2016年03月05日
第1回 教養とは何だろうV
第2章 教養とは
そろそろ結論を提案しなければなりません。教養とは何だろう。
それを私は、生きていく上に必要な「振る舞い力」としたいと思います。広辞苑にも見つからなかった、というよりあと一歩の踏み込んだ解説が欲しかった「演技力」の事です。何故って、これが足りなければ教養は、唯多くの、広範囲の知識を取得して、理解した後、どうするんですか?ひけらかす?みんなに教える?目的がずれてますよね。
「自分に起きた事」に対処するに当って、「どう振る舞うか」によって人間の価値は決まるとも言われます。逃げるのもいいでしょう。自身で最良と判断してのことなら。戦うのもいいでしょう、相手と繋ぐ知恵を絞るのもいいでしょう。「身ぶり」で敵意の無いことを示すのも重要な方法です。色々ありますね。汚いといわれるやり方だってあるかもしれません。相手次第ですから。でもそこには筋の通った「道徳心」が必要ですね。自分の判断だったら何をしてもいいという訳じゃない。その「道徳心」の根本は何でしょう。これはカントにでも聞くしかありません。膨大な著作があります。でもみんながカントを読んでいなくとも、立派な人はいます。それは、自分と他者が全く同じものだという事を本当に信じているかどうかだけなんです。自分と同じ様に他者を本当に愛おしめるか。ではなぜ自己=他者なのか。そんな筈はないと思うのは当然です。でもそれは自分と他者の「違い」を見ているからなんですね。「比較」と同じ考え方です。これではいつまでたっても差別や敵対発想から抜け出せません。どちらも戦うしかない。
発想を変えて、同じ・或いは「似ている」「通じている」を見ることはできませんか?同じ人間じゃない!同じ兄弟じゃない!同じ男同士じゃない!同じ好みじゃない!同級生じゃない!同郷のよしみじゃない!同じ日本人じゃない!
あげていけばきりが無い。自分だけではもう本当にどうしようもない。その時同じ仲間なら、互いにそう思っていれば黙っていても当然手を差し伸べるでしょう。或いは敢えて差し伸べないかもしれない。何か意図があるのかもしれない。そういう風に「他者」を捉える、だからその「他者」の思いは自分の思いと同じなんだ、だからどんな結果も自分の思いから出たものと同じなんだ、なぜなら同じ人間なんだから、と感じられるようになれるか。
一生懸命頑張る。出来る努力は精一杯した。後はどんな結果が出ても悔いは無いという境地、天に任せる、という考え方ですね。その「任せた」天こそ先ほどの「自力の果てに見えてくるもの」なんですね。それは「自己」というものの限界であり、自己のいない世界なんです。「他者の力」なんですね。それって「死」の世界じゃない?「無」と言ってもいい。なんでそういう風に繫がっていくのか。それは人が地球の上に立っているのは地球があるからだと普段は意識していないのと同様に、生きているのは、裏側で死が生を縁取っているからなんです。そこから生をそっくり剥がしてしまえば死が残る。無が残る。生の果てには死が顔をのぞかせる訳です。「他者」は、他者から見れば私であり、「自己」が逆に他者になります。社会はそういう者の集合でしょう。つまり我々は互いに、自己の力と他者の力の両方で生きているという事なんですね。その見えない「他者」の部分を、自己の果ては「死」でもあるから「阿弥陀仏」と呼んだのが法然さんです。だからそこで出た結果は「自力」の果ての何かでもあるし、「他力」によるものでもあり、「阿弥陀仏」の力とも考えられる。それが「他力本願」というものだと私は理解しています。(「本願」は本来の願いですが、仏・菩薩が衆生を救済しようとする願いの事を指します)。だからみんな繫がっている。私=他者=阿弥陀になるわけです。ユングは、ある講演で、聴衆から「魂とは何ですか」と聞かれた。彼は「魂とは(私にとっての)あなたたちです」と答えたそうです。魂は、私と繫がったあなた達である、と言ったのですね。ちょっと脇道にそれました。
ではなぜその「振る舞い力=教養」が重要なんでしょうか。「演技力」が重要なんでしょうか。それは、演技が無ければ「自己」も「他者」も社会も成立しないからです。
