2016年03月05日
第1回 教養とは何だろうU
<続き>
これは河合隼雄さんが松岡和子さんとの対談でおっしゃっていたことですが、ロミオとジュリエットは、親の子を「愛する」力(こうすることが子の幸せだと、良かれと思ってした愛)が、子どもの「愛する力」(大人として成長し、与えられる・愛されるだけの世界から、初めて芽生えた他者に与える愛としての歓びである愛)を殺してしまった悲劇だということですね。その通りだと思います。折角芽生えた「愛」の心を、親は後でやれという。こんなもの芽生えた時を逃さず味わわないで、さあ、これから条件が整ったので「無償の自己犠牲」をします。誰か手頃なお相手はいますか?などとやるもんじゃない。
でもいいでしょう。激しい競争の果てに「自力」の限界を知り、その果てにあるもの(その「あるもの」がこれから考える中心になるものです)を感じる経験も出来るでしょうから、否定はしません。こうならざるを得ない様々な問題、国語の問題・専門バカの問題・「安全保障感確保の行動」ばかりが先行しこれが「満足を求める行動」であると勘違いされたままである問題(5)、などなどたくさんあります。トップである筈の政府すら、人類が誕生してから3000年この方最もレベルの低い、動物レベルの生に落ちていることに全く気付いていません。「経済、経済!」も一定の重要性は在るのですが、一票が欲しくての為だけに言っているようにも思えます。「安全保障感確保の行動」すら、既得権者集中であまねく行き渡ることなど思っている様子も見えません。それが証拠に、社会を支えている若者や福祉関係者やシングルマザーなどへの、彼等を競争に勝つ為の都合のいい「駒」としか見ていない仕打ちにも見られますし、彼等のおかげで或いは過去の団塊世代のお陰での貯金を、まるで自分の功績のように「世界第二の経済大国」だなどと得意げに語る。「よそよそしさ」を基調とした「晴れ」の街・略奪都市東京(6)を政治と文化の先端を行く街と勘違いしている。そして歴史と文化を持った大阪を心の底では蔑んでいる。恥を知れと言いたいですね。
日本の通貨価値を「未曾有」に貶める金融緩和によって円安を誘導し、株が上がった上がったと焚きつけている。一体80円だったものが120円も出さなければ買えなくなった、これは1.5倍お金の価値が下がったことですね。つまり株という物を買うのに1000円で買えたものが1500円出さなければ買えなくなったから、1ドル80円時代との修正が入り数字だけ増えたに過ぎません。これを、株が上がったというんでしょうか。株価は時代を先取りすると言われます。とすれば間もなく、輸出入にも、円安前から株を持っている人と持たない人にも、徐々に恩恵と迷惑(現金資産の目減り)とがそれぞれ発生します。20万円の月給の価値を実質13万3000円にしてしまった訳ですから(20万円分の生活していた人は、お金の価値が66%に下がるのですから、株と同様に物の値段もいずれ修正されて上がってくるでしょうから、手元に20万あっても、13.3万円分の生活しか出来なくなってくるでしょう。(仮に給与が30万円に上がったとしてもそれは差額の修正に過ぎない。しかし政府はそれを上がった上がったと自画自賛している。)その差額はどこに行ったのか。輸出業者や、円安前から株を持っていた人達・多くは企業に行く訳です。すぐにはそうならないにしてもそうなる仕掛けは発動した。持たざる者から、持てるものがお金を分捕る仕組みの発動ですね。つまり格差拡大に集束していくわけです。日本のリーダーが相変わらず「いい悪いは別にして」既に「持てる者」の衣食住とアメリカのもの真似しか頭にないのですから、仕方ない。勿論その陰で狙っていることがある。話が逸れるのでこれ以上はやめておきます。
