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第272回 山羊乳 [2016/07/03 12:38]
文●ツルシカズヒコ
大杉の末妹、橘あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。
「あやめ」という命名は、六月二十五日生まれだからであろう。
大杉は十五も歳下のあやめを可愛がっていた。
『日録・大杉栄伝』によれば、あやめは一九一六年にアメリカのポートランドのレストラン料理人・橘惣三郎と結婚して渡米した。
一九一八年十二月、病を得て帰国したあやめは、北豊島郡滝野川町大字田端二三七番地の兄・栄の家で養生することになっ..
第271回 クララ・サゼツキイ [2016/07/02 22:34]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一八(大正七)年十一月一日に開かれた同志例会で、外国の新聞や雑誌の情報を入手していた大杉は、近くドイツで革命が起きることを予見したという。
ドイツでは十一月三日にキール軍港の水兵の反乱が起き、十一月九日に皇帝が退位、ワイマール共和国が誕生する革命が進行中だった。
ドイツが連合国との休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終結したのは十一月十一日だった。
十一月十五日..
第270回 タイラント [2016/07/02 11:04]
文●ツルシカズヒコ
吉田は「警察が恐くない」という妙な自信もあって、これも彼を慢心させ堕落に陥れた要因になった。
大杉一家が滝野川の家に越してから間もなくだった。
大杉が何かの用事で吉田の家に行くことになった。
吉田と彼の啓蒙者であった水沼が住む浅草区田中町の裏長屋、ふたりはそこに「労働者相談所」の看板を掲げ小集会を開いていたが、一度その小集会に参加した大杉が野枝をぜひその家に連れて行きたいと言っていた。
あ..
第269回 無遠慮 [2016/07/02 10:29]
文●ツルシカズヒコ
大杉一家が南葛飾郡亀戸町から、北豊島郡滝野川町田端の高台の家に引っ越したのは、一九一八(大正七)年夏だったが、この家には大勢の労働者、同志が出入りするようになった。
和田久太郎はこのころの野枝が一番よかったと回想している。
亀戸から田端へ移つて、それから西ヶ原、中山、駒込曙町と家を変つたが、此の間(あひだ)の、即ち大正七年の暮れから大正九年の夏頃までの野枝さんは中々よく活動した。
僕は此の頃が..
第268回 無政府主義と国家社会主義 [2016/06/30 10:50]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』十月号に「惑い」、『民衆の芸術』十月号に「白痴の母」を寄稿している。
以下は「白痴の母」の冒頭である。
裏の松原でサラツサラツと砂の上の落松葉を掻きよせる音が高く晴れ渡つた大空に、如何にも気持のよいリズムをもつて響き渡つてゐます。
私は久しぶりで騒々しい都会の轢音(れきおん)から逃れて神経にふれるやうな何の物音もない穏やかな田舎の静寂を歓びながら長々と椽側近くに体をのばして……..
第267回 米騒動 [2016/06/30 10:10]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『婦人公論』一九一八年七月号(第三年第七号)に「喰ひ物にされる女」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を書き、売春問題を論じている。
以下、要点をピックアップ。
●売春という「商売」が原始の時代から今日まで、人種を問わず、存在し続けているのは、それを必要とする何かの原因があるからである。
●野枝はシヤルル・ルトウルノ著『男女関係の進化』(大杉の匿名..
第266回 野枝さん野枝さん [2016/06/29 18:58]
文●ツルシカズヒコ
野枝の叔母・代キチは、瀬戸内晴美の取材にこう答えている。
大体、主人と申す男が、金を貯めることよりも、人間を育てることが好きに出来ておりまして、敵味方もなく、これという人物には惚れこむたちのようでござりました。
後になって、大杉のことなども、自分は右翼の玄洋社にいながら、ずいぶんと面倒をみるような気になったのも、主義主張より、大杉の人間に惚れこんだのかと存ぜられます。
大杉のことでござります..
第265回 大杉栄と代準介 [2016/06/29 16:47]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正八)年六月、野枝は安谷寛一に葉書を書いた。
宛先は「神戸市外東須磨」(推定)。
発信地は「南葛飾郡亀戸町二四〇〇番地」(推定)。
其後いかゞ。
お子達はお丈夫ですか。
私の処の赤ん坊もやう/\のことでなをりました。
手なしでいろんな仕事がちつとも進行しないので、当分の間仕事を持つて九州に行くことにしました。
此の家は今月一杯です。
秀世さん..
第264回 茶ア公 [2016/06/28 16:40]
文●ツルシカズヒコ
亀戸で『労働新聞』を出していたこのころのある朝の出来事を、野枝は「化の皮」という作品にした。
朝の七時ごろ、玄関の戸を開けている和田に、取り次ぎを頼んでいる男の声がした。
野枝と大杉はまだ床の中にいたが、和田が名刺を持って来た。
「法学士弁護士」という肩書きのYという男の名刺だった。
野枝は起きるとすぐに台所に立ったので、その男の顔を見なかったが、座敷に入る後ろ姿を見ると、頑丈そうな体を持っ..
第262回 後藤新平様 [2016/06/27 10:58]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月九日、野枝は筆を執り、内務大臣の後藤新平に宛てて「抗議状」を書いた。
前おきは省きます。
私は一無政府主義者です。
私はあなたをその最高の責任者として、今回大杉栄を拘禁された不法に就いて、その理由を糺したいと思ひました
それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはゐることゝと思ひますが……若しもあなたがそれをそのまゝ受け容れてお出になるなら、それは大間違ひで..
第261回 MAKO [2016/06/27 10:12]
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月六日の夕方、野枝は牛込区市谷富久町の東京監獄から、南葛飾郡亀戸町の家に帰宅した。
野枝は大杉に宛てて手紙を書いた。
今日は、あの寒い控所に小半日待たされました。
そして碌そつぽ話も出来ないんですもの、あれではあんまり呆気なさすぎますわ。
本当に、文字どほりに『面会』と云ふだけなんですね。
話くらい、もう少し自由にさしてもよささうなものですのにね。..
第260回 東京監獄・面会人控所(六) [2016/06/24 22:01]
文●ツルシカズヒコ
やがて村木が帰って来た。
「どうでした和田さんは?」
「ええ、元気でニコニコしてましたよ。これからゆっくり勉強するんだなんて言ってました」
少し話すと、村木は今夜また会うことを約束して、先に帰った。
野枝のポケットの時計は、もう四時近くを指していた。
三十分ばかり前から、入口を出たり入ったりしているふたりの男がいた。
ふたりとも揃いも揃つて、薄い髯がボヤボヤ生え、眼の細..