私とあなたは同じだといっても、「同じ」を探そうという点で同じなのであって、社会に在っては互いに緊張関係を持って在るわけです。そこを「比較」から対立や競争に走っていくか、或いは自己の尊厳を捨てて、相手に阿って凭れかかるのか、演技とは、そのどちらでもない「自他が対峙しながらも、しかも相手に対し一定の慎みを持つといういわば第三の道を指し示す(9)」ものではないでしょうか。これでこそ社会が成立していると言えるのではないでしょうか。
従って「相手に対し一定のつつしみを持つ演技」は礼であり、悪を控えさせる道徳となる筈です。
同時に、このような「演技」があってこそ、他者の視線を意識した「自己」が生まれ、演技するに値する、尊重すべき「他者」も成立するわけです。きちんとした字を書く、最低限の化粧をして人前に出る、常に身支度を怠らない、最低限の他者の郷土の名前を読めるというのは尊重すべき他者に対する立派な礼儀という「演技」になります。
九鬼周造は、男女間の「媚態」が恋の成就に行き着くことを望むが、「意気地(相手の言いなりにならず、自己の独立を誇り高く堅持しようとする気持ち)」と「諦め(自分と相手との間が、何処までも不安定のまま留まるしかないことを受け容れること)」とによって、恋が完成してしまうこと(=終わってしまうこと=恋の死)に歯止めがかけられ、純化され、凝縮され「野暮」に行きすぎない緊張状態を維持されるのを「いき=粋」とよんだ。
何故恋は成就してはつまらないのか。成就したらその緊張関係が失われるからです。恋(乞ひ願う)の姿が離散して見えなくなる、つまり恋の実感が無くなってしまうからなんです。
「人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる、同時にそれを味わうこと、それを欲している(10)」からです。
双曲線のように限りなく座標軸に近づくが、永遠に触れない。その限りなく近づく感覚が生の実感をもたらすのです。座標軸は「意気地」と「諦め」の交差する十字線なのです。
こんなもの無ければ苦しむことも無いのにと思うのは、登場人物ではなく観客の立場です。
当の本人達には見えていなくとも、これがあればこそ恋を実感できるのです。何も縛りが無ければ唯の淫蕩に過ぎません。畜生です。それは、生き者が生と死の循環という、動かし難い縛り(宿命)の中で「生きる」のでなければ、逆に生の哀感(実感)は味わえないのと、同じです。宿命を土台にして踏ん張るんです。野放図に永遠の命があったり、すぐに抹殺されたりの人生に何の味わいもなく、足もともおぼつかなくなるのと同じでしょう。
突然ですが、結婚とは恋の緊張関係というものは消え、全く別の緊張関係を見つける生き方です。既にみたように恋の延長線上にあるのは「死」です。近松の「世話もの(心中もの)」を読めば恋の究極が見えます。でもそれを実際にやっちゃあ「野暮」なんです。対して結婚の延長にあるのは現実的な覚めた「生」です。「社会」や「世間」です。恋が「向き合う」のに対し、結婚は、恋う(=乞う)を越えて、二人の理想や「つとめ」といった、同じ方向を向きながらの「支え合い」です。そこにつくらなければならない緊張関係とは、ともすれば挫けがちな、「他者」を支える意志を持続させる為の互いの切磋琢磨の筈です。これは男性諸君に強く言いたいのですが、結婚は生活を楽にする為にするわけじゃない。二人でなきゃ出来ないものをつくる為にするわけです。当然独身以上の事をするわけだから、楽が出来るどころか大変になるのは当たり前なんです。
(勿論結婚無くしても社会人として全うすることは可能ですが、又社会というものが絶対なのか、ハンナ・アレントのように「家」の延長であり真に公共性のあるものではないとする人もいてその是非にも異論は在るのですから、独身者が既婚者に劣等感を持つ必要など全くありませんが)。こうして、単純化すれば自己は他者に捧げ、他者は自己に捧げ、社会は成り立つ。これが「愛」でしょう。結婚式に白無垢の着物を着るのは、嫁ぐ「家」に染まる意志表示といわれますが、それは「社会」に捧げると同じですね。もう今までみたいに、与えられるばかりの自分ではありませんよ。与える人にもなりますよというメッセージでしょうか。白無垢は葬式の際の衣装でもあります(朝ドラの「朝が来る」でも、はつとあさが、母の葬儀に白無垢着てましたね)。これも身内の「死」を経験することで、今迄とは違ったものが見えた。「死」というより、生の先に何があるか・「生き先」が見えたということでしょうか。そこからやり直します・帰ってきましたという意味もあると思います。利己的な自分はもう死んだ。もう一度「他者」に向かって生き直すんです。どちらも死に装束なんです。
