2016年05月26日
第2回 歴史第2部 4
第3章 大乾燥地帯(農業革命と牧畜の発明)と都市国家
【オリエント世界の動向・20,000年前以降】
20,000年前頃から、氷河の後退と海面上昇が始まり、やがて世界的な気温上昇(ヒプシサーマル)ともに、定住と農耕に向けて生活スタイルが変わってきます。このころからナイル流域や近東各地に小麦が自生し始めます。ケニアではマサイ族の前身が家畜利用を始めました。10,000前位には、黒海周辺のレヴァント地方に種をまく原始農業が始まり、麦栽培も定着します。イランでは羊の家畜化も見られました。日本でも縄文土器が作られました。土器は、収穫物を入れたり、煮炊きをしたり、水などを貯めたりする重要な道具でしたが、財産としても一族の威信を示しました。農耕はヨーロッパ、インド、中国、アフリカ、アメリカ大陸、アジアモンスーン地帯などでも独立に発生したようです。まだ侵略や民族移動は始まっていなかったようです。天候や河川の氾濫など環境との闘いにとどまっていました。
紀元前6000年頃から、西アジアの肥沃な三日月地帯に大麦・小麦と羊の牧畜を基盤にした農耕文化体系が生まれました。又アナトリア(トルコ共和国のアジア領に位置する半島。小アジアともよばれる)に、小麦・エンドウ・大麦の農耕、羊と山羊を飼育。大集落も作られた。(中国でも華北の粟(あわ)・江南の米と言われるように農耕が始まっています。)
【農耕による変化】〜分裂気質者と執着性格者
もともと人類は、長く狩猟生活を送っていました。自然の環境任せだった人類は、あちこちと移動して隠れながら食物を探し回らなければならなかったが、やがて小麦と大麦を栽培し、羊と山羊を家畜とし、移動せずに食料を調達できる社会を始める。二三回繰り返したら土地が痩せてくるので、木を焼き灰をまき又作物を作るが、数年すると雑草が作物を圧倒すようになり、放棄地として別の森を切り開く(焼き畑耕法)か、雑草と戦うかしかない。他に代替地のない日本の農民が、長年にわたって雑草と戦い、結果といて世界一手ごわい雑草を育ててしまったのは、それだけ勤勉だったあかしかもしれませんが、最初に農耕が発生したのは中東のシュメルの地(ペルシャ湾に接する、ティグリス・ユーフラテス下流の沖積平野・メソポタミア南部)で、紀元前37,00年頃だった。そこに定住生活が始まります。シュメル人はどこから移住してきたかは不明で、謎も多い。塗りつぶしの大きい目の、奇妙な像から宇宙人ではという噂もあるくらいです。
人類最初で最大の敵・乾燥は、赤道で蒸発する大量の水蒸気が積乱雲となって大量の雨を降らせたあと、カラカラに乾燥した空気となってアフリカ北部から西アジアに毎年下降してくる地球規模の大気循環の仕業です。乾燥に強い麦類を食料にすることを覚えた人類は、畑を開き、収穫まで待つわけです。また野生動物にとり畑は餌場となり、しぜんと集まってきます。彼らの習性を利用して飼い「馴らして」幼児化することで家畜とし、たんぱく源も確保します。やがてウシや馬、ラクダなどを群れのまま飼育する「牧畜」も考えられ、食用ばかりでなく農耕用にも使われました。
(後に18世紀に森林が伐採され、広々とした平地が広がり牧畜が広がるまでヨーロッパで飼われていた豚は、食物を反芻できない為、牧畜民には飼われず、農耕社会で飼われました。豚は今でもイスラムやユダヤ教でも食することが禁じられているのは、農耕民の家畜だからでしょうか。ここもかなり大事なところです。地中海を除くヨーロッパは、森の神々を持つ森林の民だったんです。ユダヤ教やキリスト教の生まれるような、乾燥して枯れた大地、砂漠の民ではなかったんです。キリスト教というのは、後からローマ帝国に押し付けられた宗教だったわけです。ここは押さえておいてください。)
