『All I Do』九曲目、「なんだ!!」です。
歌詞もアレンジも勢い一発で駆け抜ける、スリリングなナンバーです。2000年代の玉置さんソロでよくみられるスタイルなんですが、すでにこの頃からこういうスタイルが確立されていたことをうかがわせます。アダルトで、セクシーで、大袈裟で、といった安全地帯というワクに囚われていた感覚のあった玉置さんが、自由につくれたという手ごたえがあったのではないでしょうか。こういう曲が80年代にすでにあったからこそ、それを聴き込んでいた人ならば、後年の玉置さんソロで少々風変わりな曲を聴いても動じない下地を自分のうちに作っていたに違いないのです。
この曲はボーカルの「なんだ」「ないぜ」の繰り返しで、リズムを取るということを意識的に行っているわけですが、ヒップホップだとかラップとかその手の音楽で用いられる手法ですね。そして、曲全体の雰囲気はファンクのそれに近いといっていいと思います。いわゆるブラックミュージック的な音楽スタイルです。
アメリカではすでに白人ダンス音楽へのカウンターカルチャーとしてラップやヒップホップが盛り上がってから10年以上経過していました。その間、ファンクは衰退していきますが消えたわけではなく、何度かリバイバルのように盛り上がりを見せつつ受け継がれていきます。いまでもなんとなくロックは白人、ファンクやラップは黒人の音楽って感じで分かれていますけど、両者の音楽スタイルは接近し、ときに融合し、また離散し、さらに接近し……といった感じで、次第に互いのスタイルを取り入れたものへと化学変化を起こしてきたのです。たとえば、エアロスミスの「Walk This Way」をラップミュージシャンがカバー、コラボレーションしたことがその象徴的な出来事といっていいでしょう。それが1986年ですから、玉置さんはそのわずか一年後にこんな曲を世に放ったということになります。
なぜもっと話題にならなかったのか……もちろんそれは玉置さんにそういう役割が求められていなかったし、キティも、何より玉置さん自身もそのことをわかっていたからでしょう。ただのいちアルバム曲にすぎない位置づけしか与えませんでしたし、ほかに何か世間の注目を集めるための仕掛けを打ったわけでもありません。せめてシングルカットしていれば……わたくし個人的に、この曲はのちの「キ・ツ・イ」や「I'm Dandy」、それらのカップリングと合わせて、この路線で一つのアルバムを作るべきだったと思います。実際には、それらの曲はスタジオアルバムに入ることなく浮いていますから、玉置さんとしてもそうした路線をある時点でしばらく断念することにしたのでしょう。安全地帯「ナンセンスだらけ」の不遇な扱いも併せて、実に残念です。
久保田利伸さんが非常にファンキーな活動を日本で展開していたのがまさにその時期でしたが、シティポップ・ロックの亜種としての一過性ブーム以上のものを作れたとはいいがたく、彼もアメリカに行っちゃいます。日本人歌手はどんなに歌がうまくても、ブラックミュージックをメジャーにすることはできないのか……と考えさせられてしまいます。現代の若い人たちがヒップホップをけっこう好きだといっても、時すでに遅しというか、それはそれでいいとあきらめるべきというか、ともかくメジャーな音楽シーンというものが日本から、いや世界からすでに消え失せた後になってからの出来事だったのです。これではシーンが盛り上がったり洗練されていったりすることなく、単発的、散発的な普及をみせるだけで、いずれ社会が音楽を作り出し世に放つ体力さえなくなるのをまつばかりです。
やや、知りもしない、ましてやたいして好きでもないブラックミュージック系統の話をムリして熱く語ってしまいました。たぶん大間違いだらけだと思いますので、けっしてここの話を真に受けて他所でこういう話をなさるような愚かなことをしないでください(笑)。
さて異常に長い前置きでしたが、ここから曲の解説に……。
「Fu!」と男女混声の気合が入り、その後玉置さんがあちこちで騒いで重ね録りしたような歓声的なものが続けられつつ、ギターらしき音色で細かいメインリフが入り、これがAメロの間ずっと繰り返されます。そしてドラムがシンセパッドで出したようなタムの音から続いて細かく刻んだハイハットにバズドラがガシガシと踏まれ、二小節に一回四拍目にだけ短いフィルとスネアが鳴らされます。玉置さんが「ヤー!」と叫んでから男女混声っぽい「オーオ、オーオ」、その間もシンセパッドらしきタムでいろいろ合いの手が入ります。
