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2019年10月16日
怒られない環境に違和感。
6月から通っている就労移行支援事業所、
そして先週から通っている企業実習。
本来なら素直に喜んでいいはずなのに、
今までずっと違和感を感じていることがある。
怒られない。
声を荒げられることがない。
否定されない。
この上なくありがたい環境なのに、
どうして僕は素直に喜べず、
何とも言えない違和感を感じてしまうんだろう。
自分を否定されない場所をずっと求めて来て、
やっと手に入ったのは素晴らしいことなのに、
どうして「何か裏があるのでは?」などと、
自分が恵まれていることを疑ってしまうんだろう。
これまで上手くやって来れなかったのが、
ここへ来てようやく成長して、
上手く立ち回れるようになったのかも知れない。
親に対する期待を捨てようと努めてきた中で、
それが他の環境でも良い方向へ行き始めているかも知れない。
職場、集団の中で上手くやる術を
学べている成果かも知れない。
だけど根本には、
僕の捉え方の歪みがあって、
裏で何か言われてるんじゃないか、
こんな良い環境は虫が良すぎるなどと、
不要な深読みは未だに最初に出てくる。
自分を否定される環境から、
自分の意思で、自分の選択で抜け出したのに、
僕はまだ、そんな選択をできた自分を
信じられていないんだろう。
自分の決断を一番信じてあげられるのは
誰でもない自分。
その自分への信頼が揺らいだままだから、
どんな恵まれた環境に身を置いても、
こんなに上手くいくはずがない、
何か裏があるなどと杞憂を重ねてしまう。
上手く行ってることに疑問を感じるなんて、
何とも奇妙な話だけど、
自己肯定感の低さから来る疑心暗鬼は
まだまだ高い壁を目の前に作り続けている。
今、この環境に、自分は居てもいいんだ。
頭ではわかっていること。
この違和感は、「そこに居ていい」と、
自分を心から許すために越える、最初のステップ。
そして先週から通っている企業実習。
本来なら素直に喜んでいいはずなのに、
今までずっと違和感を感じていることがある。
怒られない。
声を荒げられることがない。
否定されない。
この上なくありがたい環境なのに、
どうして僕は素直に喜べず、
何とも言えない違和感を感じてしまうんだろう。
自分を否定されない場所をずっと求めて来て、
やっと手に入ったのは素晴らしいことなのに、
どうして「何か裏があるのでは?」などと、
自分が恵まれていることを疑ってしまうんだろう。
これまで上手くやって来れなかったのが、
ここへ来てようやく成長して、
上手く立ち回れるようになったのかも知れない。
親に対する期待を捨てようと努めてきた中で、
それが他の環境でも良い方向へ行き始めているかも知れない。
職場、集団の中で上手くやる術を
学べている成果かも知れない。
だけど根本には、
僕の捉え方の歪みがあって、
裏で何か言われてるんじゃないか、
こんな良い環境は虫が良すぎるなどと、
不要な深読みは未だに最初に出てくる。
自分を否定される環境から、
自分の意思で、自分の選択で抜け出したのに、
僕はまだ、そんな選択をできた自分を
信じられていないんだろう。
自分の決断を一番信じてあげられるのは
誰でもない自分。
その自分への信頼が揺らいだままだから、
どんな恵まれた環境に身を置いても、
こんなに上手くいくはずがない、
何か裏があるなどと杞憂を重ねてしまう。
上手く行ってることに疑問を感じるなんて、
何とも奇妙な話だけど、
自己肯定感の低さから来る疑心暗鬼は
まだまだ高い壁を目の前に作り続けている。
今、この環境に、自分は居てもいいんだ。
頭ではわかっていること。
この違和感は、「そこに居ていい」と、
自分を心から許すために越える、最初のステップ。
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2019年10月15日
心の通い合いのない、時が止まった家。
子どもの頃の僕の家は、
昭和30年代で時が止まったかのような
異様な雰囲気の亭主関白家庭だった。
人の話を聞くことや、
誰かが話しているのを最後まで待つという概念の無い父、
相手の状態などお構いなしに
自分の言いたいことを言いたい時に、
延々と演説する父がすべての決定権を持つ。
母は常に父に従う。
何事にも反対や文句を一切言わず、
文字通り三歩後ろを歩いて夫を立てる。
僕の見えないところで
二人の話し合いがあったのかも知れないが、
それについての現場はついに一度も見ることなく、
触れてはいけないような秘密とさえ思わせた。
前時代的な家父長制のモデルは、と問われれば、
僕は真っ先に自分の育った家を挙げる。
父は恐ろしく、逆らってはならず、
自分の意思や意見を言ってはいけない存在。
反逆の先に何があるかわからない存在。
少なくとも子どもの時の僕はそう感じていた。
母はそんな父に慎ましくついて行く、
しかし子どもに対しても発信が何もない。
父が不機嫌で居間が険悪な雰囲気でも、
煙草の匂いが充満し、むせかえるほどになっても、
逆に不機嫌でなさそうでも、
この家は今、安全なのか、何が起きているのか、
どうしてこんなに空気がピリピリしているのか、
誰かが何かを言うことが許されるのか、
無言の空気を打ち破ってもいいのか、
何の説明もフォローもない。
あるのは、父の権力や機嫌によって
すべてが決まるという暗黙の、
しかし強靭な”掟”だけだった。
的の中心を射抜かれたかのように、グサリと刺さった。
幼稚園の年長から高校卒業まで過ごした
平屋建ての教員住宅。
連なる3棟の中で1棟だけ、
昭和30年代に取り残されていた。
僕の家にかけてあるカレンダーだけ、
1950年代からめくられることなく、
次の年のカレンダーが用意されるでもなく、
この独裁政権的な家父長制は
4LDKの狭い空間で永遠に続くとさえ思わせた。
止まった時が動き出す瞬間は
年に1〜2回、母方祖父母の家に遊びに行った時。
外の世界はあまりにも時間の流れが早かった。
タイムカプセルに埋められる日々に戻りたくなくて、
帰り際にはいつも涙をこらえ切れなかった。
→「帰り際の涙。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/271/0
二度と戻りたくはない、
