2014年02月11日
Sへ(存在について) 2
(続き)
こうして生物は周囲との協調の中で固有のリズムを持つようになり、それは原子・分子の譲り合いのリズムの完成であり、宇宙のリズムでもある。
生命とゆらぎの関係がわかったとして、ではそのゆらぎの状態とわれわれが見ているこの眼の前の存在とはどう繋がっているのか?それは我々も振動している宇宙の部分であるから、我々の振動数に近いところで、両者の波長が合い、視界に入ってくるということだろう。丁度、プロペラの飛行機を見て、操縦席からは前が見えにくくて大変だろうと心配するに及ばないのと同様だろう。或る回転数に届くと非常によく見える。「静」とはおびただしい振動と振動の合致だった。
こうして原子から、銀河更にはこれを包む何かに至るまであらゆるものがスピンし、それは無の中のある部分であり(全体というものは、我々は考えられない。考えたら自分が無くなり直ちに矛盾してしまう。宇宙以外はどのくらい広大なのかは想像もつかないが、ひずみも、ゆらぎもない勿論秩序も無い安定した全き一(いつ)なのかもしれない。)道元のいう「而今の山水は古仏の道現成なり」も、人間と山水を対比的に捉え、天と地の間でどっちつかずに迷っている人間に対し、悟りの境地を見える化したものと思っているが、その山水すらスピンしている。つまり「ゆらぎ」のそとに出られるわけではない。そとは宇宙では無いのだから。
ではその原子・分子は何から転移したのだろうか。それは「量子」という物理量の最小単位(とおもわれている)が複合化され、様々な量子流となって全空間に充満し、或る時何かの条件で活性化し、核のもとになったり、そこから細胞ができたり生物への道を進んだのだろう。量子の活性化ということは、無機物から有機物への飛躍ということになる。「励起」(1つの物質系、例えば原子・分子などの系がエネルギーの最も低い安定した状態から、他との相互作用によって、より高いエネルギー状態に移ること)という人もいる。
生物が死ぬと言っても、活性量子流が、非活性状態に戻っただけだ。特殊な複合状態が解消されただけで、本質は何ら変わっていない(津島秀彦)
ここまでくれば、その時その時の状態で、活性量子流がとる形の違い、すなわち君の体の中にいる何億もの大腸菌だって、微生物だって、細胞だって生きている。「だからあなたの生命は1個では無いし、お父さんの死も一つの死として考える必要もない。我々には、このような複合的な生命の状態が重なっている。」「我々はたくさんの生命の流れの乗り物の部分にすぎない。」(ルイス・トマス)
DNA、DNAとどうして違いとか、区別にこだわるんだろうかね。みんな同じ生命の部分なのに。個性が違うくらいの違いしかないのに!どうして「俺の子じゃない!」ってこだわるんですかね。こだわり通して一生を棒に振るんでしょうか?かくも「悲しみ」はエゴイストで欲張りか!
この子は月夜の晩に拾ったボタンなんですよ。問題は「違い」じゃなくて「同じ」を見つけることでしょ!
