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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2019年08月02日
文化の両義性について
 文化の両義性

市民としての「つとめ」の一環で、或る神社の講社祭なるものに参列してきました。
待合場所で、今世間を騒がせているH議員にお会いしました。初めて目の当たりにしての印象はと言えば、想像していたようなアウラ(オーラ)は感じられませんでした。唯、アウラは「特別でない人」がまん延することで「特別な人」に付くもので、ネットやスマホが行き渡り、誰もが「有名人化」した現代では、「特別な人」が普通の人に見えてしまうことで、アウラは感じられないのは当然ですね(ウオルター・ベンヤミンは、複製時代には、芸術作品のアウラが消えるといったが、何か元々芸術なるものが在るとの前提でものを言っているから、真実を言っているように錯覚してしまいますが、実は逆で、複製の誕生でそれまで日の目を見なかった職人のアノニマスに日が当たるようになった=アウラが付いたのだと考えるべきでしょう)。

話がそれますが、彼の行動は、「世間」から見れば、あっちにふらふら、こっちにふらふら風見鶏の様に選挙民やマスコミにとって感じられるのが不快なのでしょう、あまり彼に対する好評は聞かれません。私の推測する処、今彼は、皮を脱ごうとしている蛇なのではないでしょうか。脱皮しないと死んでしまうあの蛇です。昔の全共闘のお遊びでは「連帯を求めて孤立を恐れず」がキャッチフレーズでしたが、彼は反対に「孤立を求めて、連帯を恐れず」の構えです。
それはいいのではないでしょうか。自分の覚悟に自信が無いから仲間を増やして、巻き込もうとするのです。信者を増やそうと布教するのも同じです。自信があればそんな必要はない。孤独を守らなければ(覚悟を決めなければ)政治などできません。そしてその孤独者同士が、個別案件で意見が一致すれば、党派など関係なく連帯を恐れず共闘するのです。互いの個を殺すことなく、和音を響かせるのです。これが、孔子の言う「龢して同せず」の意味でしょう。皆が孤独の覚悟を持てば、多数決などという暴力は必要ありません。皆の意見がポリフォニーを奏でるのですから。
今彼は、自分の持っていた信念というものは一体何だったのだろうか。振り出しに戻って考え直しているのではないでしょうか。自分の思っていることを実行しようとすればするほど、違った方向に行ってしまうという両義性を。

《政治について》
ご存知の通り今の、というより世界の政治は「代議制」をとっています。これが曲者なんですね。有権者が投票に行くのは結構なんですが、後は任せっきりで、監視もしない。人類における20世紀の最大の汚点は「専門家(科学者)」の波です。皆が専門家になりたがる。つまり責任回避したがるという事です。政治家も、行政も事あるごとに「専門家の意見を聞け」が合言葉です。そして責任を薄めたがる。本来、専門家は、結果なんですね。ところがいつの間にか学校の先生が、おまえこんなに偏差値が高いなら、医学部へ行けと無責任なことをおっしゃる。その結果医療者に適した人材の席を奪ってしまう。医療行為が好きだから、この道に進みたいのに、合格できない。そして横柄で、一人で大人になったかのようなクレバーだがワイズでない不適格医者が量産される。不幸なのは患者だけでなく、金持ちになるために医者になった本人も同じなのです。それは教師の道も、介護の道も同じです。こうして「この道しかなし、この道を行く」の「この性」の追求から、「結果」として生まれるべき専門家の道(「満足追求行動」)が、偏差値の壁で「目的」と化す(金銭豊富による「安全保障感追求行動(中井久夫)」の)。もっと悪い事には、これによってなりたい自分でないにも関わらず、「先生」と呼ばれ、あの人なら理想の行動をとってくれるだろうという「暗示」にまみれた誤解社会が膨らんでいく。あの人は東大出だから、あの人は何々の権威だからと、教育も宗教も医療も「暗示」に染まりきっている。フロイトも暗示効果には限界があり、うまくいってもやがてペンキがはがれ地肌がむき出しになるように再発することを回想している、そこから自由連想法を考え、無意識の変装した何気ない言葉から、隠蔽された抑圧を引き出した。
当選者の方も一度当選してしまえばこっちのもので、好き勝手なことを始める。このすれ違いと政党制の党議拘束が、悪魔の様な魅力を持ったファシズム(攻撃欲動)の誘惑を忍び込ませる原因なんで、どっちもどっちなんです。世界のほとんどの国が資本主義体制の基に国家を名乗り、排除の論理で探り合いをしています。その中で共産主義とか自由主義とか、国民国家のどちらを優先するかの順位の違うだけの国々が、どちらが正義かとしのぎを削っているわけです。そして国民を優先すると主張する国は、実際は国家を優先し、個人の自由を優先すると主張する国も、実際には国家を優先しているわけです。仮に世界に1国しか無ければこんな議論は無用です。2つ以上、つまり外部が発生すると国家概念が必要になり、排除の論理が出てくるわけです。
ここで、代議制の話をすると、終わらなくなるので別の機会にしたいのですが、最低限言っておかなければならないのは、国民の側には「選ぶだけが政治ではない、《政治の様に生活をする》。本来両者の区別など無いのだから。」代議士側には「票稼ぎが政治じゃない。《生活の様に政治をする》。本来両者の区別など無いのだから。」ぶっちゃけ、「俺は国家の為に政治をしているのだから、家庭など構っていられない。」も、「仕事・家庭が忙しくて政治のことなどかまってられない。」もどちらも、両者を区別しているから生まれた勘違いで、アウトなんですね。だからソクラテスは民会(議会)に行かず、広場に行って若者と議論した。彼は政治の様に生活し、生活の様に政治に向かった。奴隷と女性に選挙権が無く、仕事を奴隷がすることと侮辱して、政治だけをしていた、欺瞞に満ちた「デモクラシー」なるものの正体を嫌っていたから。彼がいつも悩まされたという「ダイモン」なる神々のお告げとは、常に意思決定をするたびに、反対をする声が聞こえるというものですが、「宜なるかな」ですね。どんな決定も必ず反対側に犠牲者があって善悪が成り立っている。一番いいのは決定しないこと(いじくり回さないこと)だ。その次にいいのはできるだけ犠牲者を保護することだ。だから彼は、何も書を残さなかったし、思想体系というものを持たなかった(プラトンは彼を利用しただけで、後の弁証法と言われる詭弁を使って、生活の中にこそある「かけがえのなさ」「取り換えのきかなさ」即ち「この私」の「この姓」を消し去り、イデアという夢想世界を支点にした体系を作りあげた。個をイデアの基に埋没させてしまうものです。それはカントの「物自体」とは似て非なるものです)。ソクラテスの信念を知りたかったら、柄谷さんの言うように、ディオゲネスの方を見た方がいいと思います。ソクラテスは何の積極的な事も言わなかったが、広場で話しかけたことは、若者の主張に対し、その主張に対するアンチノミーを提示し、自明と思っていたことの牙城を再点検させることのみです。
産婆術ともいわれますが、これによって自己の考えのディコンストラクションを促しただけです。これにより、当時のアテネのデモクラシーの自明性の欺瞞がくずされることになり、危険思想家として処刑されたのは当然ですね。
 崩されたのは、公人と私人の両義性を持つ(分ける)ことの自己欺瞞で、それによって隠蔽されていた公人でも私人でもない「自己(かけがえのない、この性)」に目覚めさせることです。

《言語世界(象徴世界)に産み落とされて》
 実は人間がこの世に産み落とされて、本能というオートマチック行動能力(本能)なしで生き延びる為に、言語の世界を強制されて以来、(言語で出来た=初めに言葉ありきの)文化という装置を祖先から与えられて以来、自己という統合性(ホメオスタシス)をもらった代わりに、大きな疎外も同時に受け取ったんです。つまり自己とは、本来無いもので、唯どうしても内から溢れ出てくる欲動をどう表現したらいいか判らず、人間は、その表現の支点(支えとしての場所)として「自己」なる虚構を創った(デカルトのコギトエルゴスム)。つまり対概念としての「自己(自我)」を発明してようやく、この内なる燃えるもの(「主体」)を、世界との「差異」を、外部へ向けて発信できたのですが、それが出来たつまり「自己」と「主体」が二重化された事で、永久に母の胎内にあったころの、もっと言えば、宇宙に無機質としてあった時の一体性は失われました。秀吉の辞世の句と言われる「露と落ち、露と消えにし我が身かな、難波のことも夢の又夢」の夢こそ、文化であり、言語界を表しているんですね。それは自身の主体(単独性=この俺というものは何なんだという疑問)を囲いとしての自己という表現(虚構=嘘)で表した瞬間に生まれた、疑問であり、淋しさです。結論だけ言っておくと、「物は事」であり、精神も、文化も機械と言っていい。我々の認識は、ゲシュタルトなんです。中島敦に「文字禍」という短編がありました。ある文字をずーっと見ていると、それが今まで機械的に読めて意味も感じていた、その感覚が飛び、その文字が唯の模様に見えてきてしまうお話でした。ゲシュタルト崩壊の瞬間ですね。唯の模様が、意味あるものに見える。それはネアンデルタール人に無く、新人類にあった象徴能力ですね。
 象徴と言えば、文楽「菅原伝授手習鑑」での寺子屋の段、道真の書の弟子・式部源蔵が、師の息子(秀才)を守る為、寺子屋の男の子を偽って差し出し、時平の使者松王丸が連れ去り亡き者にすることになるのですが、実はその松王丸は、道真に恩があり、打ち首にしなければならない秀才の身代わりにさせる為、前日に寺子屋に実の息子を送り込んだ張本人でした。松王丸夫妻が犠牲とした実の息子に対する野辺の送りの、母の踊りは涙を誘わずに入られません。「ういのおくやまけふこえて・・・」寺子屋は「いろは」を教える道場であり、この連想の中に、無き子・小太郎の死が目に見えぬ重みをもって作用する。白衣の母はこの重力の周りで踊っている。或いはこの重力を静かに踏んで踊っている。「意味」と意味を越えているものとを、「踊り」が繋ぎ、「踊り」が象徴する(片山敏彦「象徴主義」)。夏の盆踊りもそのような祖先の死霊を踏み抑えて(祖先の霊と触れ合って)踊るものでしょう。
 フェチシズムの能力もこの象徴力です。フェチというと、すぐに異常性愛を思われる方も多いでしょうが、とんでもない。異常も正常も、都合でどちらかを正常と決めた瞬間に発生した対概念に過ぎません。この議論も深入りするつもりはありませんが、フェチは、正常中の正常と思われていることにごろごろしています。「貨幣」「言語」はその代表的なものです。貨幣フェチでない人なんか、殆どいませんね。貨幣は、「それを持っていれば、物と交換できる権利の券」ですから、本来私の作ったものや得たものが、他のものと交換できるかどうかなんて、相手次第で全く判らない賭けの世界なのに、その不安に耐えられないから、強制的に、交換できると決めてしまった・権利を与えてしまった券なんですね。この券を持っていれば、交換できるかどうかわからないという不安から解放され、優先的に実現する。金を見ていれば勝利が見えてくるのです(約束事に過ぎませんが・虚構ですが)。あたかも、透ける下着や網タイツの目の向こうに、在りもしない「ファルス」があり、縫い目をくぐってその先に行けると夢想する下着フェチの様に。
だからこそ、60年サイクルぐらいで、「ここらで一旦、貨幣の虚構性を戻して、清算しときたい」と信用先送りの不安が頂点に達するものなんですね。これが恐慌ですね。コンドラチェフの60年周期説。

《言葉の両義性》
さて、横道に逸れるのもたいがいにして、或る観念を獲得してその世界にどっぷりつかっていても(言葉フェチ)、真面目にそれを追求すればするほど、主体が本来望んでいた方向と逸れていってしまうものなんですね。何故かというと、それと対概念の片方しか見ていないからですね。本当は両方とも同じもの、或いは両方を合わせて。どちらにも偏りすぎないようにバランスをとっていかないと意図しない悲劇(ギリシャ悲劇はエディプス期の、シェークスピア悲劇は壮年期(去勢後の悲劇)を招いてしまうんです。本来方便なのですから。これを調整する方法を人は、「中庸」とか、「たかが人生、されど人生」とか言います。一休禅師は「年々に咲くや吉野の花桜。木を割りてみよ花のありかを」と詠んで、美と言ってもそのありかがある訳じゃない。いくら桜の木を割ってみても判らない。といいました。
 フロイトは晩年になり、無意識に抑圧されている欲動を、言語化すれば(意識の表舞台に引っ張り出せば)神経症は治癒されるという信念(快感原則)が、戦争経験の悪夢に反復脅迫的に襲われる患者の治癒に役立たないことから、とうとう、「死の欲動」という新たな概念を引っ張り出さざるを得なくなりました。「死の欲動」は、「生の欲動=快感原則」の彼岸に当たる対概念です。対概念を無視していたことで限界に来たのです。どちらも相手が無ければ成立しない虚構です。しかしそれが無ければ、文化の世界では片方を嘘にしてしまうような、必要な概念です。空の青、焚火の炎、いつまでも続く海岸線、見ていればいるほどストレス値は下がります。これこそ攻撃欲動が見ている破壊のその先の死への、無機質への欲動なんです。そして攻撃欲動の追求の先にあるのが、罪悪感としての攻撃欲動の抑制、つまり「超自我」です。この自然の仕組みを、人類の歴史に垣間見たのがカントです。彼の世界共和国は、国際連盟や国連のポリシーとなっていますが、今一つ評判が悪いのです。それはカント批判の常套句「現実的でない」です。私に言わせれば、冗談じゃない。そんな簡単に平和のような努力を要する(攻撃欲動を放し飼いにするような簡単な怠けた根性と比べて)理想が実現できて溜まるかです。理想と現実も対概念で、両方とも同じもので本来区別などありません。それを、相手を下げることで自分を比較優位に見せるのと同じで、互いに非難し合うのです。何の中身もありません。現実現実という者は、結局、努力をしたくないのです。早く決着をつけてしまいたいのです。本当はどちらでもいいのです。それも無理もありません。死の欲動の狡知に嵌まっているからです。しかしそのような勢力が攻撃欲動を強め、再び大きな犠牲を強いることになります。このような流れは人間にはどうしようもありません。唯その先に「超自我」が強まり、より強固な「良心」となって攻撃欲動を抑制するのを頼むしかないのです。それをカントは「自然の狡知(計画)」と呼びました。犠牲を出すのですから、「悪巧み」とも言っています。

 突然ですが、H議員はそろそろこの、理想や現実といった信念の両義性に気付き始めたのではないでしょうか。中身のない議論に飽きたのではないでしょうか。そうはいっても、脱皮した後に待っているのは、攻撃欲動に満ちた対概念の世界です。どう乗り切って、石橋湛山のような覚悟を持った政治家になれるのか、見守ります。
 送る言葉は、「孤立を求めて、連帯を恐れず」です。
烏合の衆に埋没せず、孤独であれ。仲間を作るな。個の判断を貫け(孤立を求める)。党議拘束に縛られず、その問題に限って対立政党であろうと、意見が一致すれば共闘する(連帯を恐れず)です。











2019年03月27日
「僕が笑うと」は、ぬくもりの中に戦争責任を消してしまった。
 関テレ60周年番組「僕が笑うと」を見ました。この手のドラマには大変弱く、懐かしさと、愛情に涙が止まりませんでした。自身の幼いころの欲しくてももらえなかった愛情に浸りきっていました。大変幸福な、安らかな時間を過ごさせてもらいました。
 イノッチの大根役者ぶりも、これから将来の演技の主流になるのかもしれませんね。9代目市川團十郎は、人形浄瑠璃から発したと言われる歌舞伎の誇張的な、人形的な演技を、人間的・写実的なものに変えようとして大根役者と言われたようですが、今はこの写実的が(歌舞伎はそうでもありませんが)役者評価の基準になっているように、彼の演技も唯のど素人か、はたまた新時代の「リアル」の基準になっていくのでしょうか。

 ともあれ大変に泣かせてくれたこのドラマですが、そしてこれから何度でも見たくなるドラマですが、一方でこの中でよそ事の様に、悪魔の様に扱われていた戦争こそ、この我々の生き方が齎していたんだなーという事も痛切に感じざるを得ませんでした。
どうしてもこのぬくもりを守りたい。その甘えこそが、私たちの共同体を守る=外の論理の排除=暴力肯定に、そこを見たくはないけれど繋がっているという事が。私はそれを、ドラマの中の「いじめっ子」の退治や、逃げ足の速さや、憲兵退治の方法に見ました。「強いものに勝つにはこれしかない」という、既成事実を先に作ってしまいその後で反省して、ボールを相手に預けるという方法は、忠臣蔵の頃からの巧みなやり方でもありますが、「なーなー」の村社会内部では通じても、本当に何物か判らない外部を相手にしては通用しないと思いました。であれば、気の遠くなるような困難ですが、世界共和国のような地球全体で、国家を越えた共同体を作り、争いをなくそうという発想も、地球内部では有効だと思いますが、それでも大きくした村を主体とし外部を排除することに変わりはありません。また外部は人間とも限りません。ウイルスかもしれませんし、別次元かもしれません。言葉や音や色が通じない相手かもしれません。