既にこの頃(紀元前34,00年)シュメル人は、隕石から鉄を作ったり、動物の引く車や櫂でこぐ船を流通させ、ペルシャ湾・インダス下流を結ぶ交易をおこなっていたようです。しかし当時はまだ、鉄器は硬度の高い鋼にする技術が未熟で、盛んだったのは銅と錫の合金・青銅器でした。紀元前1500年頃からようやく、侵入してきたヒッタイト人に使われるようになり、更に500年ほどかけて普及するのです。
やがて、「犂(すき)」が発明され、焼き畑農民の処女地よりは収穫率は劣るものの、はるかに広い耕作面積を持ち、耕しておくだけで穀物を植えない休耕地(雑草地より早い回復)を併用することで永久に生活できることを発見します。絶えず移動しなくて済んだ人間たちは、収穫した穀物や道具を蓄える壺や籠などを作れるようになるのです。共同体に棲む農耕民は畑で規則正しく、骨惜しみせずに働かねばならず、植え付けの季節の見極めに時を図る必要を持つ。仲間を食べさせていくためには、収穫にはどれだけの量が必要かを計算できなければならない。それにはきちんと直線で仕切られた畑(自然に任せたら「でたらめ=エントロピー」がのさばり、収穫量の計算もできない形になってしまう)が必要になる。これらのきちんと計算された形(長方形とは限らないが、きちんとした整った形が必要だった)を維持する欲求は人間に、「強迫観念」を植え付ける。川の水を畑に導き「灌漑」を行って初めて収穫も可能となる。労働する者たちの厳しい規律と統制が必要となった。
「勇気とか力に訴える習慣は、狩猟民になくてはならぬ習慣だが、農耕民にはさして必要ではなくなった。
自然環境から略奪するだけの存在でなくなったとき、人間の数は飛躍的に増した(1 )」んですね。お陰で常に目先の危険に目ざとく、捕食者や獲物の兆候を読み取り、気の散り易い「分裂気質者(2)」よりも、きちんと集中し、計算高く、少しのミスも招き入れない完璧主義者で、強迫観念が強く、責任感の強い「執着性格者(2)」が必要視されるようになる。
ここに至って「人間は初めて自然の一部から、自然に対立する者となった(3 )」。ここは大事です。ここからが人間の「宗教」や「心(意識)」の発生の萌芽なんです。
こうなると「分裂親和者の逃げ道は、「上」(神や天体)にしか開かれていない。王、雨司、呪医、数学者、科学者、官僚 (3 )」や神官、芸能者、詩人、語り部、隔離された病人、そして中世から近代に狂気の餌食となった土着の異教徒「魔女」などですね。神官は、太陽や月の運航を観察・計算して暦を作る(聖(ひじり)は「日知り」でもあった)などの占いや予祝能力が求められた。
先に進み過ぎたので遡りますが、シュメル人は川辺の粘土を乾燥させた粘土板に楔形文字を刻み、所有権や主体を示す、神を刻んだ円筒印章を転がして、契約文書(経済・交易文書)を作った。一日24時間、1年12カ月、1ダース12本、演習360度などの60進法の発明や月の満ち欠けによる太陰暦、壺などをつくるロクロ、車輪を発明した。ウルク都市国家群も形成されました(紀元前34,00年頃)。情報の整理や勘定や名簿作りに、世界最古の文字、ウルク原文字が出現し、何と「簿記書板(表に商品と人名・裏に商品総額が記入)」が発見されている。ウルク都市群で大事なのは、ここに「宗教」を囲い込んだ「国家」の始まりがみられることです。
注1) ウイリアム・マクニール「世界史・上」中公文庫P54
注2) 分裂気質(分裂親和者)と執着性格者(第2部の2で説明するのを飛ばしてしまいましたが、ここで説明させてください。すみません。)
≪分裂気質schizothymia≫
