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2019年02月04日
歴史教育の大切さ
歴史上には様々な偉人がいる。
左翼教育はではこうした偉人の存在は認めたがらない。人間は、皆平等であり、差があっては困るかららしい。たゆまぬ努力の成果や、磨き上げた徳、などというものは認めたくないわけだ。
だから、「坂本龍馬や吉田松陰が歴史の教科書から消えるかも」、などという報道が現れる。
実際は某団体が提言したのだそうだが、それとは別に、真実かどうかすら極めて怪しい、「従軍慰安婦」、「南京大虐殺」は、残すべきだという主張である。
滅茶苦茶だが、彼らはきっと大真面目なのだろう。
私は、「北朝鮮は夢の国」、という嘘の幻想を信じていた時代に似ているようにも見える。
歴史的偉業を成し遂げた云々ではない。
坂本龍馬や吉田松陰は、その生き方に学ぶべき姿がある。
一番注目すべきは、彼らが私心で生きていたか、ということである。
彼らの生き方を見る限り、公のために生きていたとしか思えないのだ。
現代の考えからみれば、「突拍子もない生き方であり、狂っているとしか思えない」、という人も多いだろう。
しかし、そうした普通でない生き方が、人々に感化を与えている点を見逃してはいけない。
「大局を見極め、小事を捨てた」、彼らの生き方は、決して万人に真似ができるものではないだろう。
しかし、彼らの命は、たとえ若くして散ったとしても、その思い、精神、考え方は、確実に同じく志を持つ者に伝わり、大きなうねりとなって、歴史を変えていったのだ。
「直接的に歴史を変えたわけではないから、偉人ではないし、教科書に載せるべき人物ではない」、という主張には賛同できないし、別の人物であっても、実は名前だけのお飾り、歴史に名を残していない人物が、周到に活躍した結果、その偉業が与えられた場合だってある。
正しい歴史を学ばない国民は滅びに到るという。
歴史上現れる、先人たちの中で偉人と称される人物は、その生き様に『自己犠牲の精神』がある。
こうした考え方が、学びに値するものであり、人類の精神的進歩を生むものと考える。
学齢期の子供たちに伝えるべき日本の遺産であり、その精神性であろう。
戦後、日本が復興し、立ち上がったまではいいが、その後、長く低迷期を迎えている。
この原因も、ゆがんだ歴史教育なのかも知れない。
誇りなき国民は、他国の侵略を受け、滅びていく。
そろそろ日本の誇りを取り戻すべき時が来たのではないだろうか。
日本を中国や北朝鮮のように、国民が逃げ出したくなる国にしてはいけない…。
マウスコンピューター
左翼教育はではこうした偉人の存在は認めたがらない。人間は、皆平等であり、差があっては困るかららしい。たゆまぬ努力の成果や、磨き上げた徳、などというものは認めたくないわけだ。
だから、「坂本龍馬や吉田松陰が歴史の教科書から消えるかも」、などという報道が現れる。
実際は某団体が提言したのだそうだが、それとは別に、真実かどうかすら極めて怪しい、「従軍慰安婦」、「南京大虐殺」は、残すべきだという主張である。
滅茶苦茶だが、彼らはきっと大真面目なのだろう。
私は、「北朝鮮は夢の国」、という嘘の幻想を信じていた時代に似ているようにも見える。
歴史的偉業を成し遂げた云々ではない。
坂本龍馬や吉田松陰は、その生き方に学ぶべき姿がある。
一番注目すべきは、彼らが私心で生きていたか、ということである。
彼らの生き方を見る限り、公のために生きていたとしか思えないのだ。
現代の考えからみれば、「突拍子もない生き方であり、狂っているとしか思えない」、という人も多いだろう。
しかし、そうした普通でない生き方が、人々に感化を与えている点を見逃してはいけない。
「大局を見極め、小事を捨てた」、彼らの生き方は、決して万人に真似ができるものではないだろう。
しかし、彼らの命は、たとえ若くして散ったとしても、その思い、精神、考え方は、確実に同じく志を持つ者に伝わり、大きなうねりとなって、歴史を変えていったのだ。
「直接的に歴史を変えたわけではないから、偉人ではないし、教科書に載せるべき人物ではない」、という主張には賛同できないし、別の人物であっても、実は名前だけのお飾り、歴史に名を残していない人物が、周到に活躍した結果、その偉業が与えられた場合だってある。
