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2021年06月19日

やる気が出ない、じゃと…

朝から雨の土曜日になった。
雨が降ると、グランドが使えない。
屋根のあるピロティのような場所もないので、朝からの雨で、外で練習できないときは、階段でのトレーニングになる。

部員たちはそれを知っているので、朝からの雨には嫌悪感を抱き、ずっと気分が滅入るのである。

「今日は朝から、気分が乗らなかったよ…。」
得意げに語る彼等の姿は、後輩たちに悪い影響を与えるばかりである。

「俺なんか、試験前、ほとんど勉強していないんだぜ。」
とうそぶく先輩の声を聞く後輩は、同じようなことを自分が先輩になったとき言う。

「階段トレーニングです。」
という私の指示も、彼等にはモチベーションを高めるどころか、気持ちを萎えさせ、一刻も早くこの苦行を終わらせたいと思うのだろう。

「やる気がなかなか出なくて、やばかったです。」
「自分も、雰囲気に流されてしまいました。」

彼等の日誌にはそのように書かれていた。

一番の戦犯は自らモチベーションを下げてやっていたキャプテンと、いつもだらしなくプレーするYである。

私はその姿を見て、何度練習を中断し、やめてしまおうかと思ったことか…。
こんな風だから、中1のKが、途中でトレーニングから離脱してしまうのだ。

体力的に余裕のある先輩たちは、その姿や声かけ、高いモチベーションで後輩たちを導かなくてはいけない。

今年の中3も中2も、未だにそのことが分かっていないようだ。

事実、練習後の遊びでは、彼等は生き生きとはしゃぎ回っている。
要は、体力の問題ではないのだ。

今日は、途中で体験入部の小学生が来ることになっていた。
もし、これがなかったら、私は躊躇なく、練習を中断していただろう。

なんとも後味の悪い練習になった…。




2021年06月18日

蛍の光

中1全員で蛍観察に出掛けた。
毎年この時期、時間を作って、近隣のゲンジボタルを見に行く。

私の隠れ家の裏手も蛍スポットなのだが、この辺りは、いろいろなところで蛍が見える。

生まれて初めて蛍を見た生徒もいるのだろう。
幻想的でありながら、力強く輝く蛍の姿は、人の人生を振り返させる…。

ちょうど近所の親子も蛍観察に来ていた。
だが、彼等は懐中電灯を振り回し、せっかくの暗闇を台無しにしてしまった。

私たちの安全確保のために照らしていてくれたのかも知れないが、蛍は暗闇で見る方が美しい。

田んぼの用水路に生息しているようだが、このあたりは蛍の生息に有害な農薬は使われていないのだろう。

何年か前までは、蛍の写真撮影にチャレンジしていたが、最近はやめてしまった。
もっと蛍の個体が多くないと、見栄えのする写真にはならないのだ。
それに、三脚等の機材も必要だし、その後の画像処理もやらねばならない。

写真でそのまま自然の一部を切り取ったような写真になりにくいのが、蛍の写真でもある。

だから、今年は彼等の姿をじっと見ているだけだった。
その光は、心に安らぎを生む…。

 また光った
 あの
 和らかな光
 小さな体から出る
 やさしい明るみ
 なのに
 電灯なんかより
 強いものが
 心に残る

 そう
 それは生きているあかし
 感動を与えるぬくもり
 美しくて
 そしてどこか
 さびしくて
 命をかけて
 田に
 川に
 心に
 灯をつけようという
 使命にも燃える姿

 ああ
 心の底より
 『美しい』を得たのは
 いつぶりか

 ほたるは僕に
 『感動』の一灯を残す

蛍観察後、S君の書いた詩である。




2021年06月17日

梅雨入り

ここ関東地方でも梅雨入り宣言がなされた。
例年より一週間ほど遅いという。
5月の末頃、早々に梅雨入りした地域もあったが、その後、それほど雨が続かず、梅雨前線が南下してしまったので、秋になったら、梅雨入りと梅雨明け日は、後日密かに変更されるのだろう。

「関東地方でも、梅雨入りしたと気象庁が発表しました。」
などというニュースを聞くと、気分が滅入る。
梅雨は、湿度も高く、じめじめとした曇天や雨天が続く。
たいてい梅雨入り時期は、毎日のように雨が降る。

「でも、今日の雨は、梅雨前線の雨ではありません。上空の寒気が、雷をもたらしています。」

梅雨前線がなくても、梅雨入りにしてしまうほど、気象に対して傲慢になったのだろうか。
気象庁としても、梅雨入り宣言して、その後晴ればかりが続くと、苦情が来るので、雨が続きそうなところで、宣言をする。
今回の雨は、「雷三日」、これを利用して、雨続きを予想し、梅雨入りにしたわけだ。
こうなってくると、昨今のマスコミのように、よく分からなくなってくる。