クレッチマーによる性格類型の一つ。彼は,精神分裂病から分裂病質schizoidと分裂気質への移行系列を提起したが,このうち正常な範囲のものを分裂気質と呼んだ。感受性には過敏(敏感)と鈍感(冷淡)の両極があり,人と交わる態度は自閉的である。精神的テンポはしばしば飛躍性と固着不変性との間を往来し,精神運動機能はしばしば刺激に不相応で,抑圧,麻痺,阻止,硬直などを示す。体型はやせ型と親和性を示す。具体的な人間像の代表としては,上品で感覚の繊細な人,孤独な理想家,冷たい支配者と利己的な人,無味乾燥または鈍感な人の四つのタイプをあげている。(コトバンクより)
≪執着性格者immodithymia≫
1930年ころに下田光造が「躁鬱病」の病前性格として執着性格を提唱した。執着性格の基礎には一度起こった感情が長く持続し,かつ増強するという感情の経過の異常があることに着目し,この異常にもとづく性格特徴として仕事熱心,凝り性,徹底的,正直,几帳面,強い正義感,ごまかしやずぼらができないなどをあげている。(コトバンクより)
⇒人類の創成期に、分裂気質と執着性格者をピックアップしたのは、直立二足歩行を始め、自らを家畜化した人類が、未だ定住を覚え社会化に至らぬ前の狩猟期の気質が、「分裂気質」に近く、農耕期・都市型の集団生活の中で、(対獲物よりも)対人関係の方に強みを持つに至った連中が、「執着性格者の性向を持つと思われる為です。どちらも人類の持つ共通の気質であり、ある条件と環境の風の吹き違いで、「病気」と呼ばれる型に進んでしまうことがあって、戻りにくくなってしまう。
統合失調症をとても一言で定義などできるものではないが、基礎的な気質としては次のことが言えるのではないだろうか。「分裂病(統合失調症)とは、極度にシャイな個体であり、極度に敏感で、自分の感情がすぐ傷つくという不思議な特技を有し、自分と自分以外の人々との親密な接触との間に途方もなく大きな防衛機構をかなり自然に樹立してしまった人であると思っている」。そうなったのには、当時生きていた社会的な場において、重要で困難性を持つ位置に立たされ、特異性のある見事なテクニックを使う対処をしていたが、やがて「自己評価に非常に厳しくマイナスの作用をする場に遭遇して、自己肯定が排斥された後に」、対処麻痺に陥った後、「幼児期以来我々が共通に人間として相続した遺産である、宇宙への統一整合性、神の善意などに対する、あの信頼感の大部分を喪失し、それ以来、人生が決定的に不確かであるという感覚をもって生きていく(*)」ことになってしまったことが大きく作用している。つまり、誰にでもある人間的な特質であり、社会化の過程で大きく傷ついた我々の仲間だということです。そして、素人の私の食い散らかしの知識では、この対極にあるのではと思うのが「躁うつ病」ですが、「統合失調症のキーワードが「先案じ」としての「不安」であるとすれば、躁うつ病のキーワードは「後悔」である。うつ状態のときは「取り返しがつかない」と悔やみ、躁状態のときは「何とか取り返し、埋め合わせ、つぐないをつけよう」と頑張る。統合失調症の人は、済んだことにはわりとあっさりしている。目は結局「将来」に向かっており、それが「不安」の根拠づけのことが多い(**)」わけで、躁鬱病に至らない、軽い段階での「執着性格者」の目も「過去」にむいているわけです。木村敏さんは、人間の心理的時間感覚を、「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」の3つに分類しています。統合失調的、躁うつ病的、てんかん的の3つになります。
してみると、てんかん親和者は、「現在」を向いているわけですね。
