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2019年01月11日
日本IWC脱退2(正月九日)
捕鯨問題について別の面から考えてみよう。
今回日本はIWCを脱退して商業捕鯨を再開するというのだが、同時にIWCの枠内で行ってきた調査捕鯨は停止するらしい。その結果、捕鯨が行われるのは日本近海ということになり、頭数も調査捕鯨とほぼ変わらない数になりそうである。
そこで疑問なのが、年間数百頭の捕鯨で商業的に成り立つのかどうかということである。これまでは、調査捕鯨ということで採算は度外視で捕鯨を行なっていたはずだが、商業捕鯨となるとそういうわけにも行くまい。政府から補助金が出ることは予想できるが、ある程度の採算性がなければ長期的に捕鯨を続けていくことは難しいだろう。
IWCによる捕鯨の禁止は、かつて日本に存在した鯨肉を食べる文化を、一部を除いて破壊した。1980年ぐらいまでは、小学校の給食にも鯨肉が登場することがあったし、鯨のベーコンなんて食材を見かけることもままあったが、90年代になると鯨肉は普通に流通するものではなくなり、食べるためには、特別なレストランに出かけて大枚はたくしかなくなっていた。
鯨肉が流通しないのが当然になって久しい現在では、食べたことのない人の方が多くなっているのではないだろうか。あと十年、二十年もすれば、鯨肉を食べたことがあるのは、高齢者だけということになり、伝統的な捕鯨の行なわれていた地域では鯨肉を食べる習慣も残り続けるだろうが、需要も先細りしていく一方だろう。
これもまた政府が商業捕鯨の再開を決定した理由の一つになっているのかもしれない。鯨肉の味を知っている、鯨肉にノスタルジーを感じる世代がまだ健在なうちに再開しておかないと、環境保護団体の原理主義に思想汚染された日本人、マスコミ関係者も増えている以上、取り返しのつかないことになりかねない。
確か縄文時代から食料にされてきた鯨が日本で食べられなくなるというのは、食文化の喪失である。その喪失の原因が外国のごり押しというのだから、日本人はもっと怒っていい。反捕鯨派は、鯨肉が食べられるようになったのは戦後の食糧難の時代だとか言うけれども、それは大々的に捕鯨が行われ鯨肉が大量に流通するようになったのが、戦後だという話であって、鯨肉を食べる習慣自体ははるか昔から続いているのである。
土井全二郎氏の『最近捕鯨白書』(丸善ライブラリー)と、小松正之氏の『くじらは食べていい!』(宝島社新書)を読んで思うのは、最近流行のフェイク・ニュースとか、ヘイトスピーチってのは実は反捕鯨団体が、環境保護団体が日本に対して大々的に行ったのが、その嚆矢だったのではないのかということである。政治家が有権者のご機嫌取りをするポピュリズムもそうだなあ。ポピュリズムが民主主義の終わりだというのなら、それは80年代の反捕鯨政策に始まったと言えそうだ。
それに、この捕鯨の問題が完全に感情の問題になってしまっていて、そこには科学的のカの字もなければ理性のリの字もないことも問題である。日本やアイスランド、ノルウェーなどの伝統的な捕鯨国にとっては、かたくなに自らの正義を疑わず、感情的な主張をやめない反捕鯨派との議論は苦痛以外の何物でもなかったに違いない。捕鯨反対派の議論は宗教の狂信者との議論を思い起こさせる。
そう考えると、環境保護や反捕鯨というのは、キリスト教への信仰を失い、共産主義を崩壊させた欧米にとっては新たな宗教と化していると言ってもいいのかもしれない。そう考えれば、他国の食文化を破壊して平然としている傲慢さも理解できる。アジア、アフリカ、アメリカの現地文化をほぼ壊滅に追いやったキリスト教の宣教師どもと思考レベルが同じなのだ。
そうか、オーストラリアやニュージーランドが、魔女狩りめいた狂信ぶりで、かたくなに捕鯨に反対するのは、原住民を虐殺した過去の原罪に対する贖罪のために、鯨をトーテムにしたトーテミズムに走ったと考えればいいのか。いずれにしても、ヨーロッパ的な宗教は世界の迷惑でしかない。最近民主主義も宗教化しつつある嫌いがあるからなあ。
うーん、全くうまくまとまらなかった。
2019年1月9日24時15分。
2019年01月10日
シグマオロモウツ創立100周年(正月八日)
去年は、チェコスロバキア第一共和国独立から100周年ということで、事前に期待したほどではなかったという嫌いはあるものの、さまざまな記念行事が行なわれた。今年はビロード革命30周年で、特に11月には、またあれこれイベントが行なわれるのだろう。
それはともかく、今年はオロモウツのサッカーチーム、シグマ・オロモウツが創立100周年を迎えるらしい。もちろん、本来スポンサーの企業の名前だったシグマという名称のついたチームが1919年に設立されたわけではないが、前身に当たるチームがオロモウツのへイチーン地区に設立されたのがこの年なのだそうだ。現在スタジアムがあるところは、旧市街からへイチーン向かう途中に当たる。
FKへイチーンとして設立されたこのチームの名前にオロモウツがつくようになったのは、戦後の1948年のことで、スポンサーの企業の名前をつけてHSKバーンスカー・ア・フトニー・オロモウツというチーム名だった。その後、他のチームとの合併や、スポンサー企業の変更、企業の名称変更などがあって、チーム名はころころ変わるが、初めてシグマの名前が入ったのが1965/66年のシーズンで、シグマ・オロモウツになったのは、1996年のことだそうだ。それまでは他の企業の名前も並んでいたのである。