時間の流れが止まった異様な空間。
何をしても、しなくても、
怒鳴られても褒められなくても
めくられないカレンダー。
認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、
甘えたい、頼りたい。
家の外で抱く思いは
あの家のドアを開けた瞬間に凍り付いた。
夫婦の役割分担としてバランスは取れていたんだろう。
家族組織という集団を”運営する”機能は果たしていたんだろう。
だが、それだけ。
子どもの心、気持ちにはまったく無関心なまま、
彼らは今日も明日も明後日も、
ただひたすら、カレンダーが
めくられないことを望んでいるようだった。
ただひたすら、時間を止め続けた。
まるで彼らの支配を永遠のものにしたいかのように。
僕は家族という、機械的に運営される集団の中にいた。
僕の心は誰に関心を持たれるでもなく、
平屋の教員住宅に置き去りになった。
昭和30年代で時が止まったかのような
異様な雰囲気の亭主関白家庭だった。
人の話を聞くことや、
誰かが話しているのを最後まで待つという概念の無い父、
相手の状態などお構いなしに
自分の言いたいことを言いたい時に、
延々と演説する父がすべての決定権を持つ。
母は常に父に従う。
何事にも反対や文句を一切言わず、
文字通り三歩後ろを歩いて夫を立てる。
僕の見えないところで
二人の話し合いがあったのかも知れないが、
それについての現場はついに一度も見ることなく、
触れてはいけないような秘密とさえ思わせた。
前時代的な家父長制のモデルは、と問われれば、
僕は真っ先に自分の育った家を挙げる。
父は恐ろしく、逆らってはならず、
自分の意思や意見を言ってはいけない存在。
反逆の先に何があるかわからない存在。
少なくとも子どもの時の僕はそう感じていた。
母はそんな父に慎ましくついて行く、
しかし子どもに対しても発信が何もない。
父が不機嫌で居間が険悪な雰囲気でも、
煙草の匂いが充満し、むせかえるほどになっても、
逆に不機嫌でなさそうでも、
この家は今、安全なのか、何が起きているのか、
どうしてこんなに空気がピリピリしているのか、
誰かが何かを言うことが許されるのか、
無言の空気を打ち破ってもいいのか、
何の説明もフォローもない。
あるのは、父の権力や機嫌によって
すべてが決まるという暗黙の、
しかし強靭な”掟”だけだった。
私の育った家では、何事においても意見が何もないのだ。「危険なボートを揺すってはいけないという感覚」が、
子供の時から、夕食の時ですら家族の会話はほとんどなかった。
それで、危険なボートを揺すってはいけないという感覚が
小さな頃からずっと身にしみついていた。
『不幸にする親』第四章 より
的の中心を射抜かれたかのように、グサリと刺さった。
幼稚園の年長から高校卒業まで過ごした
平屋建ての教員住宅。
連なる3棟の中で1棟だけ、
昭和30年代に取り残されていた。
僕の家にかけてあるカレンダーだけ、
1950年代からめくられることなく、
次の年のカレンダーが用意されるでもなく、
この独裁政権的な家父長制は
4LDKの狭い空間で永遠に続くとさえ思わせた。
止まった時が動き出す瞬間は
年に1〜2回、母方祖父母の家に遊びに行った時。
外の世界はあまりにも時間の流れが早かった。
タイムカプセルに埋められる日々に戻りたくなくて、
帰り際にはいつも涙をこらえ切れなかった。
→「帰り際の涙。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/271/0
二度と戻りたくはない、
時間の流れが止まった異様な空間。
何をしても、しなくても、
怒鳴られても褒められなくても
めくられないカレンダー。
認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、
甘えたい、頼りたい。
家の外で抱く思いは
あの家のドアを開けた瞬間に凍り付いた。
夫婦の役割分担としてバランスは取れていたんだろう。
家族組織という集団を”運営する”機能は果たしていたんだろう。
だが、それだけ。
子どもの心、気持ちにはまったく無関心なまま、
彼らは今日も明日も明後日も、
ただひたすら、カレンダーが
めくられないことを望んでいるようだった。
ただひたすら、時間を止め続けた。
まるで彼らの支配を永遠のものにしたいかのように。
僕は家族という、機械的に運営される集団の中にいた。
僕の心は誰に関心を持たれるでもなく、
平屋の教員住宅に置き去りになった。
2019年10月14日
8分間で18得点。
試合時間、残り8分、
119−134、15点差。
最終スコア
137−140
正確には、
得点板が一旦140−140にめくられ、
直後に137点に戻った。
僕は夢中だった。
残り45秒の、137点目となった
ロング2ポイントシュートしか覚えていない。
けど、試合後に仲間に教えてもらったところによると、
この8分間で9本連続でフィールドゴールを決めたらしい。
残り8分から決めたはずの
最初の8本のシュートはどうやって打ったのか、
今でも思い出せない。
3点差に迫った残り45秒、
相手に時間を使われ、ボールを奪えないまま
24秒ショットクロック直前にファウルで時計を止める。
コートいっぱいに広く使われ、
巧みにボールを回されてしまった。
フリースローにならなかったが、
結局ラスト数秒までボールを奪えなかった。
ラスト数秒でマイボールとし、
味方からの縦パスを受けた僕は
一気に相手3ポイントラインまで走ろうとした。
時間がない。
ハーフコートと相手3ポイントラインの間くらいで、
もう試合終了のブザーが鳴ろうかというところ、
僕はがむしゃらにスリーポイントを放った。
なんと、入った。
137から140に得点がめくられた。
が、直後にノーカウントのコール、
137点に戻った。
負けた。
劇的な同点ブザービーターとはならなかった。
ハーフコートあたりでも構わず
一瞬でも早くスリーを放っていたら、
自分のシュートフォームがもう少しクイックだったら、
そんな悔しさと後悔ばかりが残った。
調子のいい時もそうでない時もあり、
あと一歩のところで負けもしたけど、
バスケが好きで上手くなりたくて
練習しているのは、
やっぱりこういう瞬間のためだ。
119−134、15点差。
最終スコア
137−140
正確には、
得点板が一旦140−140にめくられ、
