2022年03月04日
勧善懲悪が人気なのは、救済願望を満たしてくれるからではないか。
ー目次ー
多くの男の子が、
「戦隊ヒーローアニメ」にハマった時期があると思う。
僕も幼少期は戦隊ヒーローアニメが好きだった。
戦隊ヒーローアニメは1つのシリーズが終わっても、
新たな「●●レンジャー」シリーズが始まる。
観る人を飽きさせず、続編へ引き込む魅力がある。
なのに、僕はなぜか1つのシリーズが完結した時点で
「戦隊ヒーローアニメが好きな時期」が終わってしまった。
まわりの男の子が好きな戦隊ヒーローアニメの話で盛り上がる中、
僕はこんな思いを抱えていた。
『怪獣さん…あんなに打たれて、殴られて、最後は爆発して…
さぞ痛かったろうな、苦しかったろうな…』
『生まれ変われたら、もう戦わなくていい人生になってほしいな』
『怪獣たちはどうして退治されなきゃいけないんだろう?
どうしていつもレンジャーが勝つんだろう?』
『どうして”悪が倒される絵”は、こんなに多くの人を惹きつけるんだろう?』
僕は「勧善懲悪」モノのアニメやドラマを、素直に楽しめなかった。
懲悪される側が切られたり、殺されたりするたびに、
自分がそうされたように感じた。心が痛かった。
退治された側の姿に感極まって泣いたこともあった。
いつも懲悪される側の気持ちと一体化するクセがついた僕は、
「勧善懲悪はおかしくないか?」と思い始めた。
善が悪を退治する、それはあまりに一方的だ。
なのに、短期間でも戦隊ヒーローアニメが好きだった自分もいた。
「自分の中にも、善が悪を退治することを肯定する気持ちが潜んでいる」
それを受け入れるのがつらかった。
勧善懲悪モノや、戦隊ヒーローモノがどれだけ好きかは、
「その人がどれだけヒーローを求めているか」に比例すると思う。
何を救ってくれるのか、それは
「自分の人生を救ってくれるヒーロー」だ。
・自分が理想とする人生と、現在の自分の人生がかけ離れている
・自分はいちばん愛されたかった人にさえ、愛されない存在だと思い知る
・自分の無力さ、凡庸さ、何も成し遂げられない苛立ち
そういった無力感や敗北感を強く味わった人ほど、
”自分を救済してくれるヒーロー”の登場に心が踊るんじゃないだろうか。
対する悪の怪獣は、たとえば
・学校でいじめられた
・親が関心を向けてくれなかった
・部活でレギュラーになれなかった
・お金持ちになれなかった
・出世できなかった
などの、「自分に無力感を与える何か」が化けた姿だ。
そして、”自分の無力感が化けた悪の怪獣”に立ち向かい、
自分を救ってくれるヒーローこそが水戸黄門であり、レンジャーだ。
正義のヒーローが悪を倒す、その熱狂の根底には、
「自分の人生を一発逆転してほしい」
という救済願望があるんじゃないだろうか。
水戸黄門もウルトラマンも、戦隊ヒーローシリーズも、
いまだに高い人気を誇っている。
なぜ勧善懲悪モノは、これほど広く受け入れられるのか。
その理由は
・ヒーロー:自分の人生を救ってくれる存在
・悪の怪獣:自分に屈辱感を与える何か
だとしたら、
「自分はこんなものじゃないはずなのに、くすぶっている」
という思いを隠し持つ人に、強烈に刺さるから
ではないかと思う。
自分は本当は怪獣に打ち勝てるはずなのに、現状に甘んじている。
その怪獣を倒してくれる、理想の強さを備えたヒーローが現れてくれる。
一方で、
「自分の人生にはヒーローなど現れない、現状は自分で変えるしかない」
ことも、うすうすわかっている。
・自分の無力さと向き合うことへの葛藤
・善悪と真っ二つにできない現実世界
・どこまでもグレーで、正解へたどり着けない苦しみ