チームの成績のほうは、設立以来戦前、戦中、戦後を通じてぱっとせず、下のほうのリーグに低迷していたようだが、画期的だったのは1974年に、選手兼任監督だったあのカレル・ブリュックネルの指揮のもと、3部リーグへの昇格を決めたことだ。以後オロモウツのサッカーは上昇を続け、1982年には初めて1部リーグであるチェコスロバキア連邦リーグへの昇格を果たした。
そのときは一年で降格したものの、すぐに1984年に再昇格を果たし、以来チェコスロバキアが分離してチェコだけの1部リーグが誕生してからも、2014に2部に降格するまでは、ずっと1部リーグに在籍し続けていたのである。分離直後の1993年から2013年までの20シーズンで常に1部に在籍していたチームは、スパルタ、スラビア、リベレツ、オストラバとシグマ・オロモウツの5チームしかない。残念ながらオストラバとオロモウツは、その後2部落ちを経験しているから、2部以下のリーグに所属したことのないチームは3つだけになってしまっている。
シグマ・オロモウツのサイトに載せられている歴史的な成績表によれば、オロモウツの名前を冠したチームは、他にもクシードラ・ブラスティ・オロモウツ、ASOオロモウツの2チームがチェコスロバキア時代の連邦リーグに参戦したことがあるようだが、シグマとの関係はよくわからない。シグマの前身のチームが下部リーグで苦しんでいたころに、1部で活躍したチームで、現在では存在しないチームということになるのかな。
監督別の成績も上げられていて、監督を務めた試合数もその結果もダントツなのは、オロモウツにとっては伝説のカレル・ブリュックネルである。1984-87、1990-93、1995-97と都合三回にわたって監督を務めたブリュックネルは、247試合指揮して109勝64分74敗という成績を残している。3部昇格を達成したのもブリュックネルだし、オロモウツのサッカーを語るには欠かせない存在なのだ。その後の代表監督としての実績を考えるとチェコのサッカーの貢献者でもあるのだけど。
ブリュックネルが監督時代の1991/92のシーズンには、UEFAカップで準々決勝にまで進出し、レアル・マドリードと対戦している。結果はホームで1-1で引き分けた後、マドリードで0-1での敗戦という現在では考えられないような善戦だったようだ。レアルとの試合で得点を決めたのが、現在スロバキアの代表監督であるパベル・ハパルである。この人もブリュックネルの弟子に当たるのかね。
シグマ・オロモウツの創立百周年を記念したイベントしては、1月22日から28日までショッピングセンターのシャントフカで、特別展示が行われるらしい。展示はその後オロモウツの博物館に移るようだ。去年ハンドボールの展示をやっていた、常設展とは入り口の違う展示スペースが使われるのだろう。博物館に入る気はないので、期間中にシャントフカに行く機会があったら覗いてみようか。
2019年1月8日22時15分。
参照したのは以下のページである。
https://www.sigmafotbal.cz/historie/dejiny-klubu/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/treneri/
https://www.sigmafotbal.cz/historie/evropske-pohary/
カメラのレンズしか出てこなかったけど、チェコのシグマはポンプの会社である。今もあるのかな?
SIGMA 標準ズームレンズ 17-50mm F2.8 EX DC OS HSM キヤノン用 APS-C専用 583545 |
2019年01月09日
日本IWC脱退1(正月七日)
日本が30年以上も前から機能不全を起こしていることを指摘されていた国際捕鯨委員会を脱退すると言うニュースは、チェコのニュースでも年末に報道された。ヨーロッパ的な価値観に毒されていることを誇りにしているチェコでも、多分にもれず否定的な、批判的な文脈での報道だったが、さすがはチェコテレビで、捕鯨というものが日本にとっては単なる水産業の一分野に過ぎないものではないことも付け加えていた。
日本でもこの政府の決定を批判する向きが存在するようだが、その正気を疑う。IWCの実態が国際捕鯨委員会ではなく、国際捕鯨禁止委員会に過ぎなくなってしまっていることについては、すでに80年代の終わりから批判され続けていることである。ごり押しとごね得が支配する現在の国際関係の先駆をなしたのが、このIWCだったのだから、捕鯨国が付き合いきれないと脱退するのは当然のことであり、日本の国際関係にいては、近年まれに見る全うな判断だったと高く評価したい。
しかも、脱退して商業捕鯨を再開するとは言っても、かつてのように世界中の海に出かけて行って捕鯨をするのではなく、日本の領海、排他的経済水域(EEZ)内においてのみ捕鯨を行うというのだから、反捕鯨国にも一定の配慮はしているし、内政干渉を許すいわれはない。反捕鯨のテロリストグループが捕鯨の妨害のために領海内に進入してきたら国際法に基づいて拿捕して、悪名高き日本の留置所に放り込んでやればいい。そこまでできるのかどうかは知らんけど。