直後に137点に戻った。
僕は夢中だった。
残り45秒の、137点目となった
ロング2ポイントシュートしか覚えていない。
けど、試合後に仲間に教えてもらったところによると、
この8分間で9本連続でフィールドゴールを決めたらしい。
残り8分から決めたはずの
最初の8本のシュートはどうやって打ったのか、
今でも思い出せない。
3点差に迫った残り45秒、
相手に時間を使われ、ボールを奪えないまま
24秒ショットクロック直前にファウルで時計を止める。
コートいっぱいに広く使われ、
巧みにボールを回されてしまった。
フリースローにならなかったが、
結局ラスト数秒までボールを奪えなかった。
ラスト数秒でマイボールとし、
味方からの縦パスを受けた僕は
一気に相手3ポイントラインまで走ろうとした。
時間がない。
ハーフコートと相手3ポイントラインの間くらいで、
もう試合終了のブザーが鳴ろうかというところ、
僕はがむしゃらにスリーポイントを放った。
なんと、入った。
137から140に得点がめくられた。
が、直後にノーカウントのコール、
137点に戻った。
負けた。
劇的な同点ブザービーターとはならなかった。
ハーフコートあたりでも構わず
一瞬でも早くスリーを放っていたら、
自分のシュートフォームがもう少しクイックだったら、
そんな悔しさと後悔ばかりが残った。
調子のいい時もそうでない時もあり、
あと一歩のところで負けもしたけど、
バスケが好きで上手くなりたくて
練習しているのは、
やっぱりこういう瞬間のためだ。
2019年10月13日
半年ぶりのマックで涙。
企業実習に行った帰りに、
半年ぶりにマックで遅い昼食。
この後どうなったか、もう読めるかも知れないが、
マックで一人、ありがたさから涙していた。
「マック…美味しいなぁ…。また来れた。」
もう半年も前になるのか。
お寿司を食べに行って、
好きなものが食べられるありがたみ、
食べ物のありがたみ、感謝が溢れ、
一人、涙したことがある。
→「お寿司で泣いた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/177/0
その時に食べたいと思ったもの、
そもそも外で食べること自体への罪悪感、
いろんな後ろめたさと、
外食なんて贅沢なんじゃないかという疑念。
スーパーに行っても惨めな気持ちで
その場を立ち去る自分への悔しさ。
好きなものを食べられないのは
自分が招いた結果じゃないかという自責。
辛かったこと、またマックに来れたこと、
嫌というほど思い知っていたはずの、
食べ物のありがたみ、
その時に食べたいと思ったものを食べられる喜び、
いろんな感情が湧いてきて、
学生で賑わう繁華街のマックで一人、涙した。
僕は長い間、
いわゆる貧困の部類に入る生活をしている。
世帯収入などの数字的な面だけで言えば、
そこから抜け出せたことはこれまで一度もない。
しんどいことや、
我慢し過ぎてわけがわからなくなったことや
失ったものは確かにたくさんあるけど、
間違いなく、できるようになったことがある。
それは、いろんなものに感謝すること。
食べ物を決して残さず
きれいに食べるように心がけてること。
フードバンクに助けを求めたり、
生活支援センターにお世話になったこと。
バスケのチームメイトと生活水準の話になった時、
食べ物を買ってくれたこと。
→「バスケ仲間に感謝。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/104/0
大きなこと、小さなこと、何にでも、
僕は感謝できる人間になれた。
お寿司もマックも、
もっと気軽に行ける水準の生活がしたい。
その願いはずっと変わらないし、
これ以上、惨めな思いなどしたくない。
でも、この先、
僕が貧困層を抜け出せるかどうかに関わらず、
あの日のお寿司の美味しさと感謝の気持ち、
それから今日のマックで腕に落ちた涙の感触は
この先もずっと忘れずにいたい。
「マック…。美味しいなぁ…また来れた。」
半年ぶりにマックで遅い昼食。
この後どうなったか、もう読めるかも知れないが、
マックで一人、ありがたさから涙していた。
「マック…美味しいなぁ…。また来れた。」
もう半年も前になるのか。
お寿司を食べに行って、
好きなものが食べられるありがたみ、
食べ物のありがたみ、感謝が溢れ、
一人、涙したことがある。
→「お寿司で泣いた。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/177/0
その時に食べたいと思ったもの、
そもそも外で食べること自体への罪悪感、
いろんな後ろめたさと、
外食なんて贅沢なんじゃないかという疑念。
スーパーに行っても惨めな気持ちで
その場を立ち去る自分への悔しさ。
好きなものを食べられないのは
自分が招いた結果じゃないかという自責。
辛かったこと、またマックに来れたこと、
嫌というほど思い知っていたはずの、
食べ物のありがたみ、
その時に食べたいと思ったものを食べられる喜び、
いろんな感情が湧いてきて、
学生で賑わう繁華街のマックで一人、涙した。
僕は長い間、
いわゆる貧困の部類に入る生活をしている。
世帯収入などの数字的な面だけで言えば、
そこから抜け出せたことはこれまで一度もない。
しんどいことや、
我慢し過ぎてわけがわからなくなったことや
失ったものは確かにたくさんあるけど、
間違いなく、できるようになったことがある。
それは、いろんなものに感謝すること。
食べ物を決して残さず
きれいに食べるように心がけてること。
フードバンクに助けを求めたり、
生活支援センターにお世話になったこと。
バスケのチームメイトと生活水準の話になった時、
食べ物を買ってくれたこと。
→「バスケ仲間に感謝。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/104/0
大きなこと、小さなこと、何にでも、
僕は感謝できる人間になれた。
お寿司もマックも、
もっと気軽に行ける水準の生活がしたい。
その願いはずっと変わらないし、
これ以上、惨めな思いなどしたくない。
でも、この先、
僕が貧困層を抜け出せるかどうかに関わらず、
あの日のお寿司の美味しさと感謝の気持ち、
それから今日のマックで腕に落ちた涙の感触は
この先もずっと忘れずにいたい。