それでも「競争・比較は悪魔だ」という事だけは言っておきたいと思います。人の本来の歓び・「満足の為の行動」・「遠との共鳴(7)」に向かうことから目を「逸らす」、悪魔だと。一度その魅力に取りつかれてしまうと、死ぬまで「比較」しか目に入らなくなってしまう。そこで優位に立つことを、「満足」と勘違いしてしまう。
更に、勝利には敗者が必要なのに、その存在が全く目に入っていない。ちょうど我々が地球の上にこそ立っていられるのに、その地球を利用しているだけで、おかげで立たせてもらっていることが頭に入っていない。勝者と敗者、生と死は、光と影にもたとえられます。あまねく光を与え明るくするだけして、さて世の中真っ白になって明暗も判らなければ善悪も判らなくなります。みんな清く正しくで埋め尽くそうとする。でも悪は私の中にもあります。みなさんにもある筈です。悪のおかげで善を考える・乞うわけです。悪は隠しても無くならず陰湿になるばかりです。禁止ばかりして居場所をなくしても、悪は残るから学校や家庭や見えるところで噴出しているのが現代ですね。やはり死も悪も、恐れ・礼を尽くしお祓いする場を持たなければ正しく付き合っていけないのでしょう。そういう存在とともにあるということを認めあうことから始まるんだろうと思います。悪も死も、叩きつぶそうとしないで、認めたうえで(肯定するのではなく)、それを背負って生きる。それをバネにして生きるからこそ、より深い生を生きられるといったのが法然や親鸞の「悪人正機説」です。
我々が目指すのは「安全保障感確保の行動」が人生の目標ではなく、資産の奪い合いに巻き込まれることではない筈です。だからと言って言われるがままでは差別は広がるばかり。いったいどうしたらいいのか。そっちを中心に置かない、置くと逸れて行ってしまう。忘れ物とはそんなところにあるのではないと思います。
「家庭教育の基本は、子供に「死に水をとらせ、「死顔」を見せることにある。子供に関しての難問題の多くはこれで解決する。さらに、大人さえ、このことで、姿・「振る舞い」がきれいになる筈だ(8)」と野坂昭如は言った。戦後が無くしたものはこれでは無いでしょうか。
注(5) 拙稿2014.09.29 「B先生へ(中井久夫氏とシャスティン・モベリに学ぶ教育の環境)2」参照(精神医学者サリヴァンによれば、人間の行動は、「満足を求める行動」と「安全保障感確保の行動」に大別されるといいます。)
注(6) 晴れは、晴れがましい「よそいき」を指し、褻(け)は、ままならない日常の人生の大部分である「ふだん」をさす。人生は両者の繰り返しであり、褻(け)は日常の事であり、自分が主人公になかなかなれない、機械の部品のように時間に追われ、会社に入り或いは稲を刈り、部品をつくり、あっという間に毎日が過ぎていく。その様な日が続くとストレスがたまり、頭を霞が廻る様な状態になる。そんな霞を「祓い」、本来の自分が主人公の時を取り戻すのが「晴れ=祓い」だ。祭りや盆や何かの儀式、正月のお祝い、誰にも縛られることなく自然や先祖の霊や宇宙のリズムと(主人公として)対話する。(振る)舞う。過去やしがらみを諦めることの清々しさ(解放感)を感じる。大事なのは「褻」の中にも「晴れ」はあり、「晴れ」の中にも「褻」は在るということ、そしてしっかり「褻」を踏み締めなければ「晴れ」は判らないし、しっかり「晴れ」を演じなければ足もとの「褻」の恩恵は見えてこないということです。
葬儀も実は「晴れ」に繫がる儀式なのです。参列者の協力を得て、日々のでは無く、(故人と、故人と繫がった関係者の)人生と言う長い「褻」を祓い、孫子の新たな出発を誓う場なのだ。だからこそ、底なしの悲しみに陶酔するばかりでなく、参列者への挨拶や、はめをはずすかの様な式後の精進落としと言われるお喋り・飲み食いも(悲しみの範囲を囲む縄の様な存在)必要であり、そういう悲しみの限度があってこそ親族は安心して悲しみに酔うことが出来る。これ以上は深淵に行かない。そうでなくては立ち直れない。主人公として戻ってこれない。
