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2019年11月15日
母の嫉妬が見えた瞬間。
最近になって親戚から聞いた話によると、
僕の結婚が決まったと知らされた母は
少しも喜ばなかったらしい。
親戚からおめでとうと声をかけられても
「別に…」というような暗く、
歯切れの悪い表情だったという。
母の反応を親戚から聞いた当初は
ものすごく悲しかった。
自分は母にとって家族ではなく、
やっぱり居候なんだ、
何をしても結局は認めてもらないんだ、と。
高校や大学に合格した時も
目立って喜んだ素振りを見せず、
そこで寂しい思いをすでにしていたので、
あまり表に出さない人なんだと
無理やり自分を納得させていた節はあった。
だけど最近は、ただ悲しいだけではなく、
別の可能性も考えるようになった。
もしかすると母は、表立った愚痴や
不満といった態度に出さないだけで、
子どもが幸せになったり
自分の生きたいように自由に振る舞うことに
嫉妬しているのではないか、と思うようになった。
母は僕が2歳くらいの頃、
妹が生まれたタイミングで保育士を退職し、
今に至るまで外で働いたことのない専業主婦。
まだ僕と交流があった頃は
「自分はずっと働いたことがなくて…」
というような台詞をこぼしていた。
僕の6歳下の弟は重度の自閉症とLDで、
かつて強迫神経症がみるみる悪化した時期は
家での日常生活一つ一つが難しかった。
今も作業施設に通ってはいるが、
彼の様子を見ると独立は本当に難しそうで、
ずっと実家で母が世話をしているイメージが強い。
弟のことがすべてではないにせよ、
自由に働くことに制限があり、
しかも父が定年退職後まもなく
病床で余命幾ばくかという状況。
自分が働こうにも、
何十年も就労経験がなく先行きが不安。
そんな抑圧された環境にいる自分をよそに、
新しい生活をスタートさせようとする長男。
「自分はこれだけ我慢して、苦労しているのに
あなたばかり好きなように生きて!」
という嫉妬があってもおかしくないのでは、と
最近は考えるようになった。
もちろん、結婚したからといって
幸せが約束されるわけじゃない。
結婚はファンタジーではなく現実で、
自由とは対極であり幸せは自分たち次第。
僕は結局、離婚してしまったわけだし。
けど、幸せ云々ではなくて、
自分には生き方の選択肢がなく、
制限される中で不満な人生を歩んできたのに、
少なくとも結婚するかしないかという選択を
自由にできる子どもが妬ましかったから、
少しも喜ばなかったのではないだろうか。
そして、そこには「妬ましく思っている自分」を
認めたくないという気持ちが隠れていたのではないだろうか。
母本人はおそらく、
息子の結婚を喜べなかった自分の感情が
嫉妬から来ていることに気づいていない。
たとえ気づいていたとしても、
自分から何も発信しない人なので確かめる術はなく、
これらは完全に僕の独断での憶測。
あるいは「親に結婚を喜ばれなかった自分」の
深い寂しさと悲しみに、強引にでも理由を付けようと
ひねり出した推理とも言える。
だけど、母の数少ない言葉の端々や、
子どもが新しい道に進む転機のそれぞれで
喜びを表現して来なかったことを思い出した時、
「自分はこうなのに、あなたばかり」という、
本人も気づいていない嫉妬心が垣間見えた気がした。
「相手が僕だから」認められない、というよりは
「母自身の抑圧された人生が不満だから」
嫉妬心や対抗心で喜ばなかった。
そんな、無理やり考え出した理由を今回、
こうやって記事にして残すことで、
親の心に僕がいなかった悲しみに
少し薬を塗ってみた。
僕の結婚が決まったと知らされた母は
少しも喜ばなかったらしい。
親戚からおめでとうと声をかけられても
「別に…」というような暗く、
歯切れの悪い表情だったという。
母の反応を親戚から聞いた当初は
ものすごく悲しかった。
自分は母にとって家族ではなく、
やっぱり居候なんだ、
何をしても結局は認めてもらないんだ、と。
高校や大学に合格した時も
目立って喜んだ素振りを見せず、
そこで寂しい思いをすでにしていたので、
あまり表に出さない人なんだと
無理やり自分を納得させていた節はあった。
だけど最近は、ただ悲しいだけではなく、
別の可能性も考えるようになった。
もしかすると母は、表立った愚痴や
不満といった態度に出さないだけで、
子どもが幸せになったり
自分の生きたいように自由に振る舞うことに
嫉妬しているのではないか、と思うようになった。
母は僕が2歳くらいの頃、
妹が生まれたタイミングで保育士を退職し、
今に至るまで外で働いたことのない専業主婦。
まだ僕と交流があった頃は
「自分はずっと働いたことがなくて…」
というような台詞をこぼしていた。
僕の6歳下の弟は重度の自閉症とLDで、
かつて強迫神経症がみるみる悪化した時期は
家での日常生活一つ一つが難しかった。
今も作業施設に通ってはいるが、
彼の様子を見ると独立は本当に難しそうで、
ずっと実家で母が世話をしているイメージが強い。
弟のことがすべてではないにせよ、
自由に働くことに制限があり、
しかも父が定年退職後まもなく
病床で余命幾ばくかという状況。
自分が働こうにも、
何十年も就労経験がなく先行きが不安。
そんな抑圧された環境にいる自分をよそに、
新しい生活をスタートさせようとする長男。
「自分はこれだけ我慢して、苦労しているのに
あなたばかり好きなように生きて!」
という嫉妬があってもおかしくないのでは、と
最近は考えるようになった。
もちろん、結婚したからといって
幸せが約束されるわけじゃない。
結婚はファンタジーではなく現実で、
自由とは対極であり幸せは自分たち次第。
僕は結局、離婚してしまったわけだし。
けど、幸せ云々ではなくて、
自分には生き方の選択肢がなく、
制限される中で不満な人生を歩んできたのに、
少なくとも結婚するかしないかという選択を
自由にできる子どもが妬ましかったから、
少しも喜ばなかったのではないだろうか。
そして、そこには「妬ましく思っている自分」を
認めたくないという気持ちが隠れていたのではないだろうか。
自分の不幸を認めない母親が、
自分よりも幸福な人を見たらどうなるでしょうか。
激しく嫉妬します。
でも、嫉妬していることすら認めません。
認めたら、自分が不幸であること
を認めなくてはいけなくなるからです。
『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』 第一章より
母本人はおそらく、
息子の結婚を喜べなかった自分の感情が
嫉妬から来ていることに気づいていない。
たとえ気づいていたとしても、
自分から何も発信しない人なので確かめる術はなく、
これらは完全に僕の独断での憶測。
あるいは「親に結婚を喜ばれなかった自分」の
深い寂しさと悲しみに、強引にでも理由を付けようと
ひねり出した推理とも言える。
だけど、母の数少ない言葉の端々や、
子どもが新しい道に進む転機のそれぞれで
喜びを表現して来なかったことを思い出した時、
「自分はこうなのに、あなたばかり」という、
本人も気づいていない嫉妬心が垣間見えた気がした。
「相手が僕だから」認められない、というよりは
「母自身の抑圧された人生が不満だから」
嫉妬心や対抗心で喜ばなかった。
そんな、無理やり考え出した理由を今回、
こうやって記事にして残すことで、
親の心に僕がいなかった悲しみに
少し薬を塗ってみた。
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2019年11月14日