「マック…。美味しいなぁ…また来れた。」
2019年10月12日
子どもの話を聞かない親の末路は、子どもに相手にされない晩年。
子どもの話を聞かない親は
子どもに相手にされないで終える。
子どもの意見、価値観、主張、
何よりしゃべる機会を奪い続けると、
親がいざという時、
子どもに相手にされないで終える。
僕が子どもの頃、怒鳴りまくり、
少し大きくなってからは一方的に自分語り、
自分の言いたいことだけを
延々と演説し続けてきた父は
晩年、長男から連絡を拒絶されている。
自分がいかにかわいそうで不安かを
何通にも分けて長いメールで送っても、
本文を読まれもせず消去される。
「連絡を下さい」などと記載しても、
罪悪感にかられて連絡してしまったら
嫌な思いをさせられることを見抜かれて、
何の反応ももらえなくなる。
→「父からの、大量の長文メール。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/260/0
厳しく躾ける教育方針を履き違え、
怒鳴りつけ恐怖を与え続けると、
後になって多少丸くなったところで
話しかけてもらえなくなる。
リスクのみ、リターンなしの懲罰教育制度を敷いて
家は安全な場所ではないことを植え付けると、
いくら手元に置いてコントロールしたくても、
早々に出ていかれて支配できなくなる。
勇気を持って話しかけたところで、
二言目には話を遮って1時間の自分語りをしていると、
この人は子どもに興味を持ってくれていない、
この人は自分の不安の解消しか見えてないと諦められる。
怖い上に、話しかけたらめんどくさい人と疎まれる。
親子は上限関係だと勘違いし続けていると、
下であるはずの子どもが成長し
怒鳴ったり罵ったりできなくなった時、
それ以外に自分を上に見せかける術を知らなくて
もともと不安定なプライドが打ち砕かれる。
怒鳴って言うことを聞かせられなくなり、
距離を置かれて一方的な演説を始めさせてもらえなくなると、
自分がいかに大変で憐れでかわいそうかを主張する
「かまってちゃん」に成り下がる。
人の話を聞く習慣のない父は、
怒鳴るか、一方的に演説する以外に
コミュニケーションの方法を知らず、
また学ぼうともしなかった父は、
晩年になって子どもから
自分がしてきたのと同じことをされている。
因果応報という言葉があるが、
僕は何事にもこれが当てはまるとは思っていない。
けど、僕と父の関係に限って言えば、
父は自分が子どもにしてきたことが今
自分に返ってきている。
祖父から厳しくされたりして、
学んだ結果なのかも知れない。
だとしたら同情はする。
その孫である僕は、
たとえ親不孝と罵られようと
最期まで父を許すことはできない。
子どもに寄り添われない親って何だろう。
僕は勝手に言う。憐れな人だ。
子どもに相手にされないで終える。
子どもの意見、価値観、主張、
何よりしゃべる機会を奪い続けると、
親がいざという時、
子どもに相手にされないで終える。
僕が子どもの頃、怒鳴りまくり、
少し大きくなってからは一方的に自分語り、
自分の言いたいことだけを
延々と演説し続けてきた父は
晩年、長男から連絡を拒絶されている。
自分がいかにかわいそうで不安かを
何通にも分けて長いメールで送っても、
本文を読まれもせず消去される。
「連絡を下さい」などと記載しても、
罪悪感にかられて連絡してしまったら
嫌な思いをさせられることを見抜かれて、
何の反応ももらえなくなる。
→「父からの、大量の長文メール。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/260/0
厳しく躾ける教育方針を履き違え、
怒鳴りつけ恐怖を与え続けると、
後になって多少丸くなったところで
話しかけてもらえなくなる。
リスクのみ、リターンなしの懲罰教育制度を敷いて
家は安全な場所ではないことを植え付けると、
いくら手元に置いてコントロールしたくても、
早々に出ていかれて支配できなくなる。
勇気を持って話しかけたところで、
二言目には話を遮って1時間の自分語りをしていると、
この人は子どもに興味を持ってくれていない、
この人は自分の不安の解消しか見えてないと諦められる。
怖い上に、話しかけたらめんどくさい人と疎まれる。
親子は上限関係だと勘違いし続けていると、
下であるはずの子どもが成長し
怒鳴ったり罵ったりできなくなった時、
それ以外に自分を上に見せかける術を知らなくて
もともと不安定なプライドが打ち砕かれる。
怒鳴って言うことを聞かせられなくなり、
距離を置かれて一方的な演説を始めさせてもらえなくなると、
自分がいかに大変で憐れでかわいそうかを主張する
「かまってちゃん」に成り下がる。
人の話を聞く習慣のない父は、
怒鳴るか、一方的に演説する以外に
コミュニケーションの方法を知らず、
また学ぼうともしなかった父は、
晩年になって子どもから
自分がしてきたのと同じことをされている。
因果応報という言葉があるが、
僕は何事にもこれが当てはまるとは思っていない。
けど、僕と父の関係に限って言えば、
父は自分が子どもにしてきたことが今
自分に返ってきている。
祖父から厳しくされたりして、
学んだ結果なのかも知れない。
だとしたら同情はする。
その孫である僕は、
たとえ親不孝と罵られようと
最期まで父を許すことはできない。
子どもに寄り添われない親って何だろう。
僕は勝手に言う。憐れな人だ。
2019年10月11日
長子へのきょうだい差別、「18歳になったら家に置かないからな」。
長男の僕、
2歳下に妹、
6歳下に弟の3人きょうだい。
僕が高校生の時、父は常々
「18歳になったら家に置かないからな」
「浪人するなら家を出てもらうぞ」
と僕に対して言っていた。
時は流れ、僕ら3人きょうだいの中で、
一度でも実家を出たことがあるのは僕だけ。
妹と弟は今も実家で親と同居し、
実家を一度も出たことがない。
「18になったら家に置かない」はずなのに。
成人し一旦は一人暮らしを始めても、
いろいろあって実家に戻ってしまった時、
父は僕に「いつまで居るつもりだ」と
苛立ちの言葉を浴びせ、母は僕のことを”居候”と罵った。
→「”居候”という言葉が嫌い。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/188/0
僕が中学生になるまで、
21時厳守で寝室に入るという
