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2019年10月26日
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
生活保護の申請プロセスも大詰め。
区役所への申請とケースワーカーの家庭訪問が終わり、
今日は地区の民生委員が来訪しての面談を終えた。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
ーーーーーーーーーー
民生委員は多くの場合、
現役を退いた元・役所職員や、
その地域に長く住んでいて
信頼ある人が務めていると聞いた。
区役所へ申請した日、民生委員宅へ電話すると
勢いのある口調の男性が出たので、
一体何を言われるんだろうと少し怖くなった。
ケースワーカーの家庭訪問を終えた時点で
緊張感からかなり解放され安堵感を得ていたことで、
何か厳しいことを言われても
これは乗り越えるべき壁と割り切り、
割と早くに覚悟を決めることができた。
約束の13時ちょうどにインターフォンが鳴った。
60代くらいで、はきはきとした感じの男性、
「民生委員」の名札を首から下げていた。
リビングへ通し、区役所から預かっていて
「民生委員に渡してください」と言われていた
封筒を手渡した。
封筒を開け、おそらく僕の経歴が書かれている書類に
無言でじっくりと目を通す。
何を聞かれるんだろう、何か責められるのかと
僕は少し身構えながらも、これまでより落ち着いて
待つことができた。
僕が先天的に持っている発達障害の傾向、
それから父には僕より強くその傾向が見られること、
書類に書かれた経歴の中で、この二点について質問を受けた。
(書類にはアスペルガー症候群と書かれていたらしく)
「アスペルガーの傾向ってどんなこと?」と聞かれ、
相手の気持ちを察したり、言外の意味の汲み取りが難しく
コミュニケーションに難が出やすいことを説明した。
発達障害については詳しく知らなかったようで、
「どれくらい治るの?」と聞かれた。
脳の先天的な障害なので治らない、
学習や訓練で適応していくことが必要と答えた。
「お父さんにそういう傾向があるってわかってるんだから、
そうならないように努力しなきゃダメだよ」と言われた時は、
発達障害への無理解に、心の中で泣きたくなった。
そんな悔しさは何とか表には出さず、
「ハイ、すみません」と頭を下げて必死で流した。
昔の僕だったら、この時点で「責められている」と認識し、
この場で涙を流していてもおかしくなかったが、
悔しさを胸の奥にしまい込み、
「よく知らないならば仕方がない」と考えて
対応できたことは大きな進歩だった。
30分くらいの面談の半分は発達障害の説明と、
「頑張らないとだめ」に耐える時間となった。
それを乗り切ってからは実際にかかる
生活費の内訳など、現実的な話になった。
家賃のこと、冬季の暖房費のこと、
早く引っ越ししなさいよ、ということ、
離婚した経緯、家族と疎遠になった経緯、
まだまだ人生長いんだから、という励まし。
全体的に「ハイ、すみません」と
頭を下げている回数が多かったが、
決して説教じみたわけではなく、
言葉は多少きついながらも
応援してくれている印象を受けた。
最後に部屋の間取りをざっと見た後、
まだ霧雨の降る曇り空の中へ見送った。
ケースワーカー来訪時と同じく、
どこに何があるかを確認するようなことはせず、
経歴を聞いてじっくり面談をする時間となった。
この日は朝に洗濯などの家事をすべて終わらせて、
のんびり読書をしながら待っていた。
インターフォンが鳴った時は
鼓動が一気に早まるのがわかったが、
早くに覚悟を決められていたことで、
多少きついことを言われても、
余裕を持って耐えられた。
申請、二度の家庭訪問と
大きなプロセスをすべて終え、
また床に倒れ込み、そのままリビングで昼寝をした。
細かいプロセスで言えば、
「家賃証明書」という、賃貸を証明する書類を
管理会社に記入してもらうために郵送している。
これを記入して返送してもらい、
届いたら区役所へ提出すればすべて完了と思われる。
あとは待つだけ。
こうやって三部作として書く日に至るまでに、
積み重ねてきた葛藤を思い出した。
2019年没になってもいいとさえ、何度も思った。
孤独に押し潰されそうになったことは数えきれない。
でも、申請に至るまでにどれだけの人に
助けられて生きてきたのかも、身に染みている。
申請や家庭訪問がどういう形になるかは
地域によって違うだろうけど、
僕が助けてもらって申請した生活保護の経験を、
こうやって書くことで誰かを助けられたら嬉しい。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
区役所への申請とケースワーカーの家庭訪問が終わり、
今日は地区の民生委員が来訪しての面談を終えた。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
→「生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/339/0
ーーーーーーーーーー
民生委員は多くの場合、
現役を退いた元・役所職員や、
その地域に長く住んでいて
信頼ある人が務めていると聞いた。
区役所へ申請した日、民生委員宅へ電話すると
勢いのある口調の男性が出たので、
一体何を言われるんだろうと少し怖くなった。
ケースワーカーの家庭訪問を終えた時点で
緊張感からかなり解放され安堵感を得ていたことで、
何か厳しいことを言われても
これは乗り越えるべき壁と割り切り、
割と早くに覚悟を決めることができた。
約束の13時ちょうどにインターフォンが鳴った。
60代くらいで、はきはきとした感じの男性、
「民生委員」の名札を首から下げていた。
リビングへ通し、区役所から預かっていて
「民生委員に渡してください」と言われていた
封筒を手渡した。
封筒を開け、おそらく僕の経歴が書かれている書類に
無言でじっくりと目を通す。
何を聞かれるんだろう、何か責められるのかと
僕は少し身構えながらも、これまでより落ち着いて
待つことができた。
僕が先天的に持っている発達障害の傾向、
それから父には僕より強くその傾向が見られること、
書類に書かれた経歴の中で、この二点について質問を受けた。
(書類にはアスペルガー症候群と書かれていたらしく)
「アスペルガーの傾向ってどんなこと?」と聞かれ、
相手の気持ちを察したり、言外の意味の汲み取りが難しく
コミュニケーションに難が出やすいことを説明した。
発達障害については詳しく知らなかったようで、
「どれくらい治るの?」と聞かれた。
脳の先天的な障害なので治らない、
学習や訓練で適応していくことが必要と答えた。
「お父さんにそういう傾向があるってわかってるんだから、
そうならないように努力しなきゃダメだよ」と言われた時は、
発達障害への無理解に、心の中で泣きたくなった。
そんな悔しさは何とか表には出さず、
「ハイ、すみません」と頭を下げて必死で流した。
昔の僕だったら、この時点で「責められている」と認識し、
この場で涙を流していてもおかしくなかったが、
悔しさを胸の奥にしまい込み、
「よく知らないならば仕方がない」と考えて
対応できたことは大きな進歩だった。
30分くらいの面談の半分は発達障害の説明と、
「頑張らないとだめ」に耐える時間となった。
それを乗り切ってからは実際にかかる
生活費の内訳など、現実的な話になった。
家賃のこと、冬季の暖房費のこと、
早く引っ越ししなさいよ、ということ、
離婚した経緯、家族と疎遠になった経緯、
まだまだ人生長いんだから、という励まし。
全体的に「ハイ、すみません」と
頭を下げている回数が多かったが、
決して説教じみたわけではなく、
言葉は多少きついながらも
応援してくれている印象を受けた。
最後に部屋の間取りをざっと見た後、
まだ霧雨の降る曇り空の中へ見送った。
ケースワーカー来訪時と同じく、
どこに何があるかを確認するようなことはせず、
経歴を聞いてじっくり面談をする時間となった。
この日は朝に洗濯などの家事をすべて終わらせて、
のんびり読書をしながら待っていた。
インターフォンが鳴った時は
鼓動が一気に早まるのがわかったが、
早くに覚悟を決められていたことで、
多少きついことを言われても、
余裕を持って耐えられた。
申請、二度の家庭訪問と
大きなプロセスをすべて終え、
また床に倒れ込み、そのままリビングで昼寝をした。
細かいプロセスで言えば、
「家賃証明書」という、賃貸を証明する書類を
管理会社に記入してもらうために郵送している。
これを記入して返送してもらい、
届いたら区役所へ提出すればすべて完了と思われる。
あとは待つだけ。
こうやって三部作として書く日に至るまでに、
積み重ねてきた葛藤を思い出した。
2019年没になってもいいとさえ、何度も思った。
孤独に押し潰されそうになったことは数えきれない。
でも、申請に至るまでにどれだけの人に
助けられて生きてきたのかも、身に染みている。
申請や家庭訪問がどういう形になるかは
地域によって違うだろうけど、
僕が助けてもらって申請した生活保護の経験を、
こうやって書くことで誰かを助けられたら嬉しい。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
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2019年10月25日
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
区役所への生活保護の申請から一夜、
今日は申請プロセスの2番目、
ケースワーカーが自宅へ来訪しての面談となった。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
ーーーーーーーーーー
前日、区役所で家庭訪問の日程を決めた際には、
かなり忙しかったからか「明日の午後」とだけ告げられた。
僕はこの家庭訪問で、それこそ家の中をひっくり返すような
お金になるもの、持っているとまずいものの
大捜索が始まるのかと勝手に思っていた。
少しでもお金になりそうなものなんて
とっくにリサイクルショップ行きになっているし、
この家で一番高価なものといえば、
今この記事を書いている2万ちょっとの中古PC。
それでも不安に押し潰されそうな僕は
前日と当日に家の掃除をし、きれいにして待っていた。
ところが、
12時、13時を過ぎてもインターフォンは鳴らない。
