2014年02月11日
Sへ(存在について) 1
年賀状の返信ありがとう。きみがこの葉書で問いかけてきた疑問について考えてみた。
その問いは、僕の例の一文「(人の)存在とは、私の外にあるのではなく、相手を思っているその心にある」に関してだ。僕がこの話を知ったのは、ある本で、ホスピス医の山崎章郎さんが著書の中で書かれたあるエピソードを知ったからだ。
・・・・・・がんが進行したある中年のビジネスマンが自分にはあの世があるように思えると言っていた。そして「風がないのに、ローソクの炎が揺れたら、私からのメッセージだと思ってください」といって、三日後に旅立った。
その後山崎さんはローソクの炎を見るたびに、今揺れるかと注視する日々を過ごしたが、或る時はっと気付いた。
今揺れるかと思ってローソクを見つめる自分の心の中に、彼は確実に生きていると。・・・・・・・・・・
きみはまず、私はかろうじて「存在」している、と存在の定義を示した後から、つまり自分の定義に引きつけておいてから、私の書いた「存在」に疑問を投げかけた。「想起の時点で存在していると仮定すると、現実には存在しなくなった時(つまり君が死んだ時)、心にあったものは「存在」し続けるのか」と。
僕の推論でいうと、「君の定義で言えば存在していないでしょう。」という事になるだろうが、やがて存在しなくなる人間にとっての存在とは物の様な存在とは次元が違うから、一緒の意味で比較しても噛み合わない。
人間にとっての存在とは有限の我々が抱える存在だ。勿論それを抱える人間が死する時、共に持ち去られるだろう。そうでなければ何の為の存在か。
・・・・柳田邦男さんの話から知ったエピソードでは、神戸の少年Aの事件で淳君ともう一人彩花ちゃんという少女が殺害され、彩花ちゃんのお母さんの京子さんが娘さんを亡くされてから全く茫然自失でその喪失感からなかなか立ち直れないでいた。秋になってやっと自治会の集まりに出たのですが、帰る時ふと気付くと、夜空に浮かぶ満月のお月さまが彩花ちゃんの顔に見え、声がしたという。「お母さん、そんなにいつまでも恨まなくてもいいよ。私は天国で幸せに生きているんだから」と。その声が余りに現実味を帯びていたので、急いで家に飛び込んでカメラを持ってきて撮影した。それを現像したところ五枚撮ったうちの一枚が金色に輝いていた。そして、その出来事がきっかけで立ち直ることができたといいます。
これを錯覚というなかれ。何の支えも無い、科学的普遍だらけの「自由」という闇の中に放り込まれている現代人の命を張った智慧なのだから。科学的にどうとかではなく、一人称の自分だけの真実の瞬間に立ち会えたのだ。これこそ人間を唯一納得させる「物語」なのだから。科学的真実など人にただただ駄目だしするだけのものだ。
たまたまお月さんが彩花ちゃんの顔に見えて、声が聞こえてハッと気付いたんでしょ。彩花ちゃんの魂は生きているんだということに。ずたずたに切り裂かれた関係が、新しい関係に修復されたんです。それを、科学的に言うと・・・・・・。そんなんことはわかってる。そんなことは何の意味もない。
この答えは、みんなに支えられながら、逃げることなくこの問題に直面していった時、(専門用語で言えば)「再生」の心象が内部から救いとして「出現」したんです。
世代や時代や、科学的意識の変化によって現れ方は変わってくるでしょう。(年々手の込んだものでないと信じられなくなっている。ますます科学的真実は近づき、心のまことは遠くへ離れていっている)
逃げずに真摯に対面することで、それなりの時代の知識を反映した形で「たましい」が助け舟を出してくれるんです。
納得する形で。
きみはいつも、慎重で騙されまいとものごとを筋道立てて検証しないではいられない。でも論理も数学も言葉も人間の発明したイデオロギーに過ぎない。 真実や、(君が葉書に書いた)現実も同じだ。つくられたものだから、先が見えている訳だ。だから、存在と非存在も分けたがる。でもこれも方便だ。この方便に従えば、物質は「存在」していて意識や無意識はわけのわからない何かだから物質と同じ様に存在しているとは言えない。
