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第63回 姉様 [2016/04/01 17:17]
文●ツルシカズヒコ
青鞜社講演会の後、おそらく一九一三(大正二)年二月半ばのころであろうか。
野枝は当時の青鞜社内部の人間関係について、こう記している。
もっとも紅吉はすでに青鞜社の社員ではないのだが。
紅吉と平塚さんの間は旧冬の忘年会以後、ます/\妙なことになつて来てゐた。
平塚さんは西村さんと、哥津ちやんの交渉が後もどりをすると、だん/\に西村さんの方に心をよせて行つた。
神経過敏の紅吉は..
第58回 夏子 [2016/03/30 13:50]
文●ツルシカズヒコ
このときの野枝の印象を、神近は4年後にこう書いている。
……学校の休暇(やすみ)の時、根岸のKのところで逢つたのは正月であつた。
女中のやうな至つて質素な着付けが、お体裁屋の、中流の東京の家庭の人々とばかり接触してゐて、その嗜好と幾分の感情さへも分ち始めてゐた私には、その人までも何んとなく親しみ難(にく)いものに思はせた。
その上に、髪を振り下げにして素通しの眼鏡をかけて居(を)られたことが、..
第57回 東洋のロダン [2016/03/29 20:55]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月二十七日、忘年会の翌々日、らいてうから野枝に葉書が届いた。
昨夜はあんなに遅く一人で帰すのを大変可愛想に思ひました。
別に風もひかずに無事にお宅につきましたか。
お宅の方には幾らでも、何だつたら、責任をもつてお詫びしますよ、昨夜は全く酔つちやつたんです。
岩野さんの帰るのも勝ちやんのかへるのも知らないのですからね、併し今日は其反動で極めて沈んで居ります。
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第56回 軍神 [2016/03/29 15:40]
文●ツルシカズヒコ
紅吉は頑固に黙ってしまった。
荒木の軽いお調子にもなかなか乗ってはこなかった。
しまいにはぐったりして、野枝の膝を枕にして寝てしまった。
哥津はとうとう帰り支度を始めた。
岩野も先が遠いからと仕度を始めた。
野枝の膝には紅吉がいたので、野枝はらいてうと一緒に帰ることにして、哥津と岩野は先に座を立った。
西村は蒼い顔をいよいよ蒼くして、背を壁にもたして荒木と話をしていた。..
第55回 メイゾン鴻之巣 [2016/03/29 13:54]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月二十五日、クリスマスのこの日は『青鞜』新年号の校正の最後の日だった。
帰りにどこかで忘年会をしようと、らいてうが言い出した。
文祥堂の校正室にはらいてう、紅吉、哥津、野枝、岩野清子、西村陽吉がいた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、京橋区新栄町にあった東雲堂が発行する出版物は、築地にある文祥堂で刷っていた。
らいてうの記憶では校正室は二..
第54回 西村陽吉 [2016/03/29 11:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月、『青鞜』新年号の編集作業が佳境になったころ、野枝は一日おきくらいにらいてうの円窓の部屋に通っていた。
しばらく、野枝は紅吉とは遭遇しなかった。
行くたびに哥津ちゃんと会った。
野枝は少しずつ青鞜社の仲間に交じっても、落ちついて対応できる余裕を持てるようになってきた。
野枝にとってそれまで自分の周りには見出すことができなかった、自由で束縛のないその人たちの生活..
第52回 阿部次郎 [2016/03/28 17:24]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十一月の末。
その日は夕方から、青鞜社の事務所がある本郷区駒込蓬萊町万年山(まんねんざん)勝林寺で、阿部次郎がダンテの『神曲』の講義をする研究会のある日だった。
毎月一日発行の『青鞜』の校了は前月の二十五日前後のようだが、この日は『青鞜』十二月号の校了後であろう。
『青鞜』十二月号(二巻十二号)には野枝の「日記より」が掲載された。
野枝が寺の内玄関の正面にかかった大きな郵便受けか..
第42回 吉原登楼 [2016/03/23 11:38]
文●ツルシカズヒコ
紅吉こと尾竹一枝は菊坂の女子美術学校を中退後、叔父・尾竹竹坡の家に寄寓していたが、一九一一(明治四十四)年十一月に実家のある大阪に帰郷していた。
紅吉がらいてうの存在を知るきっかけとなったのは、森田草平が『東京朝日新聞』に連載(一九一一年四月二十七日〜七月三十一日)した小説「自叙伝」だった。
森田は塩原事件(煤煙事件)を題材にして小説「煤煙」を『東京朝日新聞』に連載(一九〇九年一月一日〜五月十六日)したが..
第41回 同性愛 [2016/03/23 10:00]
文●ツルシカズヒコ
野枝が円窓のあるらいてうの書斎を初めて訪れた日の夜、青鞜社員の西崎花世が友達ふたりを連れてやってきた。
ひとりは西崎が下宿している家の主婦で、もうひとりはやはり社員の小笠原貞だった。
『元始、女性は太陽であった(下)』(p397~402)によれば、らいてうが西崎に初めて会ったのは一九一二(大正元)年十月十七日、「伊香保」で開催した『青鞜』一周年記念の集まりだった。
鴬谷の「伊香保」は当時、会席料理の..
第40回 円窓 [2016/03/22 22:12]
文●ツルシカズヒコ
「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。
野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。
野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。
「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」
らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。
この日..
第39回 青鞜 [2016/03/22 18:12]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。
乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。
野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。
野枝..
第36回 染井 [2016/03/22 10:25]
文●ツルシカズヒコ
辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。
僕はその頃、染井に住んでゐた。
僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。
山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。
僕のオヤヂは染井で死んだのだ。
だから、今でも其..