IWCの欺瞞に満ちた運営についてはいくつか本が出ていて、1992年に出た土井全二郎氏の『最近捕鯨白書』(丸善ライブラリー)と、2000年刊行の小松正之氏の『くじらは食べていい!』(宝島社新書)を読むと、関係者の努力と苦労に頭が下がる思いがするし、自らの正義を信じて疑わない反捕鯨団体、ひいては環境保護団体の実態には怒りさえ感じてしまう。この二冊の本を読んだことも、環境保護団体の主張に対して常に懐疑的になってしまう理由になっている。
興味深いのはほぼ十年のときを経て書かれた二冊の本が、ともにIWCと捕鯨の将来に希望を持たせるような終わり方をしている点である。描かれた希望はどちらも結局は実現することなく、捕鯨国の絶望につながったからこそ、日本政府は今回の決断にいたったものであろう。仏の顔も三度までとはよく言ったものである。この交渉の経緯は北方領土を巡るロシアの詐欺めいた交渉を思い起こさせる。つまり、どんなに粘り強く交渉しようと、どんなに鯨の数が増えようと、捕鯨禁止委員会であるIWCでは捕鯨の再開は認められるわけがないのである。それを粘り強い交渉をなどというのは、泥棒に追い銭というものである。
今回の政府のIWC脱退の決定を受けて、反捕鯨を強く主張するニュージーランドやオーストラリアなどとの関係が悪化することを懸念する違憲もあるようだが、シーシェパードのようなテロ組織としか言えないような団体を支援する国との関係など悪化してもかまうまい。いや、捕鯨ごときで悪化するような関係なら、それはそれでかまうまいと言うほうが正しいか。戦前の日本は、欧米の正義の押し付けにいやいや譲歩を続けて最後に爆発して戦争をおっぱじめてしまったけれども、その再現を防ぐためにも、ここらで日本にも譲れないものがあることを示しておくことは、国際関係上も悪いことではないだろう。交渉相手にずるずると譲歩することが、国際協調ではないのだから。
惜しむらくは、他の捕鯨国、アイスランドやノルウェーと足並みを揃えられなかったことだ。アイスランドは1990年代の初めに一度脱退し、後に例外的に捕鯨ができるという条件付で復帰したらしいし、ノルウェーはIWCの枠内でなぜか商業捕鯨を行なえているらしい。これを捕鯨国をIWCにとどめておくため、そして捕鯨国陣営を分断するための反捕鯨国の策略だと考えるのは穿ちすぎだろうか。
ナイーブな日本人は国際機関というと無条件で正しいもの、従うべきものだと考えてしまいがちだが、国連の安全保障委員会のように機能不全を起こして改善のしようもない組織も少なくない。そんな組織内で不毛な議論につきあう余力があるのなら、別のことに注力した方がはるかにましである。
以上が日本を離れて欧米的な価値観に対する不信を禁じえなくなった日本人の目から見た今回のIWC脱退に関する意見である。
2019年1月7日23時30分。
2019年01月08日
チェコの貴族2メッテルニヒ(正月六日)
貴族に関する事典をぺらぺらめくっていたら、意外な貴族家の名前、チェコではなく、ハプスブルク家のオーストリアと結びつく形で覚えている名前が出てきて、意外な思いをした。考えてみれば、今日のチェコの領域は、1918年までは、数百年にわたってハプスブルク家の支配下にあったのだから、オーストリアの貴族がチェコに所領を持っていたのは不思議でもなんでもないのだけど、なかなか実感を持って理解できておらず、ことあるごとにはっとさせられる。
三十年戦争で活躍したワレンシュタイン将軍、チェコ語だとアルブレフト・ズ・バルトシュテイナ(Albrecht z Valdštejna)がボヘミアの人だというのはチェコに来る前から知っていたが、傭兵隊長なんて言葉で世界史の教科書に登場したので、フリートラント侯爵として、イチーンを中心とした領地を有していたことを知ったときには、驚きを禁じえなかった。森雅裕のベートーベンシリーズで名前だけ登場したキンスキーやロプコビツがボヘミアの貴族であることも、チェコに来てから知ったが、この人たちは特に世界史上に残る活躍をしたというわけではない。
今回事典をめくっていて最初に目に飛び込んできたのが、会議は踊ると揶揄されたウィーン会議を主催したオーストリアの外相で後の宰相メッテルニヒの名前である。本来ドイツの貴族であったメッテルニヒ家は、三十年戦争に際してワレンシュタイン将軍の下で指揮官として活躍して現在のチェコ国内に所領のキンジュバルト伯爵領を得たらしい。
西ボヘミアのキンジュバルト伯爵領を領有することを許されたのは17世紀前半だが、メッテルニヒ家の人々は城址しかなかったキンジュバルトに城館を建築はしたものの、あまり滞在することはなく、北ドイツの領地からたまに出てくる程度だったらしい。それが、18世紀の終わりに普仏戦争でプロシアが負けた結果、メッテルニヒ家は、北ドイツのライン川流域に有していた領地をすべて失い、キンジュバルトが重要な拠点となったようだ。
また、西ボヘミアのプルゼニュの近くのプラシ(Plasy)という町には、教会を改築したメッテルニヒ家の墓所が残っていて、メッテルニヒ宰相を含めて二十二人の棺が納められていたらしい。この手の貴族の墓所に対して共産党政権はかなりひどいことをしたというから、この棺が現在も無事なのかどうかは知らないけど、世界史の授業でも覚えるのが必須だったメッテルニヒの墓地がチェコにあるなんて、ちょっと感動ものである。
