2022年09月13日
毒親の葬儀に出席するかどうかは自分で決めていい。
ーー『私の親は、”毒になる親”だったのか…?』ーー
そう気づいた人。
気づかないが”生きづらさ”に悩む人。
気づいた上で距離を取った人。
そして、絶縁した人。
親との確執を抱える人の、最後にして最大の難問。
それは
『毒親の葬儀に出席するべきか?』
ではないだろうか。
僕も同じ問題で悩んだ。
僕は過去に”毒になる父親”と絶縁した。
「父の葬儀には出ない」と決めていた。
が、先日”毒になる父親”が亡くなった折、
僕は「出ない」と決めたはずの葬儀に出席した。
本記事では、僕がこの経験から感じたことを伝えたい。
『毒親の葬儀に出席するべきか?』
そう悩む人に、少しでも参考になれば嬉しい。
ー目次ー
結論。
毒親の葬儀に出るかどうかは自分で決めていい。
「苦しいから出席しない」
「仕方なくでも出席する」
どちらも正解だと思う。
「まわりがどう言おうと、私は出ない」
その意志を貫けるなら、出席しないハードルはかなり下がる。
「嫌だけど世間体が気になるから仕方なく出席する」
それだって、立派な理由だ。
・親戚からいろいろ言われたくない
・”セケンサマ”から「親の葬儀に出ないなんて」と思われたくない
それは”自分がない””打算”かもしれないが、
波風を立てず、うまく世渡りした結果でもある。
⇒【過度の一般化】”世間様”とは誰なのか。
毒親の葬儀に出席してもしなくても、後悔はする。
「悔いを残さない」は美徳とされがちだが、
後悔をゼロにすることは難しい。
出ないと決めていたのに出れば、
「自分の意志を貫き通せなかった」後悔が残る。
苦しさから出席しなければ、
「自分は逃げたのではないか?」という後悔が残る。
そもそも、僕らには
『親とうまくいかなかった後悔』が積もりに積もっている。
たとえどれだけ酷い親だったとしても、
悲しいことに親は特別な存在だ…。
「愛されたかった」
「気持ちを受け止めてほしかった」
生まれてからずっと、そう求め続けた相手。
特別な相手との関係に失敗した後悔と、罪悪感。
それは葬儀に出る出ないにかかわらず、
一生、付き合っていく感情なんだろう。
父の葬儀中、僕はまったく泣かなかった。
心の中は静まり返り、目の前の事実だけを淡々と受け入れた。
通夜でも、火葬場でも。
ずっと同居してきた母と妹は、夜通し泣いていた。
僕と家族との間には、果てしない距離ができていた。
父は高確率でアダルトチルドレンだ。
祖父母からの愛情不足も、
父が親の亡霊に追い詰められていることも、
僕はなんとなく気づいていた。
そしておそらく中〜重度の自閉症スペクトラム。
とりわけ「アスペルガー症候群」の気質が強い。
共感能力の低さから、コミュニケーションに苦労してきただろう。
ただ、父にどんな事情があろうと、
僕にとっては父は「危険な外敵」だった。
父が故人となり、
僕がもっとも強く感じたのは「安堵感」と「解放感」だった。
罵声、無関心、説教、支配…。
親がそういう関わり方を続けると、
子どもの心はもう戻って来れないほど離れてしまう。
結果、『葬儀で泣いてもらえなくなる』
だから、もし親の葬儀で泣けなくても、
自分を責めなくていい。
悲しいことだが、自分の親は最期まで
「子どもの心に気づけない人」だっただけ。
⇒話が通じない親には、”心の実体”が存在しないのではないか。
葬儀に出れば一応、”ケジメ”にはなる。
それでも、親へぶつけられなかった怒りや、
伝えきれなかった本音はどうしたって残る。
そのとき後悔と罪悪感に襲われたら、
「人との関係が完結して終わることはほとんどない」
ことを意識してほしい。
確かに、葬儀はイエ同士の付き合いや、慣習でもある。
それでも、葬儀はあくまで故人と自分が最後に向き合う場所。
どんな自分で向き合いたいかは、自分で選んでいい。
「”セケンサマ”や”ジョウシキ”が望む自分」も、
「憎しみも罪悪感も抱えた、偽りのない自分」も正解だから。
⇒絶縁した父の危篤 〜人の悩みの小ささと、人生のあっけなさ〜。
そう気づいた人。
気づかないが”生きづらさ”に悩む人。
気づいた上で距離を取った人。
そして、絶縁した人。
親との確執を抱える人の、最後にして最大の難問。
それは
『毒親の葬儀に出席するべきか?』
ではないだろうか。
僕も同じ問題で悩んだ。
僕は過去に”毒になる父親”と絶縁した。
「父の葬儀には出ない」と決めていた。
が、先日”毒になる父親”が亡くなった折、