すみっコたちの複雑な過去。
僕はすみっコぐらしが好き。
一番気に入っているのは、
無表情でふてぶてしい顔が魅力的な「ぺんぎん?」
でも、バックグラウンドが一番好きなのは
母親と離ればなれになっていて、
本当は恐竜であることを隠している「とかげ」。
昨日、すみっコぐらしの本を読んでいて、
とかげが母親恐竜に会いに行き、
楽しいひとときを過ごして
お別れするシーンで泣いてしまった。
どうして泣いたのかを考えると、
自分の母親と築きたかった関係が
そこに描かれていたからだと思う。
僕は母にほとんど関心を向けられずに育った。
小さい頃は母に抱っこされたり、
逆に甘えに行くことはなく、
お互いに話しかけることも
ほとんどなかった。
無関心や放置とまでは言わないが、
何か用事がない限り接することのない、
コミュニケーションが希薄な関係だった。
お互いのことをほとんど知らず、
また知ろうともしないまま成人し、
離れることになった。
→「話しかけない母の意図は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/185/0
そんな希薄な親子関係に、
僕はずっと寂しさを感じていた。
思いきり甘えられる親がほしかった。
どうして僕にはそれがなかったんだろう。
お母さんの背中に乗って
海を進むとかげの目には涙が描かれていた。
頬を赤らめ、うれし泣きしながら
母の背に乗るとかげ。
このシーンが胸に突き刺さり、
かけていた眼鏡に涙がかかった。
母親からのあたたかいスキンシップは
もう手に入らないと諦めなければいけないもの。
心に余裕があれば、ほっこりする気持ちが
羨ましい気持ちに勝ることがある。
けど、手に入るはずのないものを
諦めきれない葛藤との闘いは一生続く。
→「ないものねだりとの闘い。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/356/0
すみっコぐらしを見かけるたび、
「かわいいなぁ…」と顔がゆるむ。
同時に、彼らが集まった経緯や
彼らの複雑な過去を思い出して
何だか寂しい気持ちにもなる。
孤独、後ろめたさ、自分の存在の証明、
そんなものをそれぞれ抱えて生きる彼らに、
単純な「かわいい」という感情だけではない、
何だか境遇が似ているような気がして共感する。
すみっコぐらしが好きになった最初の理由は
単純にふてぶてしくてかわいいからだったけど、
悲しい、寂しいバックグラウンドを持ちながら
一生懸命生きている姿にますます惹かれた。
すみっコぐらしの本を読んで泣く人は、
他にもいるだろうけど少ないかも知れない。
彼らは僕にとっての
理想の親子関係のひとつを見せてくれて、
本当は寂しい気持ちに気づかせてくれた。
一番気に入っているのは、
無表情でふてぶてしい顔が魅力的な「ぺんぎん?」
でも、バックグラウンドが一番好きなのは
母親と離ればなれになっていて、
本当は恐竜であることを隠している「とかげ」。
昨日、すみっコぐらしの本を読んでいて、
とかげが母親恐竜に会いに行き、
楽しいひとときを過ごして
お別れするシーンで泣いてしまった。
どうして泣いたのかを考えると、
自分の母親と築きたかった関係が
そこに描かれていたからだと思う。
僕は母にほとんど関心を向けられずに育った。
小さい頃は母に抱っこされたり、
逆に甘えに行くことはなく、
お互いに話しかけることも
ほとんどなかった。
無関心や放置とまでは言わないが、
何か用事がない限り接することのない、
コミュニケーションが希薄な関係だった。
お互いのことをほとんど知らず、
また知ろうともしないまま成人し、
離れることになった。
→「話しかけない母の意図は。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/185/0
そんな希薄な親子関係に、
僕はずっと寂しさを感じていた。
思いきり甘えられる親がほしかった。
どうして僕にはそれがなかったんだろう。
お母さんの背中に乗って
海を進むとかげの目には涙が描かれていた。
頬を赤らめ、うれし泣きしながら
母の背に乗るとかげ。
このシーンが胸に突き刺さり、
かけていた眼鏡に涙がかかった。
母親からのあたたかいスキンシップは
もう手に入らないと諦めなければいけないもの。
心に余裕があれば、ほっこりする気持ちが
羨ましい気持ちに勝ることがある。
けど、手に入るはずのないものを
諦めきれない葛藤との闘いは一生続く。
→「ないものねだりとの闘い。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/356/0
すみっコぐらしを見かけるたび、
「かわいいなぁ…」と顔がゆるむ。
同時に、彼らが集まった経緯や
彼らの複雑な過去を思い出して
何だか寂しい気持ちにもなる。
孤独、後ろめたさ、自分の存在の証明、
そんなものをそれぞれ抱えて生きる彼らに、
単純な「かわいい」という感情だけではない、
何だか境遇が似ているような気がして共感する。
すみっコぐらしが好きになった最初の理由は
単純にふてぶてしくてかわいいからだったけど、
悲しい、寂しいバックグラウンドを持ちながら
一生懸命生きている姿にますます惹かれた。
すみっコぐらしの本を読んで泣く人は、
他にもいるだろうけど少ないかも知れない。
彼らは僕にとっての
理想の親子関係のひとつを見せてくれて、
本当は寂しい気持ちに気づかせてくれた。
2019年11月13日
「まだいける」は「もう止めな」。
日中でも6度。寒い。
昼間は霧雨。
夕方、日が落ちてからは、
何やら大粒の固体のような、
シャーベット状でもないような物体が降下。
ついに雪かな…。
ちょうど今朝から昼間にかけて
わかり易く風邪を引いたところ。
本当は休日だったけど、
就労移行支援で納期が今日の作業があったのと、
それによって
自分の役割である今週分の庶務が
進んでいなかったので、午前中だけ行ってきた。
こういう休日出勤のようなことは
本来避けた方がいい。
実際、それで風邪をひいてしまったわけで。
自分の役割があることが嬉しくても、
こういうところで無理をする自分がまだいる。
暗くなり、1度まで下がり、となれば
明日はもしかすると外が白いかも知れない。
今日みたいに無理をするようでは
寒い季節を健康に過ごすのは難しいので、
こういう休日出勤は控える。
明日、休んでしまっては本末転倒。
あとは、こういう例外を作ると、
「休みでも来てくれる」と思われる。
一般企業の中には、
「忙しい時は、呼べば来る」と味を占めて
使おうとするところがあるかも知れない。
そういう例外を作ってしまったことは
お互いにとってよくないと反省している。
「まだいける」は
「もう止めな」というサイン。
「休日」なら例外なく休む。
これが健康に生きるための基本。
昼間は霧雨。
夕方、日が落ちてからは、
何やら大粒の固体のような、
シャーベット状でもないような物体が降下。
ついに雪かな…。
ちょうど今朝から昼間にかけて
わかり易く風邪を引いたところ。
本当は休日だったけど、
就労移行支援で納期が今日の作業があったのと、
それによって
自分の役割である今週分の庶務が
進んでいなかったので、午前中だけ行ってきた。
こういう休日出勤のようなことは
本来避けた方がいい。
実際、それで風邪をひいてしまったわけで。
自分の役割があることが嬉しくても、
こういうところで無理をする自分がまだいる。
暗くなり、1度まで下がり、となれば
明日はもしかすると外が白いかも知れない。