だが本当にそうだろうか。我々が日常的に使っている現実も、存在も、それを使うのは否定しないが「条件付き」だったのではないか?つまり「仮にそうだとしている」に過ぎないのではないかということだ。コンピュータが15桁であとは切り捨てられているというのは、現実を我々の世界に合わせているからであり、作りものに過ぎない。或る日或る時その切り捨てられた端数が膨れ上がってとんでもない現象を引き起こすことが・・・・・・。だからあまり、我々の間で通用するからと言って、世界大、宇宙大に当て嵌め無い方がいい。本当の「現実」、本当の「真実」(それこそ「存在そのもの」だが)とは我々の使っている言葉の様な甘っちょろいものではない。
その様な意味で言えば、この世で、存在しないものなんてあるだろうか。目に見える物質だけが存在するだなんて、思いあがりではないだろうか。物質が見えるつまり存在していると認識されるのは、自然がそれに与えている回転数(スピン量)が、我々の目の捉える事のできる回転数つまり我々回転数のバンドと一致しているから或いは近いから静止しているようにから見えるだけのことだ。回転数(=サインカーブのように、少しづつ回転方向とは垂直方向にずれながら上下に波打っていく、丁度螺旋階段のように)の違うものは全部見えていない、つまり存在していないように誤解しやすい。
ちなみに我々の見える光波の波長の範囲は380〜780nm(ナノメートル)であり、狭い。(聴覚においても同様だ。)
「瞑想」というバイブレーションで自分の回転数を上げることで、可視範囲を多少はひろげられるかもしれないが、如何にしても次元が違うので、見えたとしても、物理的に何の干渉も起こさない。つまり触れない。詩人ノバーリスはこのあたりのことが勘で判っていた。嘗てブログでは紹介したが、君にはまだなので載せる。
すべての見えるものは 見えないものに触っている
すべての聞こえるものは きこえないものに触っている
感じられるものは感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものに
さわっているだろう。
存在はミクロばかりか、マクロの宇宙ででも同様だ。地球は自転しながら太陽の周りを廻っているしその太陽は地球など太陽系を 抱えながら別の軌道を(自身も廻りながら)廻っている。その太陽のような星は2000億個もあり、銀河系の中心に対して回転し、その大きさは直径10万光年といわれ、ひと周りするのにおよそ2億年かかる。更にその様な銀河が、何百何千と存在し(銀河団)、この銀河系の数百倍の大きさでゆっくりと回っているときたら、廻っていないものは無いと言っていいだろう。我々体内の血球も体液も素粒子もスピンしている。見えるものだけが存在するなどと言えないのは自明のことで、将来「存在の回転数」をはじき出す心理学者も出てくるだろうと松岡さんは言っている。回転数毎に、存在する場が違っている、つまり棲み分けているわけだ。我々が想像できる世界も、その中の更にその銀河ほんの片隅に位置しているところというわけだ。(なぜ回っているのかという問いは、長くなるのでまたにしよう。ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりから星の誕生迄説明を要するからだ。唯、我々の存在が、渦巻星雲からきている事の痕跡とでも言うものは、われわれの体からいくつも見当たる。指紋を、三半規管を、仏陀の髪の毛のカールを、水文土器を、四大文明よりはるか昔紀元前3000年の世界遺産アイルランド・ボイン渓谷の遺跡にやたらと見られる渦巻き模様を見れば推測されるだろう。彼らが科学的知識を持っていたということではなく、自分を主語とするような見方考え方をしなかっただけで、感覚的に見えていたことだろう。DNAの記憶か?)