一人では出来ないことが、みんなでなら実現できる関係にある、だからそういう成果物を生む為に「おつとめ」(11)しますというわけです。ところが男はいつまでも「乞い」の夢から覚めず(マザコン)、「与えること」を知らず、女は既に「現実=社会生活」を見据えて「与え続けている」から、うまくいかない。一人じゃ出来なかった物や事が見えていないから、そのうち一緒にいる必然性が無くなったなどというはめになる。
第3章 結論
「振る舞い力」は、何も人生どう生きるべきか、生きる意味は、とそんな遠くに行かなくても、それこそ眼の前の家族、友人、他人・隣人に対してどう振る舞うかを知る事から始まるんだと思います。私は「演技」でない生き方なんてあるとは思えませんが、人がそれを「演戯」とよんで、下心があるとか嘘っぽいとか言うとしたら、その嘘でない行為ってどんなものなのか見せてもらいたいものだ、そんなものがあるのかと思ってしまいます。あるとしたらそれは、未だ人間未満のこどもの手のつけられない泣き叫びや動物の本能にのみ操られた条件反射でしょう。
「自己は他者を支え、他者は自己を支える」(「自己」は「他者」によって成り立ち、「他者」は「自己」によって成り立っているから)ということは、自己=他者という共通認識を得たればこそ可能な行為であり、その行為は社会という緊張関係の中で、ここでどう振る舞うかを選択した結果だと思います。ああもできる、こうもできるの中で、選択した行為だから演技なんです。だからいつでも自分が主人公なんです。役割はそれぞれ違っても。
(もっといい役がやりたかった。という考えもあるでしょう。そういう比較に基づく考えでは、一番いい役に着いたとしても、その外を見まわして更にいい役が見えればそこで又更にいい役を望むことになりきりが無い。これは偶然に振り回される生き方でしょう。1章の
「愛されること=与えられること」しか知らないから、より得になるものを追いかけ続ける。それで一生が終わってしまう。「愛すること、与えること」の歓びを知らずに。
しかも、一番よい役を演じるということは、裏を返せば、ハムレットの、何と言うことだ「この世の関節が外れてしまったぞ。何の因果だ、それを直す役目を押し付けられるとは・・」と言うことです。耐えられますか?その筋を通す(自分では無く、国家を存続させる為)には「自己実現」などという観念は邪魔になる。二重人格にも三重人格にもなる必要がある。彼はそれに耐えうる人格で無かったがために多くの仮面を被り、狂気とも思われる行為もした。自分の適性を越えた任を耐えた。時に我慢ならない運命に反抗しながらも少しづつ成長していった。出来ますか?いい役ですよ?「より条件の良い」所だけしか頭にない人間なら、さっさと投げ出しますよね。)
「愛すること、与えること」は、先に「いき=粋」のところで話しましたが、恋(乞い)のように本当に死に向かってしまうのではなく、「死んだつもりになる」という壁(行きどまり)をつくって、自分は本当は何を望んでいたのだという事を、自分が死んだあとにこれが自分だと納得できるものは金なのか財産なのかと、真摯に振りかえって見る、「ああ!こう生きればよかった」というものが見えてくる、死んだつもりだから生き直すことが出来る。古代からある「死と再生」の儀式もそう言う効果があるんですね。一度死んだと思ってみることで、本当に願っていたことが見えてくる。「振る舞い」は「舞い=踊り」につながるんですね。松岡正剛さんはこれを「負の効果」とよんで、枯山水(浄土)・詫び茶・定家の和歌などを挙げています。それらの誕生の背後に、地震などの天災後の穿たれた大地・漢様に敵わない敗者でも持てる自立の心・無常という世の裂け目を通過した体験(一度死んだ体験)などがあるとしています。