メッテルニヒ家の墓所がプラシにあるのは、ナポレオン戦争後の1827年に、戦費の負担によって空になったチェコの国庫を満たすために、プラシにあった修道院の所領がその建物も含めてメッテルニヒ家に売却されたことによる。メッテルニヒはその修道院の建物をチェコにおける邸宅として利用していて、近くの教会を改築して墓所にしたということだろうか。
もともと北ドイツに所領があって、ハプスブルク家との縁はそれほどなかった貴族家出身のメッテルニヒは、ハプスブルク家のオーストリアでは外様扱いを受けていたらしいが、マリア・テレジア時代の宰相を出したカウニッツ家と縁を結ぶことで、オーストリアの政界で重きを成すようになる。このカウニッツ家も実は、チェコと縁のある、メッテルニヒ家以上に縁のある貴族家なのである。これについては、長くなったので稿を改める。
メッテルニヒ家の所領だったキンジュバルトは、西ボヘミアのカルロビ・バリやマリアーンスケー・ラーズニェなどの温泉地の集まるところにある。町としてはラーズニェ・キンジュバルトで、マリアーンスケー・ラーズニェからヘプに向かう鉄道の隣の駅である。ただし駅から町は結構はなれているし、城館もまた駅からも町からも1キロほど離れたところにあるのだけど。墓所のあるプラシは、プルゼニュから北、ホモウトフ、モストの方に向かう鉄道沿いにある。
どちらもオロモウツから行くのは大変だけど、プルゼニュからなら簡単に行けそうなので、歴史好き、ハプスブルク好きの人にはお勧めの穴場かもしれない。
2019年1月7日9時。
キンジュバルトには、1930年代にスペインで革命が起こった際に退位させられたスペイン王が亡命先として滞在していたことがあるらしい。
2019年01月07日
オロモウツのホテル2(正月五日)
悪い癖で、シリーズっぽいものを始めるだけ始めて、存在を忘れて続きを書いていないものがいくつもある、と思う。その一つがオロモウツのホテルについてである。その1では、ホテル・ブ・ラーイから始めて、トラムのウ・ドームの停留所のところまで来て終わったのだった。ということでその続き。
ウ・ドームの停留所のところから緩やかに下る通りは、緩やかに右に曲がって液のほうに向かうトラム通りと、真っ直ぐロシア正教の教会のほうに向かうコメンスキー通りに分かれる。昔、オロモウツが要塞都市だった頃には、この二つの通りが分かれるところにしないに入るための3つの門のうちの一つが存在していたらしい。トラムの路線の改修工事の際にその遺構が発掘されたということで、記念碑が設置されるというから楽しみにしていたのだが、実際に設置されたのを見たら、期待はずれのちゃちさだった。交通の要所ではあるので、あまり大々的なものは建てられなかったというのはわかるのだけどね。
その門の記念碑の向こう、トラム通りとコメンスキー通りにはさまれる形で建っているちょっといかつい建物がホテル・パラーツである。建物の記念碑側の一階には喫茶店が入っていて、夏場は建物の前に座席を並べてザフラートカみたいになっているのだけど、この辺りはまだ旧市街の車両進入禁止地帯にはなっていないので、交通量はかなり多く、個人的にはあまり利用したいとは思えない。
以前はこの喫茶店の入っている側にホテルの入り口もあったと記憶するのだが、現在はトラム通り側に入り口がある。あまり目立たない感じなので、通り過ぎてしまうかもしれない。以前この建物が改修中に知り合いが泊まったときには、コメンスキー通りにあるという裏口を探すのが大変だった。素直に喫茶店のある側にホテルの入り口も設置しておいてくれるといいのに。
このホテルは、トラムの停留所で言うと、ジシカ広場とウ・ドームの間にあるのだが、旧市街に入るところは坂になっていることを考えると、ジシカ広場の停留所を使った方がよさそうである。以前トラムの路線の改修工事が行なわれていたころは、代替バスの停留所がジシカ広場からムリーンスキー川を越えてすぐのところに置かれていたから、さらに交通の便がよかったのだけどね。
以前、どこかで、古い、おそらく20世紀初頭のものだと思うのだけど、オロモウツの市街地の地図を見たころがある。その地図でも、このホテル・パラーツがあるところは、ホテルだった。ただ名前がグランドホテルだったんじゃなかったか。昔のオーストリアの町には必ず一つあったホテルだと誰かが言っていたような気がする。ということで確認したらホテルの運営会社の名前がグランド・ホテル・パラーツになっていた。
宿泊費から言うと、ブ・ラーイより少し安いぐらいだろうか。問題は、予約サイトのカタカナ表記が、Booking.comでは、「ホテルパラース」になっていて、トリバゴでは「ホテルパラク」になっていること。どちらもチェコ語表記もあるホテルの中でカタカナで表記されているのはいいんだけど、この二つの表記を見て、同じホテルだとわかる人がどのぐらいいるだろうか。ホテルの写真を見ればわかるといえばその通りなのだけど。
2019年1月6日21時15分。
タグ:ホテル
2019年01月06日
チェコの貴族(正月四日)