今日みたいに無理をするようでは
寒い季節を健康に過ごすのは難しいので、
こういう休日出勤は控える。
明日、休んでしまっては本末転倒。
あとは、こういう例外を作ると、
「休みでも来てくれる」と思われる。
一般企業の中には、
「忙しい時は、呼べば来る」と味を占めて
使おうとするところがあるかも知れない。
そういう例外を作ってしまったことは
お互いにとってよくないと反省している。
「まだいける」は
「もう止めな」というサイン。
「休日」なら例外なく休む。
これが健康に生きるための基本。
2019年11月12日
「寒いでしょ、ストーブの温度上げなよ」。
「寒いでしょ、ストーブの温度上げたら?」
「え、ガ、ガス代は大丈夫なんでしょうか…。」
「気にしないの、風邪ひく方がいやでしょ?」
職場での1シーン。
上着を羽織りながら仕事をしていた僕を見かね、
スタッフさんが声をかけてくれた。
この後、ストーブの温度が上がり、
あたたくなった部屋で上着を脱ぎ、
しばらく一人泣きながら作業した。
「嬉しいなぁ…」とつぶやきながら。
めっきり寒くなり、
家ではストーブを点けたくなる。
雪が降るまでは我慢と言いつつ
厚着して耐えている。
無事に生活保護を受けられることになったのだから、
もっと暖房を使っていいはずなのに、
身体に染み付いた節約生活の癖が抜けないのか、
暖房費がかさむことを恐れている。
それは出先でも一緒で、
僕は部屋が寒いとなかなか言えなかった。
本来、遠慮なく言っていいはずなのに。
自分を痛めつけるというわけじゃないけど、
我慢する癖は相変わらず。
あのやりとりの後で流れた涙は、
あたたかい心が嬉しかったことと、
「我慢しなくていいんだよ」と
言ってくれているような気がしたから。
それともう一つ、
人のあたたかい心配りに感謝できる自分を
少し認めてあげられたから。
自分が優しさをもらっていいんだろうか、と
いつもなら考えていたけど、
そうではなくて素直に「嬉しい」と思えた。
ちょっとした変化だけど、
自己肯定には大きな前進。
今日みたいに優しさをもらった時、
これまでの僕はいくつ見逃してきたんだろう。
これからの僕は、いくつ素直に感謝できるだろう。
毎回泣くわけにはいかないけど、
しっかりと感じ取って、素直に感情に出して、
もらった分以上に返していきたい。
「え、ガ、ガス代は大丈夫なんでしょうか…。」
「気にしないの、風邪ひく方がいやでしょ?」
職場での1シーン。
上着を羽織りながら仕事をしていた僕を見かね、
スタッフさんが声をかけてくれた。
この後、ストーブの温度が上がり、
あたたくなった部屋で上着を脱ぎ、
しばらく一人泣きながら作業した。
「嬉しいなぁ…」とつぶやきながら。
めっきり寒くなり、
家ではストーブを点けたくなる。
雪が降るまでは我慢と言いつつ
厚着して耐えている。
無事に生活保護を受けられることになったのだから、
もっと暖房を使っていいはずなのに、
身体に染み付いた節約生活の癖が抜けないのか、
暖房費がかさむことを恐れている。
それは出先でも一緒で、
僕は部屋が寒いとなかなか言えなかった。
本来、遠慮なく言っていいはずなのに。
自分を痛めつけるというわけじゃないけど、
我慢する癖は相変わらず。
あのやりとりの後で流れた涙は、
あたたかい心が嬉しかったことと、
「我慢しなくていいんだよ」と
言ってくれているような気がしたから。
それともう一つ、
人のあたたかい心配りに感謝できる自分を
少し認めてあげられたから。
自分が優しさをもらっていいんだろうか、と
いつもなら考えていたけど、
そうではなくて素直に「嬉しい」と思えた。
ちょっとした変化だけど、
自己肯定には大きな前進。
今日みたいに優しさをもらった時、
これまでの僕はいくつ見逃してきたんだろう。
これからの僕は、いくつ素直に感謝できるだろう。
毎回泣くわけにはいかないけど、
しっかりと感じ取って、素直に感情に出して、
もらった分以上に返していきたい。
2019年11月11日
ないものねだりとの闘い。
帰りに寄ったスーパーで見た光景。
嬉しそうにお父さんに駆け寄り
抱っこされてはしゃぐ子。
家族連れの多い場所に行く時は
なるべく見ないようにしてるのに、
やっぱりどうしても目に入ってしまうのが、
こういうあたたかい親子関係の現場。
抱っこされたかった、
あんなあたたかい親子関係がほしかったと
うらやましく思う気持ちは
今でも湧き上がってくる。
→「優しいお父さんと、抱っこをせがむ子と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/283/0
手に入らないとわかっているのに、
どうしても諦められなくて、
苦しくなることもある。
そんな悲しい、寂しい気持ちを
最小限に抑える一番効率的な方法は、
抱っこされ、無条件で守られる体験を
もらえない星の下に生まれたと割り切ること。
といっても諦めきれなくて、
結局は葛藤するのだけれど。
→「抱っこされたかった思いを諦めきれない。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/337/0
そんな現場を目撃した今日、
湧き上がってきた感情の割合は、
うらやましさ2割
仕方ないなという諦め2割
ほっこりした気持ち6割だった。
ないものねだりして苦しむ気持ちが
少し減っていた。
諦めきれたわけじゃないけど、
なんだか祝福したくなるような思いもあった。
それは僕が、家族以外の人間関係に恵まれていて、
いい友達に囲まれているからかも知れない。
愛情や信頼をもらえなかったのは親だけ、
自分の周りにはこんなにいい人がたくさんいる。
足りないもの、手に入らないものより、
手に入っている、もらえているものに
目を向けられているから、
ほっこりした気持ちが大きかったんだろうな。
人の多い場所に行く時は、
なるべく親子の姿を見ないように、
努めて目を逸らしている。
だけど、やっぱり優しい親子の関わりは、
逸らしていたはずの目が追いかけてしまう。
今後、また落ち込んだ時に見たら、
うらやましい気持ちが勝ってしまうんだろう。
もらえなかったものとの闘いは、
僕が一生背負っていくものの一つなんだろう。
嬉しそうにお父さんに駆け寄り
抱っこされてはしゃぐ子。
家族連れの多い場所に行く時は
なるべく見ないようにしてるのに、
やっぱりどうしても目に入ってしまうのが、
こういうあたたかい親子関係の現場。
抱っこされたかった、
あんなあたたかい親子関係がほしかったと
うらやましく思う気持ちは
今でも湧き上がってくる。
→「優しいお父さんと、抱っこをせがむ子と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/283/0
手に入らないとわかっているのに、
どうしても諦められなくて、
苦しくなることもある。
そんな悲しい、寂しい気持ちを
最小限に抑える一番効率的な方法は、
抱っこされ、無条件で守られる体験を
もらえない星の下に生まれたと割り切ること。
といっても諦めきれなくて、
結局は葛藤するのだけれど。
→「抱っこされたかった思いを諦めきれない。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/337/0
そんな現場を目撃した今日、
湧き上がってきた感情の割合は、
うらやましさ2割
仕方ないなという諦め2割
ほっこりした気持ち6割だった。
ないものねだりして苦しむ気持ちが
少し減っていた。
諦めきれたわけじゃないけど、
なんだか祝福したくなるような思いもあった。