「誰でも条件さえ整えば発作を起こせる(一定以上の電圧通電、幼児の高熱、けいれん誘発剤服用など)。てんかんを病む人は、そうでない人に比べて、けいれんに対する閾値が低いだけである。」「現在人は、深く現在を味わうことができる。壮大な夕焼けの美も、一輪の花の清楚も、めくるめくスリルも、深く戦慄的なまでに体験できるのは、てんかん親和的な人の特権と言ってよい。・・人々を感動させる芸術はてんかん親和的な人が作り上げたものである。モーツアルト、ベートーベン、ドストエフスキー、ゴッホ、皆そうである。・・・のめり込むような勤勉と持続力と、職人的な細部への関心は、てんかんの人の特徴である。これが(両方)ないと、芸術を「味わう」人にはなれても、「産み出す」芸術家にはなれない。享受と精進は、てんかん親和者の表裏2面である。だから第1級の学者、スポーツ選手、芸能界のスターはどこかてんかん親和的なところを隠し持っているはずである。てんかん親和的な人は大胆に矛盾を生きる人である。・・矛盾を生きるとは、刺激を避けた静かな生活に憧れるとともに刺激を求め、のめり込んでいくという二面性である(***)。」
精神疾患の中で、自我の崩壊を伴わない方を「神経症」とし、今挙げた、分裂気質や執着気質の強い人もここに分類(失礼かもしれないが)されるのでしょう。その他性倒錯や性格異常なども含まれる。「精神病」は自我に異常をきたし、社会生活に差しさわりが出る人を区別してよんでいるようですが、そう簡単でもない。個々の事例すべてが入り組んでいるのが実態で、それは精神疾患に限ったことではない。生きて動いている人間の状況なのだから、当然のことだろう。神経症と精神病の境界にあるとされる「境界例」という症状も認められているようです。
(*)H.Sサリヴァン「分裂病は人間的過程である」みすず書房P303〜306)
(**)中井久夫・山口直彦「看護のための精神医学」医学書院P154
(***)中井久夫・山口直彦「看護のための精神医学」医学書院P252
注3) 中井久夫「分裂病と人類」東京大学出版会P25
【オリエント世界の動向・20,000年前以降】
20,000年前頃から、氷河の後退と海面上昇が始まり、やがて世界的な気温上昇(ヒプシサーマル)ともに、定住と農耕に向けて生活スタイルが変わってきます。このころからナイル流域や近東各地に小麦が自生し始めます。ケニアではマサイ族の前身が家畜利用を始めました。10,000前位には、黒海周辺のレヴァント地方に種をまく原始農業が始まり、麦栽培も定着します。イランでは羊の家畜化も見られました。日本でも縄文土器が作られました。土器は、収穫物を入れたり、煮炊きをしたり、水などを貯めたりする重要な道具でしたが、財産としても一族の威信を示しました。農耕はヨーロッパ、インド、中国、アフリカ、アメリカ大陸、アジアモンスーン地帯などでも独立に発生したようです。まだ侵略や民族移動は始まっていなかったようです。天候や河川の氾濫など環境との闘いにとどまっていました。
紀元前6000年頃から、西アジアの肥沃な三日月地帯に大麦・小麦と羊の牧畜を基盤にした農耕文化体系が生まれました。又アナトリア(トルコ共和国のアジア領に位置する半島。小アジアともよばれる)に、小麦・エンドウ・大麦の農耕、羊と山羊を飼育。大集落も作られた。(中国でも華北の粟(あわ)・江南の米と言われるように農耕が始まっています。)
【農耕による変化】〜分裂気質者と執着性格者