ペナルティ付きの懲罰教育制度が敷かれていた。
しかし、この制度は僕が中学に進学し、
勉強時間を確保するようになってから
うやむやの内になくなり、
当時まだ小学生だった妹に対しても、
なぜか21時を過ぎてもお咎めがなくなった。
→「懲罰教育、ルールが支配する家。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/155/0
僕の中で未だにくすぶっている思い。
なぜ、きょうだいの中で僕だけ、
こんなに厳しくされなければならなかったのか。
なぜ、18歳以降は本当に
「家に置かない」態度を取られるのに、
妹と弟に対して同じ態度を親は取らないのか。
どうして、きょうだいでこんなに
扱いに差があるんだろうか。
僕は差別されているのだろうか、
愛されていないのだろうか。
僕はいつも反抗的だった。
幼少から父と会話を諦め、
理不尽に怒鳴られた後に怒りを表す時は
父が望んだ「しゃべる」ことを決してせず、
無言でただ睨みつけた。
→「父の怒声「しゃべれ!」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/318/0
父が望んでいた対応、
叩き潰されても、泣かされても
毎晩立ち向かい、口論していた妹みたいに、
ぶつかっていくことなど、最初から諦めていた。
千尋の谷へ突き落とされた時、
妹は父が望んた通り必死で這い上がる姿勢を見せた。
僕は這い上がることを諦め、
そのまま谷の底を這い廻り、どこかへ行ってしまった。
たまに会話する母とも、僕は喧嘩した。
勉強中に皿洗いの手伝いに呼ばれるたび、
本気で口論になった。
小学5年生の学級文集、保護者の声の欄に
「我が道を行くと頑固で、親の声を聞いてほしい」と書かれた。
彼らにとって、
僕はコントロールできない存在だった。
自分たちの思い通りに、従順に、
従う存在ではなかった。
自分たちの教育方針に対して、
望む通りの反応を示す子どもではなかった。
……だから扱いが違うの……?
反抗的で思い通りにいかないから…?
6歳下の弟は重度の自閉症、そしてLD(学習障害)
障害者手帳1級、障害年金1級を受給し、
実家と作業施設を行ったり来たりしている。
僕に比べれば障害の度合いが重く、
客観的に見ても一人で生きるのは難しいかも知れない。
だから、親は自分たちがいなくなった後、
弟が今度どうやって生きていくかをかなり心配していた。
僕が同じ年齢だった頃よりも親はずっと丸くなったし、
引き合いに出したいわけじゃないけど、
扱いの違いに僕が傷ついたのは事実。
一人目には大きな期待を寄せ、
二人目以降で子育てに慣れ、
期待と本人の能力とのギャップを知り、
より現実的な対応になるという話を聞く。
一人目の僕の時は手探り状態だったのは
今だから理解できる。
でも、理解と納得は違う。
貴方には期待していたからあえて厳しくしたんだよ
貴方は一人目だからしっかりさせようとしたんだよ
今さらどれだけフォローされたところで、
きょうだいの間で扱いが違った事実は消えない。
「どうして…」と怒りが沸く内は、
この事実を冷静に受け止めるのは難しい。
知るよしもない、そして納得するはずのない
「本当の理由」を探して彷徨うのは、
迷宮に迷い込むことだとわかっている。
きょうだいコンプレックス、
カインコンプレックス、
呼び名はあるみたいだけど、
この許し難い事実と向き合って
長い闘いを終えるのは、まだまだ先の話。
2歳下に妹、
6歳下に弟の3人きょうだい。
僕が高校生の時、父は常々
「18歳になったら家に置かないからな」
「浪人するなら家を出てもらうぞ」
と僕に対して言っていた。
時は流れ、僕ら3人きょうだいの中で、
一度でも実家を出たことがあるのは僕だけ。
妹と弟は今も実家で親と同居し、
実家を一度も出たことがない。
「18になったら家に置かない」はずなのに。
成人し一旦は一人暮らしを始めても、
いろいろあって実家に戻ってしまった時、
父は僕に「いつまで居るつもりだ」と
苛立ちの言葉を浴びせ、母は僕のことを”居候”と罵った。
→「”居候”という言葉が嫌い。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/188/0
僕が中学生になるまで、
21時厳守で寝室に入るという
ペナルティ付きの懲罰教育制度が敷かれていた。
しかし、この制度は僕が中学に進学し、
勉強時間を確保するようになってから
うやむやの内になくなり、
当時まだ小学生だった妹に対しても、
なぜか21時を過ぎてもお咎めがなくなった。
→「懲罰教育、ルールが支配する家。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/155/0
僕の中で未だにくすぶっている思い。
なぜ、きょうだいの中で僕だけ、
こんなに厳しくされなければならなかったのか。
なぜ、18歳以降は本当に
「家に置かない」態度を取られるのに、
妹と弟に対して同じ態度を親は取らないのか。
どうして、きょうだいでこんなに
扱いに差があるんだろうか。
僕は差別されているのだろうか、
愛されていないのだろうか。
僕はいつも反抗的だった。
幼少から父と会話を諦め、
理不尽に怒鳴られた後に怒りを表す時は
父が望んだ「しゃべる」ことを決してせず、
無言でただ睨みつけた。
→「父の怒声「しゃべれ!」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/318/0
父が望んでいた対応、
叩き潰されても、泣かされても
毎晩立ち向かい、口論していた妹みたいに、
ぶつかっていくことなど、最初から諦めていた。
千尋の谷へ突き落とされた時、
妹は父が望んた通り必死で這い上がる姿勢を見せた。
僕は這い上がることを諦め、
そのまま谷の底を這い廻り、どこかへ行ってしまった。
たまに会話する母とも、僕は喧嘩した。
勉強中に皿洗いの手伝いに呼ばれるたび、
本気で口論になった。
小学5年生の学級文集、保護者の声の欄に
「我が道を行くと頑固で、親の声を聞いてほしい」と書かれた。
彼らにとって、
僕はコントロールできない存在だった。
自分たちの思い通りに、従順に、
従う存在ではなかった。
自分たちの教育方針に対して、
望む通りの反応を示す子どもではなかった。
……だから扱いが違うの……?