それは僕が、家族以外の人間関係に恵まれていて、
いい友達に囲まれているからかも知れない。
愛情や信頼をもらえなかったのは親だけ、
自分の周りにはこんなにいい人がたくさんいる。
足りないもの、手に入らないものより、
手に入っている、もらえているものに
目を向けられているから、
ほっこりした気持ちが大きかったんだろうな。
人の多い場所に行く時は、
なるべく親子の姿を見ないように、
努めて目を逸らしている。
だけど、やっぱり優しい親子の関わりは、
逸らしていたはずの目が追いかけてしまう。
今後、また落ち込んだ時に見たら、
うらやましい気持ちが勝ってしまうんだろう。
もらえなかったものとの闘いは、
僕が一生背負っていくものの一つなんだろう。
2019年11月10日
人を養う重圧、一人で生きる孤独。
最近結婚したバスケの友人と
しばらくご無沙汰だなぁと思っていたら、
病気になって入院していると聞いた。
結婚による環境の変化や激務など、
いろんな要因はあるだろう。
そんな心配をしながら、
かつて僕自身が結婚した時に
体調をかなり崩していたことを思い出した。
僕の結婚前の状況は、
両親と同じ空間で過ごすことが辛過ぎて、
家出のように飛び出したのが始まりだった。
→「問題児の兄に怒る、実家住まいの妹。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/292/0
だから、結婚するしない以前に
とにかく親から逃げたい気持ちが強く、
将来のことを考える余裕は持てていなかった。
そんな経緯で生活が変わった僕は、
実家を飛び出してから数ヶ月で
体重が15キロ落ちた。
当時、統合失調症が重篤化し
働いていなかったパートナーを
「自分が養う!」と意気込んでいたものの、
減らないパキシル他、
抗うつ薬の影響で日中は起きていられず、
夕方に日払いのアルバイト、
夜〜深夜に居酒屋ホールのアルバイトという、
昼夜逆転で働く毎日を送っていた。
この頃はダブルワークをしても
家賃や光熱費、食費で精一杯で、
給料日前の数日間、
毎月のように携帯が止められていた。
アルバイトの給料で支払いをするまでは
数日間、電話が使えなくなるのが
当たり前になっていた。
通帳の残高は毎月のようにマイナスとなり、
給料日前はお金を引き出せない状態だった。
所持金が1000円を切り、
財布の中は小銭のみということもよくあった。
アルバイト先の居酒屋で、
本来は一食200円かかるまかないを
キッチンのスタッフさんが
「いいよいいよ、どうせバレないから」と
タダで食べさせてくれていたおかげで
食いつなぐことができた。
僕の場合、結婚に向けてじっくりと心の準備をしたり、
覚悟を決めるようなプロセスはなかったけど、
自分の一馬力で稼いで、
人を養うのがどれほど大変かというのが、
短期間での急激な体重減少という形で現れていた。
パートナーは統合失調症の影響で
昼夜問わず倒れたり気を失うことが多かったので、
2週間に1度のペースで救急車を呼び、
睡眠時間が足りていなかったのも、
痩せる一因だったかも知れない。
結局、結婚前と結婚後の4年間は
減少した体重が増えることはなかった。
現在、僕は離婚してしまい、
その後、体重は当時より2〜3キロ戻った。
最近は少し落ちたけど、
おおむねその数字をキープしている。
当時は毎日が必死だったけど、
誰かと一緒に生活すること、
人を養うことの大変さを学ぶことができた。
自分が結婚する前後にこういう道を辿ったので、
勝手な想像だけど、体調を崩して入院した友人も、
もしかしたら心労が重なったのかも知れない。
決して、誰が悪いと言いたいわけではないけど、
結婚と離婚を経験して改めて思うことは、
僕はやっぱり自由がなくなることに対して
一番苦痛を感じる人間だってこと。
自分の人生に子どもは
100パーセントほしくないと思ってるのも、
僕は自分のやりたいことを
思う存分やって生きていくことに
生きる価値を感じている人間だってこと。
→「子供はいらない。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/14/0
家族のために自分を犠牲にしたり、
自由を捨ててまで生きることは
僕にはできないなと改めて思った。
だから、家族を養っている人は
本当にすごいと思う。
あたたかくて安心できる家庭というものを
僕は想像できないから、なおさら。
人を養う重圧と、一人で生きる孤独。
どちらを取るかと聞かれたら、
僕は一人でいる方を選ぶ。
そんなことを考えながら、
友人の心労に思いを馳せた。
しばらくご無沙汰だなぁと思っていたら、
病気になって入院していると聞いた。
結婚による環境の変化や激務など、
いろんな要因はあるだろう。
そんな心配をしながら、
かつて僕自身が結婚した時に
体調をかなり崩していたことを思い出した。
僕の結婚前の状況は、
両親と同じ空間で過ごすことが辛過ぎて、
家出のように飛び出したのが始まりだった。
→「問題児の兄に怒る、実家住まいの妹。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/292/0
だから、結婚するしない以前に
とにかく親から逃げたい気持ちが強く、
将来のことを考える余裕は持てていなかった。
そんな経緯で生活が変わった僕は、
実家を飛び出してから数ヶ月で
体重が15キロ落ちた。
当時、統合失調症が重篤化し
働いていなかったパートナーを
「自分が養う!」と意気込んでいたものの、
減らないパキシル他、
抗うつ薬の影響で日中は起きていられず、
夕方に日払いのアルバイト、
夜〜深夜に居酒屋ホールのアルバイトという、
昼夜逆転で働く毎日を送っていた。
この頃はダブルワークをしても
家賃や光熱費、食費で精一杯で、
給料日前の数日間、
毎月のように携帯が止められていた。
アルバイトの給料で支払いをするまでは
数日間、電話が使えなくなるのが
当たり前になっていた。
通帳の残高は毎月のようにマイナスとなり、
給料日前はお金を引き出せない状態だった。
所持金が1000円を切り、
財布の中は小銭のみということもよくあった。
アルバイト先の居酒屋で、
本来は一食200円かかるまかないを
キッチンのスタッフさんが
「いいよいいよ、どうせバレないから」と
タダで食べさせてくれていたおかげで
食いつなぐことができた。
僕の場合、結婚に向けてじっくりと心の準備をしたり、
覚悟を決めるようなプロセスはなかったけど、
自分の一馬力で稼いで、
人を養うのがどれほど大変かというのが、
短期間での急激な体重減少という形で現れていた。
パートナーは統合失調症の影響で
昼夜問わず倒れたり気を失うことが多かったので、
2週間に1度のペースで救急車を呼び、
睡眠時間が足りていなかったのも、
痩せる一因だったかも知れない。
結局、結婚前と結婚後の4年間は
減少した体重が増えることはなかった。
現在、僕は離婚してしまい、
その後、体重は当時より2〜3キロ戻った。
最近は少し落ちたけど、
おおむねその数字をキープしている。
当時は毎日が必死だったけど、
誰かと一緒に生活すること、
人を養うことの大変さを学ぶことができた。
自分が結婚する前後にこういう道を辿ったので、
勝手な想像だけど、体調を崩して入院した友人も、
もしかしたら心労が重なったのかも知れない。
決して、誰が悪いと言いたいわけではないけど、
結婚と離婚を経験して改めて思うことは、
僕はやっぱり自由がなくなることに対して
一番苦痛を感じる人間だってこと。
自分の人生に子どもは
