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第328回 アナ・ボル協同戦線 [2016/08/20 15:06]
文●ツルシカズヒコ
第二次『労働運動』で政治面を担当した高津は、早大時代に「暁民会」を設立し、右翼の猛者学生を向こうにまわして血を流したこともあるが、『近藤栄蔵自伝』によれば、『労働運動』においても筆よりはむしろ行動の男だった。
伊井敬(近藤栄蔵)の「ボルシェヴィズム研究」は、労働運動社外の無政府主義者からの批判もあったが、日本で最初の順序立てたロシア革命紹介記事として注目された。
近藤憲二はアナ・ボル協同戦線を具体化した第..
第327回 日本の運命 [2016/08/20 14:26]
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年一月二十五日、週刊『労働運動』(二次一号)が発行された(日付は二十九日)。
タブロイド版、十頁(次号からは八頁)、定価は十銭、年間購読料は五円。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、発行部数は二千〜四千部。
一面トップには大杉が書いた社説「日本の運命」と約四千字の英文欄「THE RODO UNDO」があり、「THE RODO UNDO」は日本の労働運動を海外に紹介するためのも..
第326回 駿台倶楽部 [2016/08/18 11:49]
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年一月中旬ころ、有楽町の労働運動社の仮事務所に、林倭衛と広津和郎が突然、訪ねて来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
ふたりはその日の夜、雨が降る中、銀座を散歩していたが突然、義太夫を聞きたくなった。
食わず嫌いだった林に、義太夫の魅力を伝授したのは広津だった。
林は西洋音楽に対してかなりの熱情をもっていた。
そんなに豊であるはずがない西洋画家生活の間に、ビクタア..
第325回 週刊『労働運動』 [2016/08/18 11:26]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二一(大正十)年一月八日、大杉は神田の多賀羅亭で開催されたコスモ倶楽部の懇親会で講演した。
一月十一日、大杉が借りた有楽町の病室兼仮事務所で、週刊『労働運動』(第二次)の編集方針の協議が行なわれた(『日録・大杉栄伝』)。
『近藤栄蔵自伝』によれば、栄蔵は靴店の仕事を妻に任せ上京した。
事務所は有楽町の数寄屋橋と省線ガードとの中ほど、日本劇場の筋向かいに建つ木造四階建..
第323回 日本社会主義同盟 [2016/08/15 11:33]
文●ツルシカズヒコ
日本社会主義同盟の発会式が開催されたのは一九二〇(大正九)年十二月十日だったが、前日の十二月九日、鎌倉の大杉宅で発会式に出席する四十余名の各府県代表者歓迎会が開かれた。
大阪、山梨、名古屋、岩手、富山、兵庫、堺、横浜、東京からの出席者たちで、東京からは高津正道、久板卯之助、吉田一、大阪からは武田伝次郎などが出席していた。
『東京朝日新聞』(十二月十日)が「鎌倉では示威運動で十三名検挙 大杉氏歓迎招待の四十名..
第322回 暁民会 [2016/08/14 18:31]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年十二月四日、横浜市在住の吉田只次宅で開催された同志集会に、大杉と野枝が出席した。
欧州から帰国した石川三四郎が講演したが、大杉と石川は七年半ぶりの再会だった。
『日録・大杉栄伝』によれば、牛込区山吹町・八千代倶楽部で、暁民会主催の講演会が開催されたのは十二月五日だった。
聴衆約四百人、大杉も講演者として参加していたが警察の解散命令が出..
第319回 コミンテルン(二) [2016/08/10 22:55]
文●ツルシカズヒコ
上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために、大杉が鎌倉の家を出たのは、一九二〇(大正九)年十月二十日の夜だった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、この日、近藤は大杉と上海行きの打ち合わせをすることになっていた。
鎌倉の大杉の家に行くために新橋駅のホームで列車を待っていると、信友会の桑原錬太郎と遭遇した。
桑原も大杉に会いに行くという。
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第316回 コミンテルン(一) [2016/08/07 16:00]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇年八月十七日、「社会改造運動の闘将養成」を目的にした、山崎今朝弥主催の平民大学夏期講習会が大杉宅で開催され、受講生二十人ばかりがやって来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
開始してすぐに解散を命じられたので、鎌倉署の署長に向かって大杉が馬鹿だの野郎だのと抗議、鎌倉中の評判になり、家主からの立ち退き話にまでなった(「鎌倉の若衆」/『労働運動』一九二一年二月一日・二次二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四..
第300回 教誨師 [2016/07/21 10:05]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年一月二十二日、前年夏に豊多摩監獄に下獄した吉田一が出獄した。
行く先のない吉田は労働運動社に寄食することになった。
おしゃべりな吉田が獄中で唯一おしゃべりができるのが、教誨師の訪問を受けるときだった。
「だけんど、俺がたったひとつ困ったことがあったんだ」
吉田は博学な教誨師を無学な自分が論破した話を野枝にした。
あるとき教誨師が吉田に言ったという。
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第297回 スパイ [2016/07/17 16:21]
文●ツルシカズヒコ
荒木郁子と野枝は『青鞜』時代の仲間だったが、郁子の姉・滋子によると、荒木一家が営んでいた神田区三崎町の旅館、玉名館に野枝は大杉と魔子を連れて時々遊びに来ていたという。
魔子が三つか四つのころだというから、魔子が数え年で三つとは一九一九(大正八)年のころだろうか。
失(な)くなった岩野泡鳴さんとも、よく私のうちで、落合ふこともありました。
あんなにお互いの主義の違つた方々でしたのに、いつ..
第296回 豊多摩監獄(一) [2016/07/17 15:40]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十一月八日と九日の午後、野枝は神田区錦町の貸席、松本亭を訪れた。
貸席は今で言えば、イベント会場などに使用される貸しホールである。
日本印刷工組合信友会を中心とする活版工諸組合が、労働八時間制を要求して同盟罷工をしている渦中だった。
罷工の中心となっている三秀舎は、信友会の組合員である婦人活版工たちの組織だったが、松本亭にその事務所を置いていた。
十一月八日は信友会が「..
第295回 婦人労働者の覚醒 [2016/07/15 13:34]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十一月十三日、『労働運動』(第一次)第二号が発行された。
この号から野枝は「婦人欄」を担当し、婦人労働問題に関わっていく。
「婦人欄」を担当するにあたっての「御挨拶」で、野枝は田中孝子、与謝野晶子、平塚らいてうについて触れている。
過日友愛会婦人部の演説会に臨まれた田中孝子女史が、自分もアメリカで多少の苦学らしい事をしたから、労働の生活は知つてゐるつもりだと云つて、男子側..