勧善懲悪モノは、それらをきれいに割り切ってくれる。
葛藤から解放してくれる。
だからこそ、救済願望を抱えた多くの人に
受け入れられるんだと思う。
僕が勧善懲悪モノに違和感を覚えたのは、
「一方的に善を主張する者たちが
一方的に悪と決めつけられた者たちを粛清する」
ことに疑問を持ったからだ。
ある日、”退治される側の視点”に気づいてしまった。
では、なぜ”退治される側”からヒーローを見るようになるのか。
なぜ勧善懲悪モノを楽しめなくなる人が出てくるのか。
それは、何かをきっかけに
悪の怪獣を
”自分に無力感を与える何か”に置き換えられなくなったから
ではないか。
そして、怪獣をそんな目で見られなくなる理由は
「何が来ても自分で倒せるようになったから」
「ヒーローが必要なくなったから」
というポジティブなものではないと思う。
自分の人生にはヒーローなど現れないことが確信に変わったからだ。
良く言えば「悟った」
悪く言えば「諦めた」
そんな境地へたどり着く出来事があったとき、
人は勧善懲悪モノへの熱狂が冷めるんじゃないだろうか。
世の中には
「人生の幸福度を上げよう」
「一度きりの人生、やりたいことをやろう」
という言葉があふれている。
みんなが幸せを感じているなら、
世の中にそういうポジティブな言葉があふれるだろうか。
それは裏返せば、多くの人が
「生きることは、苦しみの方が何倍も多い」
ことに気づいているからじゃないだろうか。
人生には幸せの方が多いなら、
どんな怪獣が現れても自分で倒せるなら、
ヒーローなど必要ない。
なのに勧善懲悪モノがこれほど受け入れられるのは、
ヒーローに救われたい人がそれだけ多いからだ。
勧善懲悪モノは、
多くの人が心の奥底に抱える葛藤に応えてくれる。
正解のない答えを選び続ける苦しみを、一刀両断してくれる。
「自分の理不尽な苦しみには意味がある」と思わせてくれる。
だから、
「一方的な正義が、一方的な悪を討つ」
という構図はこれからも、
人間の救済願望を満たし続けるんじゃないだろうか。
- 勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”
- 救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む
- 勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる
- 熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信
- 救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”
1.勧善懲悪への違和感、”なぜ怪獣はいつも、ヒーローに退治されるのか”
多くの男の子が、
「戦隊ヒーローアニメ」にハマった時期があると思う。
僕も幼少期は戦隊ヒーローアニメが好きだった。
戦隊ヒーローアニメは1つのシリーズが終わっても、
新たな「●●レンジャー」シリーズが始まる。
観る人を飽きさせず、続編へ引き込む魅力がある。
なのに、僕はなぜか1つのシリーズが完結した時点で
「戦隊ヒーローアニメが好きな時期」が終わってしまった。
まわりの男の子が好きな戦隊ヒーローアニメの話で盛り上がる中、
僕はこんな思いを抱えていた。
『怪獣さん…あんなに打たれて、殴られて、最後は爆発して…
さぞ痛かったろうな、苦しかったろうな…』
『生まれ変われたら、もう戦わなくていい人生になってほしいな』
『怪獣たちはどうして退治されなきゃいけないんだろう?
