2019年07月04日
冷たいドアと黄昏と 〜無視は存在自体の否定〜。
9歳か10歳くらいまで、
ちょうどミニバス少年団に入る直前まで
僕の家には17時の門限があった。
門限というと、
その時間を過ぎて帰宅した子が叱られたり、
あるいは罰として外へ放り出されたり、
というシーンはよくあるように思う。
罰を与えるのには正直反対だが、
親からすればこの物騒なご時世だし、
時間を守る習慣をつけてほしいという面でも
門限の設定自体は理解できる。
ただ、僕の親の対応は
そういうわかり易い罰とは一線を画していて
幼いながらとても不気味に映った。
ある時、行きつけの児童館で本に夢中になり
帰宅が17時を過ぎてしまった。
怒られる覚悟を決めながら家のドアの前に立つ。
子どもなりに腹をくくる。
そしていざ、インターホンを押すが
何の反応もないのだ。
ベランダの大きな窓から家の中を見てみる。
少なくとも母はいる、決して留守じゃない。
もう一度玄関に回り、インターホンを押す。
ピンポーンという音が
黄昏時の曇天にくっきりとこだまする。
もう一度、今度は2、3回押してみるが
玄関のしゃれたエンブレムの付いたドアは閉じたまま。
家には誰かが間違いなく居て、
インターホンの音が鳴ってるのに、
誰かが怒って出てくるどころか
完全に無視を決め込まれてしまったのだ。
最終的に怒られるにしたって、
何か反応があればまだいい、
無反応というのは最高に不気味だった。
何しろあの瞬間、「存在」自体を
無かったことにされたんだから。
教員住宅には不釣り合いな
おしゃれな洋風の装飾が映えるドア。
薄暗い曇り空、晴れるでも雨でもなく、
ひたすらに褪せた色の景色。
もはやインターホンも押さなくなり、
玄関前でたたずむことしかできない自分。
この、鈍い色で覆われた景色は
今でもはっきり覚えてる。
その後、どういう形で家に入れてもらえたのか、
実は覚えていない。
祖母との餅つき中、父に手を上げられた時みたいに
ぽっかりと記憶が抜け落ちている。
→「唯一の、手を上げられた記憶。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/164/0
怒った誰かが仕方なく出迎えたのか、
家に入れない僕が何かしたのか、思い出せない。
何よりも先に浮かんでくるのは
曇り空の黄昏時、音も色もないあの景色だ。
おそらく時効となったであろう今なら、
門限を破ったことを反省させるためだと想像できる。
「破らなければそんな目に遭わなくて済んだじゃん」
と一言で片付けることだってできる。
だけど、反省させるための方法が
「貴方は居ないことにしますよ」はキツイ。
玄関口で怒鳴られでもしていれば、
怒鳴る相手がそこに居ると存在を認められた気がして
まだましだったかも知れない。
陽の光や雨みたいに、わかり易い何かでも降っていれば
その後どうやって家に入れてもらったかを
きっと洗いざらい思い出せるんだろう。
ただ鈍い色の曇り空だけが広がる
色彩のない世界、反応の何も無い世界が、
無視を決め込まれた僕の状況と重なって
これほど強く焼き付いているんだろう。
言葉や態度で示されるのは、場合によってはまし。
なぜなら存在自体は認められているから。
無視、無反応、空気のように扱う行為は
自分の存在という根本を崩す不気味な攻撃であり、
不安と罪悪感を植え付ける最強の槍になる。
ちょうどミニバス少年団に入る直前まで
僕の家には17時の門限があった。
門限というと、
その時間を過ぎて帰宅した子が叱られたり、
あるいは罰として外へ放り出されたり、
というシーンはよくあるように思う。
罰を与えるのには正直反対だが、
親からすればこの物騒なご時世だし、
時間を守る習慣をつけてほしいという面でも
門限の設定自体は理解できる。
ただ、僕の親の対応は
そういうわかり易い罰とは一線を画していて
幼いながらとても不気味に映った。
ある時、行きつけの児童館で本に夢中になり
帰宅が17時を過ぎてしまった。
怒られる覚悟を決めながら家のドアの前に立つ。
子どもなりに腹をくくる。
そしていざ、インターホンを押すが
何の反応もないのだ。
ベランダの大きな窓から家の中を見てみる。
少なくとも母はいる、決して留守じゃない。
もう一度玄関に回り、インターホンを押す。
ピンポーンという音が
黄昏時の曇天にくっきりとこだまする。
もう一度、今度は2、3回押してみるが
玄関のしゃれたエンブレムの付いたドアは閉じたまま。
家には誰かが間違いなく居て、
インターホンの音が鳴ってるのに、
誰かが怒って出てくるどころか
完全に無視を決め込まれてしまったのだ。
最終的に怒られるにしたって、
何か反応があればまだいい、
無反応というのは最高に不気味だった。
何しろあの瞬間、「存在」自体を
無かったことにされたんだから。
教員住宅には不釣り合いな
おしゃれな洋風の装飾が映えるドア。
薄暗い曇り空、晴れるでも雨でもなく、
ひたすらに褪せた色の景色。
もはやインターホンも押さなくなり、
玄関前でたたずむことしかできない自分。
この、鈍い色で覆われた景色は
今でもはっきり覚えてる。
その後、どういう形で家に入れてもらえたのか、
実は覚えていない。
祖母との餅つき中、父に手を上げられた時みたいに
ぽっかりと記憶が抜け落ちている。
→「唯一の、手を上げられた記憶。」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/164/0
怒った誰かが仕方なく出迎えたのか、
家に入れない僕が何かしたのか、思い出せない。
何よりも先に浮かんでくるのは
曇り空の黄昏時、音も色もないあの景色だ。
おそらく時効となったであろう今なら、
門限を破ったことを反省させるためだと想像できる。
「破らなければそんな目に遭わなくて済んだじゃん」
と一言で片付けることだってできる。
だけど、反省させるための方法が
「貴方は居ないことにしますよ」はキツイ。
玄関口で怒鳴られでもしていれば、
怒鳴る相手がそこに居ると存在を認められた気がして
まだましだったかも知れない。
”義務を果たさない親”
子供はまた、していいことと
いけないことの違いを親から適切に教えられ、
失敗を許され、しつけられることが必要だ。
だがそこで大切なのは、”しつける”ことと
肉体的あるいは精神的に”傷つける”ことは、
まったく違うということである。
『毒になる親』 第二章 より
陽の光や雨みたいに、わかり易い何かでも降っていれば
その後どうやって家に入れてもらったかを
きっと洗いざらい思い出せるんだろう。
ただ鈍い色の曇り空だけが広がる
色彩のない世界、反応の何も無い世界が、
無視を決め込まれた僕の状況と重なって
これほど強く焼き付いているんだろう。
言葉や態度で示されるのは、場合によってはまし。
なぜなら存在自体は認められているから。
無視、無反応、空気のように扱う行為は
自分の存在という根本を崩す不気味な攻撃であり、
不安と罪悪感を植え付ける最強の槍になる。
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