チェコの貴族で最も有名なのはと考えると、王家の出身でもなく、王族と姻戚関係を結んだわけでもないのに、ボヘミア王に選出されたポデブラディのイジーだろうか。この人物の名前はチェコ語で、Jiří z Poděbradと書くのだが、z Poděbradは、温泉で有名なポデブラディに所領があったことをウォ示しているのだろう。出身地と考えてもいいのかもしれないが、このポデブラディのイジーの出生地についてはいろいろな説があって、オロモウツの近くのボウゾウフ城に比定する説もある。
チェコの貴族の名前に現れる「z」は、ドイツ語の「von」みたいなものだろうと想像するのだが、ポデブラディのイジーを輩出した貴族は、ポデブラディ家とは呼ばれず、クンシュタート家と呼ばれる。クンシュタートは、南モラビア地方のブルノから40キロほど北に上ったところにある町で、この町を家の本拠地、もしくは重要拠点としていたことから、チェコ語で「z Kunštátu」と呼ばれるのである。そのクンシュタート家の所領の中にボウゾフ城やポデブラディがあったため、イジーの出生地が確定できないのだろう。
さて、問題はこの町の名前である。クンシュタート家を創設した人物の名前は、クナだと言われている。人名の「Kuna」に「štát」を付けて地名化したものと考えて問題あるまい。典型的なチェコ語の人名からの地名の作り方だとはいえないのだが、「štát」はドイツ語から入ったものであろうかと推測できる。
何を問題にしているかと言うと、人名と地名の関係である。このクンシュタート家の場合には、恐らく何らかの功績を挙げたクナが、所領として得た町、もしくは自らの出身地だった町にクンシュタートという名前を付け、その町の名前に基づいて貴族としての家名が決められたと考えればよさそうなのだが、初代のクナを「Kuna z Kunštátu」と呼ぶのには、違和感を禁じえない。
チェコの貴族家の初代にはこういう例が多く、この前買った事典の最初のほうを見ただけでも、ベネショフ家のBeneš z Benešova、ディビショフ家のDiviš z Divišovaなどいくつも出てくる。こちらは末尾に「ov」をつける典型的なチェコ語の地名の作り方で、BenešやDivišは、現在でも名字としてしばしば出てくるものなので、それぞれベネシュ家、ディビシュ家と呼んだほうがいいような気もしてくる。
ベネショフという地名は、中央ボヘミアのもの以外にも、シレジアのオパバの近くにドルニー・ベネショフとホルニー・ベネショフという町があるらしい。こちらはベネショフ家が領有したことで、ベネショフと呼ばれるようになったと考えていいのだろうか。もちろんこちらが最初にベネショフと名づけられた可能性もあるだろうけど。貴族の家名から地名がつけられた例と考えてよかろう。
ディビショフ家のほうは、子孫がディビショフの近くのチェスキー・シュテルンベルクに所領を得てシュテルンベルク家の祖になるのだが、こちらは人名起源ではない地名起源の貴族の家名ということになる。シュテルンベルク家は後にモラビアに所領を得て、建設した町に家名のシュテルンベルクという名前を与えることになるのだが、どうして新しいモラビアのシュテルンベルクが形容詞なしで、本来の拠点であるホヘミアのシュテルンベルクにチェスキーという形容詞がつくことになったのかはわからない。
地名と家名の関係で言えば、日本でも名字の地なんてのがあって、領地の地名を家名にするのはよくあった話だし、その家名の地から別な土地に移った場合に、移った先の地名を家名と同じものに変えてしまうなんてこともあったはずだ。いや、それ以前に古代の豪族の氏の姓自体が、地名をもとにしているか。吉備の国の吉備氏とか、葛城山の葛城氏とか、地名が先か氏の名が先か疑問は残るけど、『小右記』の時代にも、下級官人で姓が播磨とか美濃、下野なんて旧国名になっている人が結構登場する。
こんなことを考えて、上に書いた違和感の正体が見えた。日本では地名と関係があるのは、姓、名字であって、個人個人の名前ではないのだ。個人の名前が付けられた地名がないとは言わないが、それはあまり一般的ではないし、個人の名前のついた地名から名字が付けられたなんてのは探せばあるのかもしれないが、誰でも知っているようなレベルでは存在しない。
チェコでは、王家であるプシェミスル家からして、伝説上の祖プシェミスル・オラーチの名前から取られている。そう考えると、貴族家の家名も初代の名前を取ったほうがいいような気もするのだが、そうすると他の地名に基づいてつけられた貴族の整合性が取れなくなるか。
2019年1月5日22時。
2019年01月05日
失われしもの4ハバーニのワイン(正月三日)
消えた四回目は、ハバーニ派についての続き。思い返せば、ハバーニ派の存在を知ったのは、かつてコメンスキー研究者のH先生と食事に出かけたときのことだった。ワインを頼もうとなったときに、先生がリストの中にハバーンスケー・ビーノがあるのに気づかれて、注文することになったのだ。ハバーンスケーというから、ハバナからできた形容詞かと勘違いして、キューバのワインなのかと思ったのだが、先生の説明によれば、かつてモラビアに定住していた人たちで特殊な技術を持っていることで知られているのだという。