もともと人類は、長く狩猟生活を送っていました。自然の環境任せだった人類は、あちこちと移動して隠れながら食物を探し回らなければならなかったが、やがて小麦と大麦を栽培し、羊と山羊を家畜とし、移動せずに食料を調達できる社会を始める。二三回繰り返したら土地が痩せてくるので、木を焼き灰をまき又作物を作るが、数年すると雑草が作物を圧倒すようになり、放棄地として別の森を切り開く(焼き畑耕法)か、雑草と戦うかしかない。他に代替地のない日本の農民が、長年にわたって雑草と戦い、結果といて世界一手ごわい雑草を育ててしまったのは、それだけ勤勉だったあかしかもしれませんが、最初に農耕が発生したのは中東のシュメルの地(ペルシャ湾に接する、ティグリス・ユーフラテス下流の沖積平野・メソポタミア南部)で、紀元前37,00年頃だった。そこに定住生活が始まります。シュメル人はどこから移住してきたかは不明で、謎も多い。塗りつぶしの大きい目の、奇妙な像から宇宙人ではという噂もあるくらいです。
人類最初で最大の敵・乾燥は、赤道で蒸発する大量の水蒸気が積乱雲となって大量の雨を降らせたあと、カラカラに乾燥した空気となってアフリカ北部から西アジアに毎年下降してくる地球規模の大気循環の仕業です。乾燥に強い麦類を食料にすることを覚えた人類は、畑を開き、収穫まで待つわけです。また野生動物にとり畑は餌場となり、しぜんと集まってきます。彼らの習性を利用して飼い「馴らして」幼児化することで家畜とし、たんぱく源も確保します。やがてウシや馬、ラクダなどを群れのまま飼育する「牧畜」も考えられ、食用ばかりでなく農耕用にも使われました。
(後に18世紀に森林が伐採され、広々とした平地が広がり牧畜が広がるまでヨーロッパで飼われていた豚は、食物を反芻できない為、牧畜民には飼われず、農耕社会で飼われました。豚は今でもイスラムやユダヤ教でも食することが禁じられているのは、農耕民の家畜だからでしょうか。ここもかなり大事なところです。地中海を除くヨーロッパは、森の神々を持つ森林の民だったんです。ユダヤ教やキリスト教の生まれるような、乾燥して枯れた大地、砂漠の民ではなかったんです。キリスト教というのは、後からローマ帝国に押し付けられた宗教だったわけです。ここは押さえておいてください。)
既にこの頃(紀元前34,00年)シュメル人は、隕石から鉄を作ったり、動物の引く車や櫂でこぐ船を流通させ、ペルシャ湾・インダス下流を結ぶ交易をおこなっていたようです。しかし当時はまだ、鉄器は硬度の高い鋼にする技術が未熟で、盛んだったのは銅と錫の合金・青銅器でした。紀元前1500年頃からようやく、侵入してきたヒッタイト人に使われるようになり、更に500年ほどかけて普及するのです。
やがて、「犂(すき)」が発明され、焼き畑農民の処女地よりは収穫率は劣るものの、はるかに広い耕作面積を持ち、耕しておくだけで穀物を植えない休耕地(雑草地より早い回復)を併用することで永久に生活できることを発見します。絶えず移動しなくて済んだ人間たちは、収穫した穀物や道具を蓄える壺や籠などを作れるようになるのです。共同体に棲む農耕民は畑で規則正しく、骨惜しみせずに働かねばならず、植え付けの季節の見極めに時を図る必要を持つ。仲間を食べさせていくためには、収穫にはどれだけの量が必要かを計算できなければならない。それにはきちんと直線で仕切られた畑(自然に任せたら「でたらめ=エントロピー」がのさばり、収穫量の計算もできない形になってしまう)が必要になる。これらのきちんと計算された形(長方形とは限らないが、きちんとした整った形が必要だった)を維持する欲求は人間に、「強迫観念」を植え付ける。川の水を畑に導き「灌漑」を行って初めて収穫も可能となる。労働する者たちの厳しい規律と統制が必要となった。
「勇気とか力に訴える習慣は、狩猟民になくてはならぬ習慣だが、農耕民にはさして必要ではなくなった。
自然環境から略奪するだけの存在でなくなったとき、人間の数は飛躍的に増した(1 )」んですね。お陰で常に目先の危険に目ざとく、捕食者や獲物の兆候を読み取り、気の散り易い「分裂気質者(2)」よりも、きちんと集中し、計算高く、少しのミスも招き入れない完璧主義者で、強迫観念が強く、責任感の強い「執着性格者(2)」が必要視されるようになる。
