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2022年03月11日

【うつ病経験】”生きている”と、”死んでいない”は違う。

僕は十数年前に、うつ病を発症した。

いまも抗うつ薬は欠かせないが、
自力で生活を送れるようになった。

仕事に行ったり、バスケや草野球に熱中したり、
こうしてブログを書いたりできるまでになった。



うつ病を経験して以来、つくづくこう思う。

「生きている」と「死んでいない」は違う

いったい何を言っているのか、と思われるだろう。

何をもって”死”なのか、脳死はどうなのか、
そういうことは難しくてわからない。

だから、これはうつ病経験者の個人的な感想。


ー目次ー
  1. うつ病はすべての気力を奪い、心を消し飛ばす
  2. うつ病の底に着くと、ただ死んでいないだけになる
  3. 人生に絶望できるうちは、まだ生きている
  4. うつ病になるのは、感情を抑圧しすぎたとき
  5. ”メンヘラ”を蔑称として使わないで
  6. ”生きている自分”の感情を大切に

1.うつ病はすべての気力を奪い、心を消し飛ばす

僕はうつ病を発症して数ヶ月後に仕事を辞めた。
そこから、さらに数ヶ月を寝たきりで過ごした。

目に映るのは、薄暗い部屋の天井だけ。
起き上がろうにも、身体が鉛のように重くて起きられなかった。

昼夜を問わず、すさまじい眠気に襲われた。
それもつらかったが、何よりつらかったのは、

「何をする気力もわいてこない」ことだった。

”何を”とは仕事や趣味などという、高度なことじゃない。
「指を動かそう」「目を開けよう」という気力すらわかないのだ。



この期間、僕は死んでいなかった。
いや、死んでいないだけで、生きてはいなかった。

細胞やら何やらが稼働して、生き物としては維持されていた。
しかしそれは、”ヒト型をした空っぽの入れ物が横たわっているだけ”だった。

ただ空虚だった。
自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかもわからなかった。

まるで、心が消し飛んでしまったようだった。

2.うつ病の底に着くと、ただ死んでいないだけになる

僕にはバスケという生きがいがあったおかげで、
立ち直ることができた。

動けるようになるにつれて、
自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかが、
少しずつわかるようになっていった。

この経験から、僕は

・”死んでいない”とは
 「心が消し飛んだか、マヒした状態」

・”生きている”とは
 「自分が何を考えているのか、どんな感情でいるのかがわかる状態」


ではないかと思うようになった。



突き詰めれば
「心なんてない、すべては脳の電気信号」なんだろう。

あらゆる感情は、脳が作り出した
「生き残るための指示の副産物」かもしれない。

そうだとしても、寝たきりだった頃の僕は、
脳がどんな信号を発しているかもわからなくなっていた。

3.人生に絶望できるうちは、まだ生きている

うつ病の進行から回復には、大きな波がある。

発症すると、短期間でどん底へ落ちる。
身体が重くなったり、眠気に襲われたりする。

その間の気分は、
「すべてをネガティブに捉える」「深く落ち込む」から、
やがて絶望へ変わっていく。

「生きていても仕方ない」とか、「自殺」とか、
うつ病と聞いて浮かぶイメージ通りの思いが頭を支配する。
これが「希死念慮」だ。



そして、本当に底の底まで落ちると、
絶望も希死念慮も消し飛ぶ。


自分の目は、薄暗い部屋の天井を映しているだけ。
自分の手足は、布団に横たわっている感触があるだけ。

何も感じない。
ただの装置と化した自分に対しても、何も思わない。
今後の人生を憂うことも、生きていても仕方ないと自責することも。


だから、



人生に絶望できるうちは、まだ生きている。



自分を諦めることも、絶望もできなくなったとき。
それが”生きている”から”死んでいない”に変わるときだ。

4.うつ病になるのは、感情を抑圧しすぎたとき

人はどんなときに、うつ病になってしまうのか。

僕は専門的なことはわからないが、
「長期間、我慢しすぎたとき」だと思う。

その我慢は本人が無自覚な場合が多い。
まるで起床したら顔を洗うかのように、
我慢が生活のルーティンになっている。



その我慢の中身は何かというと、
「自分の感情の抑圧」だ。

たとえば、

・親から怒鳴られたが言い返せなかった
・やりたくない塾や習い事をやらされたが拒否できなかった
・ケンカばかりする両親のために作り笑顔ですごした
・学校でいじめられても相談せずに耐えた

ときに、怒りや悲しみを抑圧する経験を繰り返すこと。

感情を表現したら親に捨てられる、
あるいはクラスメイトに嫌われる。

それを避けるため、生き延びるために、
人は自分の感情を押し殺してしまう。



「沸き上がった感情なんて一時的なものでしょ?
 その場を乗り切れるなら抑えたって問題ない」


僕はうつ病を患うまでそう思っていた。
だけどうつ病を経験して、骨身にしみてわかった。

感情を抑えても、その感情は消えずにたまっていく。



「私は我慢しすぎました」などと、
悲劇のヒロインを演じたいわけじゃない。

ただ、僕は痛い目にあったことで、
感情の抑圧が当たり前になることが
いかに危険かを理解したつもりだ。

自分では感情の抑圧に気づかなくても、
身体には確かに、うつ病のトリガーとして刻まれている。


5.”メンヘラ”を蔑称として使わないで

和を重んじ、我慢を美徳とする日本がなぜ、うつ病大国なのか。
空気を読み、控え目が好まれる日本がなぜ、自殺大国なのか。

それは常に、上の立場の者が、
下の立場の者の感情を押さえつけてきたからじゃないだろうか。




心を病んでしまった者に対して、
気軽にこんな言葉が投げかけられることがある。

「メンヘラ」

気軽に使われるのは、
精神疾患が広く認知され、市民権を得たからかもしれない。
その気軽さで、精神疾患の恐ろしさが広まってくれるなら嬉しい。

だけど「メンヘラ」はしばしば
”めんどくさいかまってちゃん”という意味での蔑称として使われる。


「あいつウツだって、メンヘラかよ」

そんな心ない言葉が、あまりにも気軽に誰かを傷つける。



僕はこれも
「上の立場の者が、下の立場の者の感情を押さえつける国」
の弊害じゃないかと思う。

彼らはいつも、誰かより優位に立てるチャンスに飢えている。
「自分はメンタルを病むようなヤツより強い」と思いたがっている。


なぜなら、ずっと感情を押さえつけられてきたからだ。
「下の立場になると押さえつけられる」という恐怖があるからだ。

6.”生きている自分”の感情を大切に

うつ病になると、本当に何もできなくなる。
数ヶ月から年単位で、人生の貴重な残り時間が奪われる。

薬で症状を抑えている場合は、言い方は悪いが”薬漬けの身体”になる。
抗うつ薬や睡眠薬を切らすと、禁断症状に苦しむことになる。

また、うつ病は再発率が6割と言われている。

回復しても、心が壊れやすくなっているので、
ちょっと無理をすると簡単に病む。


以前はあったはずの”万全な状態”を感じられないまま、
立ち直れずに自殺してしまう人もいる。



だから僕は、うつ病から生還できた1人として願う。

どうか、「メンヘラ」という言葉を蔑称として使わないでほしい。
どうか、精神疾患を「気持ちの問題」と切り捨てないでほしい。

どうか、”死んでいない自分”になることのない人生を送ってほしい。
どうか、”生きている自分”の感情を大切にしてほしい。











posted by 理琉(ワタル) at 19:54 | TrackBack(0) | 人生観

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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