こうして、比較という誘惑に負けず、人生が自然の生と死という循環の流れの中にあることを、偶然(運命)に振り回されていると捉えず、むしろ自然に支えられている・生かされているという感謝の気持ちと発想を転換して、その流れに乗る=演技するところに生の実感(必然)を感じることが「生きがい」というものではないでしょうか。それを知って生きているものは後悔を持たない。運命を受け容れている。「教養」がある人間とは、その様な人を指すのではないでしょうか。
以前にもお話ししたと思いますが、福田恒存の「幸福への手帳」というもう絶版となっている本で、D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」の中から、チャタレー卿の妻であるコニーが森番のメラーズと恋をしこの男と結婚しようと決心し、それに反対だった姉のヒルダが二人に会った時のことが紹介されていました。
「かれはパンを切り終わると、腰を下ろしたままじっと動かなかった。ヒルダは嘗てのコニーがそうだったように、その沈黙と孤独とにこの男の力を感じた。テーブルの上には、小さな感じやすい、『力を抜いた手』がある。この男は単なる労働者では無い。いやどうして。彼は自分を演じているのだ。ヒルダは相手の様子を窺いながら、この森盤が「(貴族の)自分などよりずっと繊細な育ちのいい人間」であることを感じざるをえなかった。」
森番をしながら、彼(メラーズ)は自然と対話し、学習し「時と場所によって使い分ける振舞い力を即ち教養」を身に着けていたと感じるんです。
私達が対話し、忘れ物を見つけるのはどこからなんでしょう。先人の生き方を考えてみる・歴史を探ってみるのもその一つではないでしょうか。
次回は、「生命の歴史」を考えます。
注(9) 山崎正和「演技する精神」中央公論社 1983年3月
注(10) 福田恒存「人間・この劇的なもの」中公文庫 1975年4月
注(11) 「嘗て日本では「かせぎ」と「つとめ」が使い分けられていた時期がある、かせぎは文字通りその日の収入をい い、つとめは共同体の為に奉仕することだった。(松岡正剛「孤客記・背中の無い日本」作品社から≪新ボランティア≫参照)
そろそろ結論を提案しなければなりません。教養とは何だろう。
それを私は、生きていく上に必要な「振る舞い力」としたいと思います。広辞苑にも見つからなかった、というよりあと一歩の踏み込んだ解説が欲しかった「演技力」の事です。何故って、これが足りなければ教養は、唯多くの、広範囲の知識を取得して、理解した後、どうするんですか?ひけらかす?みんなに教える?目的がずれてますよね。
「自分に起きた事」に対処するに当って、「どう振る舞うか」によって人間の価値は決まるとも言われます。逃げるのもいいでしょう。自身で最良と判断してのことなら。戦うのもいいでしょう、相手と繋ぐ知恵を絞るのもいいでしょう。「身ぶり」で敵意の無いことを示すのも重要な方法です。色々ありますね。汚いといわれるやり方だってあるかもしれません。相手次第ですから。でもそこには筋の通った「道徳心」が必要ですね。自分の判断だったら何をしてもいいという訳じゃない。その「道徳心」の根本は何でしょう。これはカントにでも聞くしかありません。膨大な著作があります。でもみんながカントを読んでいなくとも、立派な人はいます。それは、自分と他者が全く同じものだという事を本当に信じているかどうかだけなんです。自分と同じ様に他者を本当に愛おしめるか。ではなぜ自己=他者なのか。そんな筈はないと思うのは当然です。でもそれは自分と他者の「違い」を見ているからなんですね。「比較」と同じ考え方です。これではいつまでたっても差別や敵対発想から抜け出せません。どちらも戦うしかない。
発想を変えて、同じ・或いは「似ている」「通じている」を見ることはできませんか?同じ人間じゃない!同じ兄弟じゃない!同じ男同士じゃない!同じ好みじゃない!同級生じゃない!同郷のよしみじゃない!同じ日本人じゃない!
