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第323回 日本社会主義同盟 [2016/08/15 11:33]
文●ツルシカズヒコ
日本社会主義同盟の発会式が開催されたのは一九二〇(大正九)年十二月十日だったが、前日の十二月九日、鎌倉の大杉宅で発会式に出席する四十余名の各府県代表者歓迎会が開かれた。
大阪、山梨、名古屋、岩手、富山、兵庫、堺、横浜、東京からの出席者たちで、東京からは高津正道、久板卯之助、吉田一、大阪からは武田伝次郎などが出席していた。
『東京朝日新聞』(十二月十日)が「鎌倉では示威運動で十三名検挙 大杉氏歓迎招待の四十名..
第322回 暁民会 [2016/08/14 18:31]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年十二月四日、横浜市在住の吉田只次宅で開催された同志集会に、大杉と野枝が出席した。
欧州から帰国した石川三四郎が講演したが、大杉と石川は七年半ぶりの再会だった。
『日録・大杉栄伝』によれば、牛込区山吹町・八千代倶楽部で、暁民会主催の講演会が開催されたのは十二月五日だった。
聴衆約四百人、大杉も講演者として参加していたが警察の解散命令が出..
第305回 出獄 [2016/07/25 11:03]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年三月十五日、日本では株価が三分の一に大暴落し、欧州大戦後の戦後恐慌が始まった。
三月二十三日、大杉が三ヶ月の刑期を終えて豊多摩監獄から出獄した。
『読売新聞』は「昨朝 大杉栄氏 出獄す」という見出しで、こう報じている。
……昨日朝七時、伊藤野枝氏を始め同士廿数名に迎へられ革命歌に擁せられて出獄せり。
同氏は頤髭(あごひげ)蓬々(ぼうぼう)たれども極めて元気なりしと。
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第303回 豊多摩監獄(四) [2016/07/23 15:17]
文●ツルシカズヒコ
豊多摩監獄に入獄中の大杉が野枝に手紙を書いたこの日、一九二〇(大正九)年二月二十九日、野枝も大杉に手紙を書いた。
このころ野枝はツルゲーネフの『その前夜』『父と子』『ルージン』を読んでいた。
『その前夜』『ルージン』は田中潤訳、『父と子』は谷崎精二訳で新潮社から出ていた(いずれも重訳)。
ロープシン の『蒼ざめたる馬』(青野季吉訳/冬夏社)も読んだ。
先達(せんだつて)はツルゲネ..
第300回 教誨師 [2016/07/21 10:05]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年一月二十二日、前年夏に豊多摩監獄に下獄した吉田一が出獄した。
行く先のない吉田は労働運動社に寄食することになった。
おしゃべりな吉田が獄中で唯一おしゃべりができるのが、教誨師の訪問を受けるときだった。
「だけんど、俺がたったひとつ困ったことがあったんだ」
吉田は博学な教誨師を無学な自分が論破した話を野枝にした。
あるとき教誨師が吉田に言ったという。
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第291回 ソシアルルーム [2016/07/13 10:34]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年九月二十四日、延島英一が巣鴨監獄から出獄、大杉の家に同居して労働運動社社員になった。
延島は五月に吉田一と銭湯に行く途中、小石川署巡査を尾行と見て暴行し、懲役三ヶ月を科せられて服役していた。
野枝は『新小説』十月号に「台所雑感」を書いた。
「新思想と教養を背景に立てる婦人の台所感」欄への寄稿で、山田わか、遠藤清子、田中孝子も執筆している。
野枝はまず当時の物価騰貴に触..
第287回 柿色 [2016/07/10 12:02]
文●ツルシカズヒコ
野枝が大杉に面会したのは一九一九(大正八)年七月二十二日だったが、彼女は七月十九日か七月二十日にも警視庁に来て吉田一(はじめ)に面会している(「或る男の堕落」)。
吉田は電気料不払いのために切られた電線を接続して電気を窃盗、七月十九日に警視庁(刑事課)に召喚され、七月二十一日から東京監獄の未決監に収監された(『日録・大杉栄伝』)。
そのころのことを野枝はこう書いている。
Yは吉田、Oは大杉。
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第270回 タイラント [2016/07/02 11:04]
文●ツルシカズヒコ
吉田は「警察が恐くない」という妙な自信もあって、これも彼を慢心させ堕落に陥れた要因になった。
大杉一家が滝野川の家に越してから間もなくだった。
大杉が何かの用事で吉田の家に行くことになった。
吉田と彼の啓蒙者であった水沼が住む浅草区田中町の裏長屋、ふたりはそこに「労働者相談所」の看板を掲げ小集会を開いていたが、一度その小集会に参加した大杉が野枝をぜひその家に連れて行きたいと言っていた。
あ..
第269回 無遠慮 [2016/07/02 10:29]
文●ツルシカズヒコ
大杉一家が南葛飾郡亀戸町から、北豊島郡滝野川町田端の高台の家に引っ越したのは、一九一八(大正七)年夏だったが、この家には大勢の労働者、同志が出入りするようになった。
和田久太郎はこのころの野枝が一番よかったと回想している。
亀戸から田端へ移つて、それから西ヶ原、中山、駒込曙町と家を変つたが、此の間(あひだ)の、即ち大正七年の暮れから大正九年の夏頃までの野枝さんは中々よく活動した。
僕は此の頃が..
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