―月夜の浜辺―
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛《はふ》れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?(中原中也)
詩人が2歳の子どもを失った悲しみを詠ったにせよ、この子を天からの授かり物(いい言葉ですね)として自分の子かどうかなどは超越してこどもとの「かかわり」の喪失を、生命の死を「同じ人間の悲しみ」に昇華した立派な作品になっている。詩人がDNAのことを知っていたかなんて無関係、優れた作品とはそういうものです。
「僕らも自分は判ってないんです。(自分を中心に置いてないですね)だから生きたものなんです。
それを厳しく考えるから死んだものになっちゃう。判らんことはほっといていいんですよ。文学は
そうです。本人も良くわかっちゃいない。だから生きた文学です。」
「男女間のことでもそうですよ、わからんほうが有難い。判らんことに魅力がある。(稲垣足穂・巨泉との対談)
またもとに戻ってしまったが、結論は精神も魂も「物質」の、ある場所における、ある現象形態だということだ。
魂という物質も、もともと量子流だから、非常に遠いものが見えたりもする。ここが大事なのだが、鉱物も植物も動物も天体もすべて共通の魂のもとにあるということだ。
一人称で言えば、私にとって「魂」とは、「他人・あなたたち」と言ったのはユングであり法然さんだったね。
つまり無意識の底で生物どうしは繋がっているということだ思っている。
だいぶ廻り道をしたが、最初に戻ろう。きみの質問だった。
私はかろうじて「存在」している。想起の時点で存在しているとすると、現実には存在しなくなった時(つまり君が死んだ時)、まだそのこころにあったものは、「存在」しているのかと。
ぼくが思うのは、「個」にこだわるなら、もう住む場所も違うが、形や場所を変えて、それを持って出ていっただけだろうということだ。「個」にこだわらなければ、それは紙やデータに記録しなくても、巨大な精神史のほんのほんの一部としてタピストリーの部分として刻まれるだろうということだ。勿論人間だけでなくすべての生命の記録も。
脳科学者であり、外科医であり、心の生理学者であったワイルダー・ペンフィールド教授の言葉を紹介しよう。
(脳と心の正体・ペンフィールド・法政大学出版局)
「意識の流れの内容は脳の中に記録される。しかしそれを命令するのは、脳でなく心だ」
(松岡流で言えば、「心は注意のカーソルだ。脳の中のどこに注意のカーソルを動かそうとするかという意図の集計結果が心なのだ。」ということになる。)更に彼は「私は電磁波をもらって思考しているレセプターに過ぎない」「心の正体は織物の模様(WEB)に過ぎない」と書いている。
先ほどの量子流の考えと同様に、「我々の体中を覆っているというか通過している3つの大きな力(重力と電磁力と核力)の「織り目の一部」が我々であり、だから「意識」も電磁場や電磁波や重力から量子論的効果を受けている」(21世紀の忘れもの・佐治晴夫)というわけだ。 佐治さんの捕捉で言えば、「例えば1本の弦を張った時、いろいろなモード(形態)がある。例えばAという粒子とかBという粒子が現れるには時空に立つさざ波のモードがどんな風にエクサイテーション、「励起」されるかで説明が可能なんです。「喜び」とか「悲しみ」とかいうのは、そのエクサイテーションのモードの一つということでしょうか。」という事になる。(これらの力がどうして発生したかという事は又の機会にしたいが、さわりだけ言えば「これらの力は宇宙の誕生の時には一つにまとまっていた(つまりその時までは「無」)が、宇宙膨張とともに枝分れしたもの」だそうだ)
また彼(ペンフィールド)は、その心は死後はどうなるかという疑問にも答えようとしている。
第一に心は脳を通して交信状態をつくるのだから、脳の活動の無いところに心も作動しないという平凡なものだ。
第二に心が脳の停止後も動くとすれば、そこには心の動きの為に何処からかエネルギー源が補給されなければならず、