さてでは、精神の方はどうか。
こちらこそ、先ほどの人間の心にとっての存在とも言うべきもので、あのパスカルがその著書「パンセ」の中でデカルトに対し投げかけた「情感には理知からは見えない独自の合理のようなものがあるのではないか」と気付いていたものの正体だ。ド・フリスによって遺伝子の働きが推理されていた当時から、染色体こそ生命のカギと思われ、その主成分であるDNAの持つ情報の発現過程こそ生命現象だという思考の飛躍が行われ始めた。DNAは今では中学生でも知っているが、その分子構造や化学反応がいくら解明されても魂や精神の本質は何も解明されていない。 ノーベル賞を受賞したジャック・モノーすら生命の本質を垣間見たと勘違いし、DNAを神聖化し、生物を単なるアミノ酸工場にしてしまった。
人間のおごり以外の何ものでもない。物質と精神を分けて考えることの限界が露呈している。
というより、精神というものは科学の対象にならない訳のわからないものだからと、締め出してしまったという意味で、分けたということだ。この広い宇宙にDNAにかわる情報系があっても不思議はないのに。
ところで脳の神経細胞からは、DNAが肝臓の10倍ものRNAをつくりだしているそうだ。これは何を意味するかというと
この状態は細胞分裂直前のDNAの活動に似ており、神経細胞の方は細胞分裂を止める物質を通常の3倍もつくりだしている。つまり自分が増殖するのをやめて、それだけのエネルギーを心という物質に変えているということで、これが精神(津島秀彦)だという。
従ってどんな生物でも多少はともあれ精神というエネルギーを放出しているというわけだ。(「植物の精神生活」というフェヒナーの名著があった。)
そこで生物とは何かを考えると、この世の中に存在するありとあらゆるものは、すべておびただしい数の原子・分子の集合体であって、それらの離合集散によってすべての自然現象が生起している事は容易に判る。これら原子・分子には意志というものがないので、全くでたらめに動こうとする。ところがある原子を中心に考えると、その原子のまわりにはきわめて多くの原子たちがひしめき合って存在している。その為周りからの影響を受ける中で自由に変動しようという運動となる。他との関わり合いの中で「形」というものが決まってくる。譲り合いだね。振動数が大きくなれば、その割合に反比例して変動の大きさが弱まってきれいな「ゆらぎ」を形成する事が判っている。あのアルファー波も僕たちの心臓の鼓動もそよ風の様な、小さなゆらぎに収束していく。人の心を打つ(つまり心に響くということだね)名演奏ほどこのゆらぎの形をとるという。(佐治晴夫さん「1/fゆらぎ」・fはフレークエンシー振動数)
世間の中でようやく自分の居場所を見つけた安らぎと同じ心鏡なんだろうね。
(続く)
その問いは、僕の例の一文「(人の)存在とは、私の外にあるのではなく、相手を思っているその心にある」に関してだ。僕がこの話を知ったのは、ある本で、ホスピス医の山崎章郎さんが著書の中で書かれたあるエピソードを知ったからだ。
・・・・・・がんが進行したある中年のビジネスマンが自分にはあの世があるように思えると言っていた。そして「風がないのに、ローソクの炎が揺れたら、私からのメッセージだと思ってください」といって、三日後に旅立った。
その後山崎さんはローソクの炎を見るたびに、今揺れるかと注視する日々を過ごしたが、或る時はっと気付いた。
今揺れるかと思ってローソクを見つめる自分の心の中に、彼は確実に生きていると。・・・・・・・・・・
きみはまず、私はかろうじて「存在」している、と存在の定義を示した後から、つまり自分の定義に引きつけておいてから、私の書いた「存在」に疑問を投げかけた。「想起の時点で存在していると仮定すると、現実には存在しなくなった時(つまり君が死んだ時)、心にあったものは「存在」し続けるのか」と。
僕の推論でいうと、「君の定義で言えば存在していないでしょう。」という事になるだろうが、やがて存在しなくなる人間にとっての存在とは物の様な存在とは次元が違うから、一緒の意味で比較しても噛み合わない。
人間にとっての存在とは有限の我々が抱える存在だ。勿論それを抱える人間が死する時、共に持ち去られるだろう。そうでなければ何の為の存在か。