まぁ、あれだけ忙しそうだったから、と思いながら、
何もしないでいるとそわそわするので、
唯一放置していた洗濯を始めることにした。
もしこの間に来たら仕方ない、
脱衣所のドアを閉めて何とかしよう。
1回、2回と洗濯が終わり、
ベランダへ干す作業が終わっても、
ドアの向こうは静かなままだった。
15時を過ぎ、インターフォンが鳴った。
前日に生活保護課で少しだけ話した
区役所の職員さんが立っていた。
朝、リビングに慌てて設置した
小さいテーブルへ書類を置いてもらい面談開始。
家の中をじっくり観察したり、
何かを探したりする素振りはなかった。
玄関から廊下を通ってリビングに出るまでに、
生活水準を把握したのかも知れない。
家庭訪問のイメージが先走っていたせいで
かなり意外に思いながらも、
ケースワーカーさんの質問に
しっかり答えることに集中した。
前日に区役所で受け取り、
この日までに書いておいてくださいと言われていた
履歴書の簡易版のような生活歴シートを手渡した。
卒業した学校、引っ越し歴、
家族との関係や婚姻歴、就職した会社名を
年表のように短く書いたシートを見ながらの
質疑応答の時間が過ぎていった。
僕にとっても、区役所側にとっても、
一番の議題は家族へ連絡をするかどうかだった。
連絡が行くのは必須と聞いていたので、
念のための意思確認かも知れない。
例えば、仕送りなどの援助が期待できる場合は
そちらをまずは頼ってください、という流れになるが、
それはあちらの都合もあるので、必ずというわけではない。
関係が破綻している場合、
連絡することでトラブルになる事例もあるので、
本人と家族との関係を詳しく聴取した上で、
家族への連絡をどうするか慎重に決めるということだった。
僕は正直に、思っていることを伝えた。
生活保護という制度の決まり上、
支援の期待はともかく家族へ連絡が行くのは
仕方ないし、覚悟していたこと。
少なくとも自分からは連絡する意思はないこと。
特に父の場合、結婚直前に乗り込んで来て
長々と演説や文句を言い続け、
僕の心を深く傷つけて顧みないような行為に
また及ぶ可能性が高いこと。
→「父の「学費返せ」発言の真相は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/136/0
家族への連絡をどうするかはこの場では決めず、
持ち帰って改めて検討するということで話は終わった。
その他、
通帳に記帳されているお金の流れの中で
不明点がある箇所への質問、
不動産や貴金属などの資産を持っていないか
改めての確認、
今住んでいる家は家賃上限を超えているので、
引っ越しが必要になることの再説明と続いた。
「そんなに構えなくていいよ」と
相談室の担当さんに言われていたのに、
当日やはり構えていた僕は、
予想外に穏やかな面談に終始したことに
戸惑いながらも、
おいとまするケースワーカーさんを見送った。
17時を過ぎていた。
すっかり日が短くなった。
つい先月まで、17時はまだ夕日が明るくて、
まだ公園のベンチで本を読んでいられるくらい
あたたかいこともあったのに。
ドアを閉める時、マンションの通路の窓越しに
ほとんど日が落ちて暗くなりかけている空が見えた。
急に睡魔が襲ってきた。
申請前日、ほとんど眠れなかった分を取り返すように、
そのままリビングの床に倒れ込み、深い夕寝に落ちた。
2時間くらい寝ただろうか。
ぼーっとしながら、最後の方にされた
3つの質問を思い出した。
「布団は何組ありますか?」
「ストーブは備え付けですか?」
これはおそらく、冬を乗り切れるかどうかの確認。
気になったのはこちら。
「サイドボードとタンスは何台ありますか」
”タンス貯金”なんて言葉もあるようなので、
モノを隠せる場所としての確認だろうか。
あるいは、ただ単に間取りの確認か。
この質問は今でも引っ掛かる。
何はともあれ、残る大きなプロセスは
地域の民生委員さんによる家庭訪問のみとなった。
区役所から連絡を促され、電話したところ、
かなり勢いのある口調だったので、少し怖い。
声が大きかったり、勢いのある口調の人には
どうしても怒られているような錯覚に陥ってしまう。
無事に申請が通り、本当に自分の足で
人生を歩むための再出発をする未来は見れるのか。
もうひと踏ん張り。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
今日は申請プロセスの2番目、
ケースワーカーが自宅へ来訪しての面談となった。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
→「生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/338/0
ーーーーーーーーーー
前日、区役所で家庭訪問の日程を決めた際には、
かなり忙しかったからか「明日の午後」とだけ告げられた。
僕はこの家庭訪問で、それこそ家の中をひっくり返すような
お金になるもの、持っているとまずいものの
大捜索が始まるのかと勝手に思っていた。
少しでもお金になりそうなものなんて
とっくにリサイクルショップ行きになっているし、
この家で一番高価なものといえば、
今この記事を書いている2万ちょっとの中古PC。
それでも不安に押し潰されそうな僕は
前日と当日に家の掃除をし、きれいにして待っていた。
ところが、
12時、13時を過ぎてもインターフォンは鳴らない。
まぁ、あれだけ忙しそうだったから、と思いながら、
何もしないでいるとそわそわするので、
唯一放置していた洗濯を始めることにした。
もしこの間に来たら仕方ない、
脱衣所のドアを閉めて何とかしよう。
1回、2回と洗濯が終わり、
ベランダへ干す作業が終わっても、
ドアの向こうは静かなままだった。
15時を過ぎ、インターフォンが鳴った。
前日に生活保護課で少しだけ話した
区役所の職員さんが立っていた。
朝、リビングに慌てて設置した
小さいテーブルへ書類を置いてもらい面談開始。
家の中をじっくり観察したり、
何かを探したりする素振りはなかった。
玄関から廊下を通ってリビングに出るまでに、
生活水準を把握したのかも知れない。
家庭訪問のイメージが先走っていたせいで
かなり意外に思いながらも、
ケースワーカーさんの質問に
しっかり答えることに集中した。
前日に区役所で受け取り、
この日までに書いておいてくださいと言われていた
履歴書の簡易版のような生活歴シートを手渡した。
卒業した学校、引っ越し歴、
家族との関係や婚姻歴、就職した会社名を
年表のように短く書いたシートを見ながらの
質疑応答の時間が過ぎていった。
僕にとっても、区役所側にとっても、
一番の議題は家族へ連絡をするかどうかだった。
連絡が行くのは必須と聞いていたので、
念のための意思確認かも知れない。
例えば、仕送りなどの援助が期待できる場合は
そちらをまずは頼ってください、という流れになるが、
それはあちらの都合もあるので、必ずというわけではない。
関係が破綻している場合、
連絡することでトラブルになる事例もあるので、
本人と家族との関係を詳しく聴取した上で、
家族への連絡をどうするか慎重に決めるということだった。
僕は正直に、思っていることを伝えた。
生活保護という制度の決まり上、
支援の期待はともかく家族へ連絡が行くのは
仕方ないし、覚悟していたこと。
少なくとも自分からは連絡する意思はないこと。
特に父の場合、結婚直前に乗り込んで来て
長々と演説や文句を言い続け、
僕の心を深く傷つけて顧みないような行為に
また及ぶ可能性が高いこと。
→「父の「学費返せ」発言の真相は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/136/0
家族への連絡をどうするかはこの場では決めず、
持ち帰って改めて検討するということで話は終わった。
その他、
通帳に記帳されているお金の流れの中で
不明点がある箇所への質問、
不動産や貴金属などの資産を持っていないか
改めての確認、
今住んでいる家は家賃上限を超えているので、
引っ越しが必要になることの再説明と続いた。
「そんなに構えなくていいよ」と
相談室の担当さんに言われていたのに、
当日やはり構えていた僕は、
予想外に穏やかな面談に終始したことに
戸惑いながらも、
おいとまするケースワーカーさんを見送った。
17時を過ぎていた。
すっかり日が短くなった。
つい先月まで、17時はまだ夕日が明るくて、
まだ公園のベンチで本を読んでいられるくらい
あたたかいこともあったのに。
ドアを閉める時、マンションの通路の窓越しに
ほとんど日が落ちて暗くなりかけている空が見えた。
急に睡魔が襲ってきた。
申請前日、ほとんど眠れなかった分を取り返すように、
そのままリビングの床に倒れ込み、深い夕寝に落ちた。
2時間くらい寝ただろうか。
ぼーっとしながら、最後の方にされた
3つの質問を思い出した。
「布団は何組ありますか?」
「ストーブは備え付けですか?」
これはおそらく、冬を乗り切れるかどうかの確認。
気になったのはこちら。
「サイドボードとタンスは何台ありますか」
”タンス貯金”なんて言葉もあるようなので、
モノを隠せる場所としての確認だろうか。
あるいは、ただ単に間取りの確認か。
この質問は今でも引っ掛かる。
何はともあれ、残る大きなプロセスは
地域の民生委員さんによる家庭訪問のみとなった。
区役所から連絡を促され、電話したところ、
かなり勢いのある口調だったので、少し怖い。
声が大きかったり、勢いのある口調の人には
どうしても怒られているような錯覚に陥ってしまう。
無事に申請が通り、本当に自分の足で
人生を歩むための再出発をする未来は見れるのか。
もうひと踏ん張り。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
2019年10月24日
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
できる限り避けたいと
いろいろ動いてきたものの、
ついに申請することが決まった生活保護。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
実際の生活保護申請から、結果が出るまでには
ざっくり分けて以下のプロセスがある。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
おそらく誰もが経験するわけではないこと、
そして自分が生きた記録、生き様として、
僕が経験した申請の過程を
今のところ3部作として書きたいと思う。