100パーセントほしくないと思ってるのも、
僕は自分のやりたいことを
思う存分やって生きていくことに
生きる価値を感じている人間だってこと。
→「子供はいらない。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/14/0
家族のために自分を犠牲にしたり、
自由を捨ててまで生きることは
僕にはできないなと改めて思った。
だから、家族を養っている人は
本当にすごいと思う。
あたたかくて安心できる家庭というものを
僕は想像できないから、なおさら。
人を養う重圧と、一人で生きる孤独。
どちらを取るかと聞かれたら、
僕は一人でいる方を選ぶ。
そんなことを考えながら、
友人の心労に思いを馳せた。
2019年11月09日
無意識に子どもを追い詰める、口うるさい母親。
社会人2年目になる僕の知人が
精神を病んで会社を退職した経緯を聞いた。
配属先が初めての土地、会社の寮生活で、
1年目は信頼できる同期がいたことで
慣れないながら何とかやっていた。
しかし2年目に同期がいなくなり、
会社の寮のためオンとオフの切り替えが難しく、
孤独の中で追い詰められていった。
現在は引きこもりに近く、誰にも心を開かず、
鬱病かはわからないが危険な状態だそうだ。
その知人の母親とも、
僕は親しくさせてもらっていて、
彼のことについてよく相談される。
しかし、その母親の主張を聞いていると、
知人が心を病み、また母親に反発し
心を閉ざしてしまうのも無理はないと思った。
母親は僕に対して、相談というよりも
彼への愚痴を垂れ流しているように聞こえた。
自分で働く気がない、
退職したのに生活レベルを落とさない、
かといって実家に帰ってきた時はきた時で、
私はイライラして小言ばかり言ってしまう、
それに反発する彼とすぐ喧嘩になってしまう、と。
話を聞きながら、僕は表向きは冷静なふりをするも、
内心では過去の自分に文句を言われているようで、
本当に心が痛かった。
僕も社会人になって間もなく、挫折を味わった。
そして鬱病になり、実家に帰った経緯がある。
再び家を出るまでの3年間、
「いつまで居る」「居候」と言われ
肩身の狭い思いをしていた。
→「「資格か公務員の勉強するなら置いてやる」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/342/0
母親が言っている「働く気がない」は、
この頃の僕に文句を言っているように聞こえた。
挫折し、心を病んだ子どもをさらに追い詰める言葉だ。
会社を辞めたが、知人はまだ一人暮らしで
実家に帰っていない。
帰りたくないだろう。
打ち砕かれ、追い詰められているのに、
追い打ちをかける親元に帰ったら、
潰されてしまうのは目に見えている。
僕が実家に帰った時に味わった、
残された逃げ道を実の親に塞がれるという絶望。
その悲しみが再現されてしまうのではないかと
懸念してしまった。
心の病に対して「働け」は絶対に言ってはいけない。
ぎりぎり耐えてきて、もう頑張る気力がなくなって
病にかかった、ライフポイントがゼロの状態。
これ以上頑張れずに、心がパンクしたのに、
僕の両親も、知人の母親も、どうしてさらに
追い詰めるようなことばかり言うのだろう。
理由は、母親がいろいろと言っていることは
本心では”自分のため”であって知人のためではないから。
彼が不安定になったり、自分の言うことに反発したり、
安定して生活してくれないと”自分が”不安になるから。
彼が心を閉ざし、引きこもりのようになり、
未来が見えにくい状況になっては”自分が”安心できないから。
彼の状態がこう、問題点はこう、
だから彼が回復するために何かしたい、ではなく、
彼を”自分が安心できる”状態にしておきたいという
コントロール願望、支配欲が根底にあるから。
本当に子どものことを思っているなら、
彼が引きこもりに近い状態になってしまった時に
かける言葉は「働く気がない」ではなく、
「1年ちょっともよくやったね、しばらく休みな、帰っといで」
がいいんじゃないかと思う。
これは僕自身が、実家で肩身の狭い思いをしていた時に、
ほしかった言葉。
当時はその理由なんて考える余裕はなかったけど、
まるで僕と同じような道を辿っている知人のことを
聞けば聞くほど、親が追い打ちをかけているのが
はっきり見て取れる。
母親は”自分の不安を取り除きたい気持ち”の裏返しで
彼を追い詰めたり小言を言っていることに
気づいていない。
だからこれからも、無意識に彼を追い詰める言葉を
浴びせ続けるんだろうな、と思う。
僕は相談を受けたり、彼の近況を聞いたりするたびに、
胸が苦しくなる。
どちらの味方をするわけにもいかず、
母親に「あなたが追い詰めています」とも言えない。
どうすればいいんだろう。
かつての自分と、知人を重ねながら、
苦しむ両者の話をただ聞き、ただ見守っている。
精神を病んで会社を退職した経緯を聞いた。
配属先が初めての土地、会社の寮生活で、
1年目は信頼できる同期がいたことで
慣れないながら何とかやっていた。
しかし2年目に同期がいなくなり、
会社の寮のためオンとオフの切り替えが難しく、
孤独の中で追い詰められていった。
現在は引きこもりに近く、誰にも心を開かず、
鬱病かはわからないが危険な状態だそうだ。
その知人の母親とも、
僕は親しくさせてもらっていて、
彼のことについてよく相談される。
しかし、その母親の主張を聞いていると、
知人が心を病み、また母親に反発し
心を閉ざしてしまうのも無理はないと思った。
母親は僕に対して、相談というよりも
彼への愚痴を垂れ流しているように聞こえた。
自分で働く気がない、
退職したのに生活レベルを落とさない、
かといって実家に帰ってきた時はきた時で、
私はイライラして小言ばかり言ってしまう、
それに反発する彼とすぐ喧嘩になってしまう、と。
話を聞きながら、僕は表向きは冷静なふりをするも、
内心では過去の自分に文句を言われているようで、
本当に心が痛かった。
僕も社会人になって間もなく、挫折を味わった。
そして鬱病になり、実家に帰った経緯がある。
再び家を出るまでの3年間、
「いつまで居る」「居候」と言われ
肩身の狭い思いをしていた。
→「「資格か公務員の勉強するなら置いてやる」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/342/0
母親が言っている「働く気がない」は、
この頃の僕に文句を言っているように聞こえた。
挫折し、心を病んだ子どもをさらに追い詰める言葉だ。
会社を辞めたが、知人はまだ一人暮らしで
実家に帰っていない。
帰りたくないだろう。
打ち砕かれ、追い詰められているのに、
追い打ちをかける親元に帰ったら、
潰されてしまうのは目に見えている。
僕が実家に帰った時に味わった、
残された逃げ道を実の親に塞がれるという絶望。
その悲しみが再現されてしまうのではないかと
懸念してしまった。
心の病に対して「働け」は絶対に言ってはいけない。
ぎりぎり耐えてきて、もう頑張る気力がなくなって
病にかかった、ライフポイントがゼロの状態。
これ以上頑張れずに、心がパンクしたのに、
僕の両親も、知人の母親も、どうしてさらに
追い詰めるようなことばかり言うのだろう。
理由は、母親がいろいろと言っていることは
本心では”自分のため”であって知人のためではないから。
彼が不安定になったり、自分の言うことに反発したり、
安定して生活してくれないと”自分が”不安になるから。
彼が心を閉ざし、引きこもりのようになり、
未来が見えにくい状況になっては”自分が”安心できないから。