・・・・柳田邦男さんの話から知ったエピソードでは、神戸の少年Aの事件で淳君ともう一人彩花ちゃんという少女が殺害され、彩花ちゃんのお母さんの京子さんが娘さんを亡くされてから全く茫然自失でその喪失感からなかなか立ち直れないでいた。秋になってやっと自治会の集まりに出たのですが、帰る時ふと気付くと、夜空に浮かぶ満月のお月さまが彩花ちゃんの顔に見え、声がしたという。「お母さん、そんなにいつまでも恨まなくてもいいよ。私は天国で幸せに生きているんだから」と。その声が余りに現実味を帯びていたので、急いで家に飛び込んでカメラを持ってきて撮影した。それを現像したところ五枚撮ったうちの一枚が金色に輝いていた。そして、その出来事がきっかけで立ち直ることができたといいます。
これを錯覚というなかれ。何の支えも無い、科学的普遍だらけの「自由」という闇の中に放り込まれている現代人の命を張った智慧なのだから。科学的にどうとかではなく、一人称の自分だけの真実の瞬間に立ち会えたのだ。これこそ人間を唯一納得させる「物語」なのだから。科学的真実など人にただただ駄目だしするだけのものだ。
たまたまお月さんが彩花ちゃんの顔に見えて、声が聞こえてハッと気付いたんでしょ。彩花ちゃんの魂は生きているんだということに。ずたずたに切り裂かれた関係が、新しい関係に修復されたんです。それを、科学的に言うと・・・・・・。そんなんことはわかってる。そんなことは何の意味もない。
この答えは、みんなに支えられながら、逃げることなくこの問題に直面していった時、(専門用語で言えば)「再生」の心象が内部から救いとして「出現」したんです。
世代や時代や、科学的意識の変化によって現れ方は変わってくるでしょう。(年々手の込んだものでないと信じられなくなっている。ますます科学的真実は近づき、心のまことは遠くへ離れていっている)
逃げずに真摯に対面することで、それなりの時代の知識を反映した形で「たましい」が助け舟を出してくれるんです。
納得する形で。
きみはいつも、慎重で騙されまいとものごとを筋道立てて検証しないではいられない。でも論理も数学も言葉も人間の発明したイデオロギーに過ぎない。 真実や、(君が葉書に書いた)現実も同じだ。つくられたものだから、先が見えている訳だ。だから、存在と非存在も分けたがる。でもこれも方便だ。この方便に従えば、物質は「存在」していて意識や無意識はわけのわからない何かだから物質と同じ様に存在しているとは言えない。
だが本当にそうだろうか。我々が日常的に使っている現実も、存在も、それを使うのは否定しないが「条件付き」だったのではないか?つまり「仮にそうだとしている」に過ぎないのではないかということだ。コンピュータが15桁であとは切り捨てられているというのは、現実を我々の世界に合わせているからであり、作りものに過ぎない。或る日或る時その切り捨てられた端数が膨れ上がってとんでもない現象を引き起こすことが・・・・・・。だからあまり、我々の間で通用するからと言って、世界大、宇宙大に当て嵌め無い方がいい。本当の「現実」、本当の「真実」(それこそ「存在そのもの」だが)とは我々の使っている言葉の様な甘っちょろいものではない。
その様な意味で言えば、この世で、存在しないものなんてあるだろうか。目に見える物質だけが存在するだなんて、思いあがりではないだろうか。物質が見えるつまり存在していると認識されるのは、自然がそれに与えている回転数(スピン量)が、我々の目の捉える事のできる回転数つまり我々回転数のバンドと一致しているから或いは近いから静止しているようにから見えるだけのことだ。回転数(=サインカーブのように、少しづつ回転方向とは垂直方向にずれながら上下に波打っていく、丁度螺旋階段のように)の違うものは全部見えていない、つまり存在していないように誤解しやすい。
ちなみに我々の見える光波の波長の範囲は380〜780nm(ナノメートル)であり、狭い。(聴覚においても同様だ。)
「瞑想」というバイブレーションで自分の回転数を上げることで、可視範囲を多少はひろげられるかもしれないが、如何にしても次元が違うので、見えたとしても、物理的に何の干渉も起こさない。つまり触れない。詩人ノバーリスはこのあたりのことが勘で判っていた。嘗てブログでは紹介したが、君にはまだなので載せる。
すべての見えるものは 見えないものに触っている
すべての聞こえるものは きこえないものに触っている
感じられるものは感じられないものにさわっている
おそらく、考えられるものは、考えられないものに
さわっているだろう。