 ではどうしたらいいか。答えは簡単かもしれません。「排除」から「共存」へでしょうか。しかし言うは易く、「行うは難し」の通り大変な一人一人の覚悟が必要です。共存を覚悟することは、「諦め」ができなければなりません。「抑圧」ではありません(抑圧では、いつかどこかに必ず「回帰」します)。諦めは、限りなく広がる(他者の)欲望の実体を知り、それが自分のものではないことに気付き、自分のふさわしいサイズ(分・ぶん)を自分で決める事です、自分なりの本当の欲望を知ることです。それは思い込みや思考停止で固くなった心の下層にまで降りて、「超自我」の再点検をするという困難且つ辛く嫌な仕事です。それはこのドラマで言えば、感動的で素晴らしい家族愛の否定にも繋がりかねません。そんな世界に降りていきたくありません。でもこうなったら(男たちの身勝手な一代限りの欲動の後始末に付き合って)行くしかないのです。そうしなければ、あの素晴らしい家族愛の影に、人知れず犠牲になって消されていった幾万のアニマ(魂)に知らん顔をすることになるのです。心はそれを感じられるから、負い目を感じ、それ故生きられなかったアニマの眼を通して涙を流すのです。もしこんな不合理な「心」が無かったら、全てアルゴリズムの論理に即して世界は動き、合理と合理がぶつかって、すぐにも人類も滅亡に向かうでしょう。事実世界は心の無い時代に突き進んでいます。そんなの「ダサい」と吐き捨てて。

 心の深層というのは、既に私ではないので、存在するとは言えない領域なのですが、生と死の区別もない世界です。両者は同じものの違う面から見たものであり、「生」とは、遠くの声(未来)に引っ張られ、そこにありそうでない「無」に向かって突き動かされる「ゆらぎ」であり「よそ見」である欲動であり、エントロピーに逆らう逆因果性(索引性)の動きです。一方「死」とは元いた、在ったところ、即ち無機質に戻ろうとするタナトスの向かうところです。それは空や宇宙の深い青を、海岸で何時間も眺めていられる海の青や、唯の邪魔者でしかないアルプスや富士の山や、キャンプファイアーでいつまでも眺めていられる焚火に引き付けられる欲動です。いずれにしてもその向こうに見ているのは我々の根源である無です。死と生が同じという事は、「物が事である」というのと同じことです。それは言い換えれば光が波動(事)であり、且つ粒子(物)であるという事です(世界は「ゆらぎ」で構成されていると言われます。物が静止して見えるのは、我々のゆらぎ(振動数)と、対象のゆらぎの波長が合っているからです。ですが逆に言えば、我々が知っている世界はそれだけしかないという事でもあるのです)。

話が広がり過ぎましたが、こうした意識の底に降りていかない限り、心の間違いに気づけませんし、正す勇気も持てません。人間のサイズに合った自由(倫理)に到達できません。互いのこころを、そこまで降りて通わせた後に、即ち「気が合った時に」(もうその時は対立などあり得ません)、音合わせが済んだ時に自然と演奏が始まる(意見がまとまる)のが「龢(わ)して同せず(孔子)」です。意見が違っても、仲良く同するという意味ではありません。龢するとは、異なった音程を持つ笛を同時に演奏して(排除せず、無理やり同一化もせず)、そこに調和を見る事ですね。こういう心の使い方がだんだんわからなくなっています。悲しいことです。
暖かく感動的な生(家族)の影に消えていった無念の魂達に、哀悼の意を!




2018年01月04日
新年に寄せて
新年おめでとうございます。
年々儀式らしいことができなくなりつつあり(儀式には仲間が必要ですから、全てにおいて「分散」が特徴の新しい「中世」に入りつつある現代の宿命でしょう)、寂しいお正月ですが、皆さんは如何お過ごしですか。

それでも、あんなに馬鹿にしていた第9の良さも感じられたり、変わらぬ自然の感触、山際に顔を出す大きな月や、富士の一日のスペクトラムをゆっくり眺め言葉から離れた感覚を懐かしむこともできました。テレビも好きな方で、新海誠さんの「君の名は」には、改めて現実の「裏」を想像することの新鮮な喜びを味わいました。

「裏」とは「心」のことですね。「甘えの構造」で有名な土井健郎さんの「表と裏」という本で改めて知らされました。彼によれば、オモテが顔であれば、ウラは心(影)ということになり、羨む(うらやむ)とは、ウラ(心)が病む、恨むは、(相手の)ウラ(心)を見るということになります。「君の名は」ではたった数行の記事(現実=オモテ)に隠されたウラ(心)を、言葉や映像(虚構)を使ってオモテに引っ張り出した試みでしたね。科学的に証明などできる事ではありませんが、否定もできない。信じるか信じないかの世界ですね。この場合信じるというのは、なにもあの物語の構成人物や舞台が本当に居たり、あったなどという意味ではありません。それは虚構(象徴)ですから。しかしあれ(象徴的表現)に反応して心が動くという、ものの存在は信じられます。これが宣長の言う「もののあわれ」ですね。この「もの」とは、物でもなく霊でもありません。人間だけが感じる、或いは高いところ、遠い所に引っ張られる何ものかです。本能と行動がぴったり一致した動物の大部分にはない、新人が進化しつつあるときに我々を引っ張り、ベクトル(方向)を持たせた何かです。
勿論そこに「神」を想像してもいいですが、そういったとたんに、嘘っぽくなり、何か人格的な塊を想像してしまいますから。現代人にはもう神は見えませんし、そういうものを、もう当てにしてはいけないのです。ましてそれを口実にして徒党を組み、仲間に引き入れようとするなど、自身の行為に自信が持てない証拠です。単なる正当化です。それは先ほどの、持たされたベクトルを逆方向に進める、地上に引きずり降ろそうとする、世俗化行為に過ぎません。

さきほどのテレビで、二千何年かには思ったことが、行動を起こさずにドンドン実現できる、そのような時代は、もうすぐそこに来ているといったバラ色の未来を予告するCMが放映されていました。こういうことを、何の疑念もなく「良いことをしている」と盲信して、受け手の方も、「へー、便利になるね。早く来てほしいね」と感じている。この風景が現代を象徴しますね。


「便利だよ、楽だよ」という方向は、人間を「家畜化」する方向ですね。ネオテニーのお話(2016.5月)のところでしましたが、家畜化されることで餌の心配はいらなくなり、オオカミは犬に、イノシシは豚に、虎は猫に、チンパンジーは赤ん坊化して人間に、方向的に退化していきます。「食う」為の心配はいらなくなるし、囲われているから「食われる」心配からも解放されます。人間も自らのベクトルの変更で、あの遠くから引き付けられる声を忘れ、地上の酒池肉林の世界に引きずり落とされたい本能的欲望まっしぐらです。

「便利だよ、楽だよ」の囁きは、官能的な美しく優しい天使の顔をした悪魔で無ければいいのですが。その誘いに乗った人類は、ますます筋力も思考力も退化して、やれストレッチだ、消毒だと便利に、清潔になればなる程に倍増する、自らのケア作業に・リスクヘッジに、丸一日を費やしても遣りきれない奴隷の様な日々を送り続けるのでしょうか、それともなすがままに退化して、心がどんどん後退して、遂には「本能」と一致するところまで後退し、本能を飛び出た部分(精神)は完全に消え、動物の仲間入りしたのはいいけれど、筋力も思考力もすべて捨ててしまい、野生の中では嘗ての洞窟の中で「食われる側」として隠れて怯えていた頃よりも更にみじめで、一日と持たず肉片と化してしまう、おいしい肉の塊となって一貫の終わりとなるのでしょうか。

嘗てそんな変わった動物が何万年か存在して、霊長類だなどと勝ち誇っていたが、宇宙の営みから見ればほんの一瞬に過ぎない間のことで、信じるに値する物語かどうかもわからないと、どこかの星の変わり者か、奇跡的に生き残った狂人が、想像力を駆使して、その時代に引っ張り出すかもしれませんね。「君の名は」と。その時が存在すれば「何かそんな記憶があったような気がするが、思い出せない。何かが読んでいるようだ。」と誰にも相手にされないドラマが繰り返されるのかもしれませんね。

渡辺慧さんは、その人間だけのもつ、未来に引っ張られる特徴を「人間の索引性」と呼びました(「生命と自由」岩波新書)、稲垣足穂は、「地上とは想い出なり」(「天族ただいま話し中」角川書店)としました、森鴎外は「遠くを見る眼」(「安井夫人」)と言いました。そして、木村敏さんはその主著「時間と自由」のあとがきで、「私たちが自分の人生と思っているのは、誰かによって見られている夢ではないのだろうか。・・この夢の主は、死という名を持っているのではないか」として、私たちの傍らに存在しているらしい高次の現実を述べられていました。

私は凡人の為、若いころ運転免許を取り立てで、真っすぐ進むのが難しく、両側の白線やセンターラインを見ながら、ハンドルを右往左往させて運転していたところが、友人から、「遠くを見ないから、真っすぐに進めないんだ」と諭されました。我が意を得たりと感心しましたが、友人は今でも、「そんなこと言ったかね」ととぼけています。
長話が過ぎました。皆さん、天使の顔をした悪魔が見える眼、遠くを見る眼、そこに山があるから登るこころを養いましょう。



2017年10月03日
核と刀と保守
アメリカで銃乱射事件があり、50人以上の方が亡くなられたと報じられました。
 アメリカの病だとマスコミは報じますが、要するにわからないということでしょう。病というなら健康や正常を想定して言うはずですが、その正常とは何なのか考えていっているとも思えません。

 「種子島」が日本に上陸して以来、日本は軍備拡張を加速し、当時世界有数の軍事大国にまで上りつめました。気違いだった信長なら更にこれを加速させたでしょう。ところが家康一人の考えだったかわかりませんが、少なくとも臆病で争いを好まなかったまともな人間だった家康は、銃を捨て刀に還る軍縮を行った。刀は人間の身体に密着して、自分・人間を恐れさせもし、敵から身を守る道具でもあった。しかし銃はその域を超えている。大量に殺戮可能だし、自分側はチャッカリと身を切る危険も少なく、もう自分の身体を張った道具から逸脱し、身体の道具から、頭で考えた「抽象」の道具になった。ゲームと同じですね。抽象だから身体で測れるものではなく、限度が無いから野放図だ。行きつく先はてめーの手に負えない独り歩きの「核」かはたまた、途方もない破壊兵器に向かうだろう。現代は完全に「実感」というものから「解離」している。破壊兵器で言えば、人の恨みはせいぜい「健康」な人間なら、多くても10人殺したら自分のこころが壊れてしまうくらいのところまで行くでしょう。それが限界なのが「刀」であって、銃は人の恨みを晴らす限度を超えている。晴らすどころか面白くさえなって、恨む相手を物扱いだ。そうでなければもう気違いでしょう。まして核兵器など人を人とも思っていない。一国を滅ぼす程の恨みを持つということは、もし本当にそんなものが抱かれるとしたら、やはり妄想であり、統合失調症患者さんたちの持つといわれ「得体のしれない何かが、私を操っている」というその得体のしれない巨大な何かを持っているとしか言いようもない。ということは我々国民がそういう政治家を選んでいるのだから我々が率先して、精神科の門をくぐった方がいい。日本人の大好きな、何もできなくても金と女の臭いのしない元政治家が、罪滅ぼしに今頃になって反原発などと叫んでも、それは日本という火山大国では危険であるというだけで、どこかの国のように何万年も大地が動かないところならやろうという魂胆なのだから、結局わかっちゃいない。保守などと言って、美しい日本などと言っている輩が「竹やりで国が守れるか」などと矛盾したことを言っている。人間の進歩などという訳の分からないものを妄信している、物知り顔のはた迷惑親父が、よその政党グループを「ポンコツ」などと言って偉そうにしている姿は、保守などという姿とは程遠く醜い。解離性自己同一障害に近い。余程そのポンコツと言われた人たちの方が、真摯に国を憂い、古武士の態をなしているでしょう。もう彼らは、一時の社会主義のバカな夢など見ていないでしょう。
本来政治というものは、「人にものを強要するという悪」です。それでもしなければならないから「必要悪」です。だからその取扱いは、一番謙虚にならなければいけないのに。
保守とは、「姿勢」のことだと福田恒存は言っていた。


 抽象の暴走は、名誉欲、権力欲などあらゆる面にまかり通っていて、やっていることが異常だと思わず狂気を生きている人間が、こんなにも増えた時代は珍しいのではないでしょうか。
思わず、核武装や権力欲まで行ってしまいましたが、刀に話を戻せば、刀は保守の象徴です。銃は身体から離れた、独り歩きの狂気の象徴です。ゲームも同じです。野球からボールを取り上げ、画面の中にバーチャル化したときから暴走は始まっているのです。

 俺が何とかしてやろうなどと、考え始めるのが罪の始まりです。
目の前の、必要な問題、掃除や身支度や降りかかるもめごとなどを片付けて、テレビなどに惑わされず、何もしないでいることを楽しめるのが、本当の大人というものでしょう。それは身体から離れては感じられません。


2017年09月19日
精神分析をかじって
必要に迫られて心の問題を考え始めて、9ケ月になります。まだまだ本当の意味で納得という段階に迫ってはいませんが、簡単な途中報告をします。

1. 心の問題の全体像
「こころ」と「からだ」を分けて考えるのが間違いの元。しかしながら説明とは認識してもらう為のものである為、分解して言わざるを得ない。つまり便宜上分けている(その弊害が現代をも覆って人類の自閉状態をもたらしている)のだから、常に相反する側を一緒に連れて考えを進めていかなければ陥穽に落ちる。
と、断った上で語り始める(言葉とは象徴機能の優れた道具ですが、論理矛盾を認めたら支離滅裂になるため、論理的であらざるを得ないのです。そこが言葉の優れたところでもあり、限界でもあるのです。唯、優れた文筆家はその限界の彼岸に立って向こう側を感じさせてくれる能力を持っているものですが。)。
そこで「こころ」と「からだ」を一緒にした言葉として「身(み)」という言葉を使う方がおられますので、ここではそれをお借りして結論だけを語らせていただきます。

 身は身体から作られた。それは新人の進化の過程と深くかかわっている。生物としての本能の中にどっぷりとつかっていた幸福の黄金時代から、不安の時代へ、そして抑圧の時代へと変遷していった人類はそこではじめて心を持つことになった。それは「食われる存在」から「食う存在」に更には「支配する存在」への変遷と軌を一にする。大きなきっかけは、身体が大きくなったり強くなったりしたのではなく、鏡に映った自分が、自分の事であると知る能力を磨いたことだった。それが判るということは、自分を見ることができるということであり、自分が見えれば相手が唯の生き物ではなく、自分と同じように或いは自分と違って考え・行動する生き物に見えるということになる。ここで「見る自分」と「存在する自分」を分離してしまった、距離を作ってしまった新人類は「身心分離」を獲得し、その見返りに「自然との疎外感」を手に入れたのです。分裂ですね(その両者を繋いでおかないと発狂してしまうので、神なり神さんなりの統合体や超自我や主観的自己なりを作り上げ、両者の矛盾した意志を聴く自己を作り上げた)。
そして、相手だったらどう行動するかを読んで(共感力)、先回りして騙すということができるようになり(時間差・数えられる時間の利用)、自分より遥かに大きなマンモスさえ、集団の力を使って、殺すことができるようになったというわけですね。「食われるもの」から「食うもの」への変身です(恐怖からの解放というのは当たらないと思います。本能の中にいた新人は本能的に食べられていただけでしょう。心は未だ分離していませんから。唯、小さな小さな萌芽はめばえていたでしょう。植物にもこころがある程度には)。
鏡の目の前に移っている存在は、姿かたちも動きも全く同じ、同じということは私の似姿、影であるということを知った。やがてそのような存在は、全く同じようでなくとも、どこかの点で似ていれば、私と繋がり共に行動し、指標になりうる。
 象徴を感じ・見るというこの能力が言葉や、道具や、建物や馬や、戦車やありとあらゆるものを作り出すヒント(連想作用)となり、閉鎖的ではあるが象徴に密着した文化、そしてより広範囲かつ洗練された単純な文明を作り上げてきました。
つまりそれは既に出来上がっていた本能という仕組みから、飛び立ち、一から自分たちで別のルールなり組織なり、構造を作ることだったわけです。それが社会です。

