2019年10月28日
「資格か公務員の勉強するなら置いてやる」。
僕は大学を卒業し就職するも、
鬱病にかかり実家に戻ってしまった経緯がある。
寝たきり状態から徐々にアルバイトをし始め、
お金を貯めて再独立するまで約3年間、
実家にお世話になった。
この間に親から言われた言葉の中で、
最も僕の心をえぐったのは、
父が顔を合わせるたびに言い続けた
「資格か公務員試験の勉強するなら置いてやる」だった。
一人暮らしを続けて
「自立」していけるはずだったのに、
新卒入社した会社を半年で辞め、
鬱病で実家に帰ってしまった僕は
どうしようもない罪悪感でいっぱいだった。
それは僕が高校生の頃、父が常々、
「(自立するために)18歳になったら家に置かない」と
言っていたことに従えなかったから。
→「「18になったら家に置かないからな」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/325/0
きょうだいの中で、長子の僕に適用されても、
妹弟には適用されない独自ルールを理不尽に感じながらも、
自分の力で稼いで暮らすことができない自分は
ここに居てはいけないと自責する毎日だった。
今から考えれば、親の期待に応えられないと
嘆く子どもの典型だった。
僕は大学で学芸員の資格を取ったものの、
4年間の勉強や実習で、この道を究めることに疑問を感じ、
博物館や埋蔵文化財センターなどの道には進まなかった。
在学中は母に何度となく「教員免許を取れ」と勧められたが、
教員である父のようには絶対になりたくなかった僕は
その勧めを4年間断り続けて卒業した。
→「父との関係。(5) -大学〜就職-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/43/0
僕にとって、資格を生かしたり公務員になることには
良いイメージが持てていなかった一方で、
他に何がやりたいかもわかっていない、
何をすればいいかわからない迷走が続いていた。
実家に帰っての療養初期は
できるアルバイトの日数が少なかったため、
出勤しない日は父とはち合わせることが多かった。
子どもの頃のように、
噴火の如く怒鳴ることはなくなったが、
僕に対する少ない口数のほとんどが
「18になったら家に置かないと言ったはず」
「資格や公務員の勉強をするためなら居ていい」だった。
18歳を過ぎたのに
おめおめと帰ってきたことへの罪悪感に苛まれていた僕には
取りたい資格も、なりたい公務員も思いつかなかった。
鬱病を克服し、お金を貯めて再独立するという
目標は持っていたものの、
では何の仕事をすればいいかがわからず、
「資格、公務員」とひたすら言われることがただ苦痛だった。
父に何度言われても、僕は何も言葉を返せなかった。
取りたい資格も、なりたい公務員もないなんて
もし父にバレたら、家を追い出される。
そんな恐怖が募っていった。
そしてその恐怖は、いつしかこんなふうに飛躍し始めた。
「資格の勉強”するなら”ということは、
しなければ家族の一員として認められないのだろうか。
僕は”条件次第で居させてやってもいい”程度の、
親にとって大切じゃない存在なんだろうか。
どうして妹弟には同じことを言わないんだろうか。」
僕は何か資格の本や問題集を買ったり、
公務員試験の資料を集めることはしていなかった。
でも家にいればいるだけ、条件を突きつけられるから、
気分の落ち込みや体調に関わらずアルバイトを増やして
家にいない時間を多くするしかなかった。
意地でも公務員になりたくない、
かといって欲しい資格も思いつかない。
衣食住を与えられる条件を満たせないのに
今日もあの家に帰って寝ている自分。
僕は自立できていないから
鬱病にもなったし親から大切にされないんだ。
そんな罪悪感と自責の念に飲み込まれていった。
鬱病の罹患から1〜2年で
パキシルの服用量が上限に達した。
パキシルを止めるまでに、ここから10年を要した。
実家に戻り、寝たきりから脱し、
週一回の家庭教師から始めたアルバイトを少しずつ増やし、
3年かかったが一人暮らしの資金を貯めることができた。
不動産屋を回り、見つけてきたアパートへ引っ越す時、
父は資格とも公務員とも言わなかった。
励ましや応援の言葉もなかった。
パキシルの量は減っていなかったが、
家を出るという目標は果たした。
なのに、この時の僕は
独立したぞ、自由だ、これから何をしようという
”希望に満ちた未来”が見えていなかった。
居ることに罪を感じ、いつも追い立てられる
針のむしろから、ようやく脱出できた安堵感でいっぱいだった。
アパートで一人でいると、安堵感の次に
幾つもの疑問が湧き上がってきた。
実の家族と一緒に過ごすのがどうしてこんなに苦しんだろう?
どこよりも大きな”居場所のなさ”を感じる場所が、
どうして実家なんだろう?
やっぱり僕は彼らにとって
家族ではなく居候でしかなかったんだろうか?