存在はミクロばかりか、マクロの宇宙ででも同様だ。地球は自転しながら太陽の周りを廻っているしその太陽は地球など太陽系を 抱えながら別の軌道を(自身も廻りながら)廻っている。その太陽のような星は2000億個もあり、銀河系の中心に対して回転し、その大きさは直径10万光年といわれ、ひと周りするのにおよそ2億年かかる。更にその様な銀河が、何百何千と存在し(銀河団)、この銀河系の数百倍の大きさでゆっくりと回っているときたら、廻っていないものは無いと言っていいだろう。我々体内の血球も体液も素粒子もスピンしている。見えるものだけが存在するなどと言えないのは自明のことで、将来「存在の回転数」をはじき出す心理学者も出てくるだろうと松岡さんは言っている。回転数毎に、存在する場が違っている、つまり棲み分けているわけだ。我々が想像できる世界も、その中の更にその銀河ほんの片隅に位置しているところというわけだ。(なぜ回っているのかという問いは、長くなるのでまたにしよう。ビッグバンと呼ばれる宇宙の始まりから星の誕生迄説明を要するからだ。唯、我々の存在が、渦巻星雲からきている事の痕跡とでも言うものは、われわれの体からいくつも見当たる。指紋を、三半規管を、仏陀の髪の毛のカールを、水文土器を、四大文明よりはるか昔紀元前3000年の世界遺産アイルランド・ボイン渓谷の遺跡にやたらと見られる渦巻き模様を見れば推測されるだろう。彼らが科学的知識を持っていたということではなく、自分を主語とするような見方考え方をしなかっただけで、感覚的に見えていたことだろう。DNAの記憶か?)
さてでは、精神の方はどうか。
こちらこそ、先ほどの人間の心にとっての存在とも言うべきもので、あのパスカルがその著書「パンセ」の中でデカルトに対し投げかけた「情感には理知からは見えない独自の合理のようなものがあるのではないか」と気付いていたものの正体だ。ド・フリスによって遺伝子の働きが推理されていた当時から、染色体こそ生命のカギと思われ、その主成分であるDNAの持つ情報の発現過程こそ生命現象だという思考の飛躍が行われ始めた。DNAは今では中学生でも知っているが、その分子構造や化学反応がいくら解明されても魂や精神の本質は何も解明されていない。 ノーベル賞を受賞したジャック・モノーすら生命の本質を垣間見たと勘違いし、DNAを神聖化し、生物を単なるアミノ酸工場にしてしまった。
人間のおごり以外の何ものでもない。物質と精神を分けて考えることの限界が露呈している。
というより、精神というものは科学の対象にならない訳のわからないものだからと、締め出してしまったという意味で、分けたということだ。この広い宇宙にDNAにかわる情報系があっても不思議はないのに。
ところで脳の神経細胞からは、DNAが肝臓の10倍ものRNAをつくりだしているそうだ。これは何を意味するかというと
この状態は細胞分裂直前のDNAの活動に似ており、神経細胞の方は細胞分裂を止める物質を通常の3倍もつくりだしている。つまり自分が増殖するのをやめて、それだけのエネルギーを心という物質に変えているということで、これが精神(津島秀彦)だという。
従ってどんな生物でも多少はともあれ精神というエネルギーを放出しているというわけだ。(「植物の精神生活」というフェヒナーの名著があった。)
そこで生物とは何かを考えると、この世の中に存在するありとあらゆるものは、すべておびただしい数の原子・分子の集合体であって、それらの離合集散によってすべての自然現象が生起している事は容易に判る。これら原子・分子には意志というものがないので、全くでたらめに動こうとする。ところがある原子を中心に考えると、その原子のまわりにはきわめて多くの原子たちがひしめき合って存在している。その為周りからの影響を受ける中で自由に変動しようという運動となる。他との関わり合いの中で「形」というものが決まってくる。譲り合いだね。振動数が大きくなれば、その割合に反比例して変動の大きさが弱まってきれいな「ゆらぎ」を形成する事が判っている。あのアルファー波も僕たちの心臓の鼓動もそよ風の様な、小さなゆらぎに収束していく。人の心を打つ(つまり心に響くということだね)名演奏ほどこのゆらぎの形をとるという。(佐治晴夫さん「1/fゆらぎ」・fはフレークエンシー振動数)
世間の中でようやく自分の居場所を見つけた安らぎと同じ心鏡なんだろうね。
(続く)
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