反抗的で思い通りにいかないから…?
6歳下の弟は重度の自閉症、そしてLD(学習障害)
障害者手帳1級、障害年金1級を受給し、
実家と作業施設を行ったり来たりしている。
僕に比べれば障害の度合いが重く、
客観的に見ても一人で生きるのは難しいかも知れない。
だから、親は自分たちがいなくなった後、
弟が今度どうやって生きていくかをかなり心配していた。
僕が同じ年齢だった頃よりも親はずっと丸くなったし、
引き合いに出したいわけじゃないけど、
扱いの違いに僕が傷ついたのは事実。
一人目には大きな期待を寄せ、
二人目以降で子育てに慣れ、
期待と本人の能力とのギャップを知り、
より現実的な対応になるという話を聞く。
一人目の僕の時は手探り状態だったのは
今だから理解できる。
でも、理解と納得は違う。
貴方には期待していたからあえて厳しくしたんだよ
貴方は一人目だからしっかりさせようとしたんだよ
今さらどれだけフォローされたところで、
きょうだいの間で扱いが違った事実は消えない。
「どうして…」と怒りが沸く内は、
この事実を冷静に受け止めるのは難しい。
知るよしもない、そして納得するはずのない
「本当の理由」を探して彷徨うのは、
迷宮に迷い込むことだとわかっている。
きょうだいコンプレックス、
カインコンプレックス、
呼び名はあるみたいだけど、
この許し難い事実と向き合って
長い闘いを終えるのは、まだまだ先の話。
2019年10月10日
秋晴れと昼寝。
2連休ともに、身体が重く
何をする気も起きず昼過ぎまで横になる。
あたたかい秋晴れの日、
もったいないと奮起し、
二日連続で、
行きつけの公園へ昼寝をしに行く。
一日目は雲一つない青空。
家族連れがボールで遊ぶ広場で
敷き物を敷いてごろ寝。
子どものはしゃぐ声に混じって、
風で葉がそよぐ音が心地よく響く。
貸しボートのある池でマガモさんにご挨拶、
一日目は写真撮るのを忘れた。
すぐ側で人間がボートに乗ってるし、
岸辺では人が通ったり見物する人がいるのに、
慣れてるのか、逃げようともせず昼寝する彼ら。
二日目。
この日は少し雲と風があるけど、
変わらずあたたかい秋晴れ。
芝生に敷き物を敷いて寝転がると、
地面が少し硬くて、お尻が痛くなる。
けどそんな痛みもお構いなしに、
気づいたら晴天の下で眠りに落ちている。
この日もボート池のマガモさんにご挨拶。
今日は写真を失敬した。
本当にのんびりと昼寝をする彼ら。
柵越しにこうやって写真を撮っても
逃げたり慌てたりする素振りを見せない。
なんという、人生(?)への余裕。
連なって泳ぐ。
6月にヒナが生まれたらしい。
ぽかぽかした日当たり、
気持ちよさそうに昼寝する彼ら。
本当にこの瞬間を、この季節を
全身で楽しんでいるみたい。
また公園でのんびりした記事。
二日間、これ以外でしたことと言えば
公園の帰りにスーパーに寄ったくらい。
家ではもやしのスープを作ったが、
他の家事は何もできなかった。
気力の再びの落ち込むがすごくて、
寝転がってる時間がどんどん増える。
だけど、こういう小さなことでも、できた。
家事も何もできなかったし、
二日間で4食しか食べれてないけど、
日光浴に出かけられた。
もう、ずっとこのまま抜け出せないんじゃないかと
長くて暗いトンネルに迷い込んだような気持ちでも、
できたことが、ちゃんとあった。
どんな小さなことでもいいから、
できたことを数えることが大切。
お気に入りの公園での昼寝は、
心地よかった。
何をする気も起きず昼過ぎまで横になる。
あたたかい秋晴れの日、
もったいないと奮起し、
二日連続で、
行きつけの公園へ昼寝をしに行く。
一日目は雲一つない青空。
家族連れがボールで遊ぶ広場で
敷き物を敷いてごろ寝。
子どものはしゃぐ声に混じって、
風で葉がそよぐ音が心地よく響く。
貸しボートのある池でマガモさんにご挨拶、
一日目は写真撮るのを忘れた。
すぐ側で人間がボートに乗ってるし、
岸辺では人が通ったり見物する人がいるのに、
慣れてるのか、逃げようともせず昼寝する彼ら。
二日目。
この日は少し雲と風があるけど、
変わらずあたたかい秋晴れ。
芝生に敷き物を敷いて寝転がると、
地面が少し硬くて、お尻が痛くなる。
けどそんな痛みもお構いなしに、
気づいたら晴天の下で眠りに落ちている。
この日もボート池のマガモさんにご挨拶。
今日は写真を失敬した。
本当にのんびりと昼寝をする彼ら。
柵越しにこうやって写真を撮っても
逃げたり慌てたりする素振りを見せない。
なんという、人生(?)への余裕。
連なって泳ぐ。
6月にヒナが生まれたらしい。
ぽかぽかした日当たり、
気持ちよさそうに昼寝する彼ら。
本当にこの瞬間を、この季節を
全身で楽しんでいるみたい。
また公園でのんびりした記事。
二日間、これ以外でしたことと言えば
公園の帰りにスーパーに寄ったくらい。
家ではもやしのスープを作ったが、
他の家事は何もできなかった。
気力の再びの落ち込むがすごくて、
寝転がってる時間がどんどん増える。
だけど、こういう小さなことでも、できた。
家事も何もできなかったし、
二日間で4食しか食べれてないけど、
日光浴に出かけられた。
もう、ずっとこのまま抜け出せないんじゃないかと
長くて暗いトンネルに迷い込んだような気持ちでも、
できたことが、ちゃんとあった。
どんな小さなことでもいいから、
できたことを数えることが大切。
お気に入りの公園での昼寝は、
心地よかった。
2019年10月09日
Twitterからの初アクセス記念。
何だかシリーズ物みたいになったけど、
先日、当ブログへTwitterからの初アクセスを確認。
Google、Yahooそれぞれからの初アクセス時にも、
こんな記事で祝ったことがあった。
→「Googleからの初アクセス記念。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/290/0
→「Yahooからの初アクセス記念。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/304/0