その補給は外部からしかないだろう。ここで第一の結論に戻ってしまわないところが、ペンフィールドのすごいところだ。
「私達が生きていて脳と心が目覚めている間に、時に他の人たちの心や或いは神の心との間に直接の交信が為されていたとしたらどうだろう。この場合には私達の外部に由来するエネルギーがじかに心に達しうる事も不可能とは言えない。心が死後に脳以外のエネルギー源にめざめることを期待するのも、あながち不合理とは言えないのである。」
心は、脳のどこにいるわけでもないのだから。
「存在というものは、生死を越えたものです。(人間が)滅んだって、栄えたって、結局、存在というものはそんなものじゃないんだな。」(稲垣足穂)
(後記) 今回の作業は、僕にとって勉強の連続だった。あちらを紐解きこちらを思考し、そちらに伺い駄目だしの連続だった。
でも今思うと、漠然と信じていたものを、君の葉書がはっきりとした文字にしておくことを示唆したのだろうという、勝手な
思い込みの中にいる。君の投げかけを、ほったらかしにしないで何とか答えを出そうとした(自分自身に)結果が僕の
頭の中を整理してくれたのだと思い感謝の気持ちを持っているところだ。
こうして生物は周囲との協調の中で固有のリズムを持つようになり、それは原子・分子の譲り合いのリズムの完成であり、宇宙のリズムでもある。
生命とゆらぎの関係がわかったとして、ではそのゆらぎの状態とわれわれが見ているこの眼の前の存在とはどう繋がっているのか?それは我々も振動している宇宙の部分であるから、我々の振動数に近いところで、両者の波長が合い、視界に入ってくるということだろう。丁度、プロペラの飛行機を見て、操縦席からは前が見えにくくて大変だろうと心配するに及ばないのと同様だろう。或る回転数に届くと非常によく見える。「静」とはおびただしい振動と振動の合致だった。
こうして原子から、銀河更にはこれを包む何かに至るまであらゆるものがスピンし、それは無の中のある部分であり(全体というものは、我々は考えられない。考えたら自分が無くなり直ちに矛盾してしまう。宇宙以外はどのくらい広大なのかは想像もつかないが、ひずみも、ゆらぎもない勿論秩序も無い安定した全き一(いつ)なのかもしれない。)道元のいう「而今の山水は古仏の道現成なり」も、人間と山水を対比的に捉え、天と地の間でどっちつかずに迷っている人間に対し、悟りの境地を見える化したものと思っているが、その山水すらスピンしている。つまり「ゆらぎ」のそとに出られるわけではない。そとは宇宙では無いのだから。
ではその原子・分子は何から転移したのだろうか。それは「量子」という物理量の最小単位(とおもわれている)が複合化され、様々な量子流となって全空間に充満し、或る時何かの条件で活性化し、核のもとになったり、そこから細胞ができたり生物への道を進んだのだろう。量子の活性化ということは、無機物から有機物への飛躍ということになる。「励起」(1つの物質系、例えば原子・分子などの系がエネルギーの最も低い安定した状態から、他との相互作用によって、より高いエネルギー状態に移ること)という人もいる。
生物が死ぬと言っても、活性量子流が、非活性状態に戻っただけだ。特殊な複合状態が解消されただけで、本質は何ら変わっていない(津島秀彦)
ここまでくれば、その時その時の状態で、活性量子流がとる形の違い、すなわち君の体の中にいる何億もの大腸菌だって、微生物だって、細胞だって生きている。「だからあなたの生命は1個では無いし、お父さんの死も一つの死として考える必要もない。我々には、このような複合的な生命の状態が重なっている。」「我々はたくさんの生命の流れの乗り物の部分にすぎない。」(ルイス・トマス)
DNA、DNAとどうして違いとか、区別にこだわるんだろうかね。みんな同じ生命の部分なのに。個性が違うくらいの違いしかないのに!どうして「俺の子じゃない!」ってこだわるんですかね。こだわり通して一生を棒に振るんでしょうか?かくも「悲しみ」はエゴイストで欲張りか!
この子は月夜の晩に拾ったボタンなんですよ。問題は「違い」じゃなくて「同じ」を見つけることでしょ!