父は「自立しろ」と言いたかったんだと思う。
それは高校生の頃も、
実家で居づらさを感じている頃も読み取れていた。
だけど、大きな挫折をした上、
身体と心が思うように動かなくなっていた僕には、
条件付きの滞在許可は「早く何かしろ」という催促でしかなく、
ただただ追い詰められていった。
彼らは自分たちの思い通りに動かない僕にイライラしていた。
僕は自分を追い詰める親に対し、
自分への愛情はないんだという悲しみと
不信感ばかりを募らせていた。
鬱病にかかり実家に戻ってしまった経緯がある。
寝たきり状態から徐々にアルバイトをし始め、
お金を貯めて再独立するまで約3年間、
実家にお世話になった。
この間に親から言われた言葉の中で、
最も僕の心をえぐったのは、
父が顔を合わせるたびに言い続けた
「資格か公務員試験の勉強するなら置いてやる」だった。
一人暮らしを続けて
「自立」していけるはずだったのに、
新卒入社した会社を半年で辞め、
鬱病で実家に帰ってしまった僕は
どうしようもない罪悪感でいっぱいだった。
それは僕が高校生の頃、父が常々、
「(自立するために)18歳になったら家に置かない」と
言っていたことに従えなかったから。
→「「18になったら家に置かないからな」。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/325/0
きょうだいの中で、長子の僕に適用されても、
妹弟には適用されない独自ルールを理不尽に感じながらも、
自分の力で稼いで暮らすことができない自分は
ここに居てはいけないと自責する毎日だった。
今から考えれば、親の期待に応えられないと
嘆く子どもの典型だった。
僕は大学で学芸員の資格を取ったものの、
4年間の勉強や実習で、この道を究めることに疑問を感じ、
博物館や埋蔵文化財センターなどの道には進まなかった。
在学中は母に何度となく「教員免許を取れ」と勧められたが、
教員である父のようには絶対になりたくなかった僕は
その勧めを4年間断り続けて卒業した。
→「父との関係。(5) -大学〜就職-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/43/0
僕にとって、資格を生かしたり公務員になることには
良いイメージが持てていなかった一方で、
他に何がやりたいかもわかっていない、
何をすればいいかわからない迷走が続いていた。
実家に帰っての療養初期は
できるアルバイトの日数が少なかったため、
出勤しない日は父とはち合わせることが多かった。
子どもの頃のように、
噴火の如く怒鳴ることはなくなったが、
僕に対する少ない口数のほとんどが
「18になったら家に置かないと言ったはず」
「資格や公務員の勉強をするためなら居ていい」だった。
18歳を過ぎたのに
おめおめと帰ってきたことへの罪悪感に苛まれていた僕には
取りたい資格も、なりたい公務員も思いつかなかった。
鬱病を克服し、お金を貯めて再独立するという
目標は持っていたものの、
では何の仕事をすればいいかがわからず、
「資格、公務員」とひたすら言われることがただ苦痛だった。
父に何度言われても、僕は何も言葉を返せなかった。
取りたい資格も、なりたい公務員もないなんて
もし父にバレたら、家を追い出される。
そんな恐怖が募っていった。
そしてその恐怖は、いつしかこんなふうに飛躍し始めた。
「資格の勉強”するなら”ということは、
しなければ家族の一員として認められないのだろうか。
僕は”条件次第で居させてやってもいい”程度の、
親にとって大切じゃない存在なんだろうか。
どうして妹弟には同じことを言わないんだろうか。」
僕は何か資格の本や問題集を買ったり、
公務員試験の資料を集めることはしていなかった。
でも家にいればいるだけ、条件を突きつけられるから、
気分の落ち込みや体調に関わらずアルバイトを増やして
家にいない時間を多くするしかなかった。
意地でも公務員になりたくない、
かといって欲しい資格も思いつかない。
衣食住を与えられる条件を満たせないのに
今日もあの家に帰って寝ている自分。
僕は自立できていないから
鬱病にもなったし親から大切にされないんだ。
そんな罪悪感と自責の念に飲み込まれていった。
鬱病の罹患から1〜2年で
パキシルの服用量が上限に達した。
パキシルを止めるまでに、ここから10年を要した。
実家に戻り、寝たきりから脱し、
週一回の家庭教師から始めたアルバイトを少しずつ増やし、
3年かかったが一人暮らしの資金を貯めることができた。
不動産屋を回り、見つけてきたアパートへ引っ越す時、
父は資格とも公務員とも言わなかった。
励ましや応援の言葉もなかった。
パキシルの量は減っていなかったが、
家を出るという目標は果たした。
なのに、この時の僕は
独立したぞ、自由だ、これから何をしようという
”希望に満ちた未来”が見えていなかった。
居ることに罪を感じ、いつも追い立てられる
針のむしろから、ようやく脱出できた安堵感でいっぱいだった。
アパートで一人でいると、安堵感の次に
幾つもの疑問が湧き上がってきた。
実の家族と一緒に過ごすのがどうしてこんなに苦しんだろう?
どこよりも大きな”居場所のなさ”を感じる場所が、
どうして実家なんだろう?
やっぱり僕は彼らにとって
家族ではなく居候でしかなかったんだろうか?
父は「自立しろ」と言いたかったんだと思う。
それは高校生の頃も、
実家で居づらさを感じている頃も読み取れていた。
だけど、大きな挫折をした上、
身体と心が思うように動かなくなっていた僕には、
条件付きの滞在許可は「早く何かしろ」という催促でしかなく、
ただただ追い詰められていった。
彼らは自分たちの思い通りに動かない僕にイライラしていた。
僕は自分を追い詰める親に対し、
自分への愛情はないんだという悲しみと
不信感ばかりを募らせていた。
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