正しい歴史を学ばない国民は滅びに到るという。
歴史上現れる、先人たちの中で偉人と称される人物は、その生き様に『自己犠牲の精神』がある。
こうした考え方が、学びに値するものであり、人類の精神的進歩を生むものと考える。
学齢期の子供たちに伝えるべき日本の遺産であり、その精神性であろう。
戦後、日本が復興し、立ち上がったまではいいが、その後、長く低迷期を迎えている。
この原因も、ゆがんだ歴史教育なのかも知れない。
誇りなき国民は、他国の侵略を受け、滅びていく。
そろそろ日本の誇りを取り戻すべき時が来たのではないだろうか。
日本を中国や北朝鮮のように、国民が逃げ出したくなる国にしてはいけない…。
マウスコンピューター
2019年02月03日
中学・高校入試の様相
私立学校の入試の様相は、昨今変わりつつある。
少子化により、絶対的な生徒数が少ないこともあり、各校とも生徒確保にしのぎを削っているのだ。
生徒数が少なくなっているのは、公立校も同じだろうが、私立学校では、「ここまでやるか」、というくらいの生徒募集活動が行われる。
例えば、受験を迷っている人がいれば、校長が生徒の自宅を訪ね、徹底的に学校のアピールをする。
「絶対に損はさせません。それどころか、必ずや○○君の夢を叶えます。」
と、いった具合だ。
出願しても、入学試験を受けなければ入学することはないので、そのあたりのフォローも行う。
定期的に連絡を入れ、迷いが出たならば、また訪問。また、気持ちを高めるのである。
入学試験を終え、合格発表が終われば,今度は入学のための手続きをしてもらうためのフォローになる。
「合格するはずがない」、と思っていた父親が、入学に反対ならば、それこそアポ無し訪問も選択肢の一つ。時間をかけて、疑問を解き、父親を説得する。
入学手続きを終えても安心はできない。二度目の手続きを確実に完了させてもらうために、あらゆるアプローチを行う。金銭的な面での相談もするし、親戚への交渉だって行う。
入学試験では、インフルエンザの生徒であっても入学試験を受け入れる。当然、他の生徒とは隔離しなくてはいけないが、保健室受験と称して、特別な部屋で入学試験を行う。もっとも、高熱で試験の出来は芳しくないだろうが、ほとんど受験すれば合格するような時代でもあり、受験者側も必死で試験会場にやってくるわけだ。
試験中、ADHDなど落ち着きのない生徒がいれば、相手の気分を害さない範囲であやす。
他の受験生に迷惑がかかるようなら、席を変えたり、別室に移したりもする。
寝てる生徒がいれば、起こしてまでも試験を受けてもらうなどなど、ありとあらゆる手立てをして、受験生、入学生確保にあたるのである。
採点の時も、解答用紙のみならず、問題用紙のメモまで確認し採点を行うことすらある。
こんな風にしてようやく集められた生徒たちを、入学後は、今度は彼らの夢実現のために全力を尽くさなくてはならないわけだが、入学前から手のかかる生徒は、入学後はそれ以上に手がかかる。
それでも、気分良く学校生活を過ごせるように、保護者にも最高の満足を得てもらうように、ありとあらゆる努力を惜しまないのだ。
中高生の教育活動と言えば、聞こえが良いが、いつしか時代は、幼児のお守りのような状況に近づいている。
完全なサービス業。
これでいて聖職者としての自覚を持てというのも、若干、酷なようにも思えるのだが…。
少子化により、絶対的な生徒数が少ないこともあり、各校とも生徒確保にしのぎを削っているのだ。
生徒数が少なくなっているのは、公立校も同じだろうが、私立学校では、「ここまでやるか」、というくらいの生徒募集活動が行われる。
例えば、受験を迷っている人がいれば、校長が生徒の自宅を訪ね、徹底的に学校のアピールをする。
「絶対に損はさせません。それどころか、必ずや○○君の夢を叶えます。」
と、いった具合だ。
出願しても、入学試験を受けなければ入学することはないので、そのあたりのフォローも行う。
定期的に連絡を入れ、迷いが出たならば、また訪問。また、気持ちを高めるのである。
入学試験を終え、合格発表が終われば,今度は入学のための手続きをしてもらうためのフォローになる。