今回は第一弾、
区役所の生活保護課へ行った時の話。
ーーーーーーーーーー
当日の朝、就労移行支援へつなげてくれた
相談室の担当さんと二人で生活保護課へ。
ここに来るのは半年以上も前、
ただ孤独と闘っていた中、一人で足を運んで以来。
→「生活保護の話。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/41/0
この日は年金が出て間もなくだったからか、
収入を申告する人たちで混雑していた。
朝10時より申請開始の予定だったが、
担当職員さんが忙しく、
緊張の中で40分ほど待つことになった。
「2時間くらいかかるけどトイレ大丈夫?」
相談員さんが声をかけてくれた。
トイレというよりも、
お腹の変なところがちくちくと痛かった。
申請日が決まってからは、
ここまで来たらもう仕方ないと腹をくくったつもりでも、
いざ前日になると不安でほとんど眠れず、
寝不足と緊張から、全身に変な力みが走っていた。
席へ通されるまでに、相談員さんと最終確認。
就労移行支援を利用し再起を図っていること、
処分可能な財産を持っていないこと、
後日ある家庭訪問では変に構えずに、
生活に困窮している現状をそのまま伝えること。
そしてもちろん、
ずっと頼るつもりはないという意思。
この間もずっと、
変な力みの混じった眠気と、
「考え過ぎなくていいよ」と言われても
どうしても構えてしまう緊張感と格闘した。
11時前、担当の職員さんが足早に駆けて来て、
相談スペースへ通された。
「生活保護の申請に来ました」と、
”相談”ではなく”申請”に来たことをはっきりと伝えた。
ここで少しでもブレてしまうと、生活相談へ誘導されたりして
いわゆる「水際作戦」発動の隙を与えてしまうという。
事前に相談員さんがコンタクトを取ってくれていたこと、
そして市委託の相談室の職員の前では
ごまかしが効かない抑止力のおかげか、
席へ着いてからは、ただ説明を受けて、
必要書類を提出し記入するだけのスムーズな時間となった。
現在、手元にあって生きている通帳すべて、
マイナンバーカード、年金手帳、障害者手帳、
住宅の賃貸契約書、自立支援医療、
保険証などの必須書類の他、
ここへきて意外と役立ったのは
障害年金の不支給決定通知書と、
その申請の際に書いた病歴の申告書。
障害年金など、他に利用できる支援制度があれば、
まずはそちらに頼るよう促される可能性があるが、
事前にその道を断たれていたことが
皮肉にもスムーズな手続きを手伝ってくれた。
→「障害年金、落ちた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/99/0
5種類ほどの書類に記入、捺印をする中で、
家族構成や連絡先、住所、職業などを書く時に
僕の手は止まりがちだった。
実家の住所も、連絡先も知らないので空欄、
誕生日や職業は曖昧、
携帯番号については、
着信拒否しているが残してある父の番号だけ書いた。
これについては、家族関係が破綻している場合、
知らないということはままあるらしいので、
書けるところだけでよいとのことだった。
すべての書類の記入が終わってから、
後日の家庭訪問を担当するケースワーカーが登場し、
訪問の日程を決めて終了となった。
申請の説明をしてくれた方、担当のケースワーカーの方、
どちらも若い女性で、
忙しく動き回っては
やや早口で必要なことを説明するような
かなりバタバタしている状況だった。
申請を阻止したり、生活相談へ誘導するようなことは
なかったというより、そんな暇もないような印象を受けた。
この日はたまたま
本当に多忙だっただけかも知れないが、
当日にはっきりと”申請”をさせてくれた
担当の相談員さんの根回しに心から感謝した。
申請が完了し区役所を出た後、
相談員さんに「恩人です」と深くお礼を伝えた。
区役所を出たのは12時過ぎ、
相談員さんは「思ったより早く終わったね」と言っていた。
その足で就労移行支援事業所へ向かい、
いつも通り仕事する時間を過ごした。
すごく眠かったはずなのに、
帰宅してからすぐには横にならなかった。
まだ結果は出ていないながら、
大きな肩の荷が降りた安堵感と、
まだ少し残る緊張感を噛み締めた。
本格的に眠くなる前に、
明日に控えたケースワーカーの来訪に備え、
家の中を少し掃除してようやく寝ることができた。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
いろいろ動いてきたものの、
ついに申請することが決まった生活保護。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
実際の生活保護申請から、結果が出るまでには
ざっくり分けて以下のプロセスがある。
1.役所の生活保護課への申請
2.ケースワーカーの家庭訪問
3.民生委員の家庭訪問
おそらく誰もが経験するわけではないこと、
そして自分が生きた記録、生き様として、
僕が経験した申請の過程を
今のところ3部作として書きたいと思う。
今回は第一弾、
区役所の生活保護課へ行った時の話。
ーーーーーーーーーー
当日の朝、就労移行支援へつなげてくれた
相談室の担当さんと二人で生活保護課へ。
ここに来るのは半年以上も前、
ただ孤独と闘っていた中、一人で足を運んで以来。
→「生活保護の話。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/41/0
この日は年金が出て間もなくだったからか、
収入を申告する人たちで混雑していた。
朝10時より申請開始の予定だったが、
担当職員さんが忙しく、
緊張の中で40分ほど待つことになった。
「2時間くらいかかるけどトイレ大丈夫?」
相談員さんが声をかけてくれた。
トイレというよりも、
お腹の変なところがちくちくと痛かった。
申請日が決まってからは、
ここまで来たらもう仕方ないと腹をくくったつもりでも、
いざ前日になると不安でほとんど眠れず、
寝不足と緊張から、全身に変な力みが走っていた。
席へ通されるまでに、相談員さんと最終確認。
就労移行支援を利用し再起を図っていること、
処分可能な財産を持っていないこと、
後日ある家庭訪問では変に構えずに、
生活に困窮している現状をそのまま伝えること。
そしてもちろん、
ずっと頼るつもりはないという意思。
この間もずっと、
変な力みの混じった眠気と、
「考え過ぎなくていいよ」と言われても
どうしても構えてしまう緊張感と格闘した。
11時前、担当の職員さんが足早に駆けて来て、
相談スペースへ通された。
「生活保護の申請に来ました」と、
”相談”ではなく”申請”に来たことをはっきりと伝えた。
ここで少しでもブレてしまうと、生活相談へ誘導されたりして
いわゆる「水際作戦」発動の隙を与えてしまうという。
事前に相談員さんがコンタクトを取ってくれていたこと、
そして市委託の相談室の職員の前では
ごまかしが効かない抑止力のおかげか、
席へ着いてからは、ただ説明を受けて、
必要書類を提出し記入するだけのスムーズな時間となった。
現在、手元にあって生きている通帳すべて、
マイナンバーカード、年金手帳、障害者手帳、
住宅の賃貸契約書、自立支援医療、
保険証などの必須書類の他、
ここへきて意外と役立ったのは
障害年金の不支給決定通知書と、
その申請の際に書いた病歴の申告書。
障害年金など、他に利用できる支援制度があれば、
まずはそちらに頼るよう促される可能性があるが、
事前にその道を断たれていたことが
皮肉にもスムーズな手続きを手伝ってくれた。
→「障害年金、落ちた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/99/0
5種類ほどの書類に記入、捺印をする中で、
家族構成や連絡先、住所、職業などを書く時に
僕の手は止まりがちだった。
実家の住所も、連絡先も知らないので空欄、
誕生日や職業は曖昧、
携帯番号については、
着信拒否しているが残してある父の番号だけ書いた。
これについては、家族関係が破綻している場合、
知らないということはままあるらしいので、
書けるところだけでよいとのことだった。
すべての書類の記入が終わってから、
後日の家庭訪問を担当するケースワーカーが登場し、
訪問の日程を決めて終了となった。
申請の説明をしてくれた方、担当のケースワーカーの方、
どちらも若い女性で、
忙しく動き回っては
やや早口で必要なことを説明するような
かなりバタバタしている状況だった。
申請を阻止したり、生活相談へ誘導するようなことは
なかったというより、そんな暇もないような印象を受けた。
この日はたまたま
本当に多忙だっただけかも知れないが、
当日にはっきりと”申請”をさせてくれた
担当の相談員さんの根回しに心から感謝した。
申請が完了し区役所を出た後、
相談員さんに「恩人です」と深くお礼を伝えた。
区役所を出たのは12時過ぎ、
相談員さんは「思ったより早く終わったね」と言っていた。
その足で就労移行支援事業所へ向かい、
いつも通り仕事する時間を過ごした。
すごく眠かったはずなのに、
帰宅してからすぐには横にならなかった。
まだ結果は出ていないながら、
大きな肩の荷が降りた安堵感と、
まだ少し残る緊張感を噛み締めた。
本格的に眠くなる前に、
明日に控えたケースワーカーの来訪に備え、
家の中を少し掃除してようやく寝ることができた。
一般社団法人ボイス|悩みの無料相談の申込み
2019年10月23日
抱っこされたかった思いを諦めきれない。
親が子どもをぎゅっと抱っこするシーンに弱い。
心臓をわしづかみにされるような感覚が走り、
気づいたら涙がこぼれている。
以前、温泉で
優しいお父さんが子どもを抱っこする姿を見て
ロッカールームの端で一人で泣いたことがある。
→「優しいお父さんと、抱っこをせがむ子と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/283/0
そうやって自分の目で、現場を見た時も、
物語の中で描かれた親子を見た時も、
僕の胸に起きる反応は同じ。
ある夜、一人でこのシーンを観ながら
窓を閉めていてよかったと思えるぐらいに
涙でぐしゃぐしゃになっている自分がいた。
僕の中に残る幼少期の記憶には
抱っこされて見た景色がない。
自分の身長から、自分の目線の高さから
見える景色だけが残ってる。
そしてその景色の近くには、
僕と目線の高さを合わせたり、
僕の身体を包み込んだ親の姿は見えない。
自分のすぐ近くには誰もいなくて、
少し離れた周りに友達や誰かがいるという景色。
僕はどうして抱っこされなかったの?