その技術の中でも特に有名だったのが陶器で、貴族たちがこぞって買い集めるような製品だったらしく、現在でもかつての貴族の城を博物館として一般公開しているところでは、ハバーニの陶器が展示されているところがあるようだ。特徴は白地に4色の色を使って、植物をモチーフにした装飾が描かれているところだという。4色は、参考にした雑誌によれは、緑、黄色、青、紫だったかな。
モラビアのお城の見学をしていて、そんな陶器を見つけたら、案内の人にハバーニのものですかと聞いてみると、面白い反応が返ってくるかもしれない。ただ、観光シーズンのお城の案内人は、歴史の専門家ではないアルバイトがテキストを丸暗記して語っていることが多いので、反対に何それと質問されることになるだろうか。
それはともかく、きっかけとなったワインだが、モラビアに一時定住していたハバーニ派の人たちが、ワインの醸造に長けていたのは事実らしい。ただ、ハバーニ派がモラビアから追放されてしまったことを考えると、現在でもハバーニ派の人々がモラビアでワインを造り続けているとは考えにくい。カトリックに改宗することで追放を逃れた人たちの子孫が造っているワインだったらできすぎの物語になるのだけどどうだろうか。
というわけで探してみた。それで見つけたのが、このハバーンスケー・スクレピという会社である。H先生と飲んだワインのラベルがどんなデザインだったかなんてもう覚えていないし、あれからもう何年もたって変更されている可能性もあるから、これがあのとき飲んだハバーンスケー・ビーノを造った会社だと断言はできないのだけど、ハバーニ派のワイン醸造の伝統を受け継いでいることを売りにしている醸造会社が、南モラビアのワイン産地の中心の一つであるベルケー・ビーロビツェにあるのは確かなことのようだ。
この会社の説明を読むと、ハバーニ派の人たちが、独自の集落を営みブドウを育てワインを醸造していたところで、ブドウとワインの生産をしているということのようだ。ちなみに社名につくスクレピは、スクレプの複数形で、普通は地下室を指す言葉だが、ワインと結びつくと、斜面に水平に穴を掘って造られたワインの貯蔵庫を指す。そこからワインを生産する業者をも指すようになるのだが、この会社の建物は妙に近代的に見える。
ハバーニ派のワイン醸造に他とは違う特別な技法が使われていて、それを再現してハバーンスケー・ビーノと名乗っているのかという予想は、この説明による限り当たってはいないようだ。ちょっと期待はずれである。気になるのは、宗教を否定した共産党の時代にも、宗教と関係するハバーンスケー・ビーノという名前を使えていたかどうかということなのだけど、弾圧されたハバーニ派の存在を共産党に都合のいいように解釈しなおしてプロパガンダに使用していたのではないかという気もする。チェコ人の中にも知らない人が多いから、やっぱり違うかなあ。
最初に書いたのと比較したらどっちがましなんだろう? どちらもしょうもないという点では変わらないかな。
2019年1月3日23時55分。
2019年01月04日
失われしもの3宗教の話(正月二日)
三つ目と四つ目は、16世紀にスイスやドイツから追放されてチェコにやってきたハバーニというキリスト教の一派ハバーニのお話。キリスト教という宗教の排他性、独善性、他宗教や他宗派に対する非寛容性などは、いくら当のキリスト教が否定しようと、現在でも紛れもない事実だが、近代以前は現代とは比べ物にならないほどひどかった。
14世紀のイギリスのウィクリフから始まったキリスト教の改革運動においては、チェコのヤン・フス、ドイツのルター、スイスのカルビンなどの改革者が有名だが、スイスのチューリヒで改革運動を始めた人物にツビングリがいる。世俗の権威も宗教的な権威も否定して聖書に戻ることを強く主張したツビングリの支持者たちは、カトリックからだけでなくルター派などのプロテスタントからも迫害を受けていたという。このツビングリ派でチェコに逃げてきて一時期定住を許されていた一派を、チェコ語でハバーニと呼ぶのである。
ツビングリ派のキリスト教は、スイスだけでなくドイツにも支持を広げていたらしいのだが、16世紀に起こった農民の反乱、いわゆるドイツ農民戦争との関係を問われ、追放処分を受けた。逃げてきた先がフス派戦争の余燼で宗教的にも経済的にも、政治的にも混乱していたチェコだったのだが、ハプスブルク家のフェルディナンド1世がボヘミアの王位を獲得すると、チェコからも追放の命令が出されてしまう。
ただ、王のお膝もとのボヘミアでは追放が実行されたが、モラビアでは貴族たちの反対もあって追放令はうやむやにされ、居住し続けることが許されたという。特にミクロフを領有していたリヒテンシュテイン家は、ハバーニ派のキリスト教を庇護し、子弟の教育まで任せていたらしい。他にもフス派の兄弟団の庇護者として知られるジェロティーン家の領地などに、一番多い時期で3万人前後のハバーニが住んでいたらしい。
ハバーニ派の人たちも、他のキリスト教の宗派に負けず劣らず排他的で、自分たちだけの居住地を作り上げ、そこで能力に応じた共同生活、一種の共産主義的な生活を営んでいたらしい。ただ、居住の許可を得るために、領主に対しては多額の税金を支払うことを求められ、その額は、同時期にユダヤ人が払わされていたものよりも高い場合もあったという。領主の側としても、そのぐらいのメリットがなければ、国王の命令を無視することはできなかったのだろう。
