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2019年05月06日

宗教的涵養

令和になって、明日で一週間。
新天皇が即位され、その儀式を巡ってテレビのコメンテ−ターたちは、好き勝手なことを言っていた。

もともと天皇陛下は、日本神道の祭司長でもあるのだから、政教分離云々という議論そのものが馬鹿げている。憲法ではそうした天皇を日本国の象徴として据えているのだから、当然のこととして受けとめれば良い、というのが私の考えだ。

戦後、日本の国力を低下させるための施策として、GHQは宗教を政治から引き離した。
しかし、そういう国は、もはや共産主義国家だけである。

教育から宗教を排除し、ほんの十数年前、ようやく『宗教的涵養』を学校教育でも取り組めるようになったくらいだから、戦後の生まれは、宗教に対して無知であり、その重要性や意味合いについて理解できないでいる。

「政教分離上、曖昧な部分があるので、一線を決めたい。」
などと言っている人もいたが、そんなことできるはずがない。

彼らは宗教を理解していないからだ。
もっと言えば、信仰である。

もともと法律は、宗教的な教え(法)に基づいて、スムーズな社会生活上、必要であろう、ということで制定されている。それが根本である。

基本的人権についても、男女平等についても、宗教によってその差はあるが、もとはかつての宗教指導者の教えであって、そのさらに奥にあるのは、神さまからの啓示である。

いかに科学技術が進化しても、神には及ばない。
人知を超えてた遙かなる偉大な力があるからこそ、人間は謙虚になれる。

以前読んだ本で、神を批判するのは、蟻が太陽を批判するのに同じだ、と書かれていた。
「雲が来たら太陽の光が届かないではないか。」
などと、批判できるが、それは蟻と太陽くらいの差があるという。

「信仰を持たない者は人間として認められない。」
これが、グローバルスタンダードだ。

海外で、「無信仰です」、などと宣言すれば、猿以下と見なされる。

そこまで、人類は信仰を大切にしている。

ないがしろにしているのは、一部の共産(独裁)主義国家と、ある意味日本である。

ただし日本は、戦後教育の影響が大きい。

昭和天皇は、自らの命に引き換えて、日本国民を守ってもらうため、マッカーサーに会いに行く。
その人徳に惹かれて、のちに天皇制は継続され、すべての責任を、でたらめな極東裁判に委ねることになる。

平成天皇(上皇)も、徳を積むことに力を注がれて過ごされた。

新天皇もその道を歩むことになるだろう。
宗教的指導者であることよりも、象徴としての人格者を目指されているのが、今の皇室の姿だ。

人徳のもとにあるものも、宗教的な教えであり、生き方である。
学校で教える道徳のもとも同じだ。

私の地域では、各所に「祝 天皇陛下ご即位」というのぼりが立っている。

それを見るたびに、私は少しほっとする。













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