ここに至って「人間は初めて自然の一部から、自然に対立する者となった(3 )」。ここは大事です。ここからが人間の「宗教」や「心(意識)」の発生の萌芽なんです。
こうなると「分裂親和者の逃げ道は、「上」(神や天体)にしか開かれていない。王、雨司、呪医、数学者、科学者、官僚 (3 )」や神官、芸能者、詩人、語り部、隔離された病人、そして中世から近代に狂気の餌食となった土着の異教徒「魔女」などですね。神官は、太陽や月の運航を観察・計算して暦を作る(聖(ひじり)は「日知り」でもあった)などの占いや予祝能力が求められた。
先に進み過ぎたので遡りますが、シュメル人は川辺の粘土を乾燥させた粘土板に楔形文字を刻み、所有権や主体を示す、神を刻んだ円筒印章を転がして、契約文書(経済・交易文書)を作った。一日24時間、1年12カ月、1ダース12本、演習360度などの60進法の発明や月の満ち欠けによる太陰暦、壺などをつくるロクロ、車輪を発明した。ウルク都市国家群も形成されました(紀元前34,00年頃)。情報の整理や勘定や名簿作りに、世界最古の文字、ウルク原文字が出現し、何と「簿記書板(表に商品と人名・裏に商品総額が記入)」が発見されている。ウルク都市群で大事なのは、ここに「宗教」を囲い込んだ「国家」の始まりがみられることです。
注1) ウイリアム・マクニール「世界史・上」中公文庫P54
注2) 分裂気質(分裂親和者)と執着性格者(第2部の2で説明するのを飛ばしてしまいましたが、ここで説明させてください。すみません。)
≪分裂気質schizothymia≫
クレッチマーによる性格類型の一つ。彼は,精神分裂病から分裂病質schizoidと分裂気質への移行系列を提起したが,このうち正常な範囲のものを分裂気質と呼んだ。感受性には過敏(敏感)と鈍感(冷淡)の両極があり,人と交わる態度は自閉的である。精神的テンポはしばしば飛躍性と固着不変性との間を往来し,精神運動機能はしばしば刺激に不相応で,抑圧,麻痺,阻止,硬直などを示す。体型はやせ型と親和性を示す。具体的な人間像の代表としては,上品で感覚の繊細な人,孤独な理想家,冷たい支配者と利己的な人,無味乾燥または鈍感な人の四つのタイプをあげている。(コトバンクより)
≪執着性格者immodithymia≫
1930年ころに下田光造が「躁鬱病」の病前性格として執着性格を提唱した。執着性格の基礎には一度起こった感情が長く持続し,かつ増強するという感情の経過の異常があることに着目し,この異常にもとづく性格特徴として仕事熱心,凝り性,徹底的,正直,几帳面,強い正義感,ごまかしやずぼらができないなどをあげている。(コトバンクより)
⇒人類の創成期に、分裂気質と執着性格者をピックアップしたのは、直立二足歩行を始め、自らを家畜化した人類が、未だ定住を覚え社会化に至らぬ前の狩猟期の気質が、「分裂気質」に近く、農耕期・都市型の集団生活の中で、(対獲物よりも)対人関係の方に強みを持つに至った連中が、「執着性格者の性向を持つと思われる為です。どちらも人類の持つ共通の気質であり、ある条件と環境の風の吹き違いで、「病気」と呼ばれる型に進んでしまうことがあって、戻りにくくなってしまう。