高音のシンセを伴いつつ、ボーカルが入ります。ドラムはふつうに二拍に一回のスネアですが、バスドラが「ドドッ!ドドドッンドド!」みたいに、足が攣ったんじゃないかと思うような連打とタメ・裏打ちの組み合わせで、ブラック的な雰囲気を演出します。
歌詞ですが、原始時代とそう変わらない精神と肉体しかもたないはずの人類が、現代社会でのしがらみに苦しめられているという、じつに根源的な苦悩がストレートな言葉でつづられます。今日の食料を得るために獲物を捕まえるため以上の注意力をもたなくてよかったはずの人類なのに、糧を蓄え、明日を確約させるために農業・工業・情報産業を発展させてきた社会が、やがて人類にキャパギリギリの注意力を要求するようになってきます。やっかい、ざわめき、難関、迫られる時間と、もう心配ばかりです。狩猟時代はへたしたら死にますけど、獲物さえ捕まえればそれ以上の心配をしなくてよかったのですが、現代社会は解放感を得られるチャンスの実に少ない、一定のテンションを常に強いられるストレスフルな環境です。「みえないちからにつながれ」という描写がそれを如実に表現しているといえるでしょう。だからきっと、わたしたちは原始時代の人から見たらいつもイライラしているはずです。70年代に突然会社を辞めてインドに行く青年がいたのも、80年代にアフリカでブッシュマンみたいに暮らそうとするブームが一瞬だけあったのも、すべてがこうした環境を一気に変えてプリミティブな解放感に浸りたいという若者たちの悲痛な叫びだったのでしょう。どっちのブームも、その顛末を知りませんから、きっとみんな適当なところで切り上げて帰ってきたあと、とくに何も語らないままにしているんだと思いますけども。
玉置さんは、須藤さんにいわせると「猛獣みたい」な人ですから(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、やりたいことにズバッともの凄い力でわき目もふらずに集中してしまいます。当然、多々「スキャンダル」も生まれますし、「ゆきどまり」に突き当たることもあります。でもそれをみんな「それがなんだ!」「おれは縛られないぜ」「なんでもかまわないぜ」と乗り越えようとしてしまうのです。猛獣だから。
周りからみると「よくわかんないけどスゲエなあ」ですよね。実際には恋愛スキャンダルだったり、ツアーやレコーディング、テレビ出演のとんでもないスケジュールだったりと、玉置さんが突き当たる壁は非常に現代的なものなんですが、松井さんはそれを人類が背負った社会の業だと見抜いていたかのようです。
歌の中に二回挿入される、「まいにち〜」「みえない〜」の箇所、「ヒーヒー」と音程が上下する楽器が入り、玉置さんの歌が抑揚をぐっと抑える箇所がありますよね。そこが、まるで抑えつけられた猛獣の息遣いのようです。玉置さんはドカッと逃げ出し、「〜がなんだ!」「〜ないぜ!」と突っ走るわけです。これはハマりすぎです。
そして「なんでもかまわないぜ!」で歌は終わりになります。そこで、なんらかのドラムでないパーカッション……カラカラと、民族楽器のようですが、ソロのように叩きまくります。「夢になれ」の間奏でBAnaNAが叩いたパッドに似ていますが、このアルバムに川島裕二のパーカッションでのクレジットはありませんから、きっとこの手のリズム楽器で著名なミュージシャンの誰かなのでしょう。動画で確認できる範囲では、Charlie Morganさんがコンガ的な太鼓を手で叩いているところがあったので、一瞬「この音だ!」と思ったのですが、もちろん断言はできません(なさけない……)。
そして曲は「オーオ、オーオ」に玉置さんの意味なしシャウトを絡めつつ、フェイドアウトしていきます。安全地帯でもこのパターンが多々ありますね。ぜんぜん意味の分からない外国語をずーっと聴いていて、一瞬だけ日本語が聴こえて「あり?」と気づくんだけど、脳の処理が追い付かなくて何を言っているのか聴き逃すような感覚なんですが、玉置さんのほんとうの母語はこういう音楽に絡めたシャウトとかで、歌の箇所はわたしたちのために日本語にムリに直して歌ってくれているんじゃないか、と一瞬勘違いしてしまいそうです。これは松井さんの歌詞に違和感があるとか言っているのではけっしてなく、それくらい、玉置さんの心の奥底に流れているものを感じられるパターンだ、と思うわけです。
余談ですが、この曲を聴きながら記事を書いていると、何度も次曲「Time」に突入してしまい、そのコントラストの美しさに呆然として聴き入ってしまい、ちっとも記事執筆がはかどりませんでした。この二曲の組み合わせ、危険です(笑)。
価格:2,161円 |
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