あげていけばきりが無い。自分だけではもう本当にどうしようもない。その時同じ仲間なら、互いにそう思っていれば黙っていても当然手を差し伸べるでしょう。或いは敢えて差し伸べないかもしれない。何か意図があるのかもしれない。そういう風に「他者」を捉える、だからその「他者」の思いは自分の思いと同じなんだ、だからどんな結果も自分の思いから出たものと同じなんだ、なぜなら同じ人間なんだから、と感じられるようになれるか。
一生懸命頑張る。出来る努力は精一杯した。後はどんな結果が出ても悔いは無いという境地、天に任せる、という考え方ですね。その「任せた」天こそ先ほどの「自力の果てに見えてくるもの」なんですね。それは「自己」というものの限界であり、自己のいない世界なんです。「他者の力」なんですね。それって「死」の世界じゃない?「無」と言ってもいい。なんでそういう風に繫がっていくのか。それは人が地球の上に立っているのは地球があるからだと普段は意識していないのと同様に、生きているのは、裏側で死が生を縁取っているからなんです。そこから生をそっくり剥がしてしまえば死が残る。無が残る。生の果てには死が顔をのぞかせる訳です。「他者」は、他者から見れば私であり、「自己」が逆に他者になります。社会はそういう者の集合でしょう。つまり我々は互いに、自己の力と他者の力の両方で生きているという事なんですね。その見えない「他者」の部分を、自己の果ては「死」でもあるから「阿弥陀仏」と呼んだのが法然さんです。だからそこで出た結果は「自力」の果ての何かでもあるし、「他力」によるものでもあり、「阿弥陀仏」の力とも考えられる。それが「他力本願」というものだと私は理解しています。(「本願」は本来の願いですが、仏・菩薩が衆生を救済しようとする願いの事を指します)。だからみんな繫がっている。私=他者=阿弥陀になるわけです。ユングは、ある講演で、聴衆から「魂とは何ですか」と聞かれた。彼は「魂とは(私にとっての)あなたたちです」と答えたそうです。魂は、私と繫がったあなた達である、と言ったのですね。ちょっと脇道にそれました。
ではなぜその「振る舞い力=教養」が重要なんでしょうか。「演技力」が重要なんでしょうか。それは、演技が無ければ「自己」も「他者」も社会も成立しないからです。
私とあなたは同じだといっても、「同じ」を探そうという点で同じなのであって、社会に在っては互いに緊張関係を持って在るわけです。そこを「比較」から対立や競争に走っていくか、或いは自己の尊厳を捨てて、相手に阿って凭れかかるのか、演技とは、そのどちらでもない「自他が対峙しながらも、しかも相手に対し一定の慎みを持つといういわば第三の道を指し示す(9)」ものではないでしょうか。これでこそ社会が成立していると言えるのではないでしょうか。
従って「相手に対し一定のつつしみを持つ演技」は礼であり、悪を控えさせる道徳となる筈です。
同時に、このような「演技」があってこそ、他者の視線を意識した「自己」が生まれ、演技するに値する、尊重すべき「他者」も成立するわけです。きちんとした字を書く、最低限の化粧をして人前に出る、常に身支度を怠らない、最低限の他者の郷土の名前を読めるというのは尊重すべき他者に対する立派な礼儀という「演技」になります。
九鬼周造は、男女間の「媚態」が恋の成就に行き着くことを望むが、「意気地(相手の言いなりにならず、自己の独立を誇り高く堅持しようとする気持ち)」と「諦め(自分と相手との間が、何処までも不安定のまま留まるしかないことを受け容れること)」とによって、恋が完成してしまうこと(=終わってしまうこと=恋の死)に歯止めがかけられ、純化され、凝縮され「野暮」に行きすぎない緊張状態を維持されるのを「いき=粋」とよんだ。
何故恋は成就してはつまらないのか。成就したらその緊張関係が失われるからです。恋(乞ひ願う)の姿が離散して見えなくなる、つまり恋の実感が無くなってしまうからなんです。
「人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる、同時にそれを味わうこと、それを欲している(10)」からです。
双曲線のように限りなく座標軸に近づくが、永遠に触れない。その限りなく近づく感覚が生の実感をもたらすのです。座標軸は「意気地」と「諦め」の交差する十字線なのです。