彼の状態がこう、問題点はこう、
だから彼が回復するために何かしたい、ではなく、
彼を”自分が安心できる”状態にしておきたいという
コントロール願望、支配欲が根底にあるから。
本当に子どものことを思っているなら、
彼が引きこもりに近い状態になってしまった時に
かける言葉は「働く気がない」ではなく、
「1年ちょっともよくやったね、しばらく休みな、帰っといで」
がいいんじゃないかと思う。
これは僕自身が、実家で肩身の狭い思いをしていた時に、
ほしかった言葉。
当時はその理由なんて考える余裕はなかったけど、
まるで僕と同じような道を辿っている知人のことを
聞けば聞くほど、親が追い打ちをかけているのが
はっきり見て取れる。
母親は”自分の不安を取り除きたい気持ち”の裏返しで
彼を追い詰めたり小言を言っていることに
気づいていない。
だからこれからも、無意識に彼を追い詰める言葉を
浴びせ続けるんだろうな、と思う。
僕は相談を受けたり、彼の近況を聞いたりするたびに、
胸が苦しくなる。
どちらの味方をするわけにもいかず、
母親に「あなたが追い詰めています」とも言えない。
どうすればいいんだろう。
かつての自分と、知人を重ねながら、
苦しむ両者の話をただ聞き、ただ見守っている。
2019年11月08日
聞かれたら告白するべきか、否か。
昨日、無事に生活保護の申請が
通ったという記事を書いたところ、
普段の約10倍、
なんと750を超えるアクセスがあり、
朝起きてびっくり。
→「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
ひとまずは、家を無くさなくてよくなり、
少し気持ちに余裕が出てきたので、
今日はあえて地下鉄で街中へ行き、
洗剤やシャンプーなど食糧以外の必需品を調達して来た。
この数ヶ月くらいは思いもつかなかったが、
中古PCショップへ寄り、
ウィンドウショッピングをしてみた。
食べて生き延びること以外に
やりたいことが思いつくのは、
マズローの五大欲求で言うところの
下から2番目「安全欲求」が満たされたからだろう。
生活は保証してもらえたものの、
1つ気になっていることがある。
それは、僕の知人がもし
生活保護のことを知ったら、
見る目が変わるのだろうか、ということ。
通っている就労移行支援では
すでに生活保護を受けている人は何人かいるが、
自分が当事者になったことで、
差別のようなものはあるのだろうか。
この先、僕が自分で充分に稼げるようになり、
保護廃止決定通知をもらうまでに、
一度でもそういう経験をするのだろうか。
触れ回ったり、発表したりするものではなくても、
もし聞かれて答えなければいけなくなった時に、
素直に「生活保護を受けている」と
告白してもいいのだろうか。
それとも、どうやって生計を立てているかは
できるなら言わない方がいいんだろうか。
そんな疑問。
人によっては、
自分は長時間働いているのにお前は、と
非難するかも知れないので、
今のところは、リアルで交流のある人には
聞かれない限り言わない方がいいと思っている。
そんな場面に出くわすかわからないのに、
僕は何を想像して不安になってるんだろう。
人にどう思われようと、
生き延びるため、自立の準備のために
自分で選んだ道なんだから、
お世話になれる内はお世話になればいい。
そして、充分に稼げるようになってから
ゆっくり返していけばいいじゃないか。
何だかまとまりに欠ける結論だけど、
ひとまずはそう言い聞かせて、
自分を納得させることにする。
通ったという記事を書いたところ、
普段の約10倍、
なんと750を超えるアクセスがあり、
朝起きてびっくり。
→「生活保護開始決定通知書。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/352/0
ひとまずは、家を無くさなくてよくなり、
少し気持ちに余裕が出てきたので、
今日はあえて地下鉄で街中へ行き、
洗剤やシャンプーなど食糧以外の必需品を調達して来た。
この数ヶ月くらいは思いもつかなかったが、
中古PCショップへ寄り、
ウィンドウショッピングをしてみた。
食べて生き延びること以外に
やりたいことが思いつくのは、
マズローの五大欲求で言うところの
下から2番目「安全欲求」が満たされたからだろう。
生活は保証してもらえたものの、
1つ気になっていることがある。
それは、僕の知人がもし
生活保護のことを知ったら、
見る目が変わるのだろうか、ということ。
通っている就労移行支援では
すでに生活保護を受けている人は何人かいるが、
自分が当事者になったことで、
差別のようなものはあるのだろうか。
この先、僕が自分で充分に稼げるようになり、
保護廃止決定通知をもらうまでに、
一度でもそういう経験をするのだろうか。
触れ回ったり、発表したりするものではなくても、
もし聞かれて答えなければいけなくなった時に、
素直に「生活保護を受けている」と
告白してもいいのだろうか。
それとも、どうやって生計を立てているかは
できるなら言わない方がいいんだろうか。
そんな疑問。
人によっては、
自分は長時間働いているのにお前は、と
非難するかも知れないので、
今のところは、リアルで交流のある人には
聞かれない限り言わない方がいいと思っている。
そんな場面に出くわすかわからないのに、
僕は何を想像して不安になってるんだろう。
人にどう思われようと、
生き延びるため、自立の準備のために
自分で選んだ道なんだから、
お世話になれる内はお世話になればいい。
そして、充分に稼げるようになってから
ゆっくり返していけばいいじゃないか。
何だかまとまりに欠ける結論だけど、
ひとまずはそう言い聞かせて、
自分を納得させることにする。
2019年11月07日
生活保護開始決定通知書 〜生活保護を受けることになって〜。
生活保護の申請を終えて2週間が経った。
僕は穏やかで、落ち着かない日々を過ごしていた。
”穏やかで落ち着かない”
そんな矛盾を作り出していたのは郵便受けだった。
なにしろ、
生活保護課からのお知らせが入っているかもしれないからだ。
そんな日々の末に、僕はついに生活保護の受給が認められた。
ー目次ー
平日の13時。
11月の曇り空は、今にも初雪をこぼしそうだった。
就労移行支援事業所では午後の作業が始まった。
書類を封筒に入れる音、荷造りをする音、
いつも通りの作業風景が流れていった。
僕もその風景の一部になりたかった。
何も考えなくていい単純作業に救われていた。
ふと、スタッフさんから声をかけられた。
「生活保護課からお電話ですよ」
僕は作業から抜け出し、電話に出た。
明瞭な男性の声が、こう言った。
「生活保護の支給が決定しました」
僕は作業を中抜けし、区役所へ向かった。
生活保護課へ着くと、
職員さんが諸注意や支給日、収入の届出方法などを説明してくれた。
そして最後に、生活保護費を受け取った。
手続きが終わり、事業所へ戻った。
僕は残りの作業を終えて帰路についた。
とたんに、涙があふれた。
肩へのしかかっていた重いものが、
どこかへ消えたようだった。
ふいに「よかった…。」とつぶやいた。
区役所で説明を受けたとき、
僕はずっと気になっていた質問をした。
「(関係が破綻している)親はなにか言っていましたか?」
代理の方はこう答えてくれた。
「正確にはわかりませんが、まだ親御さんには連絡していないそうです。」
生活保護を申請したとき、僕の両親も同席した。
その席で、自閉症スペクトラム(ASD)障害、