ハバーニ派が財源としていたのは、自分たちで生産した手工業品で、同業者組合に加入している手工業者たちの製品よりも廉価で品質も高かったことから、都市の住人達からも迫害を受けることになったという。
ハバーニ派の人たちがモラビアを離れなければらなくなった原因は、ボヘミアのフス派の貴族たちが、ハプスブルク家に対して暴発したビーラー・ホラの戦いに敗れたことだった。その結果、モラビアの貴族たちも、領内に異端とされたハバーニ派をかくまうことはできなくなり、多くは東のスロバキア、さらにはハンガリーへと移住していった。
残念ながら、移住先の人たちともやがて軋轢を起し、長く定住することはできず、さらに東に、ルーマニアを経てロシアに移住した。最終的にハバーニ派の人たちが安住の地を見つけたのは、海を越えたカナダとアメリカだったらしい。ヨーロッパ内での定住がうまく行かなかったのは、宗教的な問題はもちろんだが、ハバーニ派の組織が長きの弾圧を受けて変容し、指導者の中に過度の蓄財に走る人が出たからだとも言う。
当初はツビングリの主張の通り、聖書、とくに新約聖書に基づいた生活を営んでいたというから、なぜか日本でも名前だけは有名なアーミッシュの人たちと同じような集団だったのだろう。現在アメリカとカナダに住んでいるハバーニ派の人たちは、独自の共同体を作って聖書に基づいた生活している点では、500年前と変わらないらしいが、手工業はやめて農業に従事しているらしい。ただ、その農業に最新のテクノロジーを使っているというのだけど、それが聖書に基づいた生活と矛盾しないのかちょっと疑問である。
とまれ、キリスト教内の改革運動の引き起こした悲劇は、カトリックの側も、非カトリックの側も、別な言い方をすれば迫害する側もされる側も排他的で、一部を除けば相手の話を聞かなかったところに原因があるのではないかなんてことを、ハバーニ派についての雑誌の記事を読んで考えてしまったのである。うーん、現在の世界中を覆っている、相手の話を聞かずに自分の主張しかしないという「議論」の源流はキリスト教にあったのか。
フス派戦争の時代、ハバーニ派の時代に、例外的に反対陣営との間で常に妥協点を探して話し合いを続けていたのが、モラビアのジェロティーン家だというから、親ゼマンと反ゼマン、親バビシュと反バビシュで完全に二分されたチェコの両陣営の間に立って、チェコの国民を再び一つにまとめるような存在はモラビアから出てくるに違いない。ということで、次に大統領になるべきは、モラビアで生まれ育った人物だと断言しておく。
今回は、参考にした雑誌が手元になかったこともあって、これまで以上にオリジナルからの逸脱が激しいけど、年末にこんなことを書いたのだよ。
2019年1月2日17時15分。
さて、この本にハバーニは出てくるのだろうか。
タグ:キリスト教
2019年01月03日
元日に思う(正月一日)
大晦日の夕方辺りから、そこかしこで花火を打ち上げる音が聞こえ始め、12時ごろを中心に、1時過ぎまで断続的に続く。これが騒音にうんざりするようなヨーロッパの新年で、新年を迎えるという厳かさなどかけらもない。郷に入れば郷に従えで、それに異を唱える気はないのだけど、個々の人々が好き勝手に上げる花火で、毎年怪我人や火事が続出して、救急車と消防車が走り回っているというのに、ほとんど放置されているのはどうなのだろうか。
かつて夜中に行なわれた、オロモウツなど町の新年を迎える公式の花火は、数年前に元日の夕方6時からに変更されたから、その分深夜の騒音は少なくなったとは言えるのだが、特に騒ぎたいとも思えない、とっとと眠りたいと考える人たちにとって迷惑であることに変わりはないし、ペットの犬が花火の音にパニックを起して逃走したりするのも同じであろう。
不思議なのは、この大晦日の大騒ぎについて、地球温暖化防止を主張するグループが批判しないことだ。花火は火薬を燃やしているわけで、直接的に二酸化炭素の排出量の増加に貢献している。それだけでなく、ゴミ回収用のコンテナに火がついて燃えるという事件も毎年何件も発生しているわけだから、新年を迎える際の個人的な花火の打ち上げを禁止すれば、コンテナの火事も減るし、二酸化炭素だけでなく、プラスチックを燃やしたときに出る有害ガスの排出も減って一石二鳥である。
ポーランドでの国際会議に肉料理が提供された結果の二酸化炭素の排出量の試算と、大晦日から元旦にかけての花火による温室効果ガスの排出量の試算を比べてみてほしいところである。市町村などの地方公共団体が公式に行う花火大会まで中止しろなんて野暮なことは言わないし、花火を全面的に禁止しろという気もないけど、危険性の高い打ち上げ花火は生産も販売も禁止した方がよくはないか。深夜の騒音も減るし、打ち上げの失敗での怪我も火事も減るはすである。
安眠を妨害されるのがわかりきっていたから、花火の音が完全に消えるまで起きていたのだけど、そんな馬鹿なことを考えてしまった。いやでも、こっちって強力な花火の販売に対して無頓着というか、以前よりは規制が厳しくなっているのだろうだけど、こんな緩さでいいのかというレベルだし。手に持って使う花火以外は販売禁止でいいんじゃないかねえ。