こんなもの無ければ苦しむことも無いのにと思うのは、登場人物ではなく観客の立場です。
当の本人達には見えていなくとも、これがあればこそ恋を実感できるのです。何も縛りが無ければ唯の淫蕩に過ぎません。畜生です。それは、生き者が生と死の循環という、動かし難い縛り(宿命)の中で「生きる」のでなければ、逆に生の哀感(実感)は味わえないのと、同じです。宿命を土台にして踏ん張るんです。野放図に永遠の命があったり、すぐに抹殺されたりの人生に何の味わいもなく、足もともおぼつかなくなるのと同じでしょう。
突然ですが、結婚とは恋の緊張関係というものは消え、全く別の緊張関係を見つける生き方です。既にみたように恋の延長線上にあるのは「死」です。近松の「世話もの(心中もの)」を読めば恋の究極が見えます。でもそれを実際にやっちゃあ「野暮」なんです。対して結婚の延長にあるのは現実的な覚めた「生」です。「社会」や「世間」です。恋が「向き合う」のに対し、結婚は、恋う(=乞う)を越えて、二人の理想や「つとめ」といった、同じ方向を向きながらの「支え合い」です。そこにつくらなければならない緊張関係とは、ともすれば挫けがちな、「他者」を支える意志を持続させる為の互いの切磋琢磨の筈です。これは男性諸君に強く言いたいのですが、結婚は生活を楽にする為にするわけじゃない。二人でなきゃ出来ないものをつくる為にするわけです。当然独身以上の事をするわけだから、楽が出来るどころか大変になるのは当たり前なんです。
(勿論結婚無くしても社会人として全うすることは可能ですが、又社会というものが絶対なのか、ハンナ・アレントのように「家」の延長であり真に公共性のあるものではないとする人もいてその是非にも異論は在るのですから、独身者が既婚者に劣等感を持つ必要など全くありませんが)。こうして、単純化すれば自己は他者に捧げ、他者は自己に捧げ、社会は成り立つ。これが「愛」でしょう。結婚式に白無垢の着物を着るのは、嫁ぐ「家」に染まる意志表示といわれますが、それは「社会」に捧げると同じですね。もう今までみたいに、与えられるばかりの自分ではありませんよ。与える人にもなりますよというメッセージでしょうか。白無垢は葬式の際の衣装でもあります(朝ドラの「朝が来る」でも、はつとあさが、母の葬儀に白無垢着てましたね)。これも身内の「死」を経験することで、今迄とは違ったものが見えた。「死」というより、生の先に何があるか・「生き先」が見えたということでしょうか。そこからやり直します・帰ってきましたという意味もあると思います。利己的な自分はもう死んだ。もう一度「他者」に向かって生き直すんです。どちらも死に装束なんです。
一人では出来ないことが、みんなでなら実現できる関係にある、だからそういう成果物を生む為に「おつとめ」(11)しますというわけです。ところが男はいつまでも「乞い」の夢から覚めず(マザコン)、「与えること」を知らず、女は既に「現実=社会生活」を見据えて「与え続けている」から、うまくいかない。一人じゃ出来なかった物や事が見えていないから、そのうち一緒にいる必然性が無くなったなどというはめになる。
第3章 結論
「振る舞い力」は、何も人生どう生きるべきか、生きる意味は、とそんな遠くに行かなくても、それこそ眼の前の家族、友人、他人・隣人に対してどう振る舞うかを知る事から始まるんだと思います。私は「演技」でない生き方なんてあるとは思えませんが、人がそれを「演戯」とよんで、下心があるとか嘘っぽいとか言うとしたら、その嘘でない行為ってどんなものなのか見せてもらいたいものだ、そんなものがあるのかと思ってしまいます。あるとしたらそれは、未だ人間未満のこどもの手のつけられない泣き叫びや動物の本能にのみ操られた条件反射でしょう。
「自己は他者を支え、他者は自己を支える」(「自己」は「他者」によって成り立ち、「他者」は「自己」によって成り立っているから)ということは、自己=他者という共通認識を得たればこそ可能な行為であり、その行為は社会という緊張関係の中で、ここでどう振る舞うかを選択した結果だと思います。ああもできる、こうもできるの中で、選択した行為だから演技なんです。だからいつでも自分が主人公なんです。役割はそれぞれ違っても。