とりわけアスペルガー症候群の特徴が強い父親が暴れた経緯があった。
”暴れた”というのはもちろん暴力ではない。
「延々と持論を語る」「息子の心配をよそおった人格攻撃」だ。
母親はいつも、そんな父親を止めるフリをする。
が、本気でやめさせることは一度もない。
誰だって我が身がいちばん大事だし、
父親を怒らせて収入の基盤を失いたくはないだろう。
それは理解しても、子どもの立場ではつらかった。
「母親は助けてくれない」と思い知らされることが。
そんな経緯があったので、
僕はまだ、親が何をしでかすかを恐れていた。
父親には「空気を読む」能力も、
延々と話す自分を客観視する能力もない。
だから今回も、父親の暴走が怖かった。
「息子が生活保護を受けた」
この現実を、また僕への攻撃という形で否定してくるのではと恐れた。
そして、「助けない母親」を見るのが悲しかった。
また、あの”見捨てられたような孤独感”を味わうことを恐れた。
家に帰り、今日のできごとを振り返った。
就労移行支援事業所のスタッフさんから「痩せましたね」と言われた。
そういえばベルトの穴が1つ、縮んでいた。
身体と心は無意識に、ストレスに耐えていた。
僕はふたたび外へ出た。
そういえば、近所にトライアル(大型スーパー)ができたっけ。
寒空の下、自転車を走らせた。
真新しい店内を歩き回り、
いつもより少し高級な食材を買いこんだ。
帰り道、自転車をこぎながら、また泣いた。
僕は無事に生活保護を受けられた。
ほっとした気持ちと同時に、自分への疑問が生まれた。
「僕はどうして、ほっとしているのか?」
僕は「生」にそこまで執着がないつもりでいた。
「生き続けるなら生きるけど、死ぬならそれでいい」
心は冷めているのに、身体は生き延びるために必死で動いていた。
自分の体内で、こんな矛盾が渦巻いていることが釈然としなかった。
「自分は何をもって自分なのか」「自分の意志なんてあるのか」
そんなことを、繰り返し考えた。
なのに、僕は泣いた。
それはきっと、
心の底では、まだ生きたいと願っているのかも知れない
からだった。
そして、
僕の「生」への執着を冷めさせていたのは、
きっと僕自身の無意識だった。
「今の状況では、このまま生きたいと願うことに心が耐えられないだろう」
そう判断がくだり、生きる欲求を封印させた。
「生きていたくない」「まだ生きたい」
涙はきっと、そんな心のせめぎ合いからこぼれ落ちた。
※生活保護の申請・三部作
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
僕は穏やかで、落ち着かない日々を過ごしていた。
”穏やかで落ち着かない”
そんな矛盾を作り出していたのは郵便受けだった。
なにしろ、
生活保護課からのお知らせが入っているかもしれないからだ。
そんな日々の末に、僕はついに生活保護の受給が認められた。
ー目次ー
- ”生活保護課からお電話ですよ”
- 父親の暴走への恐れ、助けない母親への悲しみ
- まだ、生きたいと願っていたのかもしれない
1.”生活保護課からお電話ですよ”
平日の13時。
11月の曇り空は、今にも初雪をこぼしそうだった。
就労移行支援事業所では午後の作業が始まった。
書類を封筒に入れる音、荷造りをする音、
いつも通りの作業風景が流れていった。
僕もその風景の一部になりたかった。
何も考えなくていい単純作業に救われていた。
ふと、スタッフさんから声をかけられた。
「生活保護課からお電話ですよ」
僕は作業から抜け出し、電話に出た。
明瞭な男性の声が、こう言った。
「生活保護の支給が決定しました」
僕は作業を中抜けし、区役所へ向かった。
生活保護課へ着くと、
職員さんが諸注意や支給日、収入の届出方法などを説明してくれた。
そして最後に、生活保護費を受け取った。
手続きが終わり、事業所へ戻った。
僕は残りの作業を終えて帰路についた。
とたんに、涙があふれた。
肩へのしかかっていた重いものが、
どこかへ消えたようだった。
ふいに「よかった…。」とつぶやいた。
2.父親の暴走への恐れ、助けない母親への悲しみ
区役所で説明を受けたとき、
僕はずっと気になっていた質問をした。
「(関係が破綻している)親はなにか言っていましたか?」
代理の方はこう答えてくれた。
「正確にはわかりませんが、まだ親御さんには連絡していないそうです。」
生活保護を申請したとき、僕の両親も同席した。
その席で、自閉症スペクトラム(ASD)障害、
とりわけアスペルガー症候群の特徴が強い父親が暴れた経緯があった。
”暴れた”というのはもちろん暴力ではない。
「延々と持論を語る」「息子の心配をよそおった人格攻撃」だ。
母親はいつも、そんな父親を止めるフリをする。
が、本気でやめさせることは一度もない。
誰だって我が身がいちばん大事だし、
父親を怒らせて収入の基盤を失いたくはないだろう。
それは理解しても、子どもの立場ではつらかった。
「母親は助けてくれない」と思い知らされることが。
そんな経緯があったので、
僕はまだ、親が何をしでかすかを恐れていた。
父親には「空気を読む」能力も、
延々と話す自分を客観視する能力もない。
だから今回も、父親の暴走が怖かった。
「息子が生活保護を受けた」
この現実を、また僕への攻撃という形で否定してくるのではと恐れた。
そして、「助けない母親」を見るのが悲しかった。
また、あの”見捨てられたような孤独感”を味わうことを恐れた。
3.まだ、生きたいと願っていたのかもしれない
家に帰り、今日のできごとを振り返った。
就労移行支援事業所のスタッフさんから「痩せましたね」と言われた。
そういえばベルトの穴が1つ、縮んでいた。
身体と心は無意識に、ストレスに耐えていた。
僕はふたたび外へ出た。
そういえば、近所にトライアル(大型スーパー)ができたっけ。
寒空の下、自転車を走らせた。
真新しい店内を歩き回り、
いつもより少し高級な食材を買いこんだ。
帰り道、自転車をこぎながら、また泣いた。
僕は無事に生活保護を受けられた。
ほっとした気持ちと同時に、自分への疑問が生まれた。
「僕はどうして、ほっとしているのか?」
僕は「生」にそこまで執着がないつもりでいた。
「生き続けるなら生きるけど、死ぬならそれでいい」
心は冷めているのに、身体は生き延びるために必死で動いていた。
自分の体内で、こんな矛盾が渦巻いていることが釈然としなかった。
「自分は何をもって自分なのか」「自分の意志なんてあるのか」
そんなことを、繰り返し考えた。
なのに、僕は泣いた。
それはきっと、
心の底では、まだ生きたいと願っているのかも知れない
からだった。
そして、
僕の「生」への執着を冷めさせていたのは、
きっと僕自身の無意識だった。
「今の状況では、このまま生きたいと願うことに心が耐えられないだろう」
そう判断がくだり、生きる欲求を封印させた。
「生きていたくない」「まだ生きたい」
涙はきっと、そんな心のせめぎ合いからこぼれ落ちた。
リンク
リンク
※生活保護の申請・三部作
生活保護の申請。(1) -生活保護課への書類提出-
生活保護の申請。(2) -ケースワーカーによる家庭訪問-
生活保護の申請。(3) -民生委員による家庭訪問-
2019年11月06日
長かった、僕の反抗期。
僕の反抗期はとても長かった。
ほぼ中学入学と同時に始まり、
高校を卒業し大学進学で実家を離れるまで、
12歳〜18歳の間、ほぼずっとそうだった。
思春期まるごと反抗期と言ってもいい。
ただし、その反抗の仕方は、一般的に言われるような
両親の言うことにいちいち逆らうような形ではなかった。
怒りの表現方法は、父と母とで