 話は戻って、両者を繋ぐ神なり、主観的自己(自我)なり、いずれにしても「作ったもの」ですから、常に磨きをかけ続ける必要があります。自分があると思わなければすぐに消えてしまう(愛と同じですね)。元々本能に任せていた身体から、象徴能力に引っ張られて変身してきた、人間となった猿ですから、「腑に落ちる」ような体験は、社会生活からはなかなか得られません。「腑」とは身体であり、内臓ですからね。それに反旗を翻して本能の外に出たのですから、両者は矛盾しない訳がありません。神のように高みにのぼり、清く美しく、あらゆるものを解放にしたいという衝動と、本能の赴くままに近親姦やら殺人やら、騙しやら、吝嗇やら、オナニーやら、性行為やら、破壊やら、めちゃくちゃにしたい衝動の両方が共存した、つまり「善悪の彼岸」に立った、極めて自己放棄的であり且つ自己求心的な矛盾存在が人間なのです。

 (いまのところ)一人ではいきる範囲が限られる為、集団で生きなければならない人間は、社会と、その社会活動できる状態に持っていく為の「保育器」である家族などのルール(役割)を守らなければなりません。その為に不都合な衝動は、我慢します(抑圧)。機会均等な平均的な人間などあり得ませんから、大きな抑圧、強い抑圧をしまい込んだ人もあれば、少ない抑圧でいられる人もあります。これも自身の衝動の一つですから別の自分といっていい。あまりにその抑圧対象(コンプレックス)が強烈で耐え切れなくなると(或いは強烈な恐怖体験)、一つの別の人格にまで成長させ、その苦しみをそちらに背負ってもらいます。これが二重人格(今では「解離性自己同一障害」と呼ぶようですが)です。ひどい人は20もの別人格を持つ人もいます。あまりに成長して、自分に命令するほどになることもあります。それでも20の命令を聴く「主観的自己」は未だ存在しており、曲がりなりにもつながりは保たれています。それが消えそうになり、怯えて、考えがまとまらなくなり、妄想や幻覚などが起きたり(陽性)、行動や思考の意欲が低下したり(陰性)して、現実と非現実との区別がつきにくくなるのが統合失調症と呼ばれる精神病でしょうか。

 まだまだあります。一旦本能から飛び出し、生きている実感というものに距離をとった(認識)人間が、何とかして嘗ての現実感を取り戻そうとして作り上げた人工の仕組みである文化・文明・社会・家族・愛・血縁幻想・秩序・法などなど様々な仕組みを作り上げ謳歌してきた近代人が、どこで間違ったか本来の「生の実感(祭り・フェストゥムに代表される)」を、繋げる「共感」から、比較する「優劣」に勘違いして追求し始め、言いようもない疎外感に苛まれ始めました。それでも未だにこの優劣の快感から逃れられず、相も変わらず、オリンピックのメダル(うんざりですね、二言目にはメダル、メダル、メダル)だの高校野球(勝つこと・滅私奉公の精神(?)力)だの政治権力だの、リッチだの、要するにウオーコップの「死回避行動」つまり「安全保障感追求行動」に一生を「賭け」、勝ち組と負け組の差に充実感を感じるようになってしまったんですね。それでも「賭け」という部分に主観的に生きる実感は感じられるがために、この魔法から抜け出られないんですね。
 勿論根底には肉体的にも社会的にも死滅の恐怖があります。しかしこの比較追求と差別達成は、永遠に根本問題の解決にはならないんですね。この議論はここで止めます。いずれにしてもこうしてこの悪魔の循環に入っている人は、限りなく恐怖解消の為、反復脅迫を繰り返すでしょう。経済的優位に立つ為に、向いてもいない医者になるとか、本人は絵本作家になりたいと言っているのに、こんなに高い偏差値なのにもったいないと東大法学部を受けなさいと勧めるあきれた教師は後を絶ちません。その為に偏差値は低くとも、医者や法律家に本当にふさわしい人格を備えた人の機会をどれだけ奪っているか。患者や被疑者の不幸かもしれませんね。そしてこの秩序という名の社会を、或いは世界を挙げた「悪意のない暴挙」の犠牲になる負け組たち、或いは勝ち組にあっても、戦いに傷つきこころの障害を得た人たちに多くのゴミが集められます(病院・施設)。
彼らは、人と人を比較・差別して引き裂かれた犠牲者ですから、当然世界からの解離(部分的)に向かったり(=うつ、発達障害など)、燃え尽き症候群となったり(祭りのあと、後の祭り=内因性うつ)します。又戦いの最中に(祭りのさなか)に生の充実を感じすぎ、情緒不安定や爆発的激怒、回りくどい会話などコントロール不能に陥ったりする(てんかん、ヒステリー、躁うつなど)。フラッシュバックなども、症状としては祭りのさなか(イントラ・フェストゥム)に属するといいます。
 てんかん体質の人は、要するに周りの刺激に対して「閾値(感覚受容器の興奮を起こさせるのに必要な刺激量の限界値)」が低いんですね。誰でも閾値は持っていますが、少しの刺激にも過剰反応(ニューロンの異常放出)してしまう。壮大な夕焼けの美も一輪の花の清楚もめくるめくスリルも深く戦慄的に体験する。彼らは「のめり込むような勤勉・持続力と職人的な細部への関心を持っており、第一級の学者も、スポーツ界も芸能界のスターにもこのような享受と精進の表裏二面性がある。彼らは大胆に矛盾を生きる人である。刺激を避けた静かな生活に憧れると同時に刺激を求めのめり込んでいくという二面性である。」「人々を感動させる芸術は、絵画、音楽その他種類を問わず、てんかん親和的な人が作り上げたものである。モーツアルト、ベートーベン、ドストエフスキー、ゴッホ、みなそうである(中井久夫・看護の為の精神医学より)」わけです。

こうして負け組を清掃して(無かったことにして)そしてすっきり忘れて新たな戦いに向かいます。メダル!めだる!金!かね!前へ!まえへ!進歩!進歩!成長!成長!もうこれは近代の新興宗教ですね。この果てに感情のこもった喜びはない。人間のこころを枯らしてくる。

 一方でウオーコップは死回避行動と共に「生命行動」を挙げています。これはサリバンによって、「満足追求行動」に置き換えられました。生の実感です。これこそが人類が社会を作った時の「初心」です。人と人を「繋ぐ」こころです。満足とは個人的で且つ共有可能な繋がりを感じることです(安心ではありません)。
人と人との繋がりを実感(共感)することも生命活動の大きな要素ですが、それ以上に社会をも越えた、人工世界をも越えた世界・宇宙との繋がりを実感することこそ最大の生命的活動ではないでしょうか。それはどこか本能の中にいた時代とどこか似ています。
しかし違うのは、本能の外の世界を知った後での回帰という点です。このような「出来事から意味を見つけ出す、縁起を見出す共感体験をユングは、「因果性」と区別して「シンクロニシティー(共時性)」と名付けました。この世界や社会に関わることは全て時間的にも空間的にも繋がっていることに主観的に気付くことです(言っておきますが、この世に存在するのは主観だけですよ。客観なんていうものは誰も知らないしどこにもない空想なんです)。
こういった現象を科学的方法で研究する動きも盛んです。客席から挙がったバラバラの拍手がいつの間にか一糸乱れぬ拍手となる、何万匹もの蛍の明滅がいつの間にか、誰が指示したわけでもないのに揃ってくる。彼らは相手を見て揃えようとしているのではありません。その置かれた環境の中で、それぞれの自分の主観をもって徐々に正確度を増して勝手に正確に動くのです。そうするとこの環境下ではこのリズムしかとりえないリズムに行きつくのです。その終局のリズムは発信者の形や重さや大きさを選びません。その「場」が作り出すのです。つまりAさんだろうとBさんだろうと、蛍だろうと、鳥だろうと、石だろうと、木だろうと、塵だろうと同じはずです。
シンクロニシティーについては科学的にはまだまだ分からないところもあるでしょうからこのくらにとどめておきます。

これは確かに主観の世界です。従って科学的な意味で「私」とは幻想です。しかし、満足を感じるのは科学ではなく「幻想である私」なのです。更には死を恐怖するのも「幻想である私」に過ぎません。だから、そんなものは無駄だからやめちまえ!というか、満足を求めて生き且つ死のうとするのか。分かれ目です。私は後者をとりたいものです。何故なら、無駄とか、くだらないとか言うのは、意味のあることや満足というものを前提しているからこそ発せられる言葉であって、そういうものを求めていなければ、無駄だとか、意味ないとか言うわけが無いからです。自己欺瞞というわけです。もっと言えばおのれを支配者として見たいという大それた認識を持っている証拠です。客観的に真実でなければ嫌だというのは、権力者に対してではなく、宇宙に対して人としての「分をわきまえ」ていないわけです。

 詳しくはもう少し時間を頂きたい。
唯、言っておきたいのは、これらは皆、我々のなかにその萌芽があるということなのです。
「やさしい」人が好き。と言われますが、この人たちこそ「やさしい人」なのです。だから、こうして、外に攻撃しないで、自分を痛めて耐えているのです。精神分析の仕事はそういう症状を、外科的に治すのではなく、心の奥底にしまい込んで「抵抗」するコンプレックスがあるということを意識下に引き上げることです。このような症状は、もともとが全て「作り物」なのですから、なんだそういうことだったのかと、知る力が出れば消え去るものなのですが、本人にしてみれば本当に苦しいい作業です。しかし、治すのは医者ではなく、本人だという事実は変えられません。そして、フロイトもグロデックもそうですが、本当に芯からその抑圧を意識化に戻すことが苦しいことであり、いまのままで過ごせるなら、無理に引き出すことも無いと言っています。これは精神分析を創始した彼らの優しさであり、本末転倒を戒めた言葉ではないでしょうか。
科学バカになっている我々現代人には頭の痛い言葉です。

 人間には信じられないような、力があることをご存知ですか。
耳にされたことがある方は多いと思いますが、「二重盲検法」というものがあります。
新薬の試験に使われる方法ですが、新薬が採用されるためには、一定の基準(効き目)をクリアーしなければ新薬として承認されません。その為本物の薬と、プラセボ(偽薬・唯のうどん粉など)を混ぜてテスト者に飲んでもらい、一定の効き目を確認できたパーセントをクリアーしないと承認されないのですが、私たちに問題なのはその時に、プラセボでも効いてしまう例が数パーセントでもあるという事実です。
これをどう解釈したらいいでしょうか。そういう物だ、病は気からだと、そっちに話を持って行って思考停止してしまっていいでしょうか。
 プラセボ効果とは一体何でしょうか。確率は低いにせよ、必ず発生するこの奇妙な現象は何の力でしょうか。我々が築き上げてきた科学・医学技術を使った治療法は、薬やメスなどの力が大部分を占め、患者自身の治る力は、その施術後の養生で発揮されます。
私は思うのですが、うどん粉でも直す力のある薬だと思って飲めば治るとき、何が働いているかと言えば、身体の本来持っていて眠らされている、自然治癒力というものが動いたのではないかということです。末期がんの患者さんに、この「自然退縮」の話をしたところ、翌日自分で退院して、今は元気で野良仕事をしていたという話を、精神科医・高橋和巳さんのご本で拝見しました。今では奇跡と言ってよい低確率の話ですが、やはりここで動いているのは、自我とかの意志ではなく、精神だけでなく身体だけでもない「身」が主体的に動き、がん細胞を鎮めたのだと思います。このような動きをするものは一体何者か。私はこれを、その名付け親の言葉を借りて「エス」と呼ぼうと思います。
そのなずけ親とは、グロデックといい、フロイトを脅かしました。彼は精神分析は、心の病だけでなく器質的障害(身体)にも適用されるという、おそろしく広い医療を構想し、実際に成果も挙げています。


これらの続きは、改めてということで、今日はこの辺りで筆をおきたいと思います。
もっともっと、学びます。





















2017年02月03日
音楽について
 講座を中断し、大それた勉強を始めながら、(今の自分にとっては)迷惑な雑用に、現実を思い知らされながらも、遅々とした学びを続けています。
そんな中で、そのまた更なる寄り道をしてしまったお話をしたいと思います。

 いつも私は、中学あたりからのヨーロッパコンプレックスなのでしょうかクラシック音楽に魅かれていたのが未だに尾をひいて、読書をしたりものを書いたりの作業中にクラシックを流しながら作業を続けるのが習慣になっています。具体的に言えばヘンデルやブラームス、シューマン、スクリャービン、モーツアルト、ベートーベン辺りをよく聴きます。
 何のためにと聞かれれば、心地よいからと答えるでしょうし、これに勝る音楽論は無いとも思っています。それでもこの手の音楽は古典と言われるだけあって、街中のコンクリートの雑踏や走り抜ける車や道路が交差する環境の中では、合いません。ふと窓の外を見るとどうしてもこういった風景が目に飛び込んできます。そこは「選択的認識(清水寺の坂に差し掛かってこの美しい風景を写真に収めようとしても邪魔な電信柱や電線がこれを遮るとき、心の中ではそれを無いものとして排除して見るあれです)」を駆使して、遠方の連山と空を仰ぎます。また実際に見たことも無い写真上のカタルーニアの修道院の回廊やアイルランドの高原、ウイーンの街並みや緑のハイデルベルクに想いを馳せたりするわけです。要は人間が自然に手を付け始めた、未だ自然と人工の両方が窺える頃の素朴な風景に心惹かれるのです。シューベルトのハンガリアン・メロディー(D817)などを聴いていると、自分の前世はハンガリー人ではなかったかなどと信じたくなるほど心揺さぶられたりします。

ところで私だけではありませんが、人が音楽にこころ惹かれるのはどうしてなのか、音楽とは一体何なのかという、心配性の私にとっての重大事が頭をもたげてきます。こうなるとやりかけの課題は置いといて、決着をつけないと先に進まないのです。
 今までのつたない音楽経験を振り返り、ランガーの論文ややフルトヴェングラー、ヴァグナー、モーツアルトの書簡など或いは江村哲二、茂木健一郎さんなどの音楽論を参考にしながら納得のいく答えを探します。
どうやら少しずつ分かってきたことは、私が今まで思ってきた音楽は感情の論理だという見方は、間違いというより、人間にとっての都合であって、音楽の一部分に過ぎないということでした。確かに音楽には強いカタルシス作用があることは確かです。そのような目的で聴いたり作曲したりする人も多いでしょう。又逆に行進曲などのように人を焚きつける効果もあるでしょう。それはそれで役割があり否定はしません。唯、音と音楽は違います。音は単体では人工的な意味の世界から大きく離れます。単体では雑音に過ぎないという人もいますが、あながちそうでもなく雑音はむしろ音楽のなりそこないの方に属するのではないかと思っています。音はその高さや音量や音程によって様々ですが、何かを発しています。それは我々を取り巻く人工の意味の世界ではなく、ものとものが出会うところに生まれる根源的な一回限りの事件のようなものです。それは身近なたとえで言えば、弦という物同士がこすり合わされることで発生する音もそうですし、大地という物とマグマという物が衝突することで発生する噴火の音、更には宇宙の果てで様々な物質が動くことで発せられている我々の可聴域外の音も、我々からすれば生きていない物質同士から立ち上がる、一つ上の次元の現象であって、生命の誕生と同じような構造をしているのではないかということです。

それは宇宙の根源的なものであり、根源的であるが故に未分化であり、採りようによってどのような世界にも当てはまるわけです。人工の道徳的な世界、人工を越えた美の世界、或いは言葉の持つシンボリックな世界(意味の世界も含みます)をも越えた独自の音の論理を持っていて、理解とか意味とかで説明不可能な、唯々引き付けられる魔法の様な「もの」なのだろうということです。その音というものを、人間などの生物がこちらの世界(意味や感動の世界)に引きよせて組み立てたり、変化させたりして、人間的に(生物的に)親しみやすいものに整理し直したものが音楽だろうと思うのです。音は生命のほとばしりなのですから、それを使った音楽は万能です。ですからそれこそ何にでも使えてしまうわけです。神秘も、美もあれば興奮もあれば、官能もあれば、エロスも、道徳も、権力も、洗脳も、スカトロジーもありうるわけです。吉田健一は「文学とは言葉の謂いである」と喝破しましたが、これに倣えば「音楽とは音の謂いである」となります。