「合格するはずがない」、と思っていた父親が、入学に反対ならば、それこそアポ無し訪問も選択肢の一つ。時間をかけて、疑問を解き、父親を説得する。
入学手続きを終えても安心はできない。二度目の手続きを確実に完了させてもらうために、あらゆるアプローチを行う。金銭的な面での相談もするし、親戚への交渉だって行う。
入学試験では、インフルエンザの生徒であっても入学試験を受け入れる。当然、他の生徒とは隔離しなくてはいけないが、保健室受験と称して、特別な部屋で入学試験を行う。もっとも、高熱で試験の出来は芳しくないだろうが、ほとんど受験すれば合格するような時代でもあり、受験者側も必死で試験会場にやってくるわけだ。
試験中、ADHDなど落ち着きのない生徒がいれば、相手の気分を害さない範囲であやす。
他の受験生に迷惑がかかるようなら、席を変えたり、別室に移したりもする。
寝てる生徒がいれば、起こしてまでも試験を受けてもらうなどなど、ありとあらゆる手立てをして、受験生、入学生確保にあたるのである。
採点の時も、解答用紙のみならず、問題用紙のメモまで確認し採点を行うことすらある。
こんな風にしてようやく集められた生徒たちを、入学後は、今度は彼らの夢実現のために全力を尽くさなくてはならないわけだが、入学前から手のかかる生徒は、入学後はそれ以上に手がかかる。
それでも、気分良く学校生活を過ごせるように、保護者にも最高の満足を得てもらうように、ありとあらゆる努力を惜しまないのだ。
中高生の教育活動と言えば、聞こえが良いが、いつしか時代は、幼児のお守りのような状況に近づいている。
完全なサービス業。
これでいて聖職者としての自覚を持てというのも、若干、酷なようにも思えるのだが…。
2019年02月02日
教員としての自覚
都市部の中高一貫の私立学校は、とかく休みが多い。
この休みとは、主として生徒が休みの日ではあるが、教員にとっても何となく、気が抜ける日であるかも知れない。
例えば、定期試験が終われば、採点日と称して休みになる。採点が終われば、成績をつけると言って休みになる。生徒には自宅学習日と言っているが、要は授業をしないで、先生方の事務処理に当たるという日である。その間、部活動を行っている学校もあるが、生徒にとって完全に休み、という学校も多い。
私が以前努めた学校は、土曜日も授業があった。
当時は、土曜日は授業をするのが当たり前の時代で、その後、週2回になり、そして公立学校は休みになった。
その流れを予測してか、組合を中心に、『研修日』なるものを要求し、週に一度、平日もしくは土曜日に教員が休みを取れるようになった。
大義名分は、「教員が各自、教材研究等、自己研鑽を行うことで、よりレベルアップした満足度の高い授業、教育が行われる」はずだ、という考えに基づいている。
確かにその通りで、自己研鑽の時間は絶対に必要だとは思う。
しかし、それを当然の権利として主張して、それによって時間割まで調整しなければいけなくなるのは、ちょっとやり過ぎだと思っていた。土曜日が休みになって、おそらくこの『研修日』制度はなくなったであろうと思うが、新人時代の私は違和感を覚えた記憶がある。
都市部の中高一貫私立学校では、部活も週3回になったり、長期休暇も長かったりする。
このあたり、公立学校との差が著しい。
『「土曜日も部活があり、日曜日も大会で先生は顔を出していた。試験の採点も自宅に持ち帰って、夜中まで仕事をしていたようだ」、というこのような教員の姿が、目に見えぬ尊敬となり、教員は聖職者であると言われた所以でもある。』
という話を聞いたことがある。
現代の多くの教員は、同意どころか、反発さえ感じるとは思うが、昨今の教員の指導力不足と言われる背景には、尊敬を失いつつある教員の姿、聖職者であることを拒否している教員の姿があると思われる。
保護者のほとんどが高学歴になった今、尊敬を得るにはプラスアルファの部分がなければならない。
それが、「徳」であったり「自己犠牲の精神」であったりするのだが、『権利』ばかりを主張すると、そうした美しい姿は消え去ってしまうわけだ。
教師が労働者になってしまったら、教育の質は低下する。
労働者としての意識があると、『ブラック』と呼びたくなるものだ。
日本の教育は、先人たちの多くの自己犠牲によって、作られ、継承されてきた。