(もっといい役がやりたかった。という考えもあるでしょう。そういう比較に基づく考えでは、一番いい役に着いたとしても、その外を見まわして更にいい役が見えればそこで又更にいい役を望むことになりきりが無い。これは偶然に振り回される生き方でしょう。1章の
「愛されること=与えられること」しか知らないから、より得になるものを追いかけ続ける。それで一生が終わってしまう。「愛すること、与えること」の歓びを知らずに。
しかも、一番よい役を演じるということは、裏を返せば、ハムレットの、何と言うことだ「この世の関節が外れてしまったぞ。何の因果だ、それを直す役目を押し付けられるとは・・」と言うことです。耐えられますか?その筋を通す(自分では無く、国家を存続させる為)には「自己実現」などという観念は邪魔になる。二重人格にも三重人格にもなる必要がある。彼はそれに耐えうる人格で無かったがために多くの仮面を被り、狂気とも思われる行為もした。自分の適性を越えた任を耐えた。時に我慢ならない運命に反抗しながらも少しづつ成長していった。出来ますか?いい役ですよ?「より条件の良い」所だけしか頭にない人間なら、さっさと投げ出しますよね。)
「愛すること、与えること」は、先に「いき=粋」のところで話しましたが、恋(乞い)のように本当に死に向かってしまうのではなく、「死んだつもりになる」という壁(行きどまり)をつくって、自分は本当は何を望んでいたのだという事を、自分が死んだあとにこれが自分だと納得できるものは金なのか財産なのかと、真摯に振りかえって見る、「ああ!こう生きればよかった」というものが見えてくる、死んだつもりだから生き直すことが出来る。古代からある「死と再生」の儀式もそう言う効果があるんですね。一度死んだと思ってみることで、本当に願っていたことが見えてくる。「振る舞い」は「舞い=踊り」につながるんですね。松岡正剛さんはこれを「負の効果」とよんで、枯山水(浄土)・詫び茶・定家の和歌などを挙げています。それらの誕生の背後に、地震などの天災後の穿たれた大地・漢様に敵わない敗者でも持てる自立の心・無常という世の裂け目を通過した体験(一度死んだ体験)などがあるとしています。
こうして、比較という誘惑に負けず、人生が自然の生と死という循環の流れの中にあることを、偶然(運命)に振り回されていると捉えず、むしろ自然に支えられている・生かされているという感謝の気持ちと発想を転換して、その流れに乗る=演技するところに生の実感(必然)を感じることが「生きがい」というものではないでしょうか。それを知って生きているものは後悔を持たない。運命を受け容れている。「教養」がある人間とは、その様な人を指すのではないでしょうか。
以前にもお話ししたと思いますが、福田恒存の「幸福への手帳」というもう絶版となっている本で、D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」の中から、チャタレー卿の妻であるコニーが森番のメラーズと恋をしこの男と結婚しようと決心し、それに反対だった姉のヒルダが二人に会った時のことが紹介されていました。
「かれはパンを切り終わると、腰を下ろしたままじっと動かなかった。ヒルダは嘗てのコニーがそうだったように、その沈黙と孤独とにこの男の力を感じた。テーブルの上には、小さな感じやすい、『力を抜いた手』がある。この男は単なる労働者では無い。いやどうして。彼は自分を演じているのだ。ヒルダは相手の様子を窺いながら、この森盤が「(貴族の)自分などよりずっと繊細な育ちのいい人間」であることを感じざるをえなかった。」
森番をしながら、彼(メラーズ)は自然と対話し、学習し「時と場所によって使い分ける振舞い力を即ち教養」を身に着けていたと感じるんです。
私達が対話し、忘れ物を見つけるのはどこからなんでしょう。先人の生き方を考えてみる・歴史を探ってみるのもその一つではないでしょうか。
次回は、「生命の歴史」を考えます。
注(9) 山崎正和「演技する精神」中央公論社 1983年3月
注(10) 福田恒存「人間・この劇的なもの」中公文庫 1975年4月
注(11) 「嘗て日本では「かせぎ」と「つとめ」が使い分けられていた時期がある、かせぎは文字通りその日の収入をい い、つとめは共同体の為に奉仕することだった。(松岡正剛「孤客記・背中の無い日本」作品社から≪新ボランティア≫参照)