統合失調症をとても一言で定義などできるものではないが、基礎的な気質としては次のことが言えるのではないだろうか。「分裂病(統合失調症)とは、極度にシャイな個体であり、極度に敏感で、自分の感情がすぐ傷つくという不思議な特技を有し、自分と自分以外の人々との親密な接触との間に途方もなく大きな防衛機構をかなり自然に樹立してしまった人であると思っている」。そうなったのには、当時生きていた社会的な場において、重要で困難性を持つ位置に立たされ、特異性のある見事なテクニックを使う対処をしていたが、やがて「自己評価に非常に厳しくマイナスの作用をする場に遭遇して、自己肯定が排斥された後に」、対処麻痺に陥った後、「幼児期以来我々が共通に人間として相続した遺産である、宇宙への統一整合性、神の善意などに対する、あの信頼感の大部分を喪失し、それ以来、人生が決定的に不確かであるという感覚をもって生きていく(*)」ことになってしまったことが大きく作用している。つまり、誰にでもある人間的な特質であり、社会化の過程で大きく傷ついた我々の仲間だということです。そして、素人の私の食い散らかしの知識では、この対極にあるのではと思うのが「躁うつ病」ですが、「統合失調症のキーワードが「先案じ」としての「不安」であるとすれば、躁うつ病のキーワードは「後悔」である。うつ状態のときは「取り返しがつかない」と悔やみ、躁状態のときは「何とか取り返し、埋め合わせ、つぐないをつけよう」と頑張る。統合失調症の人は、済んだことにはわりとあっさりしている。目は結局「将来」に向かっており、それが「不安」の根拠づけのことが多い(**)」わけで、躁鬱病に至らない、軽い段階での「執着性格者」の目も「過去」にむいているわけです。木村敏さんは、人間の心理的時間感覚を、「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」の3つに分類しています。統合失調的、躁うつ病的、てんかん的の3つになります。
してみると、てんかん親和者は、「現在」を向いているわけですね。
「誰でも条件さえ整えば発作を起こせる(一定以上の電圧通電、幼児の高熱、けいれん誘発剤服用など)。てんかんを病む人は、そうでない人に比べて、けいれんに対する閾値が低いだけである。」「現在人は、深く現在を味わうことができる。壮大な夕焼けの美も、一輪の花の清楚も、めくるめくスリルも、深く戦慄的なまでに体験できるのは、てんかん親和的な人の特権と言ってよい。・・人々を感動させる芸術はてんかん親和的な人が作り上げたものである。モーツアルト、ベートーベン、ドストエフスキー、ゴッホ、皆そうである。・・・のめり込むような勤勉と持続力と、職人的な細部への関心は、てんかんの人の特徴である。これが(両方)ないと、芸術を「味わう」人にはなれても、「産み出す」芸術家にはなれない。享受と精進は、てんかん親和者の表裏2面である。だから第1級の学者、スポーツ選手、芸能界のスターはどこかてんかん親和的なところを隠し持っているはずである。てんかん親和的な人は大胆に矛盾を生きる人である。・・矛盾を生きるとは、刺激を避けた静かな生活に憧れるとともに刺激を求め、のめり込んでいくという二面性である(***)。」
精神疾患の中で、自我の崩壊を伴わない方を「神経症」とし、今挙げた、分裂気質や執着気質の強い人もここに分類(失礼かもしれないが)されるのでしょう。その他性倒錯や性格異常なども含まれる。「精神病」は自我に異常をきたし、社会生活に差しさわりが出る人を区別してよんでいるようですが、そう簡単でもない。個々の事例すべてが入り組んでいるのが実態で、それは精神疾患に限ったことではない。生きて動いている人間の状況なのだから、当然のことだろう。神経症と精神病の境界にあるとされる「境界例」という症状も認められているようです。
(*)H.Sサリヴァン「分裂病は人間的過程である」みすず書房P303〜306)
(**)中井久夫・山口直彦「看護のための精神医学」医学書院P154
(***)中井久夫・山口直彦「看護のための精神医学」医学書院P252
注3) 中井久夫「分裂病と人類」東京大学出版会P25