彼らは時間を切り売りしようとする意識はなかっただろう。
教育は国の基だ。
それに携わらせていただいているという自覚を、もっと持つべきではないだろうか。
日々、自己研鑽し、学び続ける姿。
自ら徳を磨いてゆこうと努力し続ける姿。
教育にすべてを捧げようという気概を持ち続ける姿。
こうした教師が、尊敬される教師であり、聖職者なのだと思う。
この休みとは、主として生徒が休みの日ではあるが、教員にとっても何となく、気が抜ける日であるかも知れない。
例えば、定期試験が終われば、採点日と称して休みになる。採点が終われば、成績をつけると言って休みになる。生徒には自宅学習日と言っているが、要は授業をしないで、先生方の事務処理に当たるという日である。その間、部活動を行っている学校もあるが、生徒にとって完全に休み、という学校も多い。
私が以前努めた学校は、土曜日も授業があった。
当時は、土曜日は授業をするのが当たり前の時代で、その後、週2回になり、そして公立学校は休みになった。
その流れを予測してか、組合を中心に、『研修日』なるものを要求し、週に一度、平日もしくは土曜日に教員が休みを取れるようになった。
大義名分は、「教員が各自、教材研究等、自己研鑽を行うことで、よりレベルアップした満足度の高い授業、教育が行われる」はずだ、という考えに基づいている。
確かにその通りで、自己研鑽の時間は絶対に必要だとは思う。
しかし、それを当然の権利として主張して、それによって時間割まで調整しなければいけなくなるのは、ちょっとやり過ぎだと思っていた。土曜日が休みになって、おそらくこの『研修日』制度はなくなったであろうと思うが、新人時代の私は違和感を覚えた記憶がある。
都市部の中高一貫私立学校では、部活も週3回になったり、長期休暇も長かったりする。
このあたり、公立学校との差が著しい。
『「土曜日も部活があり、日曜日も大会で先生は顔を出していた。試験の採点も自宅に持ち帰って、夜中まで仕事をしていたようだ」、というこのような教員の姿が、目に見えぬ尊敬となり、教員は聖職者であると言われた所以でもある。』
という話を聞いたことがある。
現代の多くの教員は、同意どころか、反発さえ感じるとは思うが、昨今の教員の指導力不足と言われる背景には、尊敬を失いつつある教員の姿、聖職者であることを拒否している教員の姿があると思われる。
保護者のほとんどが高学歴になった今、尊敬を得るにはプラスアルファの部分がなければならない。
それが、「徳」であったり「自己犠牲の精神」であったりするのだが、『権利』ばかりを主張すると、そうした美しい姿は消え去ってしまうわけだ。
教師が労働者になってしまったら、教育の質は低下する。
労働者としての意識があると、『ブラック』と呼びたくなるものだ。
日本の教育は、先人たちの多くの自己犠牲によって、作られ、継承されてきた。
彼らは時間を切り売りしようとする意識はなかっただろう。
教育は国の基だ。
それに携わらせていただいているという自覚を、もっと持つべきではないだろうか。
日々、自己研鑽し、学び続ける姿。
自ら徳を磨いてゆこうと努力し続ける姿。
教育にすべてを捧げようという気概を持ち続ける姿。
こうした教師が、尊敬される教師であり、聖職者なのだと思う。
2019年02月01日
廃棄パソコンの行方
廃棄パソコンの処理方法について相談を受けた。
パソコンのハードディスクには、個人情報を含む機密情報が含まれる。
だから、廃棄するパソコンは、ハードディスクを初期化するか、読み取り不能にする必要がある。
OSにつなげれられ認識できる状況であれば、完全フォーマットをするし、物理フォーマットをすることで、完全に初期化される。簡易フォーマットでは、内部のデータは消えないので、再現させる可能性するあるわけだ。
パソコン内の基板にはレアメタルが多いので、単なるゴミとしては捨てられない。ノートパソコンなら、小型家電リサイクル扱いで、市町村が回収してくれることもあるが、なかなか処分に困るのがパソコンである。
個人であれば、買い換え時に無料引き取りサービスなどを利用できるが、企業では情報漏洩上、なかなか厳しい。
私の学校でも、以前、廃棄処分した直後に、ネットワークへの不正アクセスがあり、大きな問題になったことがある。