このところ、放課後の部活中、雨になった。
野球は外のスポーツだが、多少の雨ならプレーしてしまう。
試合の時だって、雨天で中断されることはめったにない。
だから、多少の雨の中練習するのは、意味がある。

だが、プレーをしない私は、この三日間、毎回、部活時にはずぶ濡れになった。
若干涼しいのだが、全身濡れるのは、あまり気分がよいものでもない。

選手たちは着替えて車に乗り込むが、私はずぶ濡れのまま運転して学校に戻る。

雨が降ると、ひと雨ごとに雑草が伸びる。
グランドの草刈りもしなくてはならない…。

練習試合も出来ないまま、最後の大会に向かっている。

中学野球は、高校野球までの通過点。
そんな思いがあるので、最近はあまり無理をさせない。

本当は、中学の実績が、次の高校で効いてくるのだが…。

空はどんより曇っている。




2021年06月16日

公開授業

若い理科の先生の公開授業があった。
私も久しぶりに少し授業を参観した。

最近は、老害と言われないためにも、あまり多くを語らない。
思えば、授業のアドバイスもあまりしていない。

かつての教員の世界は、「見て覚えろ。盗め」、というのが主流だった。
その中で、“見て覚え、盗んで自分に取り入れた授業”に対して、先輩たちが、初めてアドバイスをするというスタイルだ。

だから、いつまでも自己流に徹し、授業のスキルを上げようとしない若手には、ベテランたちは声も掛けない。
そのまま放置しておくと、生徒が犠牲になるな、となったら、雷が落ちるのだが、本人が気がつき、向上を目指そうとしない限り、アドバイスなどしないのだ。

そんな職人気質できな世界であった。

その後、授業や教授方法が法則化され、ノウハウ本も数多く出版され、新人たちにとっては大変便利になった。だが、結局は自分の努力次第。

授業にどれだけ命を賭けているかで、そのスキルは大きく変わっているように思う。

さて、若手の先生の授業。
声は響く。それなりに生徒とも言葉のキャッチボールをしている。
授業中に使用した動画教材も面白い。
プリントや資料もよく出来ている。

だが、物足りないのだ。
授業を受けての感動がないのだ。

先生が一生懸命授業しているのも分かる。
生徒たちも、それなりに授業を受けている。

決して、駄目な授業という訳ではないのだが、イマイチなのだ。

周到に準備された劇場舞台ではないのだ。

細かな部分の配慮、ほんのささやかな立ち居振る舞い。
それらが、舞台ではレベルアップにもなるし、致命傷にもなる。

結局、今回も、私は何も語らずにいるのだろう。

「私の授業だって、決していいものではないが、一度でも見学に来ればいいのに…」、と思う。

ベテランの先生の授業を見て気づくことは多いと思うのだが…。




2021年06月15日

細く薄い関係

最近、Tはサッカーの練習中転倒して手をついた際、骨にヒビが入ってしまい固定していた。

その姿が、あまりに痛々しいので、思わず声を掛けたのだ。

私に声をかけられたTは、以前と変わりなく、会話をしてくれた。

肉体的にも精神的にも疲労が蓄積し、いっぱいいっぱいになると、すべてを拒否したくなる。

ちょうどそんなときに私は彼に過干渉したのだろう。
これですっかり嫌われたようだ。

「もう関わるのはやめよう。Tの幸せだけを祈ろう。」
そう思って、祈り続けてきた、

「このままTが卒業するまで、一言も会話を交わすことなく終わるのかな…。それもありかな。」
そう思って祈り続けた。

だが、一週間で話ができた。

この先も、細く薄い関係になるのだろうが、何となく嬉しかった。

もしかしたら、あの頃の私は、孤独に耐えかねていたのかも知れない。

歳をとるとそういう思いが大きくなるようだ。

以前私は、「担任をやらないなんて、教員生活ではあり得ない」、と考えいた。「もし、担任でなくなったら、淋しくなって死んでしまいそうだ」、とすら思った。

やはり何かに依存していたのかも知れない。

人はさまざまな出会いがあり、そして別れがある。

学校現場では、それがずっと行われ続けている…。




2021年06月14日

教育のプロ

我々教員は教育のプロである。
長く教員生活をしていれば、中高生期の特徴や、この時期の子育てのヒント等、経験によるかなりの知恵が蓄積されているはずだ。

だから、保護者から相談があれば、少しばかりは参考になることを言えるときもある。

中学生は、思春期始まりの時期。
この頃から、親の言うことを聞かなくなり、自己中心的な行動が多くなる。
成長の一過程なので、それを見守りつつ、あまりに間違った方向に走ったときは、軌道修正をする。
あまりカリカリせず、「いつか反抗期も終わるわ…」、とおおらかな心で子どもを見守っていると、たいていそのようになる。
この時期、これまでと同じか、それ以上の干渉をすると、そのマイナスの記憶ばかりが増幅され、後々になっても、反発心が残ってしまうこともある。