―月夜の浜辺―
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂《たもと》に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛《はふ》れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁《し》み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?(中原中也)
詩人が2歳の子どもを失った悲しみを詠ったにせよ、この子を天からの授かり物(いい言葉ですね)として自分の子かどうかなどは超越してこどもとの「かかわり」の喪失を、生命の死を「同じ人間の悲しみ」に昇華した立派な作品になっている。詩人がDNAのことを知っていたかなんて無関係、優れた作品とはそういうものです。
「僕らも自分は判ってないんです。(自分を中心に置いてないですね)だから生きたものなんです。
それを厳しく考えるから死んだものになっちゃう。判らんことはほっといていいんですよ。文学は
そうです。本人も良くわかっちゃいない。だから生きた文学です。」
「男女間のことでもそうですよ、わからんほうが有難い。判らんことに魅力がある。(稲垣足穂・巨泉との対談)
またもとに戻ってしまったが、結論は精神も魂も「物質」の、ある場所における、ある現象形態だということだ。
魂という物質も、もともと量子流だから、非常に遠いものが見えたりもする。ここが大事なのだが、鉱物も植物も動物も天体もすべて共通の魂のもとにあるということだ。
一人称で言えば、私にとって「魂」とは、「他人・あなたたち」と言ったのはユングであり法然さんだったね。
つまり無意識の底で生物どうしは繋がっているということだ思っている。
だいぶ廻り道をしたが、最初に戻ろう。きみの質問だった。
私はかろうじて「存在」している。想起の時点で存在しているとすると、現実には存在しなくなった時(つまり君が死んだ時)、まだそのこころにあったものは、「存在」しているのかと。
ぼくが思うのは、「個」にこだわるなら、もう住む場所も違うが、形や場所を変えて、それを持って出ていっただけだろうということだ。「個」にこだわらなければ、それは紙やデータに記録しなくても、巨大な精神史のほんのほんの一部としてタピストリーの部分として刻まれるだろうということだ。勿論人間だけでなくすべての生命の記録も。
脳科学者であり、外科医であり、心の生理学者であったワイルダー・ペンフィールド教授の言葉を紹介しよう。
(脳と心の正体・ペンフィールド・法政大学出版局)
「意識の流れの内容は脳の中に記録される。しかしそれを命令するのは、脳でなく心だ」
(松岡流で言えば、「心は注意のカーソルだ。脳の中のどこに注意のカーソルを動かそうとするかという意図の集計結果が心なのだ。」ということになる。)更に彼は「私は電磁波をもらって思考しているレセプターに過ぎない」「心の正体は織物の模様(WEB)に過ぎない」と書いている。
先ほどの量子流の考えと同様に、「我々の体中を覆っているというか通過している3つの大きな力(重力と電磁力と核力)の「織り目の一部」が我々であり、だから「意識」も電磁場や電磁波や重力から量子論的効果を受けている」(21世紀の忘れもの・佐治晴夫)というわけだ。 佐治さんの捕捉で言えば、「例えば1本の弦を張った時、いろいろなモード(形態)がある。例えばAという粒子とかBという粒子が現れるには時空に立つさざ波のモードがどんな風にエクサイテーション、「励起」されるかで説明が可能なんです。「喜び」とか「悲しみ」とかいうのは、そのエクサイテーションのモードの一つということでしょうか。」という事になる。(これらの力がどうして発生したかという事は又の機会にしたいが、さわりだけ言えば「これらの力は宇宙の誕生の時には一つにまとまっていた(つまりその時までは「無」)が、宇宙膨張とともに枝分れしたもの」だそうだ)
また彼(ペンフィールド)は、その心は死後はどうなるかという疑問にも答えようとしている。
第一に心は脳を通して交信状態をつくるのだから、脳の活動の無いところに心も作動しないという平凡なものだ。
第二に心が脳の停止後も動くとすれば、そこには心の動きの為に何処からかエネルギー源が補給されなければならず、
その補給は外部からしかないだろう。ここで第一の結論に戻ってしまわないところが、ペンフィールドのすごいところだ。
「私達が生きていて脳と心が目覚めている間に、時に他の人たちの心や或いは神の心との間に直接の交信が為されていたとしたらどうだろう。この場合には私達の外部に由来するエネルギーがじかに心に達しうる事も不可能とは言えない。心が死後に脳以外のエネルギー源にめざめることを期待するのも、あながち不合理とは言えないのである。」
心は、脳のどこにいるわけでもないのだから。
「存在というものは、生死を越えたものです。(人間が)滅んだって、栄えたって、結局、存在というものはそんなものじゃないんだな。」(稲垣足穂)
(後記) 今回の作業は、僕にとって勉強の連続だった。あちらを紐解きこちらを思考し、そちらに伺い駄目だしの連続だった。
でも今思うと、漠然と信じていたものを、君の葉書がはっきりとした文字にしておくことを示唆したのだろうという、勝手な
思い込みの中にいる。君の投げかけを、ほったらかしにしないで何とか答えを出そうとした(自分自身に)結果が僕の
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