同様に、日々の生活も、一日のロボットとして過ごした「褻」を祓う睡眠(=死)という行為を通し、一日の先から折り返し、リセットし、自分が主人公として生きようという新たな日に備える儀式でもある。ところがそんな交代のリズムを壊して、毎日が「晴れ」の場をつくってしまったのが「都会」だ。毎日よそいきの格好をし、よそいきの振る舞いをし、いつも他者に対し「よそよそしい(本音を出さない)」。こうなると晴れが晴れでなくなり、ストレスをためる「褻」になってしまう。地方では成り立たない商売も、東京では成り立つ。それは人口が多いからだ。0.1%しか興味を示さない変わり者の好みを対象にしても3万の市では30人だが、1200万の東京では1万2千人相手で立派に成り立つ。こうしてありとあらゆる人やものが巷にあふれ、毎日が祭典なのだ。だがこれだけの大掛かりな「晴れ」の舞台を毎日演出するには、多くの陰の犠牲者も必要になる。規模が大きくなればなるほど、ロボットは多く必要になり主人公になれるのはほんの一握りになる。都会というものはその大部分が地方出身者で構成され、更にそこで残れるのもその一部分だ。大部分が一時の夢を見て多くの資本を投下し・消費する(奪われる)、その犠牲で成り立つ様なものだ。それが実体なのだからしょうがない。こうして「自閉症」の我々(*)は一定の間隔で「晴れ」を求めに(お祓いをしに)、アルプスに登るのと同じ様に、着飾って都会へ出たくなる。どちらも褻を祓ってくれる「誰か」に話し、話しかけられたくて。
(*)拙稿2015.9.24「そこに山があるから --「遠」の記憶をもとめて」注7参照
注(7) 拙稿2015.9.24「そこに山があるから --「遠」の記憶をもとめて」参照
注(8) 野坂昭如「この国のなくしもの」PHP研究所 1997年8月
これは河合隼雄さんが松岡和子さんとの対談でおっしゃっていたことですが、ロミオとジュリエットは、親の子を「愛する」力(こうすることが子の幸せだと、良かれと思ってした愛)が、子どもの「愛する力」(大人として成長し、与えられる・愛されるだけの世界から、初めて芽生えた他者に与える愛としての歓びである愛)を殺してしまった悲劇だということですね。その通りだと思います。折角芽生えた「愛」の心を、親は後でやれという。こんなもの芽生えた時を逃さず味わわないで、さあ、これから条件が整ったので「無償の自己犠牲」をします。誰か手頃なお相手はいますか?などとやるもんじゃない。
でもいいでしょう。激しい競争の果てに「自力」の限界を知り、その果てにあるもの(その「あるもの」がこれから考える中心になるものです)を感じる経験も出来るでしょうから、否定はしません。こうならざるを得ない様々な問題、国語の問題・専門バカの問題・「安全保障感確保の行動」ばかりが先行しこれが「満足を求める行動」であると勘違いされたままである問題(5)、などなどたくさんあります。トップである筈の政府すら、人類が誕生してから3000年この方最もレベルの低い、動物レベルの生に落ちていることに全く気付いていません。「経済、経済!」も一定の重要性は在るのですが、一票が欲しくての為だけに言っているようにも思えます。「安全保障感確保の行動」すら、既得権者集中であまねく行き渡ることなど思っている様子も見えません。それが証拠に、社会を支えている若者や福祉関係者やシングルマザーなどへの、彼等を競争に勝つ為の都合のいい「駒」としか見ていない仕打ちにも見られますし、彼等のおかげで或いは過去の団塊世代のお陰での貯金を、まるで自分の功績のように「世界第二の経済大国」だなどと得意げに語る。「よそよそしさ」を基調とした「晴れ」の街・略奪都市東京(6)を政治と文化の先端を行く街と勘違いしている。そして歴史と文化を持った大阪を心の底では蔑んでいる。恥を知れと言いたいですね。