僕は「出ない」と決めたはずの葬儀に出席した。
本記事では、僕がこの経験から感じたことを伝えたい。
『毒親の葬儀に出席するべきか?』
そう悩む人に、少しでも参考になれば嬉しい。
ー目次ー
- 葬儀に出席するかどうかは、自分で決めていい
- 葬儀に出席してもしなくても、後悔は残る
- 子どもを攻撃し過ぎると、葬儀で泣いてもらえなくなる
- どんな自分で、故人と向き合いたいか
1.葬儀に出席するかどうかは、自分で決めていい
結論。
毒親の葬儀に出るかどうかは自分で決めていい。
「苦しいから出席しない」
「仕方なくでも出席する」
どちらも正解だと思う。
「まわりがどう言おうと、私は出ない」
その意志を貫けるなら、出席しないハードルはかなり下がる。
「嫌だけど世間体が気になるから仕方なく出席する」
それだって、立派な理由だ。
・親戚からいろいろ言われたくない
・”セケンサマ”から「親の葬儀に出ないなんて」と思われたくない
それは”自分がない””打算”かもしれないが、
波風を立てず、うまく世渡りした結果でもある。
⇒【過度の一般化】”世間様”とは誰なのか。
2.葬儀に出席してもしなくても、後悔は残る
毒親の葬儀に出席してもしなくても、後悔はする。
「悔いを残さない」は美徳とされがちだが、
後悔をゼロにすることは難しい。
出ないと決めていたのに出れば、
「自分の意志を貫き通せなかった」後悔が残る。
苦しさから出席しなければ、
「自分は逃げたのではないか?」という後悔が残る。
そもそも、僕らには
『親とうまくいかなかった後悔』が積もりに積もっている。
たとえどれだけ酷い親だったとしても、
悲しいことに親は特別な存在だ…。
「愛されたかった」
「気持ちを受け止めてほしかった」
生まれてからずっと、そう求め続けた相手。
特別な相手との関係に失敗した後悔と、罪悪感。
それは葬儀に出る出ないにかかわらず、
一生、付き合っていく感情なんだろう。
3.子どもを攻撃し過ぎると、葬儀で泣いてもらえなくなる
父の葬儀中、僕はまったく泣かなかった。
心の中は静まり返り、目の前の事実だけを淡々と受け入れた。
通夜でも、火葬場でも。
ずっと同居してきた母と妹は、夜通し泣いていた。
僕と家族との間には、果てしない距離ができていた。
父は高確率でアダルトチルドレンだ。
祖父母からの愛情不足も、
父が親の亡霊に追い詰められていることも、
僕はなんとなく気づいていた。
そしておそらく中〜重度の自閉症スペクトラム。
とりわけ「アスペルガー症候群」の気質が強い。
共感能力の低さから、コミュニケーションに苦労してきただろう。
ただ、父にどんな事情があろうと、
僕にとっては父は「危険な外敵」だった。
父が故人となり、
僕がもっとも強く感じたのは「安堵感」と「解放感」だった。
罵声、無関心、説教、支配…。
親がそういう関わり方を続けると、
子どもの心はもう戻って来れないほど離れてしまう。
結果、『葬儀で泣いてもらえなくなる』
だから、もし親の葬儀で泣けなくても、
自分を責めなくていい。
悲しいことだが、自分の親は最期まで
「子どもの心に気づけない人」だっただけ。
⇒話が通じない親には、”心の実体”が存在しないのではないか。
4.どんな自分で、故人と向き合いたいか
葬儀に出れば一応、”ケジメ”にはなる。
それでも、親へぶつけられなかった怒りや、
伝えきれなかった本音はどうしたって残る。
そのとき後悔と罪悪感に襲われたら、
「人との関係が完結して終わることはほとんどない」
ことを意識してほしい。
人との関係が完全に完結して死ぬ人はほとんどいないのです。
もしあなたが自分にとっていちばんよいことだと信じて行動して、
後になって間違っていたかもしれないと感じたら、
あなたは悲しく思うかもしれません。
けれども、もし初めに自分が
いちばんよいことだと信じた通りに行動していなかったら、
おそらくあなたはその時点ですでに悲しいはずです。
『不幸にする親』 ”親の老いと死” より
確かに、葬儀はイエ同士の付き合いや、慣習でもある。
それでも、葬儀はあくまで故人と自分が最後に向き合う場所。
どんな自分で向き合いたいかは、自分で選んでいい。
「”セケンサマ”や”ジョウシキ”が望む自分」も、
「憎しみも罪悪感も抱えた、偽りのない自分」も正解だから。
⇒絶縁した父の危篤 〜人の悩みの小ささと、人生のあっけなさ〜。
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