ニーチェがあれだけ意見の一致をみて深く尊敬しあっていたヴァグナーと決別したのも、
結局芸術や音楽の全体像が掴めず、ニーチェの彼なりの音楽と世俗との峻別という道徳感を無理やり当てはめてごり押しが通じなかったということでしょう。音楽は音楽であって、言葉や感情や情念ですらないのですから。人間的なあらゆるものから自由です。それゆえ逆に言えば美も倫理もデカタンも、あらゆる可能性を備えてもいるわけです。それを、似ているからと言って音楽に人間的な倫理を入れようとしたってかなわぬ思い入れに過ぎないのです。確かに、人間的・道徳的な面から見れば、ヴァグナーが愛や死という世俗的な表現に音楽を利用したことになり、もっとはっきり言えば、メロドラマに神聖な音楽を利用したと言えなくもない。そう思ってニーチェは怒ったのでしょうが、それは音楽の属性の一部にけちをつけているだけで、全体像が見えていません。結局彼はヴァグナーの音楽に自身の都合のいいところだけを見て、そこまではいいのですが、自身の思想をかぶせようとしただけで、彼には芸術の何たるかが判らなかったのでしょう。離れて正解だったと思います。音楽に道徳を持ち込むなんて、それこそ政治利用でしょう。政治的に言えば庶民にもブルジョアにも王侯貴族にも音楽は感じられるのです。何も一部のエリートだけが納得するような難解な音楽が高尚なのではありません。スノッブを気取るにも、驚嘆してくれる庶民が居なければ成立しないのですから。モーツアルトは誰にでも分かりやすい音楽を提供しなければならないと決めていたようです。そこいらのおっちゃん、おばちゃんが感じない芸術なんて、作ったって、それは作者が本当にその作品を(我々と繋がっている人間レベルにまでかみ砕いて)わかっていない証拠だ。唯自分だけが感動しているだけで、人を感動させるレベルまでものを解っていないということでしょ。
「私は戯曲なんて何も知らない無教育のおふくろが、私の戯曲を見て涙をながしてくれるような作品が作れなきゃ、それは本物とは思わない」といった趣旨のことを、福田恒存さんは嘗て対談で言っておられた。

 話は音楽に戻しますが、ランガーは「我々が音楽において営むものは、それ自身の基本的な形式の中に発表の原理を宿しているような生命力を持つ一つのシンボル体系を、丹念に作り上げること」であり、このシンボル形式は未完成のシンボルであり「分節化がそれの生命であり、断定が生命ではない。表現がそれの生命ではなく、表現性がその生命(岩波書店・シンボルの哲学p290)」であり、「音楽は我々が感情と思い誤る特殊な効果を生み出すものである」というキャロル・プラット教授の結論を紹介している。そして「音楽は内面生活のわれわれの神話であり、若々しく生気に充ち、意味豊かな神話 (同P295)」であると述べています。音楽の論理を少しでも知ろうとすれば、最初に何か創造しようというイメージがあって、それを音を駆使して組み立てるといったものではなくて、
占いで最初の音が決まって、後は音自身が自主的に動いていくのを、邪魔しないようにフォローするのが作曲の極意で、どんなものが出来るかは、音が決めるのです。作曲者の意志を抑えて抑えて我慢しても尚、音の論理に反して思わず絞り出てしまうエキスが、僅かに作者の個性として、音楽に参加できる部分なのでしょうか。創造は作るのではなく、生まれ出ずるものなのでしょう。

一休さんの道歌に『年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを』
というのもあります。いくら木を割って探しても花は見つかりません。それは木と光と風と水が一体となって立ち上げた、一次元上の作品なのでしょう。奇跡ですね。音楽も同じですね。我々は、自分自身の存在を含め沢山の奇跡に囲まれているのに、それはどこか外にあるのではないかと、足元の奇跡に気付かない。


難しい結論ですが、結局我々が音楽とは何かを問う場合、それに始まりと終わりがある以上、人生(時間)とは何かという問いと切り離しては考えられないわけで、人生に意味がないという結論が正しくとも、それは人生に意味を欲しい人が出す結論であって、欲しくなければ意味がないなどという必要もないわけです。それでも人生には意味はありますよ。誰が何と言おうとも(ここは人生論の場ではないので深入りしませんが。意味が欲しくなくたって、あるんだからしょうがないんです。これは人に押し付けることではないので、強制はしてはいけませんが)。

音は、少し妥協して音楽は、勧善懲悪の道徳や、それを越える美学すらも越えた、存在・実在そのものであり、どのような「意味」をも、即ち「時間」というものを超越した「超自我」の様な存在なのでしょう。それが幻想に過ぎなかろうが、人間の形は、そのバックグラウンドにエス(無意識)や超自我を支点として持って初めて成立するのですから。幻想×現実は現実なのです。この万能の音楽は人生の意味を暗示することだって可能です。

 そしてその解釈すら実は「人間的」という限界を持っているのです。考えてもみてください、宇宙の中の人間という部分のさらに部分の為だけに「音」があるなんて、思い上がりも甚だしい。我々はその範囲の中で(部分に徹して)音楽を、奇跡を見つめればいいのであって、決して我々の為に音楽があってそれは、宇宙全体の真理だなんて思いあがってはいけないのです。

こうして我々は、始まりと終わりという期間(時間観念)というものを設けることによって、人生という観念を発達させ、同時にそれは人生の意味という観念をも発展させ、それが歴史という過去の見方を生んだわけです(特に西欧では)。それは物語でもあります。時間という我々を縛り、去りゆくもの一過性のものという観念は、終わりのその先に何があるか、つまり死後の世界を思わせたのです。これが一神教の世界です。音楽は(他の芸術もそうですが)そのような時間的恐怖から自由な、時間の外に、(永遠を思わせる)確固たる空間の存在を聴くものに示し、心の不安を支えました。
デルフト風景.jpg
フェルメール「デルフト眺望」

 今私の目の前には、フェルメールの「デルフト眺望」の写真が置かれている。当時の時代的環境を偲びながら、黒い雲の立ち込めるもとで、ここで生まれてここで洗礼され、ここで死んでいく彼の故郷デルフトの明るく広がる眺望と澄んだ水面が別世界のように浮かび上がり、どこからとなくテレマンの「リコーダ、フルートの為の協奏曲」のような室内楽が聞こえてくるようです。この17世紀の静かな街は、交易によって、当時のヨーロッパの経済の中心としてヴェネツィア、アントワープからここアムステルダムに移ってくる中での市民生活の潤いを反映して、開放的な窓の取り方などから、慎ましくも美しい室内に特徴がみられるという。そうした具体的なものは何一つ書かれているわけではないが、いわゆる私たちが現実として見ている世界とパラレルに存在している似て非なる本物の現実が感じられる。
そこにはまぎれもなく音楽が鳴っている。

間違えてもらっては困るのは、これは今この現実の外に時空を超えたユートピアの様な世界が、パラレルに広がっているということではなく、この目の前の現実こそ、物質と物質が刷り合って音が立ち上がるような、或いは様々な生命が光や水や大地の基に芽ずくような奇跡の世界なのであって、我々は慣れという大きな勘違いのベールで周囲を覆ってしまって、奇跡の感覚を忘れ去っているだけだということです。
「宇宙人っているのかな?」「えー?俺たちこそ宇宙人じゃない!」
そこに気付いた途端、ここにも音楽が響き始めるのです。


そこにはまぎれもなく、ヴェールに覆われ曇った我々の感覚を、揺さぶり起こそうと、音楽が鳴っている。
目を覚ましなさいと。

 口から肛門に抜ける一本の筒に過ぎない人間の身体に、風が吹き抜けてこそ、音は発し、人は生まれるのでしょう。音楽は、人間に限らず、宇宙に立つ、生命の呼吸の軌跡そのものを示しているのです。
まさに「風立ちぬ、いざ生きめやも」ですね。


  精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる(「人間の土地」サン=テクジュベリ)。

2017年01月04日
新年ご挨拶2017
 明けましておめでとうございます。本年もごひいきにお願いいたします。
新年そうそう、大変失礼ですが、訳あって、1年程この講座を休講したいと思っていまして、ご報告いたします。まことにやんごとなき理由で、勝手をお許しください。

 内容は心理学関係の(独学ですが)勉強をしなければならなくなった為です。「こころ」の問題を中心に勉強しなくてはならなくなりました。勿論精神分析などの基礎知識全般も学ばなければなりません。エスとも格闘しなければならないでしょう。このブログには、いずれ私の学んだ成果物は掲載させていただくつもりです。
と言いましても、何分素人ですのでスタートには時間もかかると思います。当初は教養講座と並行してと考えていましたが、調べていくうちに、とんでもない広い世界に踏み入らなければならない予感がしまして、とても片手間では困難だということが判ってきました。目的達成がなるかどうかは全く分かりませんが、とにかくやらねばなりません。何が飛び出してくるかわかりませんが、必死にくらいついていこうと思っています。1年間で何が掴めるか挑戦します。第1講が早く書きだせるようにと祈っている毎日です。

これが済んで、再び歴史講座から再開できる日が早く来るよう願いつつ、ご報告します。

皆さん、今年が実感ある素晴らしかったと言える年になりますように!

2016年12月31日
第2回歴史第3部中世16【日本の古代・枕草子とポルノグラフイー源氏物語】
〈仮名による精神の飛翔・枕草子とポルノグラフイー源氏物語〉
 
 道長は娘の彰子(あきこ)を一条天皇の中宮とし、外戚になる万全の体制をとった(道長の長兄道隆の子・定子(ていし)は既に一条天皇の皇后となり、ひとかたならぬ寵愛を受けていたが、男子を生むことなく他界し、道隆側は没落した)。この円融系の一条天皇の外戚となったのが道長で、その愛人で彰子の家庭教師が紫式部、冷泉系の一条皇后の定子に仕えたのが清少納言で、二人はライバルでした。清少納言は、後輩の紫式部に漢文の知識をひけらかし鼻持ちならないと痛烈に批判されているが、零落しても才智は衰えず、昂然たる品位を失わず、「枕草子」では、悲愴な皇后の生活に寄り添い、口固く「翳りのない明るさで、気高くも美しい皇后の日常を、鋭いしかも辛辣な観察で綴り、宮廷でのほほえましい挿話などを織り込ませた」。「なぜ清少納言は皇后の暗い運命や悲傷な心境に触れなかったのか。背後の事情を知る者には、明るく華やかな「枕草子」の陰(文体)から清少納言の無言の慟哭が聞こえて(97)」きます。まさしく、古代からの重苦しい漢文的素養が、仮名という触媒を得て、自由に表現の力を取り戻して飛翔する素晴らしさを示しているのです。これも、仮名によって蘇った「やまとごころ」なのです。勝ち組の紫式部とは違った、負け組であっても不運を嘆き引きずり続けない、優しいポジティブシンカーだったのです。
彼女の「小さきもの」「消えやすいもの」「移ろいやすいもの」への、温かい視線は、後の俳諧に表れる「しをり(98)」や「ほそみ(99)」に受け継がれます。

 一方で紫式部は、律令制の完成と共に歴史書(正史)や昔物語の様な旧型物語の中に閉じ込められた「もの語り」を復興させ、私が本当の物語を書いてやるという意気込みで「源氏物語」創作に力を注いだ。その世界は肉体ばかりか、心の乱交パーティーさながらの、勧善懲悪を無視したアナーキーな物語でもあり、貴族社会の思いのたけを代弁してくれるベストセラーとなった。道徳に近いものと言えば、その場限りの「人笑われならず(人に笑われないような振る舞い)」という美学だけだった。重い道徳感による葛藤は見られない。
道長もたびたび紫式部のもとを訪れ、次巻を催促したり、小説の構成について口を挟んだ。
男心を引き留めるのは、顔の美しさや、あけっぴろげな性格ではないこと(当時は顔が美しいのは性格がいいから、前世の行いが良かったからと、顔にすべてが出るという考えだったから逆のことを言い且つ説得力があるこの物語に新鮮な驚きを持ったろう)、男色こそ「女にてみゆ」と、もし女だったら契りたいほどだ程度のもので、本格的なものは男性貴族の日記文学に任せたものの、それ以外は何でもありの、罪悪感の無い、男女の駆け引き溢れるフリーセックスや父帝の王妃が懐妊するまで続ける姦通(暴力に依らない父殺し)などタブー破りのニヒリズムに溢れている。
中でも、物語の中で、「意中の人」つまり本命の、「身代わり」と契りを交わすというパターンの多さは、裏を返せば、理想の人間などというものは存在しないのだ、だからこそ理想の人間は成るもの、思うものだという爽快なニヒリズムを思わせます。
TVドラマ・「逃げ・恥じ」では、ミクリの母親が、「(運命の人なんて出会うものじゃない)運命の人に、自分でするのよ」と言いました。(比較の目で)外から幸せそうに見えるひとに、幸せなんて無いよというメッセージですね(以上はおおよそ大塚ひかりさんから学んだ源氏の世界です。大塚さんは歴史的・集合的な目で源氏や平家を捉える貴重な方です)。

この思想は「物語」の本質を、ひいては人間の「欲望」の本質を垣間見させてくれます。
とても大事なところなので、よく考えてみてほしいのです。

 人は皆、自分の意中の人・理想の人と一緒になりたがります。他の人・性格の悪い人・顔がすぐれない人・色の黒い人など様々ですが好みでない人とは契りたくはありません。これはどういうことでしょう。犬や猫などの動物が、そのような選り好みをするでしょうか。ただ盛がついたタイミングで用を澄ますだけで、あの人が嫌だとかではなく、より強いかどうかだけで選びます。イケメンかどうかなんて関係ありません。これは彼らが本能で動いているからです。人間も好みかどうかなんて関係なく盛に任せているだけなら、強姦されようが屈辱感など感じない筈です。ところが私たちはそんなことはとんでもない。許されない犯罪です。なぜ選り好みをするのでしょう。それは私たちが相手を、本能でなく、物語で見ているからなのです。自分の物語に合わない人と交わりたくないのです。つまりこれが犬や猫の本能でない、「欲望」の正体なのです(犬や猫には本能は合っても欲望は無いでしょう)。これを許しているのが現代社会で、個人の自由というものです。
 
 これを突き詰めるとどうなっていくでしょうか。みんなが自分の物語に合う人を選びたいとすると、考えが浅い時はイケメンや美人を求めて多くの人間が殺到し、そうでない大部分は溢れて大きな偏りが出るでしょうし、更に経験を積んでくると、ふさわしい相手というものは「物」ではないのだから、見かけだけではすぐに飽きてしまう、又それを失うことに神経を使い疲弊することが判り(そこには長く続く物語がありませんから)、「自分の成長に合わせて変化していくこころ安らぐ人間性」を求めるようになるでしょう。つまり観賞用ではなく、自分の人生のパートナーとして=物語の共演者として、相手を見るようになるでしょう。両方揃った方がいい。しかしそんな理想の相手に巡り合う確率は何パーセントでしょうか。ゼロに近いですよね。だから結婚しない人は増え、出生率は下がるのは当然です。勘のいい人は、早く気づきます。自分が理想の物語(欲望)に囚われていることに。そんなものにぎゅうぎゅうにとらわれていては、自分の人生はすぐに終わってしまうと。だからと言って強姦でも構わないというのは行き過ぎですが、ある程度のところで、自分の物語(欲望の質)と妥協します。顔なんて一時のものに過ぎないと悟るわけです(勿論ラッキーにも理想の人と相思相愛の結びつきに出逢える人もあることはあるでしょうが、それとて、美男美女のカップルが、外から人形がかわいく見えるように何不自由なくお決まりの筋書きに動かされているように、お決まりの幸福とやらを演じているのを見るのは、かっこよさとかいう薄っぺらなものを後生大事に守り続けなきゃならない。額縁の中のおとぎ話の何と窮屈な人生であることか)。こうして本当の自分の物語にとって、顔や性格はマストではないことが、年を重ねるうちに判ってくるのです。源氏物語は、(宮中という狭いながらも)社会全体が先にその結論を出してルール化してしまった、ある意味進んだ大人社会だったわけです。
だから強姦は、源氏物語では日常茶飯事でした。更には好みを品定めする顔や性格は皆隠されて夜陰に紛れての行為がルールでした。相手が実際がどのような顔をしていようが関係ない。男も女も「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」で充分だったのです。
引目鉤鼻(ひきめかぎばな).jpg

問題はどのような出会いの条件かではなく、どんな条件であっても、その与えられた条件を如何に演じるか(切実さ・情愛)にあったのです。いつまでも結婚できないとか、いい人に巡り合えないとか悩んでいる人は、自分の欲望を、つまり物語をすこし変えてやれば、広い世界が見えてくるのに、もったいないと思いますよ。何も平安時代に戻れと言っている訳ではないのですから。物(顔やカッコよさ)はやっぱり見世物に過ぎません。そこにこだわるより、コト(出来事)にこだわらなきゃ。自分の生きるドラマの質に。

