2021年10月23日
俳優の錬金術Alchemy of Actor 知覚の哲学Philosophy of perception 91
俳優の錬金術Alchemy of Actor 知覚の哲学Philosophy of perception 91
Chemistry51
“本当に大切なものは目には見えない”
“ 目に見えないところで何が起こっているのかを想像する”
organic chemistry
第一次世界大戦で大脳の後頭葉に損傷を負った兵士・シュナイダーは、
多くの解剖学者、心理学者や精神科医などに研究された有名な事例となった。
彼は視野狭窄、色覚異常、形態の把握困難などの視覚の障害が注目された。
生活のなかで具体的な意味をもつ身体行動は難なくできるが、
生活にとって意味をもたない抽象的振る舞いをすることができない。
たとえばコップの水を飲むことは自然にできるが、空のコップで水を飲む真似をすることはできなかった。
彼の知覚する世界には、対象の表情といった詩的雰囲気はなく、散文的なものであった。
表面的であって奥行きというものはなかった。
M.ポンティMaurice Merleau-Ponty, 1908 – 61) 曰く
「奥行は私の視線のもとで生まれる。私の視線は何かを見ようと試みるから」。
「見る」とは己を現す存在者のなかに入ることである。
そうでなくては単に眺めているだけである。
「ある対象を見るとは、その対象のなかに住みつくことであり、対象と一心同体になる事である。
そこから他の一切の事物を、それら事物がその対象の方に向けている面に従って捉えることでもある。
各対象は他の一切の対象の鏡なのである」
マルシャンAndré Marchand 1907 – 97)曰く
「森の中で、わたしが森を見ているのではないと感じた。
樹がわたしを見つめ語りかけているように感じた。
画家は世界によって貫かれるべきなので、世界を貫こうなどと望むべきでないと思う」
「完全な観察者というものは、
想像力を沈黙させておき、しずかな心で、自己の判断をさしひかえ、
現にはたらいている一つの感覚の報告するところを待っていることができる人である」
ある対象を見るとは、その対象のなかに住みつき、対象と一心同体になる事である。
観察者のまなざしは対象の一面しか見ることができない、対象をその十全性において見ることはできない。
入って行かなければ十全には見えないのである。
「見る」とは対象をそれ自身によって語らせ,またそれに答えることである。
そのとき対象はなにひとつ隠さず、いわば全面開陳である。
ミシェル・フーコー(Michel Foucault ,1926 – 84) 曰く
「まなざしが沈黙の中で事物の上に注がれるならば、そして、
まなざしの見るもののまわりで、すべてが沈黙するならば、
まなざしは自分自身の真理において完成し、事物の真理に到達することであろう。
【演技】に於けるなまなざしというものは一つの逆説的な特性をもっていて、
ある光景を知覚する瞬間に、ある言葉を聞く。
つまり、【演者】においては、現れ来るものは根源的に語るものなのである」
西洋哲学 キリスト教の基本用語であるロゴスlogos は、言葉を意味することが多い。
「はじめにロゴス(ことば)ありき。ロゴスは神とともにありき。ロゴスは神であった」
(『ヨハネ福音書』冒頭)。
だが、ロゴスは言葉のほかに理性、判断、概念、定義、根拠などをも意味し、
きわめて多義的である。
隠れているものを明るみに引き出すとは、まさにロゴスである
と たのしい演劇の日々
Chemistry51
“本当に大切なものは目には見えない”
“ 目に見えないところで何が起こっているのかを想像する”
organic chemistry
第一次世界大戦で大脳の後頭葉に損傷を負った兵士・シュナイダーは、
多くの解剖学者、心理学者や精神科医などに研究された有名な事例となった。
彼は視野狭窄、色覚異常、形態の把握困難などの視覚の障害が注目された。
生活のなかで具体的な意味をもつ身体行動は難なくできるが、
生活にとって意味をもたない抽象的振る舞いをすることができない。
たとえばコップの水を飲むことは自然にできるが、空のコップで水を飲む真似をすることはできなかった。
彼の知覚する世界には、対象の表情といった詩的雰囲気はなく、散文的なものであった。
表面的であって奥行きというものはなかった。
M.ポンティMaurice Merleau-Ponty, 1908 – 61) 曰く
「奥行は私の視線のもとで生まれる。私の視線は何かを見ようと試みるから」。
「見る」とは己を現す存在者のなかに入ることである。
そうでなくては単に眺めているだけである。
「ある対象を見るとは、その対象のなかに住みつくことであり、対象と一心同体になる事である。
そこから他の一切の事物を、それら事物がその対象の方に向けている面に従って捉えることでもある。
各対象は他の一切の対象の鏡なのである」
マルシャンAndré Marchand 1907 – 97)曰く
「森の中で、わたしが森を見ているのではないと感じた。
樹がわたしを見つめ語りかけているように感じた。
画家は世界によって貫かれるべきなので、世界を貫こうなどと望むべきでないと思う」
「完全な観察者というものは、
想像力を沈黙させておき、しずかな心で、自己の判断をさしひかえ、
現にはたらいている一つの感覚の報告するところを待っていることができる人である」
ある対象を見るとは、その対象のなかに住みつき、対象と一心同体になる事である。
観察者のまなざしは対象の一面しか見ることができない、対象をその十全性において見ることはできない。
入って行かなければ十全には見えないのである。
「見る」とは対象をそれ自身によって語らせ,またそれに答えることである。
そのとき対象はなにひとつ隠さず、いわば全面開陳である。
ミシェル・フーコー(Michel Foucault ,1926 – 84) 曰く
「まなざしが沈黙の中で事物の上に注がれるならば、そして、
まなざしの見るもののまわりで、すべてが沈黙するならば、
まなざしは自分自身の真理において完成し、事物の真理に到達することであろう。
【演技】に於けるなまなざしというものは一つの逆説的な特性をもっていて、
ある光景を知覚する瞬間に、ある言葉を聞く。
つまり、【演者】においては、現れ来るものは根源的に語るものなのである」
西洋哲学 キリスト教の基本用語であるロゴスlogos は、言葉を意味することが多い。
「はじめにロゴス(ことば)ありき。ロゴスは神とともにありき。ロゴスは神であった」
(『ヨハネ福音書』冒頭)。
だが、ロゴスは言葉のほかに理性、判断、概念、定義、根拠などをも意味し、
きわめて多義的である。
隠れているものを明るみに引き出すとは、まさにロゴスである
と たのしい演劇の日々
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