どうしていつもレンジャーが勝つんだろう?』
『どうして”悪が倒される絵”は、こんなに多くの人を惹きつけるんだろう?』
僕は「勧善懲悪」モノのアニメやドラマを、素直に楽しめなかった。
懲悪される側が切られたり、殺されたりするたびに、
自分がそうされたように感じた。心が痛かった。
退治された側の姿に感極まって泣いたこともあった。
いつも懲悪される側の気持ちと一体化するクセがついた僕は、
「勧善懲悪はおかしくないか?」と思い始めた。
善が悪を退治する、それはあまりに一方的だ。
なのに、短期間でも戦隊ヒーローアニメが好きだった自分もいた。
「自分の中にも、善が悪を退治することを肯定する気持ちが潜んでいる」
それを受け入れるのがつらかった。
2.救済願望、”自分の人生を救ってくれるヒーロー”を望む
勧善懲悪モノや、戦隊ヒーローモノがどれだけ好きかは、
「その人がどれだけヒーローを求めているか」に比例すると思う。
何を救ってくれるのか、それは
「自分の人生を救ってくれるヒーロー」だ。
・自分が理想とする人生と、現在の自分の人生がかけ離れている
・自分はいちばん愛されたかった人にさえ、愛されない存在だと思い知る
・自分の無力さ、凡庸さ、何も成し遂げられない苛立ち
そういった無力感や敗北感を強く味わった人ほど、
”自分を救済してくれるヒーロー”の登場に心が踊るんじゃないだろうか。
対する悪の怪獣は、たとえば
・学校でいじめられた
・親が関心を向けてくれなかった
・部活でレギュラーになれなかった
・お金持ちになれなかった
・出世できなかった
などの、「自分に無力感を与える何か」が化けた姿だ。
そして、”自分の無力感が化けた悪の怪獣”に立ち向かい、
自分を救ってくれるヒーローこそが水戸黄門であり、レンジャーだ。
正義のヒーローが悪を倒す、その熱狂の根底には、
「自分の人生を一発逆転してほしい」
という救済願望があるんじゃないだろうか。
3.勧善懲悪は、正解のない現実世界に”答え”を用意してくれる
水戸黄門もウルトラマンも、戦隊ヒーローシリーズも、
いまだに高い人気を誇っている。
なぜ勧善懲悪モノは、これほど広く受け入れられるのか。
その理由は
・ヒーロー:自分の人生を救ってくれる存在
・悪の怪獣:自分に屈辱感を与える何か
だとしたら、
「自分はこんなものじゃないはずなのに、くすぶっている」
という思いを隠し持つ人に、強烈に刺さるから
ではないかと思う。
自分は本当は怪獣に打ち勝てるはずなのに、現状に甘んじている。
その怪獣を倒してくれる、理想の強さを備えたヒーローが現れてくれる。
一方で、
「自分の人生にはヒーローなど現れない、現状は自分で変えるしかない」
ことも、うすうすわかっている。
・自分の無力さと向き合うことへの葛藤
・善悪と真っ二つにできない現実世界
・どこまでもグレーで、正解へたどり着けない苦しみ
勧善懲悪モノは、それらをきれいに割り切ってくれる。
葛藤から解放してくれる。
だからこそ、救済願望を抱えた多くの人に
受け入れられるんだと思う。
4.熱狂が冷める瞬間、”人生にヒーローは現れない”という確信
僕が勧善懲悪モノに違和感を覚えたのは、
「一方的に善を主張する者たちが
一方的に悪と決めつけられた者たちを粛清する」
ことに疑問を持ったからだ。
ある日、”退治される側の視点”に気づいてしまった。
では、なぜ”退治される側”からヒーローを見るようになるのか。
なぜ勧善懲悪モノを楽しめなくなる人が出てくるのか。
それは、何かをきっかけに
悪の怪獣を
”自分に無力感を与える何か”に置き換えられなくなったから
ではないか。
そして、怪獣をそんな目で見られなくなる理由は
「何が来ても自分で倒せるようになったから」
「ヒーローが必要なくなったから」
というポジティブなものではないと思う。
自分の人生にはヒーローなど現れないことが確信に変わったからだ。
良く言えば「悟った」
悪く言えば「諦めた」
そんな境地へたどり着く出来事があったとき、
人は勧善懲悪モノへの熱狂が冷めるんじゃないだろうか。
5.救済願望を満たす構図、”一方的な正義が、一方的な悪を討つ”
世の中には
「人生の幸福度を上げよう」
「一度きりの人生、やりたいことをやろう」
という言葉があふれている。
みんなが幸せを感じているなら、
世の中にそういうポジティブな言葉があふれるだろうか。
それは裏返せば、多くの人が
「生きることは、苦しみの方が何倍も多い」
ことに気づいているからじゃないだろうか。
人生には幸せの方が多いなら、
どんな怪獣が現れても自分で倒せるなら、
ヒーローなど必要ない。
なのに勧善懲悪モノがこれほど受け入れられるのは、
ヒーローに救われたい人がそれだけ多いからだ。
勧善懲悪モノは、
多くの人が心の奥底に抱える葛藤に応えてくれる。
正解のない答えを選び続ける苦しみを、一刀両断してくれる。
「自分の理不尽な苦しみには意味がある」と思わせてくれる。
だから、
「一方的な正義が、一方的な悪を討つ」
という構図はこれからも、
人間の救済願望を満たし続けるんじゃないだろうか。
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