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文●ツルシカズヒコ
野枝は『中央公論』三月号と四月号に「妾の会つた男」五人の人物評を書いたわけだが、『中央公論』五月号は「伊藤野枝の批評に対して」と題された欄を設け、中村狐月と西村陽吉の反論を掲載した。
おそらく、狐月と西村が『中央公論』編集部に反論の掲載を要求したのだろう。
ふたりの反論文は小さな六号活字で組まれているので、そのあたりに編集部が仕方なくスペースを割いたふうな状況も感じ取れる。
狐月の文章には「伊藤野..
第183回 新富座 [2016/05/16 17:12]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平、西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。
同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。
一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座で鴈治郎の『椀久』の公演があった。
野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。
野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが..
第65回 平塚式 [2016/04/02 16:51]
文●ツルシカズヒコ
三人の話題はいつしか、らいてうのことになった。
「紅吉はね、とうとう平塚さんとは絶交よ」
「そう、どうして? 本当? 手紙でもよこして?」
「ええ、手紙が来たんです。私はなんとも思ってやしません。これから落ちついて勉強するんです。生田先生もたいへん私のために喜んで下さいました」
野枝は『青鞜』に関わるようになってから、なにかすっきりしないままのらいてうと紅吉と西村のことを考えていた。
野..
第63回 姉様 [2016/04/01 17:17]
文●ツルシカズヒコ
青鞜社講演会の後、おそらく一九一三(大正二)年二月半ばのころであろうか。
野枝は当時の青鞜社内部の人間関係について、こう記している。
もっとも紅吉はすでに青鞜社の社員ではないのだが。
紅吉と平塚さんの間は旧冬の忘年会以後、ます/\妙なことになつて来てゐた。
平塚さんは西村さんと、哥津ちやんの交渉が後もどりをすると、だん/\に西村さんの方に心をよせて行つた。
神経過敏の紅吉は..
第56回 軍神 [2016/03/29 15:40]
文●ツルシカズヒコ
紅吉は頑固に黙ってしまった。
荒木の軽いお調子にもなかなか乗ってはこなかった。
しまいにはぐったりして、野枝の膝を枕にして寝てしまった。
哥津はとうとう帰り支度を始めた。
岩野も先が遠いからと仕度を始めた。
野枝の膝には紅吉がいたので、野枝はらいてうと一緒に帰ることにして、哥津と岩野は先に座を立った。
西村は蒼い顔をいよいよ蒼くして、背を壁にもたして荒木と話をしていた。..
第55回 メイゾン鴻之巣 [2016/03/29 13:54]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月二十五日、クリスマスのこの日は『青鞜』新年号の校正の最後の日だった。
帰りにどこかで忘年会をしようと、らいてうが言い出した。
文祥堂の校正室にはらいてう、紅吉、哥津、野枝、岩野清子、西村陽吉がいた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、京橋区新栄町にあった東雲堂が発行する出版物は、築地にある文祥堂で刷っていた。
らいてうの記憶では校正室は二..
第54回 西村陽吉 [2016/03/29 11:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月、『青鞜』新年号の編集作業が佳境になったころ、野枝は一日おきくらいにらいてうの円窓の部屋に通っていた。
しばらく、野枝は紅吉とは遭遇しなかった。
行くたびに哥津ちゃんと会った。
野枝は少しずつ青鞜社の仲間に交じっても、落ちついて対応できる余裕を持てるようになってきた。
野枝にとってそれまで自分の周りには見出すことができなかった、自由で束縛のないその人たちの生活..
第44回 運命序曲 [2016/03/24 10:23]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p381)と奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p31~32)によれば、一九一二(大正元)年八月の半ばを過ぎた日のことである。
この日の午前中、奥村博は実家から一キロの距離にある東海道線・藤沢駅に出かけた。
父親の知り合いから荷物を受け取るためである。
骨太で長身、真っ黒な長髪を真ん中からわけた面長の奥村が、一、二等待合室で上り列車が入ってくるの..
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