又さらには、もっと視界を広げてみると、紫式部が意識していたとは思いませんが、源氏の世界は、「平和とはこういうものか」という一種の到達点と、頂点が故の「転げ落ちる不安」を見せているのではという自問に行きつきます。それは平安という一つの文化の爛熟点に達した(と言っても貴族社会だけですが)からこそたどり着いた平和(100)と、それを維持するために(我慢し)犠牲となった人間の、ぶちまけずにはいられなかった怨念と時代を生きる心の不安や息苦しさが行きつく先を、愛ではなく性を、心ではなく外見をテーマとせざるを得ない、物語という大河(時代の様式)に乗せて語り繋ぎ、図らずも来るべき将来を予測した一人の天才の生きざまでもあったと思います(まるで千年後の現代の市民(当時の貴族程度の生活水準には達しているし、メールやネットで意思疎通をするのは、貴族の手紙や使用人を介しての会話・間接的な伝達方式と似た感触を持つ)の生きざまを予知していたかのように。更には次に来る中世の分裂志向が、現代のトランプ現象に代表される時代の方向が、ポピュリズムで小児的で、遠心力の働く中世の始まりに酷似しているのは、不気味な予感さえ抱かせます)。

このような、権威と権力を分けて、天皇と上皇と女院との間で、均衡をとり生き延びる、「混沌(曖昧)」とした藤原流物語(神話)というものを理解できず、中国風の白黒はっきりし、大義名分論や法家的論理を振り回し、再び社会を混乱に引き戻す(保元の乱)のが、同じ藤原家の信西(しんぜい)入道なのは何という時代の皮肉でしょう。

結局、古代貴族や律令国家の終焉という社会構造の解体期に、氏や共同体的制約から解放され、未だ「家」の縛りには束縛されていない人々(貴族だけですが)が自分の言葉で語り始めるさきがけが、日記であり、手紙であり、物語だったのでしょう。

 ※皆さん、ここまで読んでくださってありがとうございます。これで今年は最後です。来年も命の続く限り頑張ります。
どうか、良いお年をお迎えください。

注97) 角田文衛「平安の春」講談社学術文庫P55

注98) しをり
蕉風俳諧の根本理念で、題材が哀憐であるのをいうのでなく、人間や自然に哀憐の情をもって眺める心から流露したものが、自ずから句の姿に表れたもの。〈萎(しを)る〉の連用形というのが通説である。

注99) ほそみ
作者の心が対象にかすかに深く入り込んでとらえる美、およびそれが繊細微妙に表現される句境。

注100) 平和とタブー
平和とは、苦しくてつまらないものです。争いを避けて、我慢の連続だ。陰湿ないじめや、噂だけで人の人生を葬ることもできる息苦しい世界だ。ターゲットのされようものなら、ありもしない噂で非難の的にされ、悲惨な人生を送ることにもなりかねない。いつ何時身に覚えのない咎で、罪人になっているかもしれない恐怖を抱えることになる。
そんな中で、弱い人間はことに、周囲や見た目を気にし、「笑われないように振る舞う」のが、自分を貫くよりも、重要な心掛けになる。悲しくても笑みを浮かべ、嬉しくても自制し、言いたいことも言えず(言えば人も自分も傷つくし、自分も傷つきたくない)、そのストレスは知らず知らずに内面に膨れ上がり、自身の肉体や精神を蝕むという形で昇華される。内に向かっては、拒食症や自死、外に向かっては人を騙して陥れたり、更には怨霊となって姿・形を鬼の面相にしたり、それを信じる他人(噂や動揺)の手を借りては、瞬く間に標的に辿り着く。或いは本人の直接ではない手によって(使用人を介した手紙・伝言など)行う通信・伝達によって、時代の常識や世間体に検閲された言葉によるの為の気持ちの「曖昧さ」、「個の埋没」にストレスは溜まる。逆に発信元が誰ともわからないが為に発せられる「噂」は反動で内容は過激で大きく人のこころを傷つけ、人生を左右するまでの力を持つ。傷ついた心を人形で癒すのはペットブームの先駆けかもしれません。
まるで現代のネット社会のようですが、これが源氏物語の描く貴族たちの生活なのです。千年も前に、20世紀の人間たちが悩み恐れていた人間関係が描かれていたという奇跡が、ヨーロッパ人を驚かせたのです。更にはフリーセックスの域を超えて、姦通はざらで、男色も珍しくない(流石に紫式部は女だったのでこの辺りはあまり踏み込みませんが)世界は、「爽快なニヒリズム」を見せて、欧米人の気持ちをわしづかみにしました。今はもう、このような苦しみに我慢ができず、人々が言いたいことを吐き出して我慢しない、収拾のつかない新しい中世に向かって着実に進み始めていますね(怒りも憎しみも現世の内に済ましてしまうから後味もさっぱりして精神衛生上はいい)。中世のきっかけは異民族の侵略でしたが、現在の中世化(遠心力の働く時代)のきっかけは難民や核でしょう。もうお体裁や人助けなんてまっぴらだ、みんな我慢するのはやめて自己主張をするのだ、自分のことは自分でやれというわけです。トランプ現象ですね。「宗教戦争」ならぬ「信念戦争」はもうあちこちで起きていますが、これが今まで平和だった世界各地でも起きてくるでしょう。大江健三郎さんは、ノーベル文学賞の授賞式で、日本の「曖昧さ」が戦争を引き起こしたと言って、川端康成の「美しい日本の私」を批判したようですが、この批判は当たっているでしょうか。これは大江さんだけの問題ではないですが、又森有正にも言えることですが、この世代の人たちには日本の伝統が、西欧の論理のもとに否定されるだけで、正しく理解されていなかったこともあのようなことが言える原因でもあるのです。更には、この否定された日本の伝統の代わりに拠り所にした「ヨーロッパ近代」が、本物の伝統に基づくものではなく、明治・大正が「誤解したヨーロッパ近代」だったのです。いわばゴッホではなく「額縁に入ったゴッホ」だったのです。ヨーロパの貪欲且つ排除主義の上澄みのところだけを見た合理性や美や宗教性が、彼らの新しい様式になったのです。西洋人からすれば大江は、自分たちの論理で話せるかわいいやつと思うでしょう。大江も森も真面目で良心的な人間です。そして川端は少女・屍体なぶりの変態爺さんです。しかしそれでも大江も森も勘違いしていると思います。西洋流の「自我」主義と平和は矛盾しているよと言いたいのです。平和は、女々しくとも、都合のいいように自己正当化をしていない川端の方にあると思います。
先の戦争では、欧米コンプレックスを持つ自閉的な内面を自己正当化しようとして、現実感覚を喪失してしまった日本国民の深層心理が、軍部の自己正当化の精神的な後押しをしたのではないでしょうか。そうなら、彼は何故軍部ばかり批判して、後押しした日本国民を批判しないのでしょうか。
或いは外圧に弱い「曖昧性」を批判するのではなく、それを自我中心の合理しか介しない外国に解らせる道に挑戦しないのでしょうか。元を正せば侵略と排除主義の欧米が、平和に暮らしていた人の家に、正義の名のもとに(文明とやらを教えてやるという)押しかけてきたことが始まりなんですから。その屈辱に対し、仮面を被って(欧米化)その場しのぎで対処したものの、我慢しきれなくなってコンプレックスが爆発して、同じ被害者の本来味方の筈の近隣アジアのまで敵に回して、倒錯した攻撃性を持つに至ったことは責められても当然で、決して正当化はできない犯罪であることは間違いないでしょう。しかしそれは、押しかけて来た西欧(アメリカ)も、攻撃性を剝きだしにした日本も、共に正義の名のもとにやったことで、これが共に悪なんだということです。何も曖昧性を現実と受け留め、そのまま平和に生きてきた民族を、(対外的な)抵抗力が無いからと言って、曖昧だからといって責めるような問題ではないでしょう。
欧米の合理・自我中心の思考が行き詰まり、その先に来るものはやはり「曖昧性(矛盾)」の受容だと思うからです。

源氏物語が示唆するものが、理想的な社会だなどというつもりはありません。
というのも、人々は世間の目を気にし、言いたいこともしたいことも我慢し、感情を押し殺し、コミュニケーション能力は低下し、陰湿ないじめや噂や怨霊にに振り回され人生を台無しにされることもあり、物の怪を恐れ迷信に振り回され、多くの時間を祈りや儀式に割き、個人の心からの欲望は発露されず、常に世間という超自我に抑圧され、そこに辛うじて「もののあわれ」が読み取られるような息苦しい世界だからです。
それでも物の怪など恐れもせずバッタバッタと切り倒してしまう武士の様な暴力勢力の台頭はまだ見られず、まして外国に正義を押しつけるようなことも無く、平和の一つの形を見せたわけです。平家物語が、男性的なるものを著したとすれば、源氏は女性的なるものを示しているんです。
女性的なるものは、自然そのもので、宇宙全体と繋がっていますから、基本的に怖いものは無い。子どもも産めるし、本来は肉体的暴力とは無縁です。だからタブーなんていらないんです。近親相姦なんて、社会の様な幻想を持つ必要が無いから、怖くもなんともない。所有欲も本来はなく、一夫多妻だって何ともない。自我や個人のアイデンティティーなんていらないからです(現代の女性は、近代的な男女平等など、男たちの作り出した所有制度や平等という思想に手なずけられていますから、俄かには信じられないと思いますが)。基本的に自閉の世界なんです。
それを女性とは反対の男が、不安や寂しさから、肉体を、権利を独り占めしたいから、所有権などを持ちたがり、他を縛り付けようとするから争い(奪い合い)が起きるのです。男は子どもも産めないし、女性に利用されてやっと少しは親の気分を頂くくらいが関の山の、自然から疎外された存在なんです。だから声を荒立て(源氏の時代は未だ肉体派ではなく、観念的を弄ぶ風潮の為、遠回しに周囲を気にしながらですが)、自分の存在を主張したがる。その自己主張を様々な形に変化させて(制度や時代の雰囲気・ムードとして)、社会をかき回す。立派な理想や政治的理念や、スポーツの純粋さ、正義の戦争、自衛の為の戦争などなどいくらでも作り上げることができる。もし、平和が善だと言い張るなら、やれオリンピックだの、球児たちの純粋な夢を支援する高校野球だの、未開の可愛そうな民族を文明化させてあげる正義感に満ちた植民地政策や大東亜戦争だの、アメリカの仕掛けたイラク戦争だの、それに抵抗することからかじまったイスラム国のテロだの、ベトナム戦争だの、それに抵抗したべトコンゲリラだの、ナチのアーリア主義を振りかざす虐殺と侵略だの、それに抵抗するレジスタンスだの、

「どんな理想にせよ、ある理想のために真面目に真剣に戦うということは、立派なことだと思われているけれど、そういうことはそれ自体が悪なんだ(*)」ということを知らなければならないということです。これは、何度強調しても足りないくらい重要な言葉だと思います。

とても賛同できないという人は多いと思います。ナチとレジスタンスが共に悪だなんて誰が肯定するものかと思われるでしょう。でもこれを、どちらが悪でどちらが善というふうに分けると、「正義の奪い合い」が始まり、古代の神々から現代までずーーと続く、サディスティックな憎しみの連鎖から抜け出られないわけです。源氏物語は、このような一代しか考えられない男たちの正義に基づく争いに目もくれず、「自我と敵対するものを攻撃する」という呪縛から自由で、いちゃいちゃ生理的に生きているわけです。自我なんかいらない世界なんです。これが人間のできる平和の一つの姿なんです。ねちねちと女々しいと思われるでしょうし、いじめも、えこひいきも、チャッカリもこずるさもありますが、それが嫌なら、心にもない平和を叫ばず、修羅の道を行けばいいのです。但し、正義の名のもとによそを巻き込まないでいただきたいものですが、もうそんな神業の様なことも難しい。込み入ったグローバルとやらの魔力をがっちりと掛けられていて、困ったものです。

平安時代同様、外圧から比較的自由となり、平和のもう一つの形を作り出せた江戸時代と、その平和をぶち破る外圧に揺れた幕末に話を進めるのは行き過ぎですが、やはりここでも攘夷を主張する朝廷と、密貿易で私腹を肥やしていた(実は自分たち主導の条件付き開国派だった)薩長の、心にもない攘夷賛同による朝廷利用作戦に対する、幕府主導の屈辱開国やむ無し派との、「正義奪い合い」の権力闘争で江戸(東京)が火の海になるのを防いだ、即ち正義しか、一代限りしか考えられない男たちの後始末をして、次世代へのバトンタッチをして、権力の座を退かせたのも、天璋院篤姫や皇女和宮などの女たちの決断だったのです。東京が残ったことが良かったのか悪かったのかは言えませんが、少なくとも明治の近代化とやらを遅らせる、或いはもっとひどい植民地化を齎す要因を潰したことだけは事実でしょう。

トルストイの暗示するように、戦争と平和は同じものなんです。身体で戦争しているか、こころで戦争しているかの違いだけなんです。

(*) 伊丹十三、岸田秀「哺育器の中の大人」ちくま文庫2011年11月p39

 さて、話を戻しますが、何故平安の貴族たちは、かように平気で強姦や姦通や男色など、タブーとされていることを罪悪感もなく、寧ろ日常時のようにあからさまにするのでしょうか。皆さんは、彼らが単に文化の爛熟の末に、狂っていたというだけで納得できますか?

自然を(本能を)飛び越えた人間にとって、家族が原初のアイデンティティー(自分であることの一貫性)を獲得する場であり、このアイデンティティーが自我であり、これが壊れると人格は成立しない。一旦出来上がった家族を他人とするような行為(例えば近親相姦)は自分自身を崩壊させることで恐ろしくてできない。そうなったら人格(自我)が壊れてしまう恐れがある。これがタブーです(自我のアイデンティティーが親子間の縦軸のものとすれば、社会人としての人格は、国家との間の横軸のアイデンティティーです。これの崩壊を特に恐れるのは愛国主義者です)。これらは、精神分析家岸田秀さんの著書から学び、勝手に再構成した私の考えです。
 
 当時の貴族社会は、女性を軸に構成された社会で、家も財産も娘に与えられ、男は成人として生きていくには、どこかの貴族の娘の家に転がり込むしかなかったのです。子どもが生まれても、母親側でしかも、乳母(めのと)という他人に育てられ、実の父母との近親関係は育ちにくい。子どもは自分が初めて作り上げる自我の物語に、乳母やその子供を近親として入れるのです。実の親は他人なのです。だから、親子の関係を破ってもタブー破りにならないのです。
特に父親は実際に産んでもらってないから他人感がさらに強い。それで光源氏は平気で父帝の王妃である藤壺の宮が懐妊するまで密会し続ける。武力に訴えなかっただけで、姦通による政権転覆の試みです。それを罪悪感もなく実行し続ける。後から源氏は、自身の妻・女三宮が、頭の中将の息子に姦通されることでしっぺ返しを受ける。
しかも当時の性交渉は闇の中で行われるもので、顔や肉体を見られることを極端に嫌いました。それは女性ばかりでなく男性も同様でした。身分が上の人間は人から顔をじかに見られるということがほとんど無く、自分は相手を一方的に見るだけの接し方が日常になります。意思疎通さえ、部下を通しての伝言や手紙を通じてになり、何時しか、自分が生々しい自分でなく、観念的になります。女性は顔を見られたということが、犯されたことと同じに感じます。生々しい自分(現実)を見られたのですから。むしろ兄の家にいた時、男と間違えられて殺されそうになった時、迷わず清少納言は股間を丸出しにして女としての証明をすることで暗殺を免れたといいます。股間も生々しいとは思いますが、顔の知らない人間の股間は、唯の「もの」に過ぎなかったのかもしれません。いきおい、恋と言っても「高貴な人の娘だからさぞかし美しいだろう」のうわさや想像で物語的行為に及ぶわけです。自分も相手も想像ですから、何でもありで、お互いが見られることのないガードのかかった中での観察だから、タブー破りも、現実に囚われない想像逞しい文学も可能だったのでしょう。そして行為の後には、後朝(きぬぎぬ)の歌を交わすことが必須なのです。物語の仕上げです。動物的発散だけではないことの証拠です。
実はお前の顔は、こんな顔なんだと突きつけられる、「はしたない」リアリズムの世界は、後の武者の世です。社会全体が共同で見ていた夢を引っ剥がして、現実に引きずり下ろしたのです。
では、男色はどうでしょう。同じアイデンティティの問題でも、インセスト・タブーが「自我」の樹立に関わる問題であるのに対し、男色は自己の「(身体的ではなく)精神的な性別の選択」に対する問題です。あまりに長い脱線でしたので、これは後程、中世の〈政治手法としての男色〉のところで話します。