「もっと近くにおいで」という
あたたかい言葉をかけられて、
寄って行ったら腕を回して抱きしめられることを
なぜされなかったの?
僕が2歳の時、妹が生まれて、
妹にかかりきりだったから?
僕は一人で絵本を読んでいるような子だったらしいけど、
まさか「寄ってこないから大丈夫」と思われたの?
父は他人の気持ちや都合を
考えることのできない人間だから、まだ諦めもつく。
母は昔も今も、自分から何も話さない人だけど、
例えば「愛情の示し方がわからない」みたいな理由で
自分から子どもに近づこうとしなかったの?
親にあたたかく抱っこされた思い出がほしかった。
今さらこんなことを望んでも手に入らないものだと、
諦めようとすればするほど、
心臓をぎゅっと握りしめられる感触が強くなる。
あたたかいスキンシップの経験を
この子にはあげずに大人になってもらおう、
そう決めた神様か誰かなんていないのは判ってる。
だけど、抱っこされたかった気持ちを
諦めなければいけない幼い頃の自分を、
どう説得しようとしても諦めてくれない。
手に入らないのに諦めきれない葛藤が
胸を掴まれる感覚と涙なんだろうか。
きっと僕はこれからも、
抱っこのシーンに出くわすたびに泣くんだろう。
「いいなぁ。こんなふうにしてほしかった」と
寂しがって泣くだけの自分を、どうすれば救えるだろう。
欲しがらなくなるまで、とことん泣いてもいいなら、
これからも、うんざりするほど羨ましがって、
窓を閉め切って泣きに泣いてやる。
心臓をわしづかみにされるような感覚が走り、
気づいたら涙がこぼれている。
以前、温泉で
優しいお父さんが子どもを抱っこする姿を見て
ロッカールームの端で一人で泣いたことがある。
→「優しいお父さんと、抱っこをせがむ子と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/283/0
そうやって自分の目で、現場を見た時も、
物語の中で描かれた親子を見た時も、
僕の胸に起きる反応は同じ。
ある夜、一人でこのシーンを観ながら
窓を閉めていてよかったと思えるぐらいに
涙でぐしゃぐしゃになっている自分がいた。
僕の中に残る幼少期の記憶には
抱っこされて見た景色がない。
自分の身長から、自分の目線の高さから
見える景色だけが残ってる。
そしてその景色の近くには、
僕と目線の高さを合わせたり、
僕の身体を包み込んだ親の姿は見えない。
自分のすぐ近くには誰もいなくて、
少し離れた周りに友達や誰かがいるという景色。
僕はどうして抱っこされなかったの?
「もっと近くにおいで」という
あたたかい言葉をかけられて、
寄って行ったら腕を回して抱きしめられることを
なぜされなかったの?
僕が2歳の時、妹が生まれて、
妹にかかりきりだったから?
僕は一人で絵本を読んでいるような子だったらしいけど、
まさか「寄ってこないから大丈夫」と思われたの?
父は他人の気持ちや都合を
考えることのできない人間だから、まだ諦めもつく。
母は昔も今も、自分から何も話さない人だけど、
例えば「愛情の示し方がわからない」みたいな理由で
自分から子どもに近づこうとしなかったの?
子どもがおつかいに行くTVを見て涙が止まらなくなった。
どのお母さんも「キミならできるよ。大丈夫」って励まして、
ゴールしたらギューッて抱きしめるの。
子どもの頃の私が
「いいなぁ。こんなふうにしてほしかった」って泣いた。
『日本一醜い親への手紙 そんな親なら捨てちゃえば?』 より
親にあたたかく抱っこされた思い出がほしかった。
今さらこんなことを望んでも手に入らないものだと、
諦めようとすればするほど、
心臓をぎゅっと握りしめられる感触が強くなる。
あたたかいスキンシップの経験を
この子にはあげずに大人になってもらおう、
そう決めた神様か誰かなんていないのは判ってる。
だけど、抱っこされたかった気持ちを
諦めなければいけない幼い頃の自分を、
どう説得しようとしても諦めてくれない。
手に入らないのに諦めきれない葛藤が
胸を掴まれる感覚と涙なんだろうか。
きっと僕はこれからも、
抱っこのシーンに出くわすたびに泣くんだろう。
「いいなぁ。こんなふうにしてほしかった」と
寂しがって泣くだけの自分を、どうすれば救えるだろう。
欲しがらなくなるまで、とことん泣いてもいいなら、
これからも、うんざりするほど羨ましがって、
窓を閉め切って泣きに泣いてやる。
2019年10月22日
父の実家の解体に際して。
今はもう誰も住んでいない、
父の地元の漁村にある家を11月に解体するそうだ。
もう半年近く前になるのか。
当時、今よりも家族に対する恨みや怒りが大きかった時、
そんな過去と決別したくて父の地元の漁村に行ってきた。
→「泣かないと決めてたのに。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/179/0
→「じいちゃん、ばあちゃんへ。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/180/0
この時、一目見れて本当によかった。
家の解体の話は父からのメールで知った。
以前、何通もの長文メールで
自分がいかにかわいそうで大変かを
アピールしてきた実績があったので、
メールの着信と宛名を見た時は
また自分語りアピールかと心臓の鼓動が早まった。
→「父からの、大量の長文メール。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/260/0
今回は二通だった。
前の長文メールは、どうしても表示される冒頭を見て
開封せずにすべて消去したけど、今回は開封して読んだ。
自分たちが現地に行く日程、
遠くに住んでいる叔父の家族が来る日程が
細かく書いてあった。
二通目の最後にこうあった。
「見れるなら見ておくように」
今回はただの事務連絡だけと期待したかった僕は
これを見た瞬間、
この人はどこまでも
自分のことしか見えていないんだ、
僕の心なんて見る気がないんだと
愕然とした。
もっと言うと、指示を出すような文面から、
やっぱりこの人にとって親子とは上下関係であり、
子どもには上から物を言って当然と考えているのが
透けて見えてしまった。
日程を書いておけば、もしかして
見に行きたいと連絡をくれて
一緒に行けるかも知れない。
目の届く距離に居るチャンスさえ確保できればこっちのもの、
自分がいかに大変でかわいそうで、家族のために犠牲を払い、
(祖父に刷り込まれた)理想の男を演じて
働き続けてきたかを演説できる。
そして、そんな素晴らしい自分の価値観に
まったく沿おうとしない長男は
いかに甘ったれているか、社会を舐めているかを
延々と語り続けることで、自分は上なんだ、
できた親なのだと証明できる。
そんな目論見が隠されていることを
僕は見抜いてしまった。
疎遠になった息子に会いたいだけ、
そんな歪んだ深読みをする必要がある?