以来、パソコンの処分には手を焼いているというわけだ。
信頼ある業者に依頼すれば、一台あたり数千円の手数料を取られる。
それはそれで、完全に処分してくれるのだから、ありがたいことだが、学校ともなると、なかなかその予算を取りにくい。
という訳で、私に相談が来たというわけだ。
もちろん、私自身時間をかければ、70台にもおよぶパソコンのハードディスクを安全に処理することはできる。だが、今は時間がない。教員の片手間でやる仕事でもない。
「事務長から早く処分せよ、と言われておりまして、一台一台のハードディスクを物理的に破損させたらどうかと思うのですが、どうでしょうか。」
という相談だ。
ちょうど授業の始業のチャイムが鳴った時でもあったので、
「少し、時間を下さい。考えますから…。」
と、答え今日一日いろいろ考えてみた。
確かに分解すれば、ハードディスクは読み取り不能になる。
以前、私も専用のドライバーを購入し、向学のために分解してみたことがあるが、これはとても手間がかかる。
ハンマーで叩いて壊すなどということを想定しての相談だろうが、保存領域が壊れなければ、どうやら再現できてしまうらしい…。
結局、信頼ある業者に委託するか、自前で消去するかのどちらかだろう。
昨今は、ハードディスクの中身は自分で消去して廃棄することが一般的になっている。
さて、何て答えるかなぁ…。
廃棄パソコンとは言え、お宝の山なのだが。
Windows7のサポート切れに伴い、まだまだ廃棄パソコンは増えそうだし…。
パソコンのハードディスクには、個人情報を含む機密情報が含まれる。
だから、廃棄するパソコンは、ハードディスクを初期化するか、読み取り不能にする必要がある。
OSにつなげれられ認識できる状況であれば、完全フォーマットをするし、物理フォーマットをすることで、完全に初期化される。簡易フォーマットでは、内部のデータは消えないので、再現させる可能性するあるわけだ。
パソコン内の基板にはレアメタルが多いので、単なるゴミとしては捨てられない。ノートパソコンなら、小型家電リサイクル扱いで、市町村が回収してくれることもあるが、なかなか処分に困るのがパソコンである。
個人であれば、買い換え時に無料引き取りサービスなどを利用できるが、企業では情報漏洩上、なかなか厳しい。
私の学校でも、以前、廃棄処分した直後に、ネットワークへの不正アクセスがあり、大きな問題になったことがある。
以来、パソコンの処分には手を焼いているというわけだ。
信頼ある業者に依頼すれば、一台あたり数千円の手数料を取られる。
それはそれで、完全に処分してくれるのだから、ありがたいことだが、学校ともなると、なかなかその予算を取りにくい。
という訳で、私に相談が来たというわけだ。
もちろん、私自身時間をかければ、70台にもおよぶパソコンのハードディスクを安全に処理することはできる。だが、今は時間がない。教員の片手間でやる仕事でもない。
「事務長から早く処分せよ、と言われておりまして、一台一台のハードディスクを物理的に破損させたらどうかと思うのですが、どうでしょうか。」
という相談だ。
ちょうど授業の始業のチャイムが鳴った時でもあったので、
「少し、時間を下さい。考えますから…。」
と、答え今日一日いろいろ考えてみた。
確かに分解すれば、ハードディスクは読み取り不能になる。
以前、私も専用のドライバーを購入し、向学のために分解してみたことがあるが、これはとても手間がかかる。
ハンマーで叩いて壊すなどということを想定しての相談だろうが、保存領域が壊れなければ、どうやら再現できてしまうらしい…。
結局、信頼ある業者に委託するか、自前で消去するかのどちらかだろう。
昨今は、ハードディスクの中身は自分で消去して廃棄することが一般的になっている。
さて、何て答えるかなぁ…。
廃棄パソコンとは言え、お宝の山なのだが。
Windows7のサポート切れに伴い、まだまだ廃棄パソコンは増えそうだし…。
2019年01月31日
立志式の発表練習
昨日の総合的学習の時間では、発表会に向けての代表発表の手直し。
そして、今日の学活では、立志式に向けての発表練習を行った。
一人一分。ホールで、一人ひとり自らの志を発表する。
「原稿を見るな。」
「前を向いて話せ。」
「笑ったごまかすな。」