中一のある母親が、精神的にも限界になった。
「もう無理です。育てられません。勘当します。児童相談所に預けます。」
息子の数々の行いに対して、許容量を超えてしまったらしい…。
挙げ句の果てには、「先生、預かってもらえませんか?」と来た。

まずは、母親をなだめ、励まし、これまで育ててきたことへのねぎらいをしなくてはならないだろう。

その上で、気持ちを安定させ、思春期の意味と若干の対処法をお話して差し上げれば、少しは落ち着くかも知れない…。

親の心子知らずの本人にも、母親の言葉は傷跡を残す。
「そんなことするなら警察に連れて行くから…。」
と言われれば、中学一年生くらいでは、「そうか警察、行くのか…」、と心の深くに記憶を残す。

教育のプロとして、学校の先生が、親子共々、助けてあげることが必要だ。

子どもも一人ひとり個性が違う。
たとえ、兄妹で経験があったとしも、弟妹でうまくいくとは限らない。
同じアプローチでは駄目なこともあるし、何も言わずとも、うまくいくこともある。

毎日のように学校から連絡が来ると、親としても参ってしまうだろう…。

そんな中でも、子どもたちは着実に成長している。




2021年06月13日

散髪

A君の髪の毛が長くなってきたのだが、この先なかなか散髪できそうもないので、私が切ってあげた。

だが、これがとても困難だった。
A君はくせ毛のため、櫛が通らないのだ。
ちょっと湿らせたくらいでは、全然だめ。
すきバサミも通らない。
「痛っ、痛っ、痛っ…」、と言ってやらせてもらえない。

素人の私には、濡れた髪の毛は切りにくい。

本来、生徒の髪を切ってあげることは滅多にないが、時に親代わりの部分もあり、時々はこうした機会が訪れる。

ハサミだけで、大分きれいに整えられるようにはなったのだが、残念ながら今回はうまくいかなかった。

「私、失敗しないので…」、とはいかず、結局再度、バリカンでやり直すことになった。

最初からバリカンを使えば良かったのだが、高3が、この先受験勉強に打ち込むために、多数、坊主頭にしたいと、バリカンを貸していたのだ。

だが、A君のやり直しのため、もう一度バリカンを奪い返し、再度調整。

「この頭って坊主ですよね。坊主はちょっと…。」
とA君。
「13mmは坊主じゃない。」

「うーん、みんなに笑われるな…。」
「笑われない!」
「スポーツ刈りが良かったな…。」
「こっちの方が格好いい!」

と無理矢理納得させる。
逆に、まんざらでもなさそうだ。
以前にも、このくらいの長さの髪型はある。

「次もまた、切らしてね」、と言うと、元気な声で「はい!」と返ってきた。

もう少し散髪の技術を上げなければ…。




2021年06月12日

裏庭の蛍

今年も蛍のシーズンがやってきた。
この辺りは、近くに蛍スポットが何カ所もある。

そのうちの一つが、私の隠れ家の裏手。
川から田んぼに引いた用水路にゲンジボタルが自生し、毎年蛍が暗闇の中に星と見間違うほどの光を放つ。

数日前に、見に行ったときは、夕暮れ直後で、まだ微かに薄明るかった時間帯でもあったが、何と一匹も飛んでおらず落胆したのだが、今日は違った。

自転車でものの数十秒。
このあたりは電灯は一カ所もなく、歩いて行くと足下すら見えない真っ暗闇である。
前から人が来ても分からないし、その輪郭すら見えない。

「おっ、飛んでるな…。」
一年ぶりの対面に、心の中で小躍りする。
このスポットは、川縁ではなく、かなり高い所に飛んでいる。
だから、一瞬、星と見間違うほどなのだ。

「これなら裏にも飛んでくるかな」、とふと自宅(隠れ家)の裏庭を見ると、一匹の蛍が飛んでいる。

家に戻り、真っ暗闇の裏庭に行くと、蛍が二匹飛んでいた。

「裏庭で蛍を愛でることができるなんて、なんて幸せな所に住んでいるのだろう…。」

ささやかな幸せを感じたひとときだ。

「丹澤先生、蛍って何のために生きているんでしょうか…。」

生徒にそんなことを聞かれたことがある。
虫そのもの人生に、どんな意味があり、価値があるのかについて、疑問に思った中学生からの質問だ。

「闇に光る神秘さと共に、その光を放つ期間の短さにより、人生のはかなさを象徴しているんじゃないかな…。その姿を見て、人間も何かしら振り返るべきところがあることを、教えているんじゃないかな…。」