と言われるかも知れない。
けどそれは、会いに行く人のことを
信用しているから生まれる発想だと思う。
僕は父のことを、家族のことを信用していない。
会いに行って、彼らが黙っていたことが一度もないから。
どれだけ大きなイベントで
僕をおびき寄せようとしたところで、
繰り広げられるのはいつも演説と自分語りと
一方的に僕の心に傷をつける行為だった。
もし半年前、家族との確執と決別したくて
あの漁村に行っていなかったとしても、
彼らの誘いに乗って近づくようなことはせず、
何としても一人で行っただろう。
祖父母との思い出の場所がなくなるのは寂しいけど、
そんな連絡でさえも子どもに響かないのは
これまで積み重ねてきた彼らの対応の結果。
「会えばまた傷つけられる、
一方的に語られる、心を殺される」
子どもから信用されないどころか、
寄りつきもされないような態度を
数十年も続けてきて
未だにそのことに気づいていない親。
自分たちが正しいと思い込んだままなんだな、
顧みるということをしない人なんだなと、
変わらない親への期待を捨てるステップを
また一歩、進ませてしまった。
父の地元の漁村にある家を11月に解体するそうだ。
もう半年近く前になるのか。
当時、今よりも家族に対する恨みや怒りが大きかった時、
そんな過去と決別したくて父の地元の漁村に行ってきた。
→「泣かないと決めてたのに。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/179/0
→「じいちゃん、ばあちゃんへ。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/180/0
この時、一目見れて本当によかった。
家の解体の話は父からのメールで知った。
以前、何通もの長文メールで
自分がいかにかわいそうで大変かを
アピールしてきた実績があったので、
メールの着信と宛名を見た時は
また自分語りアピールかと心臓の鼓動が早まった。
→「父からの、大量の長文メール。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/260/0
今回は二通だった。
前の長文メールは、どうしても表示される冒頭を見て
開封せずにすべて消去したけど、今回は開封して読んだ。
自分たちが現地に行く日程、
遠くに住んでいる叔父の家族が来る日程が
細かく書いてあった。
二通目の最後にこうあった。
「見れるなら見ておくように」
今回はただの事務連絡だけと期待したかった僕は
これを見た瞬間、
この人はどこまでも
自分のことしか見えていないんだ、
僕の心なんて見る気がないんだと
愕然とした。
もっと言うと、指示を出すような文面から、
やっぱりこの人にとって親子とは上下関係であり、
子どもには上から物を言って当然と考えているのが
透けて見えてしまった。
日程を書いておけば、もしかして
見に行きたいと連絡をくれて
一緒に行けるかも知れない。
目の届く距離に居るチャンスさえ確保できればこっちのもの、
自分がいかに大変でかわいそうで、家族のために犠牲を払い、
(祖父に刷り込まれた)理想の男を演じて
働き続けてきたかを演説できる。
そして、そんな素晴らしい自分の価値観に
まったく沿おうとしない長男は
いかに甘ったれているか、社会を舐めているかを
延々と語り続けることで、自分は上なんだ、
できた親なのだと証明できる。
そんな目論見が隠されていることを
僕は見抜いてしまった。
疎遠になった息子に会いたいだけ、
そんな歪んだ深読みをする必要がある?
と言われるかも知れない。
けどそれは、会いに行く人のことを
信用しているから生まれる発想だと思う。
僕は父のことを、家族のことを信用していない。
会いに行って、彼らが黙っていたことが一度もないから。
どれだけ大きなイベントで
僕をおびき寄せようとしたところで、
繰り広げられるのはいつも演説と自分語りと
一方的に僕の心に傷をつける行為だった。
もし半年前、家族との確執と決別したくて
あの漁村に行っていなかったとしても、
彼らの誘いに乗って近づくようなことはせず、
何としても一人で行っただろう。
祖父母との思い出の場所がなくなるのは寂しいけど、
そんな連絡でさえも子どもに響かないのは
これまで積み重ねてきた彼らの対応の結果。
「会えばまた傷つけられる、
一方的に語られる、心を殺される」
子どもから信用されないどころか、
寄りつきもされないような態度を
数十年も続けてきて
未だにそのことに気づいていない親。
自分たちが正しいと思い込んだままなんだな、
顧みるということをしない人なんだなと、
変わらない親への期待を捨てるステップを
また一歩、進ませてしまった。
2019年10月21日
血液検査の結果。
つい先ほど、
Googleからの2回目のアクセスを確認し、
密かに喜んでみている。
それはさておき。
高校生ぐらいから持っている貧血の気と、
食べることが不安定になる摂食障害の兆候。
そして今回、めまいや立ちくらみが
顕著になってきたことから、血液検査を受けてきた。
→「摂食障害の兆候。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/323/0
今回の受診で結果を教えてもらったところ、
・赤血球など→不足
・蛋白質→不足
・それ以外→正常
よって「軽い貧血と栄養不足」
しかしそれ以外の値は正常で、
肝臓や腎臓に異常は見られず。
ちゃんと食べる時は食べて、
栄養に気をつければ大丈夫でしょうとのこと。
よかった…。
別に深刻な病気を恐れたわけじゃないけど、
自分の中に流れる、ごまかしようのない液体を
数字として直視すると、やっぱり安堵感が違う。
人間は単純だ。
ちょっと生々しい表現だけど、
赤血球が足りなくて、
若干ながら濃度が薄い僕の血液は、
採血された時に見る限り、
朱色だったり水っぽかったりはしなかった。
血液らしい、紅色とも何とも形容しがたい、
力強い、濃厚な色だった。
今は脱しているけど、
心がどれだけ追い詰められた時も、
もう生きていたくないと落ち込んでも、
死にたい、消えたいと思っても、
それに反して自分の中には、
こんなにも力強い命の液体が
絶え間なく流れ続けていた。
この矛盾は一体なんだろう。
自分のことはすべて自分が決めているなんて嘘だ。
生きたいかどうかなんていう
自分の迷いとは関係なく、
身体の稼働は、血液の流れは
持ち主である自分ですら止められないんだから。
止められないなら、
止まるまで生きてやろう。
自信を持ってそう言えるようになりたい。
まだ、心の中に何かが引っ掛かっていて、
自信を持って言い切れない僕がいる。
そうやって
うだうだ考えてる間にも
不思議な生命の液体は流れ続けている。
Googleからの2回目のアクセスを確認し、
密かに喜んでみている。
それはさておき。
高校生ぐらいから持っている貧血の気と、
食べることが不安定になる摂食障害の兆候。
そして今回、めまいや立ちくらみが
顕著になってきたことから、血液検査を受けてきた。
→「摂食障害の兆候。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/323/0
今回の受診で結果を教えてもらったところ、
・赤血球など→不足
・蛋白質→不足
・それ以外→正常
よって「軽い貧血と栄養不足」
しかしそれ以外の値は正常で、
肝臓や腎臓に異常は見られず。
ちゃんと食べる時は食べて、
栄養に気をつければ大丈夫でしょうとのこと。
よかった…。
別に深刻な病気を恐れたわけじゃないけど、
自分の中に流れる、ごまかしようのない液体を
数字として直視すると、やっぱり安堵感が違う。
人間は単純だ。
ちょっと生々しい表現だけど、
赤血球が足りなくて、
若干ながら濃度が薄い僕の血液は、
採血された時に見る限り、
朱色だったり水っぽかったりはしなかった。
血液らしい、紅色とも何とも形容しがたい、
力強い、濃厚な色だった。
今は脱しているけど、
心がどれだけ追い詰められた時も、
もう生きていたくないと落ち込んでも、
死にたい、消えたいと思っても、
それに反して自分の中には、
こんなにも力強い命の液体が
絶え間なく流れ続けていた。
この矛盾は一体なんだろう。
自分のことはすべて自分が決めているなんて嘘だ。
生きたいかどうかなんていう
自分の迷いとは関係なく、
身体の稼働は、血液の流れは
持ち主である自分ですら止められないんだから。
止められないなら、
止まるまで生きてやろう。
自信を持ってそう言えるようになりたい。
まだ、心の中に何かが引っ掛かっていて、
自信を持って言い切れない僕がいる。
そうやって
うだうだ考えてる間にも
不思議な生命の液体は流れ続けている。
2019年10月20日
妹弟を手元に残し続ける親。
父は「18歳になったら家に置かない」と
常々言っておきながら、
長男の僕には本当にその通りの態度を取り、
一方で一度も実家を出たことのない妹弟には
18歳云々という態度を
取っていないという話を書いたことがある。
→「「18になったら家に置かないからな」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/325/0