対応がまるっきり違っていた。
父に対しては、何を言っても無駄と諦めていた。
だから、怒鳴られたりしても言い返すことは一切せず、
ふてくされた態度だけをわざと見せつけ、
ただ無言で睨みつけた。
→「父の怒声「しゃべれ!」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/318/0
父の身長は175センチ。
僕は高校1年生の時にその身長を抜き、
最終的に180センチまで伸びた。
父より背が高くなるまでは、
怒声が怖くサイズも自分より大きいため、
黙り込む背景には、怒りよりも
逆らい難い怖さの方が先行していた。
母とは、僕が中学生になり
学校の勉強のため部屋にこもるようになってから、
以前よりもさらに会話が減っていた。
まともな会話は、家事の手伝いをしなさいと
呼ばれる時くらい。
そのたびに僕は、勉強の邪魔をするなと怒り、
少しの言い合いになった後で、態度が悪いまま
しぶしぶ家事を手伝うというのが日常だった。
言い合いになる時は、
大きな声を張り上げることはなく
ひそひそ話をするようなかすれ声で繰り広げられた。
なぜなら、言い合っている内容を
父に聞かれるのが怖かったから。
小学生の時はなすすべなく
ペナルティを受けていた影響か、
結局何をされるでもないのに、
この後どんな罰を受けるんだろうと怯え、
小声で喧嘩を隠し通すことに必死だった。
中高ともバスケ部に入っていたので帰宅は夜。
帰宅後は父が帰ってくるまでに
急いで風呂に入り、夕食を掻き込み、
車のテールランプが見えたら
急いで部屋へ逃げ込む。
出てくるのは、皿洗いを手伝いなさいと母に呼ばれ、
小声で口論する時か、トイレに行く時のみ。
中高6年間、僕の自宅での会話は
これがほとんどすべてだった。
学校であったことを聞かれることも、
話すこともなかった。
今の僕がこの頃にタイムスリップしたら、
「どうして自分は疎まれるんだろう、愛されないんだろう」と
深い悲しみが先行していたと思う。
17時や21時ルールは僕の時に厳しく施行され、
妹や弟の時はうやむやになくなっていたことを
当時から理不尽に感じていたから。
→17時ルール
「冷たいドアと黄昏と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/227/0
→21時ルール
「懲罰教育、ルールが支配する家。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/155/0
当時の僕が感じていたのは
悲しみではなく怒りと敵対心だった。
親は”敵”であり、家は”戦場”。
「安心」という概念を知らなかった。
僕は遠方の大学へ進んだことで、
実家を離れることができた。
だけど、もし地元の大学へ行くなどして
実家に残っていたら、
まちがいなく不登校か引きこもりになっていた。
下手をすると家庭内暴力を起こしていたかも知れない。
身長は家族で一番高く、
もう親が仁王立ちしても怖くなかったし、
思春期まるごと、6年間積もった怒りが
大学生のうちのどこかで爆発してもおかしくなかった。
今から思えば、実家を離れて冷却期間を過ごせたことで
結果的にお互い救われていたのかも知れない。
ただし、僕に考える時間をくれた別居期間は、
僕にとっての実家を完全に「お客さんとして行く場所」にした。
僕は家族というメンバーの一員として認められていない、
僕はゲストでありビジター。
長い反抗期が、別居によってせっかく終わったのに、
長い思春期を終えた途端、僕が感じていた家族への疎外感は
確固たるものになってしまった。
ほぼ中学入学と同時に始まり、
高校を卒業し大学進学で実家を離れるまで、
12歳〜18歳の間、ほぼずっとそうだった。
思春期まるごと反抗期と言ってもいい。
ただし、その反抗の仕方は、一般的に言われるような
両親の言うことにいちいち逆らうような形ではなかった。
怒りの表現方法は、父と母とで
対応がまるっきり違っていた。
父に対しては、何を言っても無駄と諦めていた。
だから、怒鳴られたりしても言い返すことは一切せず、
ふてくされた態度だけをわざと見せつけ、
ただ無言で睨みつけた。
→「父の怒声「しゃべれ!」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/318/0
父の身長は175センチ。
僕は高校1年生の時にその身長を抜き、
最終的に180センチまで伸びた。
父より背が高くなるまでは、
怒声が怖くサイズも自分より大きいため、
黙り込む背景には、怒りよりも
逆らい難い怖さの方が先行していた。
母とは、僕が中学生になり
学校の勉強のため部屋にこもるようになってから、
以前よりもさらに会話が減っていた。
まともな会話は、家事の手伝いをしなさいと
呼ばれる時くらい。
そのたびに僕は、勉強の邪魔をするなと怒り、
少しの言い合いになった後で、態度が悪いまま
しぶしぶ家事を手伝うというのが日常だった。
言い合いになる時は、
大きな声を張り上げることはなく
ひそひそ話をするようなかすれ声で繰り広げられた。
なぜなら、言い合っている内容を
父に聞かれるのが怖かったから。
小学生の時はなすすべなく
ペナルティを受けていた影響か、
結局何をされるでもないのに、
この後どんな罰を受けるんだろうと怯え、
小声で喧嘩を隠し通すことに必死だった。
中高ともバスケ部に入っていたので帰宅は夜。
帰宅後は父が帰ってくるまでに
急いで風呂に入り、夕食を掻き込み、
車のテールランプが見えたら
急いで部屋へ逃げ込む。
出てくるのは、皿洗いを手伝いなさいと母に呼ばれ、
小声で口論する時か、トイレに行く時のみ。
中高6年間、僕の自宅での会話は
これがほとんどすべてだった。
学校であったことを聞かれることも、
話すこともなかった。
今の僕がこの頃にタイムスリップしたら、
「どうして自分は疎まれるんだろう、愛されないんだろう」と
深い悲しみが先行していたと思う。
17時や21時ルールは僕の時に厳しく施行され、
妹や弟の時はうやむやになくなっていたことを
当時から理不尽に感じていたから。
→17時ルール
「冷たいドアと黄昏と。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/227/0
→21時ルール
「懲罰教育、ルールが支配する家。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/155/0
当時の僕が感じていたのは
悲しみではなく怒りと敵対心だった。
親は”敵”であり、家は”戦場”。
「安心」という概念を知らなかった。
僕は遠方の大学へ進んだことで、
実家を離れることができた。
だけど、もし地元の大学へ行くなどして
実家に残っていたら、
まちがいなく不登校か引きこもりになっていた。
下手をすると家庭内暴力を起こしていたかも知れない。
身長は家族で一番高く、
もう親が仁王立ちしても怖くなかったし、
思春期まるごと、6年間積もった怒りが
大学生のうちのどこかで爆発してもおかしくなかった。
今から思えば、実家を離れて冷却期間を過ごせたことで
結果的にお互い救われていたのかも知れない。
ただし、僕に考える時間をくれた別居期間は、
僕にとっての実家を完全に「お客さんとして行く場所」にした。
僕は家族というメンバーの一員として認められていない、
僕はゲストでありビジター。
長い反抗期が、別居によってせっかく終わったのに、
長い思春期を終えた途端、僕が感じていた家族への疎外感は
確固たるものになってしまった。