しかし、そうは言っても、当日は広い会場になるし、親や来客もある。
一番やんちゃな、中学二年生がどんなことを話すのか、田の先生たちも興味津々なのだ。
文句を言うときは、人一倍大きい奴が、いざ発表となると、小さくなって、ぼそぼそとした話せないのでは、あまりに情けない。それは普段の生活は、単なる自己中心的な主張をしていることになってしまう。
などと、余計な注意をしたせいか、まずまずの出来。
いや、それどころか、なかなか良いではないか。
原稿を見ないで頑張っている生徒。
箇条書きにメモしたものを、ちらちらと見ながら、一生懸命みんなを見ながら話している生徒。
発表前の練習だから、そうした部分は今後修正するとして、とにかく話の内容が立派なのである。
もちろん、原稿は事前に見せてもらい、ほんのわずか赤を入れはしたが、どの生徒も。彼らの立志がきちんと一分で凝縮されている。
私自身不覚にも涙が出そうになった発表もある。
隣のクラスの担任にも尋ねてみたところ、やはり同じような状況。
一人一分もまずまずで、この先の練習で本番を迎えられるレベルには達するのではないかと思う。
当日は、保護者も来賓もいるので、今日の教室練習の何倍も緊張するだろうが、彼らの立志の言葉は、必ずや、聞く人の心を揺さぶるに違いない。
全員の発表が終わったあと、私は彼らを讃えた。
「なかなか良かったよ。少し修正して、本番まで頑張ろう。」
と、励ました。
そして、私の夢を語った。
「奨学金を作りたいんだ。今でもあるけど、もっと別の奨学金を作りたい。」
金銭的な理由で学校を去ってしまう人のこと。
卒業式までに学費が入っていないと、卒業すら出来なくなってしまうこと。
こういう悲しい生徒や保護者を一人でも減らしたい。
そう語りながら、またしても泣きそうになった。
だから、多くを語ることなく、終わりの会を終えた。
立式式と総合的学習の発表会まで、あと一週間。
さぁ、プログラムを詰めなくっちゃ…。
そして、今日の学活では、立志式に向けての発表練習を行った。
一人一分。ホールで、一人ひとり自らの志を発表する。
「原稿を見るな。」
「前を向いて話せ。」
「笑ったごまかすな。」
しかし、そうは言っても、当日は広い会場になるし、親や来客もある。
一番やんちゃな、中学二年生がどんなことを話すのか、田の先生たちも興味津々なのだ。
文句を言うときは、人一倍大きい奴が、いざ発表となると、小さくなって、ぼそぼそとした話せないのでは、あまりに情けない。それは普段の生活は、単なる自己中心的な主張をしていることになってしまう。
などと、余計な注意をしたせいか、まずまずの出来。
いや、それどころか、なかなか良いではないか。
原稿を見ないで頑張っている生徒。
箇条書きにメモしたものを、ちらちらと見ながら、一生懸命みんなを見ながら話している生徒。
発表前の練習だから、そうした部分は今後修正するとして、とにかく話の内容が立派なのである。
もちろん、原稿は事前に見せてもらい、ほんのわずか赤を入れはしたが、どの生徒も。彼らの立志がきちんと一分で凝縮されている。
私自身不覚にも涙が出そうになった発表もある。
隣のクラスの担任にも尋ねてみたところ、やはり同じような状況。
一人一分もまずまずで、この先の練習で本番を迎えられるレベルには達するのではないかと思う。
当日は、保護者も来賓もいるので、今日の教室練習の何倍も緊張するだろうが、彼らの立志の言葉は、必ずや、聞く人の心を揺さぶるに違いない。
全員の発表が終わったあと、私は彼らを讃えた。
「なかなか良かったよ。少し修正して、本番まで頑張ろう。」
と、励ました。
そして、私の夢を語った。
「奨学金を作りたいんだ。今でもあるけど、もっと別の奨学金を作りたい。」
金銭的な理由で学校を去ってしまう人のこと。
卒業式までに学費が入っていないと、卒業すら出来なくなってしまうこと。
こういう悲しい生徒や保護者を一人でも減らしたい。
そう語りながら、またしても泣きそうになった。
だから、多くを語ることなく、終わりの会を終えた。
立式式と総合的学習の発表会まで、あと一週間。
さぁ、プログラムを詰めなくっちゃ…。
2019年01月30日
卒業が近づくと…
センター試験が終わって、登校している高校三年生がほとんど数えるほどになった。