日本の通貨価値を「未曾有」に貶める金融緩和によって円安を誘導し、株が上がった上がったと焚きつけている。一体80円だったものが120円も出さなければ買えなくなった、これは1.5倍お金の価値が下がったことですね。つまり株という物を買うのに1000円で買えたものが1500円出さなければ買えなくなったから、1ドル80円時代との修正が入り数字だけ増えたに過ぎません。これを、株が上がったというんでしょうか。株価は時代を先取りすると言われます。とすれば間もなく、輸出入にも、円安前から株を持っている人と持たない人にも、徐々に恩恵と迷惑(現金資産の目減り)とがそれぞれ発生します。20万円の月給の価値を実質13万3000円にしてしまった訳ですから(20万円分の生活していた人は、お金の価値が66%に下がるのですから、株と同様に物の値段もいずれ修正されて上がってくるでしょうから、手元に20万あっても、13.3万円分の生活しか出来なくなってくるでしょう。(仮に給与が30万円に上がったとしてもそれは差額の修正に過ぎない。しかし政府はそれを上がった上がったと自画自賛している。)その差額はどこに行ったのか。輸出業者や、円安前から株を持っていた人達・多くは企業に行く訳です。すぐにはそうならないにしてもそうなる仕掛けは発動した。持たざる者から、持てるものがお金を分捕る仕組みの発動ですね。つまり格差拡大に集束していくわけです。日本のリーダーが相変わらず「いい悪いは別にして」既に「持てる者」の衣食住とアメリカのもの真似しか頭にないのですから、仕方ない。勿論その陰で狙っていることがある。話が逸れるのでこれ以上はやめておきます。
それでも「競争・比較は悪魔だ」という事だけは言っておきたいと思います。人の本来の歓び・「満足の為の行動」・「遠との共鳴(7)」に向かうことから目を「逸らす」、悪魔だと。一度その魅力に取りつかれてしまうと、死ぬまで「比較」しか目に入らなくなってしまう。そこで優位に立つことを、「満足」と勘違いしてしまう。
更に、勝利には敗者が必要なのに、その存在が全く目に入っていない。ちょうど我々が地球の上にこそ立っていられるのに、その地球を利用しているだけで、おかげで立たせてもらっていることが頭に入っていない。勝者と敗者、生と死は、光と影にもたとえられます。あまねく光を与え明るくするだけして、さて世の中真っ白になって明暗も判らなければ善悪も判らなくなります。みんな清く正しくで埋め尽くそうとする。でも悪は私の中にもあります。みなさんにもある筈です。悪のおかげで善を考える・乞うわけです。悪は隠しても無くならず陰湿になるばかりです。禁止ばかりして居場所をなくしても、悪は残るから学校や家庭や見えるところで噴出しているのが現代ですね。やはり死も悪も、恐れ・礼を尽くしお祓いする場を持たなければ正しく付き合っていけないのでしょう。そういう存在とともにあるということを認めあうことから始まるんだろうと思います。悪も死も、叩きつぶそうとしないで、認めたうえで(肯定するのではなく)、それを背負って生きる。それをバネにして生きるからこそ、より深い生を生きられるといったのが法然や親鸞の「悪人正機説」です。
我々が目指すのは「安全保障感確保の行動」が人生の目標ではなく、資産の奪い合いに巻き込まれることではない筈です。だからと言って言われるがままでは差別は広がるばかり。いったいどうしたらいいのか。そっちを中心に置かない、置くと逸れて行ってしまう。忘れ物とはそんなところにあるのではないと思います。
「家庭教育の基本は、子供に「死に水をとらせ、「死顔」を見せることにある。子供に関しての難問題の多くはこれで解決する。さらに、大人さえ、このことで、姿・「振る舞い」がきれいになる筈だ(8)」と野坂昭如は言った。戦後が無くしたものはこれでは無いでしょうか。