2016年12月28日
第2回 歴史 第3部中世15【日本古代・漢詩から和歌へ・古今和歌集の成立へ】
〈柱の時代から間(真)の時代へ〉
 平安初期の貴族の邸宅には、池は配されてはいないものの、南は主人が住まうハレ(よそゆき)の空間、北・東は使用人が住まうケ(普段着)の空間(北・東の対屋は廊で繋がる)として区別された(91)住まいも見られた。
更には、摂関期以降、寝殿造という形式の邸宅に住むようになる。正殿である寝殿を中心として北・東・西に対屋(たいのや)を配し、間を廊などで連結した。前には池を持つ庭園が広がっていた。これらの建物は白木造り・檜皮葺で、一部を除き「壁を持たず、広い空間を
屏風や帷帳(いちょう)などで仕切って生活した。この点が瓦葺と壁塗りの中国式、石づくりの西洋式と異なるわが国独特の建築様式です。見ようと思えば向こうが覗ける、何の仕切りにもならないのに屏風を置くだけで仕切ったことにする。開放的に過ぎる、不思議なハイブリッドな様式です。
古代日本は「柱の時代」と呼ばれ、柱に神霊が招き寄せられ乗り移るものと信じられていたから(真柱)、社も寺院も柱が建物の象徴だった。それが、柱をなくしたわけではありませんが、母屋は塗籠(ぬりごめ)という寝室に当たる区切り(壁)はありましたが、それ以外は屏風・衝立(ついたて)・几帳(きちょう)などを置くことで、それこそ「間に合わせ」た。左右対称ではなく、左右競合とでもいうべき、同じものを、ちょっとした工夫を添えるだけで別のものに変えて表現することもできるという、一つの部屋に四季の移ろいを映し出せる柱と柱の「間」の文化を生みました(やがてそれも、ワンルームから小割の部屋に分割する書院造(92)へ移行していきますが)。屏風・衝立(ついたて)などあってないようなもの。それでもプライバシーだとか、権利だとか、ぎすぎすしないんですね。これは現代人にとっては、非常にルーズで気持ち悪いのかもしれません。でも、どうせ空しい生を生きているのに、何をそんなに隠すというか、閉じこもり一人専有する必要があるのでしょう。そんなところには感動(もののあわれ)はいない。みんなで共有するところに居座ってくれる。減るもんじゃないのに(これは言い過ぎか)。花の命は短いのに。といったところでしょうか。このような平安時代の貴族たちは、実は「不安時代」の無常を強く実感していたからこそこのような生き方ができたのでしょう。
もしこれが、不安は国家に預けてしまい、肝心の人生とは何か、どう生きようかについてはそっちのけで、政治的に平等であること(機会均等)だけが神聖な目的となっている現代であれば、決して生まれない文化でしょう。寄ってたかって「けしからん!」「ずるい!」「おれにも覗かせろ!」でしょうか。
源氏物語絵巻 徳川美術館.jpg
寝殿造の暮らし(源氏物語絵巻・徳川美術館)

〈漢詩から和歌へ・蔵人制と昇殿制と古今和歌集の成立〉
 9世紀には唐の影響を受けて、唐風文化が花開いたが、とくに漢詩文が流行した。更に作法に則って文章が書ける文官が重視され、国家の運営には文章が不可欠との儒教的な考えが重視された。書の達人として三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)が知られている。又日本では古代からウジ(氏)の貴賤がはっきりし、能力だけでは官人としての出世が叶わず、中国の科挙の様な制度は発達しなかったが、9世紀に入ってからは漢詩文の流行と共に、「文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)」といって、国家を運営するには文章が不可欠であり、それができる文官は重視されるようになり、下級氏族であっても菅原道真や春澄善縄(はるすみのよしただ)など出世が可能となった。既に対外戦争の起きる可能性は低下し、国内でも争乱が減少してきたこの時期に、大陸の文化の消化吸収が進み、それだけでは飽き足らなくなってきた日本人は、わが国独自の文化の生まれる感性を磨きつつあった。その一つが「和歌」といわれるものだった。
依然として漢詩文が盛んだった中、私的な宴会などでは和歌が詠まれ、在原業平など六歌仙と呼ばれる人々の活躍もなされるようになり、裏では確固たる位置を占めるようになっていた。
当時から、儒教的な中国人や朝鮮の人びとと違って日本人は恋愛文学というものを低くは見なかった。なぜなら、社会を含めたあらゆる人間の文化の発生のメカニズムに、恋愛という幻想(観念)は大きく関与していたからです。
何しろ、動物は本能に従って、やることをやるだけで、相手がどんな顔をしているか(=精神性を覗かせているか)なんて眼中にないわけですから、だれでもよかった。人間はそうはいかない。人間は本能の上に「物語」の目を重ねて相手を見るから、好き嫌いが発生してしまう。
しかも、その物語の始まりは、自分では決められないから(確率的に好き嫌いは殆ど通らないから)、諦めから出発するしかない。そこにドラマが生まれるわけで、何でも思う通りに進んだら有難味なんて感じられない。自分で決められない生まれつきの百人百様のハンデ(「生まれ生まれて、生の始めに昏し」)を背負っての始まりは、生まれること事体がそういうもので、それは宿命とでもいうものです。そこにこだわって、不可能なハンデの改変の為に一生を費やしてしまう人もいるでしょうし、そんな「いい条件か」どうかなんて物語の本質にあらずと、人と生まれれば誰にでも備わっている「切実さ・情愛」という宝石を見つけ、それを守るこころを大切にすることができる人(動物ではなく)に成れる人もいるでしょうし、様々です。ある時は密通という道徳的規範を破ってでも守り通そうとする。

大半の人たちはそういうものを「女々しさ」のもとに切り捨て、公的規範の支配下に置こうとする「たてまえ」で物語を統率しようとする。そのような理念に風穴を開け、物語を勧善懲悪論から解放された文学にまで高めたのが、後の源氏物語です。
そこには、「たてまえ」からからスタートする現実離れした漢文化にはない、国風の文学があります。
少し砕けた言い方をすれば、私はあの人となら付き合ってもいいとか、あの人はいやだとかいうのは、動物には基本的にありません(その時の環境やタイミングに左右されることはありますが)。でも人間はそこが一番大事で、いやなやつとはやりたくない。なぜ同じ持ち物を持ちながら、好きときらいが発生するのか。それはそれぞれが自分の物語(93)を持っていて、それに合うか合わないかを品定めしているからですね。物語なんてどうでもいいなら、誰とやろうが、誰と結婚しようが関係ない。そこからほとんどの文化は派生するわけです。家族ができて、社会ができて、道具ができて、愛ができて、憎しみができてというふうに。家族ができない独身はどうなるといったって、何かしら友達でも、犬でも、仕事でも、月でも、ゲームでも、相手は必要なんですね。つまりヒトが生きていくのに恋愛は非常に重要な要素なんです。下品だとか何とか言って下に見るのは、男の自己正当化の為のごり押しに過ぎないわけです。日本の古代は、最初は男の政略から始まった摂関政治作戦も、女性なしでは成り立たないほど、その役割の重要性が高まりました。もともと男一人で何ができるわけもないのです。もともと言葉と言い、社会と言い、文化と言い、全て人の物語が作り出した砂上の楼閣でもあるのです。そういう観念が判らなければ、数億もかかる豪邸も、唯の洞穴も(動物から見れば)何も変わらないわけです。一人一人が物語を持っていればこその価値がある豪邸なんです。先ほど言ったように恋愛はその典型ですね。それを歌(和歌)にするということは、一人一人の違った物語の確認なんですね。人間が一番求めるのは自分の抱いた物語の確認なんです。それが無ければ動物と変わらない唯の本能による行為に終わってしまう。物語として完成させる必要があるんです。それで「後朝の歌」が必要なんです(94)。

平安の人たちが、何で暗闇の中で性交渉をし、朝がほのぼのと明けるまで、或いは結婚しても何日もたった後、妻が油断して見られてしまうまで顔というものを見せなかったかということも、顔というものが、魅力的ではあっても、物語(幻想)にとって如何にその本質を曲げてしまう邪魔な要素だったかということを物語ります。顔というものは、身体の中で最もその人のアイデンティティーを象徴します。そして最も具体的に個々の特殊性を示します。もし顔や性格にしか、各人の物語の照準を合わせられないとしたら、相手とのマッチング(実現性)は限りなく不可能になります。その特殊性、リアリティーは人をひきつけますが、逆に合わなければ僅かの差異も寄せ付けません。人付き合いもほとんどなく、引きこもりの貴族社会にあって、殆ど情報というものが無い中で、「顔で選ぶ」なんて言い出したら社会の構造でも壊れなければ可能性は殆どありません(現代すら、社会構造も開放的に成り、あれほどの情報が飛び交う中ですら、マッチングはかなり厳しく、独身者があふれる要因の一つとなっています。写真のリアリティーに毒されて、ものが見えなくなってしまっているのです)。又、実は顔や映像は物語のゴールではありません。それは単なる憧れです。アンナカレーニナの「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭はひとつずつみな違う」というのは、幸福が憧れだから似通っているのです。そして憧れは空想に過ぎず、すぐ飽きます。「美人は三日で飽きる」ですね。それは相交わる物語が無いからです。かっこいい車と同じです。あれば彩を添えるが、無ければならないというものではない。それだけでは一時しか持たない代物なんです。そんなものだけを追い続け、もっと肝心な物語を生きずに棒に振ってしまうこともあるのです。だから美(顔の美も)は魔物なんです。

そのパンドラの箱を開けてしまったのが、院政期から始まる道徳と暴力とリアリズムの武者の世だったのです。男性的時代の出現です。大塚ひかりさんは、平家物語は、女嫌いの(ホモセクシュアリティーか?)人が書いた・語ったのではと書かれているが、さもありなんと思われます。「美人が好きな男は女嫌い」というのは、美人という概念の中にどうしても必要な要素(男っぽさ・少年ぽさ)必要だということを見抜いているからに違いありません。ここは皆さんの胸に聞いてもらうことにして、あまり深く追及はしません。女好きの川端は、感情むき出しで大騒ぎをして男が自己主張する平家物語が嫌いでしたし、男好きの三島や谷崎は、感情を抑え、世間体を大切にし我慢し、怨霊まで生んだ、ものの憐れをしみじみ追求した源氏物語が嫌いでした。源氏については、後でまた取り上げます。

というわけで、文化や詩の成立に大きくかかわる恋愛文学は、漢詩などと比べても、より日常生活に密接しており、立派に男女の関わりという形で、存在を語りうるわけです。
漢詩と比べてどちらが低いとか高いとかいう代物ではないわけです。漢詩ばかりでは実生活と遊離してしまう。嘘っぽくなってしまいます。それは西欧の自我中心主義も同じです。
こうして徐々に和歌も興隆し始める。菅原道真を抜擢した宇多上皇はこの時代の空気を先取りして、和歌の興隆に力を注いだ。近くに仕えた道真も、自身は漢詩が得意ではあったが、和歌の興隆を時代の流れとして、自ら著した随行記の中で予測している。
9世紀中頃に片仮名と共にひらがなが発明されたのも大きい。万葉仮名を崩して生まれたであろうひらがなは、アルファベットのように表音文字だから種類も少なく、習得も容易で、歴史的な発明であることは何度も言っていますが、和歌の流行にはうってつけだった。この流れを決定的にしたのが古今和歌集の編纂だった。泳者のほとんどが宇多天皇、醍醐天皇の近親者であり、背後に両王朝の正統性を詠う意図があったことが推測されている。そして和歌は恋愛の道具から、貴族の嗜みとなり、漢詩の「たてまえ」と対立する理念にまで近づいていくのです。

王朝の権威を高める計画は、和歌ばかりではなく、宮中の制度にも示された。昇殿制(95)や蔵人制(96)の強化がその一つの試みだった。宇多は藤原氏との血縁が薄く、近臣が少なかったことから、他の官職との兼任であり、私的な機関であった蔵人に高い官職のものを就けたり、大臣か大納言を蔵人所別当に充てるなど、チームを私的な機関から公的な機関に引き上げ、自己に忠実な近臣で側近を固めた。こうして、天皇の近臣が、私的な立場から公的な立場へ積極的に位置づけられたことで、藤原氏との対決を含め、忠実な近臣の育成に力を入れた。この制度は以後の宮廷社会の中で長く生き続け、貴族文化に大きな影響を与えた。
その宇多の対決計画も、後醍醐天皇の世になって、藤原時平の陰謀による腹心・菅原道真謀反というでっちあげで、儚くも費えることになる。

〈受領(ずりょう)の成立と郡司・氏族の弱体化〉
 律令制のもとでは、地方は諸国に分かれ、国の下に郡がおかれ、郡の下に里(後に郷)が置かれ、国を統治する国司が中央から派遣された。国司は郡の有力者を郡司として、徴税を含む在地の統治・運営を行っていた。9世紀末には税の納入の遅れや庸(布や米)や調(布や特産物)の粗悪化がひどかった。困窮に苦しむ現場を見ようともしない中央政府の怠慢や国司・郡司の横領が原因だった。この状況を打開するための方法が受領国司制だった。受領は前任国司から国務を引き継ぐ(受領する)ことから生まれた言葉ですが、任国へ赴任しないで、一族や子弟などを目代(もくだい)として国衙(こくが=国府)に派遣して、そこから挙がった一定額の税を中央に納入していた遥任国司(ようにんこくし)とは違って、実際に現地に赴いて、検察や徴税を行ったり前任国司などに不正があれば正した。国家はこれらの権限と責任を任せる代わりに、国務に直接口出しを控えた。受領国司は赴任した国司の最上席者が任命された。これによって受領(長官である守・かみ)の権限は飛躍的に強化され、財を成すものが続出した。この為、任用国司(受領以外の国司、介(すけ)、掾(じょう)、目(もく)などの代行者)との争いも多かった。
受領の成立と共に、郡司も国司の任命制や推薦制となり地域での権力を失っていった。こうして国司が土着する中で、中央でも天皇以外の上皇・親王・女院などの皇室関係者や上流貴族(藤原氏)など(院宮王臣家という)もこの甘い汁を目当てに、地方に進出し、荘園経営などに当たり、国司より位階が高いため、しばしば納税を拒否したり、浮浪人や有力者などを使って国府の使者に暴力を振るったりした。彼らは院宮王家と主従関係を結んでいたと思われる。受領の方は金になる仕事として中・下級貴族たちの羨望を集める地位だった。紫式部の父も受領で財を成した。その蓄財の使い道は主に官職や受領再任工作に使われた。朝廷の儀式の費用負担や寺社造営の請負や公卿たちへの貢納が主な方法だった。こうして官職を得ることを成功(じょうごう)と言われた。成功によって、二度受領になることも難しかった時代に、官位の任期満了後も同じ官位に再任された。


注91) 「ハレとケ」 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P34
 稲作文化を前提とした日本の一年のサイクルで、冬から春へ、春から秋へ、秋から冬へというエネルギーの連続的な移行として捉える中、「冬」を自然や生命の魂がふえるという意味の「殖ゆ」という言葉から連想し、「春」を次第にその魂のエネルギーが満ちてきて、蕾が張ってくる意味で「張る」になる。こうして冬を我慢の「ケ(褻)」として、余所行きでない日常・現実・おおやけでない時として捉え、春を弾ける「ハレ(晴)」として、非日常・特別で祭り(素朴な乱交パーティーの「歌垣」も含む)、踊る儀式や行事を行うときとした。(都市は、日常をハレにしてしまい、いつも「よそ行き」の生き方をしている魂の消費の地であり、魂を増やす日常の「ケ」を地方に預けて(犠牲にして)しまっていますね。毎日がよそ行きの為に、「ハレ」の有難さが感じられなくなって、マンネリになり、刺激を求めてますますエスカレートし、異常性愛に走るばかりですね)。

