした弊害とは、後始末はできるのか。

I宗教の世界を訪ねる(キリスト教・イスラム教・仏教・神道・科学主義・孔子・老荘)
・こころの発生(約3000年前)とそのコントロール(「創発の時代」)が始まって以来、その宗教・哲学の果たした役割、未消化の部分、やがて自滅したわけ、後の神なき世界の宗教的渇望に答えるものを考える。今尚神を信じることのできる文明の謎を考える。

J精神の世界を訪ねる(分裂親和者と執着親和者と人類の歴史)
・フロイトによる無意識の発見に端を発した精神分析は、呪術や占いに頼らず、因果関係で精神のゆがみを「病」として捉え、医学の一分野として確立された。果たしてそれは個人の病なのか、時代の病なのか(正常に時代を受け留めた結果なのか)。人が先天的にもつ、分裂症親和的傾向と強迫的・執着気質的傾向の勉強から、正常と異常の捉え方を考える。

Kまとめ
・私達の振る舞いを考える・・・「君子は龢(わ)して同せず」(論語・子路)という言葉を参考に、「多数決」という裁断方法に代表される考え方の功罪を考える。

注(2) 渡辺慧著「知るということ-認識学序説」ちくま学芸文庫 2011年6月

注(3) 大辞泉には、人に近接した空間領域の文化的研究。他人との距離のとり方は意思の伝達手段の一つで、お互いの親密度や属する文化によって異なるというもの。1960年に米国の人類学者E=T=ホールが提唱。近接対人空間学。とありますが、これは、人間だけじゃなく動物も含めた生物が、目に見えない「縄張り」の様な「空間距離」を持っていて、人種や地域によってもその距離も違えば質も違う。あちらで普通だった行為がこちらでは違った意味を持ってくる。国によって、謝る(パルドン!)必要があるか無いかの、近づいた時の距離の差がある。又ある人種だけ気づく嫌な匂いがあるとか、コオロギの音の感じ方が、国によって風情だったり不気味だったりするとか、同人種の中でも、親密な関係の許容距離と公共的の場合の許容距離が違うなどの、無意識に決まっている「文化感覚距離」のようなものをさすようです。詳細はエドワード・ホール「隠れた次元」みすず書房をどうぞ。

注(4) 拙稿2012.10.25「愛することと愛されることと」 (佐野洋子「100万回生きた猫」を読んで感じたこと) 参照

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