ところで、数年前まで元日と言えば、大統領が年頭の演説を行い、それをテレビ局が、公共放送だけでなく、民放も、生中継するのが伝統だった。その伝統をゼマン大統領が、クリスマスに行なうように変更したのだけど、今年の、ではなくて去年の演説も、一年に一度、国民全体に対して呼びかけるような演説ではなかったと批判されている。毎週バランドフでソウクプ氏相手に語っているようなことを、ぐだぐだと繰り返したらしい。
このクリスマスの演説は、毎年のように批判されているし、クリスマスに時期を移したのもゼマン大統領の独断なのだろうと思っていたのだが、実はクリスマスの全国民向けの演説を始めたのはマサリク大統領だったらしい。もちろん当時はテレビではなくラジオでの演説だったわけだが、毎年クリスマスに際して演説を中継していた。それが変わったのは戦後共産党政権が成立してからで、初代の共産党の大統領であるクレメント。ゴットバルトだったらしい。その戦後に成立した習慣をビロード革命後の、ハベル大統領、クラウス大統領も踏襲してきたわけだ。
ゼマン大統領としては、演説をクリスマスに移すことで、マサリク大統領への敬意を表そうとしたのだろうが、その事実もアンチ・ゼマン派には気に入らないようである。お前がマサリク大統領について語るななんて事を考えているのかな。これもまた社会が寛容性を失いつつあることの反映なのだろう。ゼマン大統領と、反ゼマン派でマサリク大統領の取り合いをしているのである。
2019年1月1日24時。
この手の花火はどのぐらい危険なのかな。
2019年01月02日
失われしもの2電子書籍の話(十二月卅一日)
二つ目は、ネット上のニュースで見つけた電子書籍リーダーの話。超高精電子漫画という画質を誇っている点にはあまり惹かれないのだけど、見開きで読めるのとPCに接続せず、通信機能も有していないという読むことに特化している点にはものすごく惹かれる。こんな電子書籍リーダーで漫画だけではなく、普通の本も読めるようになれば、先の見えない日本の電子書籍にも、出版業界にも未来に希望が出てくると思うのだけどどうだろうか。
それはともかく、現在の電子書籍は不便極まりないものである。便利だとすれば、外国からも購入でき、郵送されるのを待たずに読めるという点につきる。これは日本に、特に書店がたくさんある都市部に住んでいる人には何のメリットにもならないし、電子書籍の販売サイトによっては日本国内発行のクレジットカードがないと購入できないところもあるから、便利なんて言ったら鬼が笑ってしまう。
何が不便かって、まずは、販売サイトに会員登録しなければならないこと。国外から買えるという便利さと引き換えだったから、我慢していくつかの販売店で会員登録をして電子書籍を何冊かかったけれども、普通に本屋で本を買える環境にいたら、会員登録してまで本を買おうとは思わなかったはずだ。
クレジットカードでしか買えないのも不便だった。一時はウェブマネーで買える販売サイトを苦労して探したものだが、パピレスとhontoでチェコ発行のクレジットカードが使えるようになって楽にはなった。でも、店頭でクレジットカードを使う気軽さに比べると便利だとは言いたくない。
そして、電子書籍の何回目かの夜明けと言われたソニーのリーダー、シャープのガラパゴスが発売されたあとに不便になったことだが、PCや専用の端末で購入した電子書籍を読むために機械の登録が必要になった。登録できるのも一人当たり5台までで、6台目を使うためには登録済みのものと入れ替えなければならないなんて話には、そこまでして電子書籍を読む価値があるのかとさえ思ったものである。
かつて出版業界で仕事をしていたこともあるから著作権を守ることの大事さは十分理解しているつもりである。同時に出版社が主張する海賊版による著作権侵害の被害想定額が現実離れしたものであることも明白なので、コピーしやすい電子書籍とはいえ、著作権を守るための方法は他にもあるだろうし、こんな購入者に不便を強いるようなやり方しか存在しないのは、出版業界、販売会社の怠慢でしかないなんてことを考えていた。
それで電子書籍自体を買うこともまれになっていたところに、この全巻一冊という新しい専用端末が存在し、電子書籍は、ネット上の販売サイトではなく、専用の記憶媒体に入れて書店の店頭で販売するということを知ったのである。そこに日本の出版業界の未来を見たとしても不思議はないだろう。この方式が漫画だけでなく、一般の書籍にまで拡大され、専用端末もいくつかの大きさの版型を取り揃えることができたら、再販制の維持はともかく、取次ぎも書店も電子書籍の流通にかかわることができて万々歳だと思うのだけど。
現在の日本の出版業界には、電子書籍リーダーを開発販売してきた家電メーカーの影響もあって、電子書籍というとネット上で販売し、端末もネットに接続できなければならないというような思い込みがあるように見受けられる。その結果、出版社はコンテンツ、言い換えれば単なるソフトの提供者に成り下がっている。紙の本は、ハードであると同時にソフトでもあるという点が強みだったはずだ。その強みを生かせていないのが今の出版社なのである。だから電子書籍に限らずネット上で販売力を誇るアマゾンなんかにいいようにされてしまうのだ。
この全巻一冊が日本の出版社の目を覚まさせる一撃になってくれると、日本語出版の将来を憂える海外在住の日本人としては嬉しい。
またまた結構変わってしまったけど、消えてしまった二回目の概要である。
2019年1月1日1時10分。