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2018年12月06日

父との関係。(1) -小学校-

僕の記憶に父が初登場したのは
小学校に上がってまもなくでしょうか。

それ以前にもいいことはあったのかも知れないけど、
今は思い出そうとしても出てこないです。

わかり合えたとは決して言えない父との関係について、

大長編になりそうなので
今回は小学生の時のエピソードをお話します。



僕の父はいわゆる「昭和の熱血高校教師」で、
定年後も私立の進学校で再雇用され
教壇に立っている(と聞いている)人です。

幼い頃から勉強一筋、僕から見ても
勉強以外やって来なかったのかと思うくらい
常に机に向かっているような人で、

男は我慢と忍耐、労働と犠牲こそ美徳
というメンタリティはとても強固に見えました。

人の話に耳を傾けるという概念はなく、
ひたすら持論を演説のように語り続けてはばからない、
自分の意見、信念を決して曲げない人でした。



対して僕はというと、1歳前から歩き回り、
言葉も出ていたものの、

おしゃべりはほとんどせず、
表情の変化もなく誰かと関わろうともせず、

一人で好きな本を読んでいたり
当時好きだったミニカーを並べたりと、
典型的な自閉傾向がありました。



年長の5月から幼児園に通い、
少しだけ団体行動を経験し小学校へ上がりましたが、
程なくしてつまづきました。

集団生活の経験値が原因かはわかりませんが、
自分がやりたいことを人に言わずに黙々とやるためか、

「わがまま」「何考えてるかわからない」と、
横並びが良しとされる学校生活の中で目立ってしまい、
瞬く間に同級生や先生から目を付けられました。



入学して間もなくつまづいていることはもちろん、
学校で何をしたか、どんな気持ちになったかを
僕は家で一切口にしませんでした。

嫌な思いをすることの方が多く、
時に泣きながら帰り道を歩くこともあったのに、
家に帰るまでには表情を整えて黙っていました。

しかし、2〜3年生になる頃には
明らかに学校に行きたくないという
ふてくされた態度が目立ち始めていました。



一方、当時からその都市1番の進学校に勤めていた父は
勉強と学校は絶対と信じ、自分は学校を休んだことがないと
豪語するくらいに「学校は行って当たり前」でした。

そんな父の登校への価値観に反する上に
学校へ行きたくないが何も言わない僕の態度が
余計に怒りの火種となり、

毎朝、学校を休ませてもらえなくて
父に怒鳴られるようになりました。



「39℃以上の熱が出ないと休ませないからな!」



当時、登校拒否したいと思っていた僕はちょうど
クラスや各教科の担任が変わったタイミングで、

左利きであることや、過去に孤立しがちだった実績を
新しい先生からつつかれるようになっていました。

特に左利きに関しては、当時のクラス担任が嫌っていて、
周り(右利き)と違うことで差別的な扱いを受けました。

→「左利きでよかった。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/7/0

これを発端に、机を教室の隅へ隔離されたり、
ホームルームで「これからわがままなやつを発表する」
という宣告の後、僕の名前が呼ばれたりしました。



同級生よりも先生の方が大きな敵となってしまい、
教室の隅へ隔離された机に着きたくもないので、

始めのうちは毎朝、父に学校を休みたいと
勇気を出して頼んでいました。

しかし、体温が基準に満たないことや
学校を休むことがどれだけ悪であるかの持論を盾に
とにかく怒鳴られ、登校拒否の夢は散りました。

それでも何日かは諦めず、
勇気を振り絞って頼み続けましたが、

父の口調と返答の内容が毎回同じだったので、
諦めて何も言わなくなってしまいました。

この時、登校拒否をさせてもらえなかったことがきっかけで
父の印象が「怖い」で固定されてしまいました。

登校拒否は、登校という形で社会参加を促されている
子どもからの「ノー」のメッセージである。

何らかの形で社会に出ることに挫折した子どもが、
こんな生活はいやだと自己主張しているのだから、

親のほうが「ああ、そうかい」と言えば、
子どもは学校へ行く以外の自分の生活を模索するという
次の段階へと進むことができる。

しかしいつのころからか、
子どもは学校へ行くもの、行かなければ大変なことになると
思い込んでいるような親ばかりになっていて、
子どもの仕事放棄を見すごせなくなっている。


『家族という名の孤独』 第七章
”登校拒否すらできない子どもたち” より



先生に机を離されたり、クラス全員の前で何か言われるのは
5年生になり担任が変わるまで続きました。

父へ登校拒否を懇願するのはもう諦めていましたが、
それでもどうしても学校へ行きたくない時、

僕は月1くらいで体温計を布団でこすって
40℃近くに偽装してのズル休みを覚えていました。

誤魔化したり、嘘をつくようになってしまったんです。

罪悪感でいっぱいでしたが、
この方法で何度か父を騙すことができ、
「よし、休んでいい」という言葉に安堵してからは、

学校行きたくないメーター振り切り時の緊急用として、
僕の精神的な切り札に位置づけられました。



4年生を終える修了式で、僕の席を隔離した担任と、
授業中に名指しで罵ってきた理科の先生の2人が
市内の別の小学校へ転任になりました。

これにより、教室で惨めな思いをしなくて済むと思い、
体温偽装や登校拒否願望が徐々に減りました。

ひとまず嫌な顔をせず学校に行くようになったことで
父が怒鳴る頻度は減りましたが、

この頃にはもう父との会話が完全になくなり、
家には無言同士の重苦しい空気が漂っていました。



長くなりましたが、次回はこんな家庭の状態で
僕が地元の公立中学校へ進学した時のお話をしたいと思います。

ではまた。


posted by 理琉(ワタル) at 19:46 | TrackBack(0) | 家族

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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