注(5) 拙稿2014.09.29 「B先生へ(中井久夫氏とシャスティン・モベリに学ぶ教育の環境)2」参照(精神医学者サリヴァンによれば、人間の行動は、「満足を求める行動」と「安全保障感確保の行動」に大別されるといいます。)
注(6) 晴れは、晴れがましい「よそいき」を指し、褻(け)は、ままならない日常の人生の大部分である「ふだん」をさす。人生は両者の繰り返しであり、褻(け)は日常の事であり、自分が主人公になかなかなれない、機械の部品のように時間に追われ、会社に入り或いは稲を刈り、部品をつくり、あっという間に毎日が過ぎていく。その様な日が続くとストレスがたまり、頭を霞が廻る様な状態になる。そんな霞を「祓い」、本来の自分が主人公の時を取り戻すのが「晴れ=祓い」だ。祭りや盆や何かの儀式、正月のお祝い、誰にも縛られることなく自然や先祖の霊や宇宙のリズムと(主人公として)対話する。(振る)舞う。過去やしがらみを諦めることの清々しさ(解放感)を感じる。大事なのは「褻」の中にも「晴れ」はあり、「晴れ」の中にも「褻」は在るということ、そしてしっかり「褻」を踏み締めなければ「晴れ」は判らないし、しっかり「晴れ」を演じなければ足もとの「褻」の恩恵は見えてこないということです。
葬儀も実は「晴れ」に繫がる儀式なのです。参列者の協力を得て、日々のでは無く、(故人と、故人と繫がった関係者の)人生と言う長い「褻」を祓い、孫子の新たな出発を誓う場なのだ。だからこそ、底なしの悲しみに陶酔するばかりでなく、参列者への挨拶や、はめをはずすかの様な式後の精進落としと言われるお喋り・飲み食いも(悲しみの範囲を囲む縄の様な存在)必要であり、そういう悲しみの限度があってこそ親族は安心して悲しみに酔うことが出来る。これ以上は深淵に行かない。そうでなくては立ち直れない。主人公として戻ってこれない。
同様に、日々の生活も、一日のロボットとして過ごした「褻」を祓う睡眠(=死)という行為を通し、一日の先から折り返し、リセットし、自分が主人公として生きようという新たな日に備える儀式でもある。ところがそんな交代のリズムを壊して、毎日が「晴れ」の場をつくってしまったのが「都会」だ。毎日よそいきの格好をし、よそいきの振る舞いをし、いつも他者に対し「よそよそしい(本音を出さない)」。こうなると晴れが晴れでなくなり、ストレスをためる「褻」になってしまう。地方では成り立たない商売も、東京では成り立つ。それは人口が多いからだ。0.1%しか興味を示さない変わり者の好みを対象にしても3万の市では30人だが、1200万の東京では1万2千人相手で立派に成り立つ。こうしてありとあらゆる人やものが巷にあふれ、毎日が祭典なのだ。だがこれだけの大掛かりな「晴れ」の舞台を毎日演出するには、多くの陰の犠牲者も必要になる。規模が大きくなればなるほど、ロボットは多く必要になり主人公になれるのはほんの一握りになる。都会というものはその大部分が地方出身者で構成され、更にそこで残れるのもその一部分だ。大部分が一時の夢を見て多くの資本を投下し・消費する(奪われる)、その犠牲で成り立つ様なものだ。それが実体なのだからしょうがない。こうして「自閉症」の我々(*)は一定の間隔で「晴れ」を求めに(お祓いをしに)、アルプスに登るのと同じ様に、着飾って都会へ出たくなる。どちらも褻を祓ってくれる「誰か」に話し、話しかけられたくて。
(*)拙稿2015.9.24「そこに山があるから --「遠」の記憶をもとめて」注7参照
注(7) 拙稿2015.9.24「そこに山があるから --「遠」の記憶をもとめて」参照
注(8) 野坂昭如「この国のなくしもの」PHP研究所 1997年8月