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2021年10月21日

俳優の錬金術Alchemy of Actor 知覚の哲学Philosophy of perception 89

俳優の錬金術Alchemy of Actor 知覚の哲学Philosophy of perception 89
Chemistry49

“本当に大切なものは目には見えない”
  “ 目に見えないところで何が起こっているのかを想像する”


 organic chemistry

ベルクソンHenri-Louis Bergson, 1859 – 1941)  『物質と記憶(1896)』)
「精神活動にはさまざまな高さの調子があり、わたしたちの精神活動は、生活への注意力の度合いに応じ、
行動に近づいたり遠ざかったりしながら高低さまざまに演じられている。
見るにも深かったり浅かったりさまざまなレベルがある。
ベルクソンは直観を哲学の方法とした。
直観とは対象を外からではなく内から、内に入って見ること。
直観は言葉と相いれない。
言葉はそれを発することによって、その発せられたものを分かった気にさせる。
直観は正しいことも正しくないこともある。
正しい直観を得る、本当に内に入るための能力を身に着ける。

普通の人の普通のものの見方は「物は見える通りに厳然としてある」というもの。
その対極は、それは希望的観測にすぎない、妄想である。
見えているものはすべて心が生み出した幻にすぎない。
そして真相為るものもあり。

バークリーGeorge Berkeley,1685 – 1753) 曰く
「存在するとは知覚されること、あるいは知覚することである To be is to be perceived  」
見える通りと妄想の間で人は物を見ている。たとえば、人間が知らないものは存在しない、無い。
もし人間がいなかったら宇宙の存在を知らない。その場合この宇宙というものはない。

ベルクソンは
 外的世界というイメージ集合体のなかで
真実に新しいものは生命体というわたしの身体の介在によってしか生みだされることはない。
その身体はさまざまな外的事物を動かすための一個の作用中心である、と言う。
物自体からの触発によって与えられる感性的直観をもとに、その素材に形式を与える。

「見えない」とは、どういうことであろうか。
なにかが見えるためには、見る対象があってそれを認識する主体があること。
見えないとは、
1.在るはずの対象が実はないかハッキリしないか。
2.在るはずの主体が確固としていない、あやふやである。
3.主体と対象をつなぐ経路が機能不全に陥っている。

見えないものが見える、とは

プラトン曰く 
至高の存在(神から非存在すれすれの被造物まで)この世はあらゆる階層(境位)のもので充満している
 階層は、見えるものと見えないものに分裂している、ということもできる。
人はだれでも見るが、階層のどのあたりまで見ることができるようになるかは人それぞれである。

眼に頼りすぎる者にはあまり見えない。
何をどのように見るかは各人各様、各人の能力に応じる。
その人の器量に合ったようにしか見えない。
全体を見る者には部分は疎かになる。
部分にこだわる者は全体に意が向かわない。
なにかを得ればなにかを失う。なにかを失えばなにかを得る。
だれよりもよく現実の世界を見ることのできた者(スフィンクスの謎を解いたオイディプス)には
深層の世界が見えず、
それを見ることができた者(ティレシアス)は実は盲目であり現実を見ることはできなかった。

見えないものを見るという場合、
まず見えないと見るの定義をハッキリさせておくことが前提であるが、とりあえず 
見えないものとは 
在るけれども見えないもの と 無いので見えない の二群に大別できる。
ともに見る側の問題であるが、前者は人の能力に左右されるが後者はそうでもなくて性能の問題である。
形あるものは誰でも見ることができる。
隠れていて見えないものに関してはどうであろうか。
たとえば樹木や草の根。
目には見えないけれども経験を積んだ庭師には地上の姿から地下の根の状態を的確に見うる。
あるいは、空を飛ぶ鳥はなにゆえに飛びなにが飛ばせるか、
庭に咲く花はなに故に咲き何が咲かせるか。
科学的に見ることも、詩的に見ることも、誤って見ることも可能である。
「見えているのに誰も見ていないもの」を見えるものにするが一流の芸術である。
それは詩であると言ったのが長田弘であった。

登竜門を上って龍になった鯉のように、思い切って越すに越せない壁を超す、
人は見えない物が見える通路を見いだす域に達する。
超せなくても裂け目を見つけそこから壁の向こうが見える。

フィヒテJohann Gottlieb ,1762 –1814)  曰く「見るは、自己を見る、として見る」
どのような眼も見なかったものを見、どのような耳も聴かなかったことを聴く者がいる。
そういう者はもはや問うことをしないで聞きまた見る。
われわれが生きて行くということは、見えないものが見えるに近づくことである。
だが、何を見る。自分自身をである。

われわれは日々を生きるために見る。
物(対象)も人も、それぞれ多層構造をなしている。
人間は容器に喩えられ、浅深は別にして底というものがあり、
底は深めることができ、深まると自我がだんだん薄れてきて対象の見え方も深まる。

意識の多層構造モデルで、
一番浅い表層意識として位置づけられるのは、日常的意識の眼に映った事物であり、
はっきりした輪郭線によってそれぞれ他から区別されている。
それらの存在単位は時空的に自立して、個々別々のものとして知覚される。
AはどこまでもAであり、BはあくまでもBである。
深層意識が開かれると、AB間の区別は次第に薄れ混沌としてきて存在の相互抵抗はなくなって、
最終的に「一・空」となる。
そこでは、事物のもつ個性が薄れ個性を超えた本質が見えてくる。



と たのしい演劇の日々
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