きょうだい間で扱いに差があることは
今でも腹立たしい、思い出すたびに怒りが沸いてくる。
僕と妹弟との一番大きな違いは反抗的か、そうでないか。
親にとって都合良く支配できるか、そうでないか。
親は僕を手元に残しても支配できない、
コントロールできないことを知っている。
衣食住を掌握し、自分たちが食わせているんだ、
上の存在なのだ、自分たちは正しいんだと主張できない。
自我を持ち、親の”絶対的な”価値観を受け付けず、
自分の意思で決めたことをする人間を、
今となっては力ずくで抑え込める余力がない。
自分たちの砂の楼閣が脅かされるから、
危険な思想の持ち主を排除しようとするのだろうか。
重度の自閉症である弟は、たとえ祖父の葬儀中であろうと
好きなロボットアニメの話を始めるような、
自分の世界に一人でいる人間なので、
従順とは少し違うかも知れない。
だけど、
客観的に見て一人暮らしは難しいであろう弟に
「つきっきりで世話する」という意味では、
充分に衣食住を掌握できる立場にいる。
「次男を養っている」ことで、自分たちは立場が上なのだ、
重度の障害のある次男の面倒を見る立派な親なのだと主張する
大義名分が生まれ、それが彼らのアイデンティティとなっている。
妹は僕が大学生〜社会人になりたての頃に
数年間引きこもりとなった。
今は実家住まいで外に働きに行っているが、
思想は完全に親の長男なじりに染まっている。
妹にとって僕は勝手なことばかりする問題児の兄、
実際そう見えてしまうようなことを僕はしてしまったが、
少なくとも親の肩を持ち、僕の味方ではない。
→「問題児の兄に怒る、実家住まいの妹。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/292/0
僕はもう完全に実家と疎遠なので、
例えば妹が実家を出ようとしていたとしても、
それを知る術はない。
だけど、結果的に今に至るまで
親が妹弟を手放さない理由は、
自分たちが上に立てる存在を手放したくないからだ。
無意識だとしても、衣食住を盾にコントロールし、
自分たちが養っているのだ、立場が上なんだと
実感できる存在を失いたくないのだ。
彼らは”子どもを養っている親”という肩書き以外に、
崩れ落ちそうな自分を保つ術を知らないのだ。
言うことを聞かない長男に対し、一緒に闘ってくれる妹、
思想はともかく一人で生きることが難しい弟。
従順なこの二人を手元に残しておかないと、
彼らは不安に押し潰されてしまう。
自分たちの言うことを聞いて支配でき、
経済的なことも含めコントロールできる存在が
手元にいないと自信が持てないのだ。
長男という共通の敵を作り、
長女と次男に極度に依存している。
そういう意味では、
彼らは未だに「子離れ」できていない、
精神的に未熟な人間なのだ。
こうやって、いろいろと理由が見えて来ても、
ターゲットにされた僕の怒りと寂しさが消えるわけじゃない。
自分で考え、自分の意思で行動しただけなのに、
どうして受け入れられないんだろう。
自分の考えを聞いてくれたり、褒めてくれたり、
どうしてそんなことをしてくれないんだろう。
ずっと嘆いていた。
だけどそれは、僕が悪いからじゃなかった。
ずっと彼らが言ってきた、
僕が「自分勝手」だからじゃなかった。
彼らが支配しづらくなるからだった。
両親をピラミッドの頂点とした
家族という王国が崩されるからだった。
下層に妹弟を敷いて、常に頂点に君臨するのに、
余計な思想を持つ不穏分子が邪魔だったからだった。
親が求めているのは僕じゃなかった。
まして僕の心なんかじゃなかった。
自分たちの言うことを聞き、従順で
衣食住を支配できる、
都合の良い”ピラミッドの下層”だった。
常々言っておきながら、
長男の僕には本当にその通りの態度を取り、
一方で一度も実家を出たことのない妹弟には
18歳云々という態度を
取っていないという話を書いたことがある。
→「「18になったら家に置かないからな」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/325/0
きょうだい間で扱いに差があることは
今でも腹立たしい、思い出すたびに怒りが沸いてくる。
僕と妹弟との一番大きな違いは反抗的か、そうでないか。
親にとって都合良く支配できるか、そうでないか。
親は僕を手元に残しても支配できない、
コントロールできないことを知っている。
衣食住を掌握し、自分たちが食わせているんだ、
上の存在なのだ、自分たちは正しいんだと主張できない。
自我を持ち、親の”絶対的な”価値観を受け付けず、
自分の意思で決めたことをする人間を、
今となっては力ずくで抑え込める余力がない。
自分たちの砂の楼閣が脅かされるから、
危険な思想の持ち主を排除しようとするのだろうか。
重度の自閉症である弟は、たとえ祖父の葬儀中であろうと
好きなロボットアニメの話を始めるような、
自分の世界に一人でいる人間なので、
従順とは少し違うかも知れない。
だけど、
客観的に見て一人暮らしは難しいであろう弟に
「つきっきりで世話する」という意味では、
充分に衣食住を掌握できる立場にいる。
「次男を養っている」ことで、自分たちは立場が上なのだ、
重度の障害のある次男の面倒を見る立派な親なのだと主張する
大義名分が生まれ、それが彼らのアイデンティティとなっている。
妹は僕が大学生〜社会人になりたての頃に
数年間引きこもりとなった。
今は実家住まいで外に働きに行っているが、
思想は完全に親の長男なじりに染まっている。
妹にとって僕は勝手なことばかりする問題児の兄、
実際そう見えてしまうようなことを僕はしてしまったが、
少なくとも親の肩を持ち、僕の味方ではない。
→「問題児の兄に怒る、実家住まいの妹。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/292/0
僕はもう完全に実家と疎遠なので、
例えば妹が実家を出ようとしていたとしても、
それを知る術はない。
だけど、結果的に今に至るまで
親が妹弟を手放さない理由は、
自分たちが上に立てる存在を手放したくないからだ。
無意識だとしても、衣食住を盾にコントロールし、
自分たちが養っているのだ、立場が上なんだと
実感できる存在を失いたくないのだ。
彼らは”子どもを養っている親”という肩書き以外に、
崩れ落ちそうな自分を保つ術を知らないのだ。
言うことを聞かない長男に対し、一緒に闘ってくれる妹、
思想はともかく一人で生きることが難しい弟。
従順なこの二人を手元に残しておかないと、
彼らは不安に押し潰されてしまう。
自分たちの言うことを聞いて支配でき、
経済的なことも含めコントロールできる存在が
手元にいないと自信が持てないのだ。
長男という共通の敵を作り、
長女と次男に極度に依存している。
そういう意味では、
彼らは未だに「子離れ」できていない、
精神的に未熟な人間なのだ。
コントロールしたがる親の多くは
自分が必要とされなくなることを恐れているため、
子供に非力感を植え付け、それが永久に消えないようにと望む。
表面的に見れば、それは子供を
自分に依存したままにさせておこうとする行為だが、
実は自分が子供に依存していることの裏返しなのだ。
『毒になる親』第三章 より
こうやって、いろいろと理由が見えて来ても、
ターゲットにされた僕の怒りと寂しさが消えるわけじゃない。
自分で考え、自分の意思で行動しただけなのに、
どうして受け入れられないんだろう。
自分の考えを聞いてくれたり、褒めてくれたり、
どうしてそんなことをしてくれないんだろう。
ずっと嘆いていた。
だけどそれは、僕が悪いからじゃなかった。
ずっと彼らが言ってきた、
僕が「自分勝手」だからじゃなかった。
彼らが支配しづらくなるからだった。
両親をピラミッドの頂点とした
家族という王国が崩されるからだった。
下層に妹弟を敷いて、常に頂点に君臨するのに、
余計な思想を持つ不穏分子が邪魔だったからだった。
親が求めているのは僕じゃなかった。
まして僕の心なんかじゃなかった。
自分たちの言うことを聞き、従順で
衣食住を支配できる、
都合の良い”ピラミッドの下層”だった。
2019年10月19日
”休む”ことへの罪悪感。
先日、体調を崩して
就労移行支援事業所への通所を休んだ。
それ自体は仕方ないことなのに、
その日はずっと、休んだことへの罪悪感、
後ろめたさを引きずっていた。
僕は何かを休むことを申し訳なく思ってしまう。
誰だって体調を崩したら休むし、
休まない人なんていないとわかっていても。
その理由は、
「自分がいないと仕事が回らない」
「他の人の負担が増える」
というような使命感や
自分がいない現場への憂慮ではない。
休日でないのに”休むこと”そのものが、
やってはいけないことのように感じてしまう。
僕が小学性の時、
「39度以上の熱が出なければ学校を休んではいけない」
という、父が作ったルールがあった。
朝、学校に行きたくないとぐずったり、
風邪をひいて少し調子悪そうにしていると、
「いいか!39度以上でないと休ませないからな!」
と、出勤する父が怒鳴っては、家を出ていった。
