2019年10月19日
”休む”ことへの罪悪感。
先日、体調を崩して
就労移行支援事業所への通所を休んだ。
それ自体は仕方ないことなのに、
その日はずっと、休んだことへの罪悪感、
後ろめたさを引きずっていた。
僕は何かを休むことを申し訳なく思ってしまう。
誰だって体調を崩したら休むし、
休まない人なんていないとわかっていても。
その理由は、
「自分がいないと仕事が回らない」
「他の人の負担が増える」
というような使命感や
自分がいない現場への憂慮ではない。
休日でないのに”休むこと”そのものが、
やってはいけないことのように感じてしまう。
僕が小学性の時、
「39度以上の熱が出なければ学校を休んではいけない」
という、父が作ったルールがあった。
朝、学校に行きたくないとぐずったり、
風邪をひいて少し調子悪そうにしていると、
「いいか!39度以上でないと休ませないからな!」
と、出勤する父が怒鳴っては、家を出ていった。
→「父との関係。(1) -小学校-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0
なぜ、学校を休んではいけないのか、
なぜ、39度以上という、
立っていられないほどの高熱が出ないと
休むことを許されなかったのか。
理由の説明はなかった。
休むことは悪いことなんだ、と
素直に解釈し切ってはいなかった。
なんでだろう、おかしいとは思った。
だけど、自分がいくらおかしいと思っても、
現実は「休めば怒られ、休まなければその場は大丈夫」だった。
学校のある日に学校に行かないことは
悪いことかはともかく「もれなく恐怖を見ること」と
僕の中にはっきりと刷り込まれた。
休みの連絡時は、未だに手が震える。
ただ現状を伝えて、休みますと言えばいいだけなのに、
電話をかける前に20分くらい、ぐだぐだ考える。
疑われた時の言い訳、
こう返されたらこう弁明しよう、
許可されなかったらどうしよう、
やっぱり無理してでも行った方が楽なのか。
本当に20分くらい、
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると巡る。
過去に勤めた職場で、
休む時は必ず病院へ行き診断書を提出せよという
無茶を言ってくる企業もあった。
さすがにそんなことを言ってくる職場は
後にも先にもここだけだったが、
小学生の時に父から植え付けられた
休むことへの罪悪感に囚われたままの僕には、
休めない重圧が出勤よりも重く感じられた。
どんなに理不尽でも独善的でも、子どもにとって
親に制定されたルールに従わないというのは難しい。
学校を休むなというのは、
父にとって学校は絶対に行くべきところであり、
休むとその日の授業が受けられず勉強が遅れることであり、
何より”父にとって”絶対的な価値観である
学校=行くものというのは”子どものため”だった。
今から考えればまったく論理的でない、
ただ父が信仰しているだけの根性論。
だけど、怒鳴られる恐怖を味わってまで
そのルールを破って学校を休む力は、僕にはなかった。
休んだ日の後味の悪さと罪悪感は
未だに僕を支配している。
後ろめたさを感じずに、
自分の体調を信じて休めたらどんなにいいだろう、
そう思ったことは数知れない。
小学生の時に刷り込まれた
理不尽な罪悪感を恨めしくすら思う。
だけど1つだけ、当時の僕を褒めるとすれば、
休むなというルールを押し付けられながらも
僕は思考停止しなかったこと。
表に出すことはできなかったけど、
どうして休んじゃいけないんだろう、
何が理由なんだろうと、
常に自分なりに考え、
自分の意見を持とうとしていたことを
褒めてあげたい。
就労移行支援事業所への通所を休んだ。
それ自体は仕方ないことなのに、
その日はずっと、休んだことへの罪悪感、
後ろめたさを引きずっていた。
僕は何かを休むことを申し訳なく思ってしまう。
誰だって体調を崩したら休むし、
休まない人なんていないとわかっていても。
その理由は、
「自分がいないと仕事が回らない」
「他の人の負担が増える」
というような使命感や
自分がいない現場への憂慮ではない。
休日でないのに”休むこと”そのものが、
やってはいけないことのように感じてしまう。
僕が小学性の時、
「39度以上の熱が出なければ学校を休んではいけない」
という、父が作ったルールがあった。
朝、学校に行きたくないとぐずったり、
風邪をひいて少し調子悪そうにしていると、
「いいか!39度以上でないと休ませないからな!」
と、出勤する父が怒鳴っては、家を出ていった。
→「父との関係。(1) -小学校-」
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/12/0
なぜ、学校を休んではいけないのか、
なぜ、39度以上という、
立っていられないほどの高熱が出ないと
休むことを許されなかったのか。
理由の説明はなかった。
休むことは悪いことなんだ、と
素直に解釈し切ってはいなかった。
なんでだろう、おかしいとは思った。
だけど、自分がいくらおかしいと思っても、
現実は「休めば怒られ、休まなければその場は大丈夫」だった。
学校のある日に学校に行かないことは
悪いことかはともかく「もれなく恐怖を見ること」と
僕の中にはっきりと刷り込まれた。
休みの連絡時は、未だに手が震える。
ただ現状を伝えて、休みますと言えばいいだけなのに、
電話をかける前に20分くらい、ぐだぐだ考える。
疑われた時の言い訳、
こう返されたらこう弁明しよう、
許可されなかったらどうしよう、
やっぱり無理してでも行った方が楽なのか。
本当に20分くらい、
そんなことばかりが頭の中をぐるぐると巡る。
過去に勤めた職場で、
休む時は必ず病院へ行き診断書を提出せよという
無茶を言ってくる企業もあった。
さすがにそんなことを言ってくる職場は
後にも先にもここだけだったが、
小学生の時に父から植え付けられた
休むことへの罪悪感に囚われたままの僕には、
休めない重圧が出勤よりも重く感じられた。
どんなに理不尽でも独善的でも、子どもにとって
親に制定されたルールに従わないというのは難しい。
学校を休むなというのは、
父にとって学校は絶対に行くべきところであり、
休むとその日の授業が受けられず勉強が遅れることであり、
何より”父にとって”絶対的な価値観である
学校=行くものというのは”子どものため”だった。
今から考えればまったく論理的でない、
ただ父が信仰しているだけの根性論。
だけど、怒鳴られる恐怖を味わってまで
そのルールを破って学校を休む力は、僕にはなかった。
休んだ日の後味の悪さと罪悪感は
未だに僕を支配している。
後ろめたさを感じずに、
自分の体調を信じて休めたらどんなにいいだろう、
そう思ったことは数知れない。
小学生の時に刷り込まれた
理不尽な罪悪感を恨めしくすら思う。
だけど1つだけ、当時の僕を褒めるとすれば、
休むなというルールを押し付けられながらも
僕は思考停止しなかったこと。
表に出すことはできなかったけど、
どうして休んじゃいけないんだろう、
何が理由なんだろうと、
常に自分なりに考え、
自分の意見を持とうとしていたことを
褒めてあげたい。
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