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第342回 男女品行問題号 [2016/09/05 19:56]
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年五月九日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、日本社会主義同盟の第二回大会が開催された。
五月十日『東京朝日新聞』によれば、官憲の厳重な警戒の中、午後五時半に開場、場内は三千の聴衆で埋まった。
午後六時、司会の高津正道が二言三言口にすると、錦町署長から中止解散命令が発せられ、検束者は四十名を超えた。
神田区北甲賀町の駿台倶楽部内の労働運動社は、官憲に厳重に警戒..
第317回 有名意識 [2016/08/08 17:11]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『改造』九月号(第二巻第九号)に「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)、『婦人世界』九月号(第十五巻第九号)に「婦人の不平は意志の欠乏から」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「引越し騒ぎ」の目次には「(社会主義者奇譚)引越さはぎ」というコピーがついている。
「婦人の不平は意志の欠乏から」は「現代婦人の不平」特集欄の一文で、他に山田わか、..
第278回 トスキナ(一) [2016/07/06 12:55]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年は浅草オペラ、オペレッタの全盛期であった。
観音劇場でオペレッタ『トスキナア』が上演されたのは、この年の五月だった。
「トスキナア」とは「アナキスト」の逆さ読みであるが、プログラムや台本には検閲に引っかからないように「トスキナ」と刷った。
作は獏与太平(ばく-よたへい)、作曲は竹内平吉、装置は小生夢坊(こいけ-むぼう)。
浅草の伝法院の裏にあったカフェー・パウリスタ、その二番..
第268回 無政府主義と国家社会主義 [2016/06/30 10:50]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』十月号に「惑い」、『民衆の芸術』十月号に「白痴の母」を寄稿している。
以下は「白痴の母」の冒頭である。
裏の松原でサラツサラツと砂の上の落松葉を掻きよせる音が高く晴れ渡つた大空に、如何にも気持のよいリズムをもつて響き渡つてゐます。
私は久しぶりで騒々しい都会の轢音(れきおん)から逃れて神経にふれるやうな何の物音もない穏やかな田舎の静寂を歓びながら長々と椽側近くに体をのばして……..
第240回 百姓愛道場 [2016/06/04 17:49]
文●ツルシカズヒコ
日蔭茶屋事件後、半年くらいの間、大杉は「神近の怨霊」をよく見たという。
……夜の三時頃、眠つてゐる僕の咽喉を刺して、今にも其の室を出て行かうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちよつと立ちとまつて振り返つて見た、その瞬間の彼女の姿だ。
毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。
すると其の目は同時にもう前の壁に釘づけにされてゐて、そこには彼女の其の姿が立つてゐるのだ。
そして、其のいづれの..
第227回 宮嶋資夫の憤激 [2016/05/30 17:03]
文●ツルシカズヒコ
十一月十日の『東京朝日新聞』は、五面の半分くらいのスペースを使って、この事件を報道している。
見出しは「大杉栄情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者 兇行者は婦人記者神近市子 相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」である。
内田魯庵は、こうコメントしている。
……近代の西洋にはかう云ふ思想とか云ふ恋愛の経験を持つてゐる人がいくらもある……彼が此恋愛事件に就いて或る雑誌に其所信を披瀝したのを見ると、フイ..
第209回 霊南坂 [2016/05/23 14:05]
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
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第192回 蓄音機 [2016/05/18 21:51]
文●ツルシカズヒコ
五月二日、野枝は大杉からの二通目の手紙を受け取った。
四月三十日、神近が大杉に会いに来て泊まっていったという。
●……神近が来た。
四五日少しも飯を食わぬさうで、ゲツソリと痩せて、例の大きな眼を益々ギヨロつかせてゐた。
社(東京日日新聞)の松内(則信)にもすつかり事実を打明けたさうだ。
●松内の方では、それが他の新聞雑誌の問題となつて、社内に苦情の出るまでは、一切を沈黙して..
第188回 白山下 [2016/05/18 13:59]
文●ツルシカズヒコ
野枝はそのころの自分の感情や考えを、青山菊栄にもうまく話せていなかったようだ。
菊栄はこう書いている。
其頃(※一九一六年春ごろ)から例の大杉さんを中心に先妻と神近市子氏と野枝さんとが搦(から)み合つた恋の渦巻が捲き起こつたのであるが、私は大杉さんの野枝さんに対する強い愛情は知り抜いてゐたものの、野枝さんの方であゝ難なく応ずるとは思はなかつた。
そして大杉さんの傍若無人な態度を片腹痛く思つてゐた矢先、野枝..
第181回 厚顔無恥 [2016/05/16 14:22]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉、神近、野枝の三人が会ったのは二月中旬ころだった。
大杉の書いた「お化を見た話」によれば、大杉は神近から絶縁状を受け取った。
「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合わせないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような、内容だった。
大杉はすぐに逗子から上京し、神近の家を訪れた。
彼女は大杉の顔を見るや、泣いてただ「帰れ、帰れ..
第180回 チリンチリン [2016/05/16 13:12]
文●ツルシカズヒコ
大杉が神近の下宿を訪れたこの日、神近は不意に原稿料が手に入ったので、夕方、東京日日新聞社を出ると銀座に出かけた。
神近は木村屋に行って、 パン類を一円余り買い礼子に送った。
礼子は神近と高木信威(たかぎ・のぶたけ)との間にできた女の子で、神近の郷里(長崎県)の姉のところに里子に出されていた。
高木が妻子持ちの身だったからである。
なお、礼子は一九一七(大正六)年に夭折している。
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第177回 ねんねこおんぶ [2016/05/15 17:04]
文●ツルシカズヒコ
大杉と堀保子は前年一九一五(大正四)年十二月、小石川から逗子の桜山の貸別荘に引っ越していた。
『近代思想』(第二次)一月号(第三巻第四号)が発禁になったので、大杉は一九一六(大正五)年一月二日にその対策のために逗子から上京し、翌一月三日に吉川守圀の家に同人たちが集まり、協議した。
大杉が大塚坂下町の宮嶋資夫宅を訪れたのは、その夜十二時近くだった。
「今夜は一寸報告にやつて来た。それは神近と僕とのことだ..
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