→「父との関係。(1) -小学校-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0
なぜ、学校を休んではいけないのか、
なぜ、39度以上という、
立っていられないほどの高熱が出ないと
休むことを許されなかったのか。
理由の説明はなかった。
休むことは悪いことなんだ、と
素直に解釈し切ってはいなかった。
なんでだろう、おかしいとは思った。
だけど、自分がいくらおかしいと思っても、
現実は「休めば怒られ、休まなければその場は大丈夫」だった。
学校のある日に学校に行かないことは
悪いことかはともかく「もれなく恐怖を見ること」と
僕の中にはっきりと刷り込まれた。
休みの連絡時は、未だに手が震える。
ただ現状を伝えて、休みますと言えばいいだけなのに、
電話をかける前に20分くらい、ぐだぐだ考える。
疑われた時の言い訳、
こう返されたらこう弁明しよう、
許可されなかったらどうしよう、
やっぱり無理してでも行った方が楽なのか。
本当に20分くらい、
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると巡る。
過去に勤めた職場で、
休む時は必ず病院へ行き診断書を提出せよという
無茶を言ってくる企業もあった。
さすがにそんなことを言ってくる職場は
後にも先にもここだけだったが、
小学生の時に父から植え付けられた
休むことへの罪悪感に囚われたままの僕には、
休めない重圧が出勤よりも重く感じられた。
どんなに理不尽でも独善的でも、子どもにとって
親に制定されたルールに従わないというのは難しい。
学校を休むなというのは、
父にとって学校は絶対に行くべきところであり、
休むとその日の授業が受けられず勉強が遅れることであり、
何より”父にとって”絶対的な価値観である
学校=行くものというのは”子どものため”だった。
今から考えればまったく論理的でない、
ただ父が信仰しているだけの根性論。
だけど、怒鳴られる恐怖を味わってまで
そのルールを破って学校を休む力は、僕にはなかった。
休んだ日の後味の悪さと罪悪感は
未だに僕を支配している。
後ろめたさを感じずに、
自分の体調を信じて休めたらどんなにいいだろう、
そう思ったことは数知れない。
小学生の時に刷り込まれた
理不尽な罪悪感を恨めしくすら思う。
だけど1つだけ、当時の僕を褒めるとすれば、
休むなというルールを押し付けられながらも
僕は思考停止しなかったこと。
表に出すことはできなかったけど、
どうして休んじゃいけないんだろう、
何が理由なんだろうと、
常に自分なりに考え、
自分の意見を持とうとしていたことを
褒めてあげたい。
就労移行支援事業所への通所を休んだ。
それ自体は仕方ないことなのに、
その日はずっと、休んだことへの罪悪感、
後ろめたさを引きずっていた。
僕は何かを休むことを申し訳なく思ってしまう。
誰だって体調を崩したら休むし、
休まない人なんていないとわかっていても。
その理由は、
「自分がいないと仕事が回らない」
「他の人の負担が増える」
というような使命感や
自分がいない現場への憂慮ではない。
休日でないのに”休むこと”そのものが、
やってはいけないことのように感じてしまう。
僕が小学性の時、
「39度以上の熱が出なければ学校を休んではいけない」
という、父が作ったルールがあった。
朝、学校に行きたくないとぐずったり、
風邪をひいて少し調子悪そうにしていると、
「いいか!39度以上でないと休ませないからな!」
と、出勤する父が怒鳴っては、家を出ていった。
→「父との関係。(1) -小学校-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0
なぜ、学校を休んではいけないのか、
なぜ、39度以上という、
立っていられないほどの高熱が出ないと
休むことを許されなかったのか。
理由の説明はなかった。
休むことは悪いことなんだ、と
素直に解釈し切ってはいなかった。
なんでだろう、おかしいとは思った。
だけど、自分がいくらおかしいと思っても、
現実は「休めば怒られ、休まなければその場は大丈夫」だった。
学校のある日に学校に行かないことは
悪いことかはともかく「もれなく恐怖を見ること」と
僕の中にはっきりと刷り込まれた。
休みの連絡時は、未だに手が震える。
ただ現状を伝えて、休みますと言えばいいだけなのに、
電話をかける前に20分くらい、ぐだぐだ考える。
疑われた時の言い訳、
こう返されたらこう弁明しよう、
許可されなかったらどうしよう、
やっぱり無理してでも行った方が楽なのか。
本当に20分くらい、
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると巡る。
過去に勤めた職場で、
休む時は必ず病院へ行き診断書を提出せよという
無茶を言ってくる企業もあった。
さすがにそんなことを言ってくる職場は
後にも先にもここだけだったが、
小学生の時に父から植え付けられた
休むことへの罪悪感に囚われたままの僕には、
休めない重圧が出勤よりも重く感じられた。
どんなに理不尽でも独善的でも、子どもにとって
親に制定されたルールに従わないというのは難しい。
学校を休むなというのは、
父にとって学校は絶対に行くべきところであり、
休むとその日の授業が受けられず勉強が遅れることであり、
何より”父にとって”絶対的な価値観である
学校=行くものというのは”子どものため”だった。
今から考えればまったく論理的でない、
ただ父が信仰しているだけの根性論。
だけど、怒鳴られる恐怖を味わってまで
そのルールを破って学校を休む力は、僕にはなかった。
休んだ日の後味の悪さと罪悪感は
未だに僕を支配している。
後ろめたさを感じずに、
自分の体調を信じて休めたらどんなにいいだろう、
そう思ったことは数知れない。
小学生の時に刷り込まれた
理不尽な罪悪感を恨めしくすら思う。
だけど1つだけ、当時の僕を褒めるとすれば、
休むなというルールを押し付けられながらも
僕は思考停止しなかったこと。
表に出すことはできなかったけど、
どうして休んじゃいけないんだろう、
何が理由なんだろうと、
常に自分なりに考え、
自分の意見を持とうとしていたことを
褒めてあげたい。
2019年10月18日
勇気をもらったラグビー、アイルランド戦。
ここ10日くらいは再び気力を取り戻し、
先週は企業実習に通うことができた。
何をする気も起きず、
ただお気に入りの公園に行くだけだった
2週前に比べたら活動的になれている。
→「秋晴れと昼寝。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/324/0
無気力と回復を10日おきくらいに
行ったり来たりしていて、
まるでジェットコースターのように
気分の浮き沈みが不安定な日々なので、
近いうちにまた沈むかも知れない。
けど今、少し立ち直れて、
企業実習をしっかりこなす力になったきっかけは
たまたま観たラグビーワールドカップの
日本ーアイルランド戦で起こった番狂わせ。
僕の家にはTVがない。
だからスポーツ中継も普段は生で観れず、
ハイライトで知るのが常だった。
あの日、お気に入りの公園に
青空とマガモさんに会いに行った帰り、
行きつけのスーパーの休憩スペースで休んでいて、
設置されている大きなTVで偶然、
生放送で試合をやっていた。
2015年のラグビーワールドカップで
南アフリカに勝った試合に感動し、
少しルールを覚えた程度。
だけど、身長も体格も劣っている日本が
優勝候補と言われるアイルランド相手に
後半は気合の守備で無得点に抑えていたのは、
ラグビーは完全な素人の僕が見ても、
興奮を禁じ得なかった。
逆転勝利した瞬間、
飛び上がって抱き合う選手たちの
歓喜の輪を見た時、目頭が熱くなり、
いつの間にか涙が出ていた。
僕は何をする気力を無くしても、
スポーツに関わっていれば、まだ心が動くんだ。
そう教えてもらった。
それはバスケをプレーしたり、
自分がスポーツをするだけじゃなく、
感動的な試合を観戦することでも、
自分の中に残っている力を
呼び起こすことができるんだと教えてもらった。
スーパーの広い休憩スペースで
一人、密かに泣いてから、
帰って動画でハイライトを見返し、また泣いた。
次の日は少しだけ早起きし、
溜まっていた洗濯物を一気に片付けることができた。
保存期間が少々長くなって
乾燥しかけていた野菜を切り、
料理をすることもできた。
ジェットコースターのように
気分の浮き沈みが激しく、不安定な毎日。
明日、何もできなくなるかも知れないと、
布団に入る時には不安になる。
だけど、無気力に落ち込んでも
力をくれる方法を教えてくれた。
精神的に落ちたらまた、
アイルランド戦のハイライトを再生して、
歓喜の輪を作るジャパンを観よう。
【ラグビーワールドカップ2019|ハイライト】日本×アイルランド|プールA
https://www.youtube.com/watch?v=nxz-UjcoJ5k&t=319s
先週は企業実習に通うことができた。
何をする気も起きず、
ただお気に入りの公園に行くだけだった
2週前に比べたら活動的になれている。