Twitterはアカウントは持っているけど、
数年前から投稿もログインもしていない。
にも関わらずのアクセスということで、
元はわからないけど少しは知られるようになり、
読んでくれる間口が広がったことは喜びたい。
今週、また気力が落ち始め、
一日中、布団から起き上がれないことが多くなった。
平日は何とか就労移行支援事業所通ってるけど、
自覚できるほど暗い表情をしている。
本当に何とか行ってるだけで、
生産性や目標を立てるにはほど遠い現状。
さっき、「喜びたい」と書いたけど、
喜び方を忘れてしまったから
目標のように書いてみた。
自分がこんな状態なのに、
懲りずに読みにきてくれる人がいる。
上手く喜べていないけど
湧き上がる感謝の気持ちは本物。
明日は布団から起き上がれるかわからない。
起き上がれたらまた、思うところを
懲りずに書いていきます。
先日、当ブログへTwitterからの初アクセスを確認。
Google、Yahooそれぞれからの初アクセス時にも、
こんな記事で祝ったことがあった。
→「Googleからの初アクセス記念。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/290/0
→「Yahooからの初アクセス記念。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/304/0
Twitterはアカウントは持っているけど、
数年前から投稿もログインもしていない。
にも関わらずのアクセスということで、
元はわからないけど少しは知られるようになり、
読んでくれる間口が広がったことは喜びたい。
今週、また気力が落ち始め、
一日中、布団から起き上がれないことが多くなった。
平日は何とか就労移行支援事業所通ってるけど、
自覚できるほど暗い表情をしている。
本当に何とか行ってるだけで、
生産性や目標を立てるにはほど遠い現状。
さっき、「喜びたい」と書いたけど、
喜び方を忘れてしまったから
目標のように書いてみた。
自分がこんな状態なのに、
懲りずに読みにきてくれる人がいる。
上手く喜べていないけど
湧き上がる感謝の気持ちは本物。
明日は布団から起き上がれるかわからない。
起き上がれたらまた、思うところを
懲りずに書いていきます。
タグ:生きる
2019年10月08日
摂食障害の兆候。
書くか迷ったことではあるけど、
これも自分の生きた証なので記しておく。
精神科の定期受診で
自分に摂食障害の兆候があることを伝えると、
体重計測と血液検査を勧められ、
そのまま採血の運びとなった。
もともと持っている貧血、立ち眩み、
めまいもあると伝えたところ、
血液が薄くなっているかも知れないとのこと。
食べること、太ることが怖い。
これは何年も前からあるけど、
僕はよくお腹周りを触ったりつねったりして、
「お腹痛いの?」と聞かれることがある。
そのたびに、何でもないと焦って誤魔化す。
本当はお腹周りに少しでもセルライトがつくのが怖くて、
強迫観念にも似た恐れの感情からやっている。
太るのが怖いから、お腹が空いても
何時間も食べずに我慢してしまうことが多い。
でもバスケを始め運動はそれなりにしているので、
さすがに動いた後は空腹が抑えられなくなる。
ドカ食いしてしまうかというとそうでもなく、
常に口に何かを入れていないと寂しい。
決まった三食をきっちり食べるというよりは、
小分けにしてだらだら長時間食べてしまう。
きっちり食べたら、その後はすぱっと食べない、
ということが非常に難しい。
そして常に口が渇いている。
喉が、ではなく口の中。
空の2リットルペットボトルに水道水を詰めて
何本か冷やしてあり、数十分おきに飲んでしまう。
飲んでも口の渇きは収まらないから、
また数十分後に、という悪循環を繰り返す。
たまに2リットルのお茶を買っても
半日で飲み切ってしまう。
際限のない口の渇きと、とにかく口に
何かを入れていたい衝動が抑えられない。
太ることへの恐怖から
食べなさ過ぎることがあるのと、
定期的な運動習慣があること、
そして口に運ぶ絶対量が多くないので、
今のところ体形に影響は出ていない。
だけど、これがもっとひどくなれば
過食症の領域へ足を踏み入れるのではないかと
余計に食べるのが怖くなっている。
お医者さんは
「ストレスから来る摂食障害の始まりかも知れない」
と言っていた。
僕も原因は自分でわかっている。
食べたいものを選べる選択肢が少なく、
食べたいものを我慢し続ける生活が長引いていること。
いつ終わるとも知れない果てしない孤独感。
何度割り切ろうとしても再燃する、
家族に愛されなかった寂しさと悲しみ。
生活保護の受給申請日が決まったとはいえ、
明日の家があるかもわからない不安な毎日。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
最近、何とか少しでも健康的な食生活をしようと
野菜を多めに買い込んでみた。
ただ、野菜を買い込むまではいいが、
肝心の作りたいもの、食べたいものが浮かばない。
仕方なく、野菜を適当に切って
すぐにできる味噌汁やスープにする。
野菜の味噌汁は好きだけど、何かが足りない。
その”何か”がわからなくなって久しい。
心の問題だということは自分でわかっている。
わかっていても、どうすればいいかわからない。
そうこうしている内にお腹だけは空く。
空腹が憎くてたまらない。
生き続けることにメリットを感じられないのに、
身体は生き続けようともがくことが
憎くてたまらない。
これも自分の生きた証なので記しておく。
精神科の定期受診で
自分に摂食障害の兆候があることを伝えると、
体重計測と血液検査を勧められ、
そのまま採血の運びとなった。
もともと持っている貧血、立ち眩み、
めまいもあると伝えたところ、
血液が薄くなっているかも知れないとのこと。
食べること、太ることが怖い。
これは何年も前からあるけど、
僕はよくお腹周りを触ったりつねったりして、