注92) 同P120

注93) 物語
 物語は、野家啓一によれば「我々の多様で複雑な経験を整序し、それを他者に伝達することで、共有する為の最も原初的な行為である(*)」とし、小説と違い単なる虚構のみならず、「事実」の領域から「歴史叙述」にも及ぶという。柳田國男は印刷技術の発達により物語(口承文芸)が衰退したことを嘆く(物語作者は、語ることを自分の経験から引き出したり、他人からの報告から引き出したり、又語りに耳を傾ける人々の経験にしたりする時代の「様式」の中に生きた。
ところが小説は、社会とつながった自己を切り離し、孤独の中にある個人が密室の中で、自己の「内面」を吐露する告白という文体がその始まりとなる。告白されるべき「内面」が形成され、それを語る主語「私」=「自我」が必要になった。それは科学の発達とともに、超自我ともいうべき絶対的な神や天皇が信じられなくなり、自身の存在根拠を失った近代人が、新たに拠り所とせざるを得なかった「無意識」が、人間の存在を支えるどころか暴れ者で、時には人格を脅かし、とても安心して委ねられるような代物ではないことを知ることで陥った底知れない孤独と向き合う場を設けざるを得なかった。その場がいわば「内面」という「ミニ無意識」のようなものであり、その場をとりかこむのは更に巨大で不可思議な無意識の世界だった。
小説に如何に多くの登場人物がいようとも、たった一人の独白(モノローグ)に過ぎず、そこには他者(本当の無意識)は存在しないのです。
 自我と無意識の間の緩衝地帯であるミニ無意識の場は、絶えず両者の間を取り持って、あわよくば巨大な無意識の僅かでも、自我の側に取り込んで、制御可能な世界(自我)を広く取ろうと努めている。実はその敵の様な巨大な無意識も自分の一部なのだが、「神様」や「お天道様」「他人様」などとして受け容れる方法を失ってから、そんなものは自分ではないと決めた時から、敵に回ってしまったのです。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでもその存在を意識し始め「エス」と名付けて考え始めた。小説とは、その中身が個人的な経験や物語風の創作であって「物語」の体裁をとろうとも、「エス」を敵に回した話であって、「エス」に守られた「物語」とは一線を画すのです。
世界を物語で捉えるという「布置(コンステレーション・一つ一つの事柄や状況が、それだけでは何の関係も意味もなしていないようであっても、あるとき、それらが一つのまとまりとして、全体的な意味を示してくるということに、気づくことができるようになる)」の方法は、人間の宿命ですし、それ以外に人のこころを救う方法はないわけです。「人生」という捉え方(観念)も同じです。人生に何の意味もないと思えばその通りですが、それが科学的な認識では見出し得ないからと言って無意味ととるか、初め(誕生)から終わり(死)までの一つの厳粛な過程として定義して、美しく(自分が美しいのではなく、人の一生が、星の一生と同じように美しいという意味です)感動的な体験として意味を見出すか勿論各自の自由ですが、前者は人生に何か意味が欲しいからこその気持ちの裏返しで、それが見つけられないから拗ねて、科学と心中しているだけに見えますし、後者はこの世に生を受けたこと事体を感動的な事と感じ、感謝しているだけの姿勢が見えて、期せずして後から意味が生まれているように見えます。
足立恒雄さんによれば、限りなく意味から自由で抽象的な言語で行う「数学すること」すら、「集合」を色々な方法で抽象する能力として定義しています。集合として捉えることは、そこに意味(関係)を見出すこと即ち物語をみることだと思います。
(*)野家啓一「物語の哲学」岩波現代文庫2005年5月P16

注94) 後朝(きぬぎぬ)の歌の必要性。
ウラジミール 生きたというだけじゃ満足できない
エストラゴン 生きたということを語らなければ
ウラジミール 死んだだけじゃあ足りない
エストラゴン ああ、足りない
(ベケット「ゴトーを待ちながら」白水社2013年6月p119)

注95) 昇殿制 
 清涼殿南廂の殿上の間に伺候することを許されたものを殿上人といい、同じ公卿でも昇殿が許されないものを地下(じげ)といって区別された。四・五位の中から選ばれた天皇の側近で、上級貴族の公卿の予備軍的存在だった。殿上人は一方で律令官僚制の官人(ライン)であり、もう一方では天皇の代替わり毎に選び直されるスタッフでもあった。これを、公卿-殿上人-諸大夫というラインに乗せ、天皇との個人的な関係からなっていた近臣たちを、公的な官職として位置付け、宮廷社会の性格を大きく変えた。
    
注96) 蔵人制(くろうどせい)
蔵人所は、薬子の変に際して、(平城上皇側に)嵯峨天皇側の情報保持のために設けられたもので、令外官としてそれなりの機能は持っており、側近として、藤原氏などの有力者ばかりでなく、琴や和歌など諸芸に秀でた人物も置かれていた。
宇多天皇はこの制度を整備し、それまで6位までだった蔵人任命を5位にまで引き上げ、蔵人処別当を設けるなどその地位を引き上げ、近臣の整備を図り、藤原氏排除の体制を徐々に固めていった。


2016年12月21日
第2回歴史第3部中世14【日本古代・華厳から密教へ】
〈華厳の毘盧遮那仏から密教の大日如来へ〉

 平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、既に遷都前からの飛鳥・藤原時代からの国家大寺院として薬師寺や法隆寺(飛鳥寺)、大安寺などがあり、更には遷都後に建てられた興福寺・東大寺・西大寺などがあり、これら寺院において研究された仏教は、南都六宗(83)と呼ばれた。中でも東大寺の華厳教(84)は、その中心となり、仏教によって国家の安定を図ろうという鎮護国家の思想を、東大寺大仏(毘盧遮那仏)を中心として全国に国分寺(国分尼寺)を配置する、藤原氏の国家イデオロギーともいうべき華厳ネットワークに乗せて拡げました。
しかし、このような民衆の信仰を伴わない、学術的宗教だけではいずれ形骸化し衰退するのは目に見えていて、それは中国で唐以降仏教が衰退したのと同様の道だった。当時の感覚では仏教はモダンでセレブな文化で、僧はエリート層であり、渡来僧や商人などの中国語や朝鮮語など様々な言語が飛び交う平城京においては、僧侶はバイリンガルとして羨望の眼差しを向けられる対象だった。そんな中で、日本においては山にこもり修行に励む修験・雑蜜などの山岳仏教、民衆への布教と共に社会事業を行い国家からの弾圧にもめげず、後に大僧正に任命されて大仏造営に協力する行基、貧しい孤児や病人の為社会福祉活動を行った光明皇后などが黙々と活動します。

又仏教も決して神道が特に社会的権力を目指さない限り弾圧することもなく、共存の道を探るのです。各地に神宮寺や神願寺といった神仏集合思想(85)に基づく、神社であり且つ寺である寺院が建立され、近くには神を祀る社(やしろ)や祠(ほこら・小さなやしろ)が新たにつくられ、「鎮守(ちんじゅ)」と呼ばれるその土地や場所を守護する神も祀られるようになりました。なぜなら、仏教は日本に限らず、伝播した土地の固有信仰を取り込みながら発展してきたのであって、インドでも(梵天・帝釈天・阿修羅などと)中国でも(道教と)習合を繰り返している。日本でも同様に神道との習合を繰り返したのは珍しい話ではありません。日本の場合は、中国からの習合思想の影響もみられるが、在地の有力者や郡司(86)などに信仰された神が、彼らが私的に行った、春に農民に稲を貸し出し、秋に重い利息をつけて返済させる金貸しならぬ稲貸し(私出挙・しすいこ)や、天災、疫病などで村落は荒廃し、求心力を失っていた状況が、仏教に取り込まれる要因を作っていた。こうした窮状を見て、寺院と山林や諸国を渡り歩く遊行僧らは、神が仏の力を借りて救済される神仏習合の仲立ちをしたのです。神の苦悩は、時代の変化(律令化強化・平安化)についていけない有力者達の苦悩でもあったのです。

 桓武天皇は、この郡司の譜代制も廃止して才用制とし(これも郡司には打撃となった)、併せて国司の不正を摘発する令外官(天皇直属のスタッフ⇦⇦律令のラインには乗らない)である勘解由使(かげゆし)を設置した。
桓武はこうして地方管理体制を強化しながら、蝦夷の征伐で国家の威信を国内に示そうとした。小中華思想と言われます。最初の征夷はアテルイなどの反撃で敗退したが、二度目には坂東(碓氷峠と足柄坂より東の地域)を兵站基地とし兵糧(糠・ぬか)14万石を用意し、10万の征夷軍を養い、勝利を収めた。このとき副使に任命されたのが坂上田村麻呂でした。三度目の征夷は800年から、(797年に征夷大将軍に任命されていた)田村麻呂を中心に出発し、蝦夷征伐に成功し、族長アテルイらを引き連れて上京し、田村麻呂は彼等の投降が自首であることから除名嘆願したが公卿らの反対にあって処刑となった。このような造都や征夷という膨大な出費が可能となったのも、気候の安定や経済的基盤が安定していたこともあるが、唐末の政局の混乱や新羅の内乱などで、対外的な軍事費が不要だったことも寄与していた。

 それでも度重なる征夷や造都の費用は農民(地方)を圧迫し、高齢で病弱になった桓武は、殿上に藤原緒継と菅野真道を呼び、徳政(徳のある政治)について論じさせた。そして緒継の意見を採り入れて、天下の苦しみである「軍事(征夷)」と「造作(造都)」を停止した(徳政相論)。併せて側近の藤原種継暗殺事件の際に葬った早良親王の怨霊を恐れて、淡路に寺院を建立したり、最澄を殿上に呼び、悔過(罪を償う行事)を行わせた。

 神道に関しても、桓武天皇は伊勢神宮を深く信仰し、平安遷都に際しては賀茂社や、母の出身貴族である百済王氏の祀る神社を平安京に勧請(かんじょう・神の分霊を迎え祀る)したり、諸国の神主の任命権を手中にし、国家の管理下に置いた。

 こうした中で、華厳のような正統に伝わった経伝仏教ではなく、裏として早くから伝わっていた密伝仏教である南伝仏教(87)を基にした山岳仏教がいよいよ出番となってきます。行基のように同じ山林派であっても、大僧正として華厳派に取り込まれず、山林にこもり修行に耐えてきたこのグループを、唐帰りの最澄・空海は雑蜜として採り入れ、よく整理して純蜜として体系化し、いよいよ密教(88)の時代を切り開くのです。

 桓武も、顕教(89)の政治介入には嫌気がさしており、平安遷都の際には、平城京時代の寺院の移設を認めず、官立の東寺、西寺以外の私的寺院の建立も認めなかった。同時に最澄らの新仏教を支持した。道鏡が下野の国に流され、久々に天智系の光仁天皇が即位し、その子である「桓武には、天智系の血とは別に、百済亡命一族の血が流れていた。・・その桓武が選んだ新京の地が、山門(やまと)ではなく、山背(やましろ)である山城であったことはすこぶる興味深い(90)」ですね。(吉野の入り口である)山門は大和=奈良=平城京であり、山背は国都のあった大和国から見て、山の裏側(反対側)の国という意味ですが、新しい国都が「背」ではまずいので桓武天皇が、都にふさわしい「城」に変更したようですが、「山城」といえば思い出すのは、国防の為に、百済に学んだ古代朝鮮式山城ですね。日本の古代のところでやりましたね。
密教の宗教としての詳細については、第10回予定の宗教のところで検討しましょう。



注83) 南都六宗
三輪、成実、法相、倶舎、華厳、律の宗派。信仰よりも教典の学術的研究に力がそそがれた。

注84) 華厳経
日本の古代史を覆った宗教であり、哲学であり、科学だった。全世界をヴァイロチャーナ=ビルシャナ(奈良大仏)仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開する。古代国家が一人のリーダーとしての帝王を置いて国を治めるモデルとして使いやすかった為、日本も取り入れられた(鎮護国家)。「唯心縁起」を重視する世界観によって出来上がったもので、言葉使いが述語的につながっている(西田幾多郎の「述語的包摂(*)」参照)という特徴をもつ。密教と禅は華厳を分母として発達した。
華厳経の教理の特色は人間には仏性があり、仏になるとした。そのプロセスを「性起(**)」に託し、理性起(自己の仏性に気づく)→行性起(師や経典に学ぶ)→果性起(清らかな仏果現る)の3段階に分けた。
仏陀が悟った真理は「縁起」から見た世界にあるとした。「縁起相由」といい、事象の関係発見のプロセスを示した。諸縁各異(事象には全て個性あり)と互編相違(全体の調和は個性が構成する)→倶存無碍(多様な関係が生まれる)→相即相入(多くの個性の関係が真理となり、真理は多くの個性の関係になる) →同異円備(多くの個性が関係しあって調和をつくり出す)
宇宙は多様な要素が全て相互にネットワークし合って、秩序をつくりあげている。「四種縁起」といい華厳世界のプロセス示す。事法界(現実世界・森羅万象)→理法界(真理を追究して現れる「空」の世界)→理事無碍法界(現実と真理が融合した世界)→事事無碍法界(全事象が相互関係を起こしている世界)にまとめられる。

(*)「西田幾多郎は〈判断というものは、実は主語を述語が包摂することだ〉と書いた。これは〈特殊〉としての主語に対し、述語が〈一般〉であることを強調したものである。その為人間の知識は、この〈一般〉の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだと捉えられた。言い換えれば、人間は自分自身の底辺にある〈述語面で〉あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。〈意識の範疇は述語性にある〉というとびぬけて素晴らしい結論を出したのだ。(松岡正剛・知の編集工学・朝日新聞社p278)」
(**)「性起」・・現象世界は、真如・法相(ホッショウ)などの根本原理の生起したものとする見方。

注85) 神仏集合思想
仏教と在来の神祇思想(*)とを混融調和するためにとなえられた教説。奈良時代は経典知識の普及により、神を仏教の護法善神として「神宮寺・じんぐうじ」が建立され、(寺の中で)神前読経が行われた(鎌倉にある鶴岡八幡宮は明治初期まで神宮寺だったし、奈良の春日大社では正月に般若心経が読み上げられる)。
平安時代になると神に菩薩号が与えられ、権現の名で呼ぶようになった。以降は末法思想の中、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が展開され、仏が神の姿で、人々の救済に顕現したとされた(仏が本地、神が垂迹)。具体的には、大日如来は天照大神に、阿弥陀如来は八幡神や熊野権現に、地蔵菩薩は愛宕権現(あたごごんげん)に、大黒天は大国主神(おおくにぬしのかみ)にといった具合である。
鎌倉・室町期には反本地垂迹説(神が仏の姿をとって顕現した)により、神道の理論化が図られた。更に江戸時代には、儒者や国学者からもこれは俗神道として排撃されたが、村の鎮守の神として、村落の宗教生活には浸透していった(角川日本史辞典より)。ここでは、このように相反するモノすら統合してしまう、古代から現代まで脈々と通じている極めて日本的な性向を自覚しておきましょう。ここからもわかるように、日本は無宗教ではありませんが、さりとて体系立てた宗教に支配されている訳でも反宗教でもないんです。非宗教なんです。唯素直に感動したものや人やコトに頭を下げる。それだけなんです。だからこのような矛盾したと思えることが平気でできるんです。海外からの批判も受けるのです。でもそれを宗教からの自由と言いましょう。

(*)神に関わる観念や信仰の総称。
もともと日本では天地の神や人格的な祖先と系譜神を祭る慣行はなく、教説もなく、各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後仏教や仏像や道教などと接触する中で、神を偶像として命名することやケガレ・祓いを重視したり、神話作りが進んだ。そして天皇祭祀のもと、天神地祇(天の神と地の神。天つ神と国つ神。・・日本では、高天原たかまのはらに生成または誕生した神々を天神、初めから葦原中国あしはらのなかつくにに誕生した神を地祇とする)の考えが編み出された。更に奈良時代の「氏神祭祀」、平安時代の「御霊信仰」が生まれる。

注86) 郡司
令制の地方官。前身は7世紀後半の国造(くにのみやつこ)などの伝統的な豪族などで、終身官だった。国府内に留まらず、国内を巡行したり京と任国を往還する国司は、実質郡司級の豪族の在地支配に依存していた。


注87) 南伝仏教
南方アジアで広まったで上座部仏教で小乗仏教とも呼ばれる。厳しい戒律を持ち僧侶の修行によって悟りをひらき、庶民は僧侶に功徳を積む事で救われるとするもの。(これに対し、マントラ(真言)を唱える事で誰でも救われるとする大乗仏教は、漢訳やチベット訳の仏典で伝わった、チベット・モンゴル・中国・朝鮮・日本における北方仏教といわれ、比較されるが厳密ではない)