この先、高校三年生が全員揃うのは、卒業式の頃。
場合によっては、卒業式当日にも大学入試があるので、全員が揃わないこともある。
いよいよ高校時代の集大成だ。
私はもっぱら中学校担当で、接点も薄くなっているので、彼らとの別れも怖くない。
卒業式当日も、式に参列できるのは中学三年生まで、中1と中2は、卒業式の様子を教室でモニターを見る。そして、式が終わり、卒業生が式場から退場するとき、花道を作って、彼らを祝福するのである。別れを嫌う私には、ちょうどよい。
それでも、彼らを見送りながら、涙があふれそうになることもあるが、それはぐっとこらえる。
「先生、僕、明日から来ません。」
ある高3から、そんな風に言われた。
一瞬何と答えたるべきか躊躇したのち、
「卒業式には来るんだろ…。」
「もちろんです。」
「まぁ、俺は卒業式には出られないけどね…。」
と、意表をつく。
できたらこんな会話のやりとりはしたくない。
彼らには、すっと卒業してもらって、いろいろな分野で大いに活躍してくれたらいい。
それを、風の便りに知ることができれば、我々教師にとっては、最高の幸せなのだ。
縁あって出会った生徒と三年ないし六年間共に過ごす。
一緒にいる時間が長いから、お互いの性格もすべて分かっての付き合いになる。
こうなってくると、阿吽の呼吸で、多くを語らずとも、コミュニケーションが図れるようになるものだ。
すれ違い時に、「ニコ」って笑うだけでも、何となく気持ちが通じ合う。
調子の良し悪しなど、一発で分かる。
逆に生徒から、
「先生大丈夫ですか?」
などと、プロとしては情けないことを尋ねられることもあるが、ここで見栄を張ってもしょうがない。
正直に答えた方が、よほど気が楽だし、ある意味、彼らに甘えることだってできる。
国公立入試ともなれば、卒業式には進路は決まらない。
それでも、高校は卒業し、何とも中途半端な立場になる。
だが、その中で彼らは入試の関門を乗り越えようとする。
もう、手助けはできない。
あとは、自分で歩んでゆくだけだ。
そんな彼らの姿を思うと、何とも頼もしく、この仕事を誇らしく思えるものだ。
この先、高校三年生が全員揃うのは、卒業式の頃。
場合によっては、卒業式当日にも大学入試があるので、全員が揃わないこともある。
いよいよ高校時代の集大成だ。
私はもっぱら中学校担当で、接点も薄くなっているので、彼らとの別れも怖くない。
卒業式当日も、式に参列できるのは中学三年生まで、中1と中2は、卒業式の様子を教室でモニターを見る。そして、式が終わり、卒業生が式場から退場するとき、花道を作って、彼らを祝福するのである。別れを嫌う私には、ちょうどよい。
それでも、彼らを見送りながら、涙があふれそうになることもあるが、それはぐっとこらえる。
「先生、僕、明日から来ません。」
ある高3から、そんな風に言われた。
一瞬何と答えたるべきか躊躇したのち、
「卒業式には来るんだろ…。」
「もちろんです。」
「まぁ、俺は卒業式には出られないけどね…。」
と、意表をつく。
できたらこんな会話のやりとりはしたくない。
彼らには、すっと卒業してもらって、いろいろな分野で大いに活躍してくれたらいい。
それを、風の便りに知ることができれば、我々教師にとっては、最高の幸せなのだ。
縁あって出会った生徒と三年ないし六年間共に過ごす。
一緒にいる時間が長いから、お互いの性格もすべて分かっての付き合いになる。
こうなってくると、阿吽の呼吸で、多くを語らずとも、コミュニケーションが図れるようになるものだ。
すれ違い時に、「ニコ」って笑うだけでも、何となく気持ちが通じ合う。
調子の良し悪しなど、一発で分かる。
逆に生徒から、
「先生大丈夫ですか?」
などと、プロとしては情けないことを尋ねられることもあるが、ここで見栄を張ってもしょうがない。
正直に答えた方が、よほど気が楽だし、ある意味、彼らに甘えることだってできる。
国公立入試ともなれば、卒業式には進路は決まらない。
それでも、高校は卒業し、何とも中途半端な立場になる。
だが、その中で彼らは入試の関門を乗り越えようとする。
もう、手助けはできない。
あとは、自分で歩んでゆくだけだ。
そんな彼らの姿を思うと、何とも頼もしく、この仕事を誇らしく思えるものだ。
2019年01月29日
不幸の予言