→「秋晴れと昼寝。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/324/0
無気力と回復を10日おきくらいに
行ったり来たりしていて、
まるでジェットコースターのように
気分の浮き沈みが不安定な日々なので、
近いうちにまた沈むかも知れない。
けど今、少し立ち直れて、
企業実習をしっかりこなす力になったきっかけは
たまたま観たラグビーワールドカップの
日本ーアイルランド戦で起こった番狂わせ。
僕の家にはTVがない。
だからスポーツ中継も普段は生で観れず、
ハイライトで知るのが常だった。
あの日、お気に入りの公園に
青空とマガモさんに会いに行った帰り、
行きつけのスーパーの休憩スペースで休んでいて、
設置されている大きなTVで偶然、
生放送で試合をやっていた。
2015年のラグビーワールドカップで
南アフリカに勝った試合に感動し、
少しルールを覚えた程度。
だけど、身長も体格も劣っている日本が
優勝候補と言われるアイルランド相手に
後半は気合の守備で無得点に抑えていたのは、
ラグビーは完全な素人の僕が見ても、
興奮を禁じ得なかった。
逆転勝利した瞬間、
飛び上がって抱き合う選手たちの
歓喜の輪を見た時、目頭が熱くなり、
いつの間にか涙が出ていた。
僕は何をする気力を無くしても、
スポーツに関わっていれば、まだ心が動くんだ。
そう教えてもらった。
それはバスケをプレーしたり、
自分がスポーツをするだけじゃなく、
感動的な試合を観戦することでも、
自分の中に残っている力を
呼び起こすことができるんだと教えてもらった。
スーパーの広い休憩スペースで
一人、密かに泣いてから、
帰って動画でハイライトを見返し、また泣いた。
次の日は少しだけ早起きし、
溜まっていた洗濯物を一気に片付けることができた。
保存期間が少々長くなって
乾燥しかけていた野菜を切り、
料理をすることもできた。
ジェットコースターのように
気分の浮き沈みが激しく、不安定な毎日。
明日、何もできなくなるかも知れないと、
布団に入る時には不安になる。
だけど、無気力に落ち込んでも
力をくれる方法を教えてくれた。
精神的に落ちたらまた、
アイルランド戦のハイライトを再生して、
歓喜の輪を作るジャパンを観よう。
【ラグビーワールドカップ2019|ハイライト】日本×アイルランド|プールA
https://www.youtube.com/watch?v=nxz-UjcoJ5k&t=319s
2019年10月17日
祖父への怒りを叫ぶ父。
僕の鬱病がひどかった時、
仕事に行きたくないと泣きながら転げ回っていた。
その姿を見るたびに父は逆上し、こう怒鳴り続けた。
「男とはすべてを我慢して家族のために働くものだ!」
「お前は甘ったれている、社会の厳しさを舐めている!」
これは、自分の思い通りにならない息子への
苛立ちだけが言わせてるんだろうか。
もしかしたら、
自分にそんな価値観を植え付けた祖父への
怒りのメッセージでもあるんじゃないだろうか。
ー目次ー
高等教育を受けられなかった祖父は、父と叔父の進学のために
漁師をしながら炭鉱労働や青函トンネルの工事に携わった。
→「祖父と、父の起源。」
家族のために自分を犠牲にする祖父が示したのは、
「こうあるべき父親像」だとしたら。
祖父の命とひきかえに与えられた進学が示したのは、
「勉強ありき」に限定された、人生の選択肢だとしたら。
祖父の背中を見た父はこう思ったかも知れない。
「お父さんはあんなに命がけで働いて僕たちを勉強させようとしている。
だから僕はたくさん勉強して、お父さんみたいに必死で働かないといけないんだ。」
そうやって、祖父の期待に応えて生きるうちに、
「たくさん勉強して命がけで働くのが理想の男であり父親だ。
だから俺の息子も当然その通りに生きるべきだ。」
という価値観が形成されたんじゃないだろうか。
現代ほど多様な選択肢があった時代ではないし、
期待に応えて勉強で成果を出した父はすごい。
だけど、そうやって祖父の期待をなぞるのが
本当は苦しいとしたら。
父の心の奥底には、こんな怒りが眠ってるのかも知れない。
「お父さんの期待に応えてたくさん勉強して、必死に働いてきたけど苦しい。
お父さんはどうして僕にこんな苦しい人生しか教えてくれなかったんだろう。」
「男とはすべてを我慢して家族のために働く」のは、
祖父に植えつけられた価値観で、本当は納得していない。
なのに、それが自分のアイデンティティになってしまったのが、
心の底では腹立たしいんじゃないだろうか。
だとしたら、
「男とはすべてを我慢して家族のために働くべき」
を翻訳すると、
「俺にこんな価値観を植え付けた祖父が腹立たしい」
という祖父への怒りじゃないだろうか。
すべてを我慢して家族のために働くのは、本当は苦しい。
苦しいけど捨てられない。捨てたら、
すべてを我慢して家族のために働くのが、
正しいと信じて生きてきた人生が否定されるから。
すべてを我慢して家族のために働くことを捨てた後、
自分に何も残らないかも知れないのが怖いから。
父が怒りを爆発させる一番の理由は、
甘ったれず、社会の厳しさを舐めず、
すべてを我慢して働かない息子への苛立ちじゃない。
自分に苦しい価値観を刷り込んだ祖父への怒り。
親父をなぞって生きる俺は苦しい
→だから息子のお前も苦しむべき
→なのにお前は苦しもうとしない、許せない
→どうして親父はこんな生き方を教えたんだ
本人も気づかない、心の奥底では
こんな怒りの流れが起きてるんじゃないかな。
そんな、怒りの連鎖に気づいた僕は、
いろんな考えに触れ、たくさんの人と出逢いたい。
何が自分にとって大切かを
自分の意思で選び、判断する人間になりたい。
仕事に行きたくないと泣きながら転げ回っていた。
その姿を見るたびに父は逆上し、こう怒鳴り続けた。
「男とはすべてを我慢して家族のために働くものだ!」
「お前は甘ったれている、社会の厳しさを舐めている!」
これは、自分の思い通りにならない息子への
苛立ちだけが言わせてるんだろうか。
もしかしたら、
自分にそんな価値観を植え付けた祖父への
怒りのメッセージでもあるんじゃないだろうか。
ー目次ー
- 命を削る祖父の生き方が、いつしか父の生き方に
- 怒りの正体は"俺にこんな価値観を植え付けた祖父が腹立たしい"
- 怒りの連鎖から抜け出し、いろんな価値観に出逢いたい
1.命を削る祖父の生き方が、いつしか父の生き方に
高等教育を受けられなかった祖父は、父と叔父の進学のために
漁師をしながら炭鉱労働や青函トンネルの工事に携わった。
→「祖父と、父の起源。」
家族のために自分を犠牲にする祖父が示したのは、
「こうあるべき父親像」だとしたら。
祖父の命とひきかえに与えられた進学が示したのは、
「勉強ありき」に限定された、人生の選択肢だとしたら。
祖父の背中を見た父はこう思ったかも知れない。
「お父さんはあんなに命がけで働いて僕たちを勉強させようとしている。
だから僕はたくさん勉強して、お父さんみたいに必死で働かないといけないんだ。」
そうやって、祖父の期待に応えて生きるうちに、
「たくさん勉強して命がけで働くのが理想の男であり父親だ。
だから俺の息子も当然その通りに生きるべきだ。」
という価値観が形成されたんじゃないだろうか。
2.怒りの正体は"俺にこんな価値観を植え付けた祖父が腹立たしい"
現代ほど多様な選択肢があった時代ではないし、
期待に応えて勉強で成果を出した父はすごい。
だけど、そうやって祖父の期待をなぞるのが
本当は苦しいとしたら。
父の心の奥底には、こんな怒りが眠ってるのかも知れない。
「お父さんの期待に応えてたくさん勉強して、必死に働いてきたけど苦しい。
お父さんはどうして僕にこんな苦しい人生しか教えてくれなかったんだろう。」
「男とはすべてを我慢して家族のために働く」のは、
祖父に植えつけられた価値観で、本当は納得していない。
なのに、それが自分のアイデンティティになってしまったのが、
心の底では腹立たしいんじゃないだろうか。
だとしたら、
「男とはすべてを我慢して家族のために働くべき」
を翻訳すると、
「俺にこんな価値観を植え付けた祖父が腹立たしい」
という祖父への怒りじゃないだろうか。
すべてを我慢して家族のために働くのは、本当は苦しい。
苦しいけど捨てられない。捨てたら、
すべてを我慢して家族のために働くのが、
正しいと信じて生きてきた人生が否定されるから。
すべてを我慢して家族のために働くことを捨てた後、
自分に何も残らないかも知れないのが怖いから。
3.怒りの連鎖から抜け出し、いろんな価値観に出逢いたい
父が怒りを爆発させる一番の理由は、
甘ったれず、社会の厳しさを舐めず、
すべてを我慢して働かない息子への苛立ちじゃない。
自分に苦しい価値観を刷り込んだ祖父への怒り。
親父をなぞって生きる俺は苦しい
→だから息子のお前も苦しむべき
→なのにお前は苦しもうとしない、許せない
→どうして親父はこんな生き方を教えたんだ
本人も気づかない、心の奥底では
こんな怒りの流れが起きてるんじゃないかな。
そんな、怒りの連鎖に気づいた僕は、
いろんな考えに触れ、たくさんの人と出逢いたい。
何が自分にとって大切かを
自分の意思で選び、判断する人間になりたい。