注88)密教 【最澄と空海】
宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる大日如来(智の働きを表す金剛界大日如来と、理を表す胎蔵界大日如来の二尊がある)の教え。大日如来とは華厳の教主となったヴァイローチャナ(サンスクリット語=日本名ビルシャナ・毘盧遮那=大仏)が、再昇華したマハー(大)ヴァイローチャナをさす。尊格は同じですが、密教はゴータマ・ブッダを選ばず、アスラから転身を遂げたマハー・ヴァイローチャナ・ブッダを選んだのです。
奈良時代後半には、仏教が政治に深く関与して弊害をもたらした。桓武天皇は平安遷都に伴い、最澄によってもたらされた新しい仏教を支持した。
一介の私度僧に過ぎなかった空海は、優れた著作は残しつつも中央にその名を轟かせることはなく、唐に渡る伝手は無かった筈だが、叔父の阿刀大足を介して、有力者(伊予親王)の推薦を受け20年の任期を持つ長期の遣唐留学僧に選ばれたと推測される。私費で(勿論伊予親王の資金援助は受けていたろうが)渡った留学僧だった。ただ伊予親王は桓武の死後謀反の疑いで自殺した為、その名を隠したと推測される。空海は長安に入り、その才能をいかんなく発揮して、般若心経や華厳経を中国語に翻訳した博覧強記のインド人・般若三蔵の知己を得、梵語(サンスクリット語)やバラモン教を学び、その仲介もあってか修行者二千人に及ぶ密教の本山ともいうべき青龍寺の恵果を訪ねる。恵果は空海が来るのを知っていたかのように「我、先より汝の来るを待つや久し」と言って早くも両部密教の秘法の研鑽に入る。胎蔵界の灌頂でも金剛界の灌頂でも、先立つ投華の儀式で投げた花が大日如来の上に落ちる。「不可思議!不可思議!」と手を打つ。どちらも不眠不休で打ち込んだ。恵果は大日如来の密号である「遍照金剛」の号を空海におくり、何と、真言密教の第八祖となりました(「大日如来-金剛薩埵-龍猛-龍智-金剛智-不空-恵果-空海」)。中国密教界の最大最上の付法が与えられたのです。
インド伝来の聖教、曼荼羅、仏画、法具、仏舎利80粒などのことごとくがおくられた。結局、義明が早死した為、金胎両部の秘法を伝授されたのは空海一人だった。入唐して3年になろうとしていた。もはや中国に留まる理由はないと帰国を計画した。僅かに越州の龍興寺の密教阿闍梨である順暁(じゅんぎょう)に合っている。順暁は最澄に密教の付法を伝授した人物であり、その一部始終を聞き、最澄の学んだ密教がどの程度のものかおおよそを知る。先を越されたと思ったかもしれないし、自分の掴んだ世界の広さに自信を深めたかもしれない。帰国に当たっては、高齢にあって(70歳)尚日本への布教に熱意を枯らさない翻訳の天才・般若三蔵に後を託され、膨大な教典を受け取った。唯空海は、帰国してすぐには都に入らない。桓武の死も耳に入る。九州・筑紫に留まり機の熟すを待った。本来20年を学ばねばならない還学僧が僅か3年足らずで戻ったとあれば咎めをうけることは間違いない。それなりの成果を挙げたことを暗に知らせ、都の反応を見た。又空海を留学僧に推薦・資金援助したと思われる伊予親王が桓武の後の平城天皇に対する謀反の疑いで自害していたことから政治的謀略に巻き込まれる恐れもあった。桓武の死後宮中の勢力が交替し、右大臣となった藤原内麻呂は最澄の新仏教より奈良旧仏教に味方し始めた。その機を見て空海は、京に向かう高橋真人に長安などで得た教典他の全目録(「請来目録)を託した。現物は渡さない。「請来目録」は、そのあまりの偉大な内容に判定できる者が見つからず、日本密教の最高指導者に登っていた最澄の手に渡った。それを見るだけで最澄は、ただならぬ空海の実力を見抜いた。長安に入らなかったのを悔いたかもしれない。本格的な密教の到来に、畏れと共に、大いなる友を得た心強さを持ったかもしれない。
やがてそして徐々に、空海を必要とされる時が近づいてくる。最初は、最澄の弟子ではあるが空海を評価していた勤操の管理する和泉の国・槙尾山寺に、そして次には、京に上って最澄ゆかりの高雄山寺に入るようにとの、太政官・官符が、彼の住む国の国司に下った。奈良仏教者達も、最澄の痛烈な批判を受けて立てるのは空海しかいないと感じていたし、最澄も完成された、正統の流れを汲んだ密教の膨大な教えが広まるのを素直に喜んだに違いない。空海はどちらにつくというものではない、密教がこれまでの仏教流派の一つでしかなかったのを、全ての頂に立つものとして、超越的な立場を持ち、華厳すら下位に置く仏教最高の宗教とする構想を持っていた。

空海は嵯峨天皇から、六朝期の秀句を選りすぐって六曲一双の屏風に書くよう依頼された。謙遜しながらも、長安では五筆和尚の名をもらったほどの優れた書家でもあった彼はあっという間に感性豊かな嵯峨天皇を魅了した。
最澄はほどなく、空海付法の金胎両部の灌頂を受けたいと山城の国の乙訓寺を訪ねた(空海は、嵯峨天皇からの命で、早良親王の幽閉されていた山城の国の乙訓寺に入ていた。怨霊の魂鎮めか、兼ねて望んでいた荒れ果てたこの寺の修理を願ってなのか定かではない)。唯、南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼を尽くしているということは、只ならぬことだった。既に最澄は空海に教典閲覧の申し出をしていたし、手紙の末尾には、「下僧最澄」と記していた。最澄とはそういう正直な人間だった。信仰の前には社会的地位などに囚われない直情の人だった。
空海も最澄の姿勢によくこたえて借覧にも協力し、灌頂も多数行った。最澄もこの空海の活動を資金を含めて惜しみなく援助した。しかしやがてその借覧も断られ、最澄の熱望していた灌頂も、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」はしてもらえず、曼荼羅諸僧との縁を結ぶ「結縁灌頂」までに過ぎなかった。このまま続けてすべてを持っていかれるのを恐れたのか。事が政治的に語られるならそうであろう。強かでもあったろう。しかし空海はそのような秤で語られるようなスケールの人間ではなかった。最澄とは住む場所が違っていた。空海は最澄が嫌いではなかったが、うっとうしかった筈だ。こんなことにかかずらってはいられない、それが本心だったろう。早くおのれの信念を世に問いたい。

善悪などを超越した、生命の矛盾を前に、大輪廻を前に、その悪夢から、慈父である覚者が黙って見てはいられないという叫びを発した。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを知らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し

(自分には自分は判らないし
生には生は判らない(まして死などわからない)
生の始めは判らないし
死の終わりも又わからない
自分に与えられた相を生きることが、そのまま全体を生きることになる)

三界に輪廻し、四生に蛉足幷(りょうびょう)す
大覚の慈父、これを見て何ぞ黙したまわん
(生きとし生けるものは悪無限的な繰り返しを生きている。
そうした生命の海の輪廻の悪夢を黙って見てはいられない)

もはや「祈り(信仰)」だけではすまされない、生命の矛盾(共存と共食い=他の生命の殺戮(*))を受け止め、身をもって示すという大事業が、彼を突き動かしていた。誰がこの根本問題を理解しただろうか。僅かに最澄がそのスケールに気付くのみだが、その深く広い哲学を理解しているとは感じられない。むしろその中途半端な理解は、これからの構想に有害ですらある。根本が違っていた。最澄を始めとした大方の仏教は「生きる救い」を目指したのに対し、空海の根本解決は誤解を恐れずに言えば「自殺」だった。輪廻の悪夢を断つ「即身成仏」とはそのことだった。それは決して生命の否定ではない。生きとし生ける者たちの中で、人間だけが善人面をしていることへの「喝」だった。(一汁一菜で暮らせばいいというものではない、そんなものは自己満足に過ぎない)。このようなことが理解できる筈もない。だが薄々感じられるものなのだ。それが不安という形をとって、忍び寄る。そこを身をもって、先頭をきって、「生命の定義=あり方」を示しておく、釘を刺しておくのが空海の答えだった。
「仏教は中インドから南インドあたりで形成された般若や中観哲学、いわば「空の哲学」という頂点と、これに対する唯識哲学をも組み込んだ「悲の哲学」という頂点との、二つの絶頂を極めたのであるが、密教は時代的な流れから、この「空と悲」の統合を何とか果たさなければならないところに差し掛かっていた(**)」わけです。

一人の欲望や食欲や暴力などの想像力の根拠を自己のみに求めず、原因と結果の必然性に秩序維持を頼る因果律の脈絡に関しても一人自分のせいだと考えず、もっと広く、「生きてある者と死んである者との(想像力と因果律との)共有まで進んだ時に、宗教は初めて「生命の海」をもつことになる。空海はそのことを「即身」というふうに見た(***)」(松岡正剛「空海の夢」春秋社参照)

彼の伝えた密教(大日経・金剛頂経)は、修行によって奥義を極めたものにしか深遠な悟りは開けないとしたが、人間はありのままの姿で既に仏であり、修行によってそれを自覚できるとした「即身成仏」の考えは、輪廻転生の苦しみを経験しなくとも成仏できるという画期的な思想で(もう既においしい所は、民衆より先に味わい尽くした)貴族らの支持を集めた。おそろしく壮大な言語論を持つ体系から真言密教(東密)と呼ばれた。

一方、桓武に重用されたのは最澄の方で、既に名声のあった彼は、桓武の強い要請から、請益僧(しょうやくそう・特定の課題について、短期に学問や教義・教典上の疑問点を高僧らに問い帰国した短期留学僧****)として遣唐使に随行した。
最澄の伝えた法華経は、「一切皆成仏」として人間の仏性の平等を説いた。後に、既に唐が廃仏をやっている頃に入唐して、還俗させられた僧が多い中の唐から帰国した、弟子の円仁らにより密教化され、天台密教(台密)とされた。
これ以前からあった、山にこもり修行した修験雑蜜(ぞうみつ)と区別してこれら(東密・台密)を純蜜と呼ぶ。
しかし最澄は天台宗を起こし延暦寺で教えを広めたが、彼が起こしたのは法華経を中心教典とした天台教学(天台学、密教、禅、戒律の四種相承を特色とする、つまり法華経、浄土教、禅、密教を教えます)であり、密教中心ではなかった。何しろ短期留学僧で時間がなかった。幸運にも天台の正統な継承者・順暁に密教の胎蔵界と金剛界の灌頂(*****)を授けられ弟子として認められたものの、僅か1年間で、長安にも行っていない。これが後に空海との社会的立場の逆転を招くことになる。
それでも、鑑真から続く多様な天台の教えと、最澄の謙虚さは、後の浄土教の源信や偉大な鎌倉新仏教の開祖たち(法然・日蓮ら)をそこから輩出した。

逆に空海は、密教に専念し、高野山・金剛峯寺で大日如来の真の言葉を指す真言宗を開き、奥義の深遠なことから日本の密教の代表とされた。密教は、日本の土俗ともよく溶け合い、体系化された、インド発の世界普遍の哲学宗教でした。空海の思想は完璧すぎた。一人ですべてをやってのけ、高い頂に行ってしまった。恵果が中国の地で、密教の継承を託せる弟子に恵まれず(唐に教えを広める筈だった、若くして亡くなった義海を除けば)存亡の危機にあった時、彼が予知していた通り(東国に教えを広める役割の)継承者は突然日本から現れた。そして東洋の小さな島国で密教は完成されたものの、文字通り秘密の裏に閉じられてしまったのです。空海は次の偉大な継承者には出逢えなかったのです。その軌跡は「結び」の品である彼の膨大な著作と胎蔵界・金剛界の曼荼羅(******)と法具(*******)に託されました。

(*)生命の矛盾
矛盾は無常でもある。生命現象が、一人自給自足ができる植物を除いて、彼らの作り出す酸素や他の有機物の生命を飲み込んでしか(エントロピーを食べながらしか)生きられれないという、人間の宿命である弱肉強食(そればかりか神々の世界でも、ゾロアスターや仏教世界での善神と魔神との殺し合いの構造がみられる)の中で、人間中心の善を語り美を語り、浄土をのぞみ、悟りを云々することの矛盾を如何に引き受けるかを、即ち大輪廻の渦に放り込まれた人間の迷いから如何に救い出すかを正面から体を張って答えたのが空海だった。これは「祈り」で解決できる問題ではなかった。

或るテーマパークで、魚の死骸をスケートリンクに埋め込んで、氷上のスケートを楽しんでもらいたいという、これ以上ない皮肉な企画が実現され、ネットが炎上した。
魚がかわいそう、血がみえる、悪趣味、命の軽視、残酷すぎる、氷の水族館の企画に対する批判は、何とも人間の身勝手の極みをみせられて、腹立たしい。「悪趣味だ」という、お手前こそ、現実を見せられて動揺して、覆い隠したいという心理の醜さを見せているのではありませんか?あなたにとっての真実は、都合のよいもの、つまり偽装されたものにすぎず、都合のわるいものは、真実ではなく、見えない所に隠して無かった事にしたいわけだ。魚をぶっ殺して、油が乗って美味いとしゃあしゃあと言ってるし、牛をぶっ殺して、柔らかいとか、とろけるとしゃあしゃあと言ってるじゃないですか。それは、悪趣味じゃないわけだ。生命の矛盾ですね。テーマパークの企画さんも、作戦失敗でした。サント・ヴーヴの「毒(現実)は薄めなければ使えない」の原則を無視してしまいましたね。化粧品の原料も、薄めて初めて使い物になるのでしたね。今回の騒ぎは、うっかり生の真実を出してしまった為に袋叩きにあった教訓ですが、人間一人が、(他の生物たちに対し)善人面をしていることへの強烈な皮肉でした。

(**)松岡正剛「空海の夢」春秋社1984年7月p298
(***)同p340
(****)還学僧(けんがくそう)とも。
(*****) 灌頂(かんじょう)=如来の五智を象徴する水を仏弟子の登頂に注ぎ仏の位の継承を示す密教の儀式。最澄は弟子となるための「受明灌頂」までだったが、空海は恵果から、阿闍梨(あじゃり=密教の僧職)の位を得るための「伝法灌頂」まで受けていた。これが後に、最澄は空海に灌頂を願ったが、結縁灌頂に留まり、最後まで「伝法灌頂」は受けられなかったことにより、二人の立場の大逆転をもたらした因縁である。更には、最澄、或いは比叡山・延暦寺で教えを受けたものでも、日本で正式な僧となるためには、対立する南都東大寺の戒壇で受戒しなければならなかった。延暦寺に戒壇を設けることが許可されたのは最澄死去の7日後だった。桓武のバックアップがあったとしても、南都仏教の壁は厚かったのであり、その点空海は南都仏教とは協調を保ちながら、独自の世界を築いていった。
(******)曼荼羅・・・古代インドのサンスクリット語での音を漢字にあてたもので、悟りの境地に達することを意味し、密教の世界観を象徴的に構図化したもの。マンダラとは、サンスクリット語で、「マンダ」(真理、本質)と「ラ」(得る)を付けた語。密教の根本神である大日如来を中心に修行の過程にある各尊像を秩序に従い配置する。
両界曼荼羅(大悲胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の一対)、別尊曼荼羅(大日如来以外の、病気治癒、国家安泰など特定の目的のための本尊が描かれたもの)、浄土曼荼羅(阿弥陀如来の極楽浄土を描いたもの)、垂迹曼荼羅(神仏習合思想に基づき在来の神々を仏教の諸仏が姿を変えて現した)、文字曼荼羅(日蓮宗や法華宗の本尊として、南無妙法蓮華経などのお題目を文字で書いたもの)、羯磨曼荼羅(かつままんだら=立体曼荼羅であり密教の曼荼羅を、実際に諸仏を配置して表現したもの。全ての仏が大日如来の変身した化身と言われます)など様々な表現形式があり、これを内容によって分けると、大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と大日の分身である阿弥陀、観音、阿閦(あしゅく)などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とにも分けられる。
空海が持ち帰ったのは、都部曼荼羅に属し、胎蔵界(仏の理)と金剛界(智の世界)の一対からなる密教の根本本尊である曼荼羅図。今は痛んで見られないが、これを基にして作られたものが東寺にあります。胎蔵とは、母体で胎児を保護育成することに例え万法を含みおさめることで、大日如来の深い慈悲を表わしている。これを図像化したものが胎蔵界曼荼羅。金剛界は、金剛のような堅固な知恵に支えられた悟りの境地をいい、大日如来のゆるぎない知恵を表わすとされる。この境地に至る過程を図像化したものが金剛界曼荼羅。曼荼羅はユングが言うように「自然の自己治癒の試み」であり、夢を見るのと同様の、出会った自然や体験を前にしての自己の補償行為であり、人生の意味づけ行為なのです。
金剛・胎蔵曼荼羅.jpg
両界曼荼羅(元禄本)江戸時代 教王護国寺(東寺)蔵

(*******)法具・・・@煩悩を打ち破る金剛杵(こんごうしょ)A仏性を覚醒させる金剛鈴(こんごうれい)Bこれらを載せる金剛盤の3つ。
法具(密教)).jpg
教王護国寺(東寺)蔵

注89) 顕教
釈迦の教え。一般には法華経や華厳経、阿弥陀如来の教えである浄土経典の教理を意味した。南都六宗に代表される。空海は、密教以外をすべて顕教とした。東大寺大仏は華厳のネットワークの中心(毘盧遮那仏)。藤原一族の国家イデオロギーに使われた(鎮護国家の思想)。
学問的で、言語によって明らかに説き示された(「顕れた教え」)仏教の教えを意味する。これは永遠の仏が直接に絶対的な真理を垂示するのではなく、衆生を教化するためにお釈迦様として現世に姿を顕された仏が、教えを聞く相手の能力に応じて説かれたものとした。

注90) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P94

















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