「お腹痛いの?」と聞かれることがある。
そのたびに、何でもないと焦って誤魔化す。
本当はお腹周りに少しでもセルライトがつくのが怖くて、
強迫観念にも似た恐れの感情からやっている。
太るのが怖いから、お腹が空いても
何時間も食べずに我慢してしまうことが多い。
でもバスケを始め運動はそれなりにしているので、
さすがに動いた後は空腹が抑えられなくなる。
ドカ食いしてしまうかというとそうでもなく、
常に口に何かを入れていないと寂しい。
決まった三食をきっちり食べるというよりは、
小分けにしてだらだら長時間食べてしまう。
きっちり食べたら、その後はすぱっと食べない、
ということが非常に難しい。
そして常に口が渇いている。
喉が、ではなく口の中。
空の2リットルペットボトルに水道水を詰めて
何本か冷やしてあり、数十分おきに飲んでしまう。
飲んでも口の渇きは収まらないから、
また数十分後に、という悪循環を繰り返す。
たまに2リットルのお茶を買っても
半日で飲み切ってしまう。
際限のない口の渇きと、とにかく口に
何かを入れていたい衝動が抑えられない。
太ることへの恐怖から
食べなさ過ぎることがあるのと、
定期的な運動習慣があること、
そして口に運ぶ絶対量が多くないので、
今のところ体形に影響は出ていない。
だけど、これがもっとひどくなれば
過食症の領域へ足を踏み入れるのではないかと
余計に食べるのが怖くなっている。
お医者さんは
「ストレスから来る摂食障害の始まりかも知れない」
と言っていた。
僕も原因は自分でわかっている。
食べたいものを選べる選択肢が少なく、
食べたいものを我慢し続ける生活が長引いていること。
いつ終わるとも知れない果てしない孤独感。
何度割り切ろうとしても再燃する、
家族に愛されなかった寂しさと悲しみ。
生活保護の受給申請日が決まったとはいえ、
明日の家があるかもわからない不安な毎日。
→「生活保護の申請日が決定。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/314/0
最近、何とか少しでも健康的な食生活をしようと
野菜を多めに買い込んでみた。
ただ、野菜を買い込むまではいいが、
肝心の作りたいもの、食べたいものが浮かばない。
仕方なく、野菜を適当に切って
すぐにできる味噌汁やスープにする。
野菜の味噌汁は好きだけど、何かが足りない。
その”何か”がわからなくなって久しい。
心の問題だということは自分でわかっている。
わかっていても、どうすればいいかわからない。
そうこうしている内にお腹だけは空く。
空腹が憎くてたまらない。
生き続けることにメリットを感じられないのに、
身体は生き続けようともがくことが
憎くてたまらない。
2019年10月07日
「放っといて」はSOS。
「放っといて」は決して、
もう構わないでくれという意味じゃない。
助けて、気持ちをわかって、
辛い、お願い受け止めて、味方になって、
そんなSOS。心の悲鳴。
孤独への恐怖。受け入れてもらえない悲しみ。
救難信号。
察してと言いたいわけじゃない。
素直に「助けて」と言えないことに対しての弁護でも、
自分から突き放すこの言葉への擁護でもない。
ただ、もう放っといてと自暴自棄になる直前、
藁をもつかむ気持ちで相談した本人は、
そこまで追い詰められてたんだよってこと。
耐えて耐えて、自分で何とかしようともがいて、
それでもどうにもならなくなって、
不器用でもかっこわるくても、
崩れそうな心を振り絞って相談したってこと。
その人の話を聞くことができなかった、
聞き入れなかった、受け止めず否定した、
上手く伝えることができなかった。
何がすれ違ったのかはわからない。
だけど、心は救われなかった。
もういい、放っといて。
本当は心が泣いてる。助けてと叫んでる。
そんな自分の内面の声すら聞こえないくらい、
追い詰められて出てしまった「放っといて」
呼吸が浅くなって、肩で息をして、
狭まる一方の視界と視点を必死で見つめて、
やっと出てきた言葉が「助けて」じゃなかったってこと。
気持ちに寄り添うなんて簡単じゃない。
泣いてる心を受け止めるなんて簡単じゃない。
みんな自分で精一杯、
みんな必死で今を生きていて、
折れそうな心を何とか支えてる。
自暴自棄に「放っといて」という人は、
もう折れてしまった人。
限界まで消耗して、もう崩れてしまった人。
気づいてほしい、
そして、気づきたい。
もう構わないでくれという意味じゃない。
助けて、気持ちをわかって、
辛い、お願い受け止めて、味方になって、
そんなSOS。心の悲鳴。
孤独への恐怖。受け入れてもらえない悲しみ。
救難信号。
察してと言いたいわけじゃない。
素直に「助けて」と言えないことに対しての弁護でも、
自分から突き放すこの言葉への擁護でもない。
ただ、もう放っといてと自暴自棄になる直前、
藁をもつかむ気持ちで相談した本人は、
そこまで追い詰められてたんだよってこと。
耐えて耐えて、自分で何とかしようともがいて、
それでもどうにもならなくなって、
不器用でもかっこわるくても、
崩れそうな心を振り絞って相談したってこと。
その人の話を聞くことができなかった、
聞き入れなかった、受け止めず否定した、
上手く伝えることができなかった。
何がすれ違ったのかはわからない。
だけど、心は救われなかった。
もういい、放っといて。
本当は心が泣いてる。助けてと叫んでる。
そんな自分の内面の声すら聞こえないくらい、
追い詰められて出てしまった「放っといて」
呼吸が浅くなって、肩で息をして、
狭まる一方の視界と視点を必死で見つめて、
やっと出てきた言葉が「助けて」じゃなかったってこと。
気持ちに寄り添うなんて簡単じゃない。
泣いてる心を受け止めるなんて簡単じゃない。
みんな自分で精一杯、
みんな必死で今を生きていて、
折れそうな心を何とか支えてる。
自暴自棄に「放っといて」という人は、
もう折れてしまった人。
限界まで消耗して、もう崩れてしまった人。
気づいてほしい、
そして、気づきたい。