これが私の答えだ。

ささやかな幸せは、人間の生き方をも教えてくれる…。

2021年06月11日

続・担任の仕事

前回、「担任の仕事」というタイトルをつけたが、内容にまったく触れていなかったので、もう一度、語ってみたいと思う。

要は、「担任をすることに、生きがいを感じられないならば、担任の仕事はできない」ということである。

だから、「無理矢理担任にさせられた」、とか、「いやいや担任をやっている」というのでは、仕事にならない。それに、先生も生徒も、お互い不幸である。

担任は、クラス全員を統括する立場にある。
先生風を吹かせて、大人の不条理な論理で、強制的に従わせることもできるが、生徒たちが、管理されていることを感じないような、上手なアプローチの仕方もある。

いずれにせよ、「真の担任」とは、常にクラスの生徒のことを考えている立場にいる教員のことである。

たとえ生徒が家庭に戻ったとしても、担任はその生徒のことを気にかけ、善導したいと思い、次なるアプローチを探るべく、考え続ける…。

そうした毎日の連続を過ごしているのが、担任である。

そうした思いは、必ずや生徒たちに届き、いつしか信頼される担任になっていく。
その信頼感が親たちをも納得させ、「この担任なら安心」、という思いを抱かせる。

たとえ厳しい指導をすることがあっても、「〇〇先生が担任の先生で良かった…」、と思われるようでないと、ホンモノではない。

確かに生徒たちには担任は選べないが、「うちの担任、なかなかやるじゃん」、と思わせる、スパイスが必要なのだ。

「このクラスで良かった」、と思う生徒は、「この担任の先生でよかった」という思いときわめて近い。

もちろん、生徒全員に好かれる担任はめったにいないだろう。
だが、筋を通し、生徒を愛している姿は、誰もが安心感を持ち、納得する…。

「〇〇先生と会いたい」、と週初めに生徒が思うような、そんな喜びを、担任は意識して欲しいと思う。

若い先生たち、頑張れよ! 今なら、何でもチャレンジできるぞ。

2021年06月10日

担任の仕事

欧米には仕事は苦役であるという文化があるという。
おそらくその原点はキリスト教思想なのだろうが、日本人の仕事観とは大分違う。

しかし、昨今は日本人でも、仕事に対して、「無理強いされるもの」という意識が大きくなってしまったようにも思える。

嫌な仕事でもやらなくてはならない。
やる気がなくても、やらなくてはならない。
無理にでも、やらなくてはならない。

しかし、こうした発想のなかで仕事をしている中に、創造性や付加価値は生まれない。
反論する人がいることを覚悟して言うが、本来、仕事は、「楽しく、喜んで」行うべきものだ。

だから、学校の仕事だって、いやいややっているようでは、その思いは必ず生徒や保護者に通じ、いわゆる「いい」仕事にはならないはずだ。

たとえ、その仕事を与えられたことが不本意であったとしても、自らの思いを変えて、ポジティブにその業務にあたろうと、努力しなくてはならないだろう。

ほとんどの場合、「この仕事はやりたくありません」、とは言えないが、少なくとも自分自身の心が吹っ切れていなければ、仕事としては成立しない。恐らくはその仕事ぶりに、同僚や上司は落胆し、時に叱責を受けることになるだろう。

一方、自分自身で、ネガティブ思想からポジティブ思想に変えられないこともある。
何年もそうした状況が続いたり、自身で「違うな」と思うときは、静かにその職場を去るべき時なのだろう。

コロナ禍で、不本意ながら、生活のために別の仕事を就いている方もいるのだろうが、そうした方であっても、その仕事に「生きがい」を感じなければ、おそらく社会的環境が変化したときに、また、その仕事を去らなくてはならない時期がやってくると思われる。

要は、「あなたがいなくてはこの仕事が成り立たない」、と言われるくらいの熱意で、仕事に当たらなくてはいけないということだ。

担任も同じだ。

私立学校では、「この人には担任は任せられない」というレッテルを貼られた人は、ずっと担任にはなれないこともある。

学校現場だろうが、会社だろうが、結局は、仕事に対するマインドの問題。

一日の三分の一以上を占める仕事に、意味を見いだせないのであれば、それはそれで、人生がつまらないものに感じられないだろうか…。




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