医者は概して最悪のことを言う。
「家族を呼んでください。今夜が山場なので、覚悟しておいて下さい。」
要は、今晩命が終わる可能性があるという、死亡宣告のようなものである。
この予言(?)が、外れても、医者は責められることはない。むしろ感謝すらさせる。
また、この予告通り、死んでしまったとしても、
「やっぱり医者の言うとおりだった…。」
と、これまた責められることはない。
医者は自らの立場を護るために、最悪のことを言っておくのだ。
先日も、そう宣告された同僚が、医者の予想に反して回復し、昨日から職場復帰した。
「静養中は、同じニュースを一日三回ずつ見て暇だった。」
と、笑いをそそる様は、以前の彼と何ら変わらない。
ひととき危篤であったことなど、信じられない回復ぶりだ。
こうした関係者は必ず、「医者の言葉を信じてはいけない」、と言う。
一方教員の世界ではどうだろう。
「先生、うちの子良くなるでしょうか。」
と、保護者に尋ねられたら、ほぼ間違いなく、
「大丈夫です。必ず良くなります。信じて待ちましょう…。」
と言うに違いない。
逆に、
「もう無理だと思いますよ。変わりません。」
とでも言おうものなら、クレームになる。
だからたとえ、難しい状況でも、全否定はしない。
人間の可能性は、無限なのだから、その可能性にかけるという意味でも、かならずポジティブな面を探す。
医者は不幸の予言をするが、教師は幸福の予言をする。
それは、命に関わることかどかの違いではないだろう。
どこまでも子どもの成長を信じての、発言なのだ。
もちろん医者だって、
「大丈夫です。きっと良くなります。」
と、宣言することもできる。
しかし、「統計学的にこのパターンだと十中八九治らない」、などと考えてしまえば、もはや医者自身が自分の言葉を真実ことはできず、言葉に重みもなく、ただの気休めになってしまうのだ。
心底信じられるからこそ、言葉に力が湧く。
その言葉の力が、周りの人を励まし、元気にし、善導する。
教師たる者、自分は不幸の言葉が多いのか、それとも幸福の言葉が多いのかを、時折チェックしてみるべきだろう。
不幸の予言者にならないためにも…。
「家族を呼んでください。今夜が山場なので、覚悟しておいて下さい。」
要は、今晩命が終わる可能性があるという、死亡宣告のようなものである。
この予言(?)が、外れても、医者は責められることはない。むしろ感謝すらさせる。
また、この予告通り、死んでしまったとしても、
「やっぱり医者の言うとおりだった…。」
と、これまた責められることはない。
医者は自らの立場を護るために、最悪のことを言っておくのだ。
先日も、そう宣告された同僚が、医者の予想に反して回復し、昨日から職場復帰した。
「静養中は、同じニュースを一日三回ずつ見て暇だった。」
と、笑いをそそる様は、以前の彼と何ら変わらない。
ひととき危篤であったことなど、信じられない回復ぶりだ。
こうした関係者は必ず、「医者の言葉を信じてはいけない」、と言う。
一方教員の世界ではどうだろう。
「先生、うちの子良くなるでしょうか。」
と、保護者に尋ねられたら、ほぼ間違いなく、
「大丈夫です。必ず良くなります。信じて待ちましょう…。」
と言うに違いない。
逆に、
「もう無理だと思いますよ。変わりません。」
とでも言おうものなら、クレームになる。
だからたとえ、難しい状況でも、全否定はしない。
人間の可能性は、無限なのだから、その可能性にかけるという意味でも、かならずポジティブな面を探す。
医者は不幸の予言をするが、教師は幸福の予言をする。
それは、命に関わることかどかの違いではないだろう。
どこまでも子どもの成長を信じての、発言なのだ。
もちろん医者だって、
「大丈夫です。きっと良くなります。」
と、宣言することもできる。
しかし、「統計学的にこのパターンだと十中八九治らない」、などと考えてしまえば、もはや医者自身が自分の言葉を真実ことはできず、言葉に重みもなく、ただの気休めになってしまうのだ。
心底信じられるからこそ、言葉に力が湧く。
その言葉の力が、周りの人を励まし、元気にし、善導する。
教師たる者、自分は不幸の言葉が多いのか、それとも幸福の言葉が多いのかを、時折チェックしてみるべきだろう。
不幸の予言者にならないためにも…。